日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

2、和親条約と開国

ペリー提督の派遣

♦ アメリカ政府の試み

日米和親条約を締結したペリー提督( 提督呼称への )の日本派遣をアメリカ政府が決定する以前に、ペリー提督とは少し異なる来航方式での日本開国へ向けた使節の派遣、すなわちエドモンド・ロバーツによる1832(天保3)年と1835(天保6)年の試み、そしてケーレブ・カッシングによる1844(天保15)年の試みなど、通商拡大のみを目指した開国使節派遣については前章の最後に書いた。特にその後を受けて、支那へのアメリカ公使、アレクザンダー・エヴェレットの要請で1846(弘化3)年7月20日浦賀に来たビドル提督は、浦賀奉行を通じ江戸幕府に、日本の開国意志を問い合わせた。鎖国を続ける幕府は、その意志のないことをはっきりビドル提督に伝えた。

しかし1849(嘉永2)年になるとアメリカ国内では、それまでの単なる通商拡大に向けた日本開国の期待だけでなく、遭難したアメリカ捕鯨船乗組員に対する日本における厳しい取扱いが大きな人道的問題として急浮上した。具体的には前章の後半に載せた、日本で救助されたローレンス号とラゴダ号の事件である。特にラゴダ号船員が蝦夷地で日本側に保護され長崎に送られると、この情報が長崎のオランダ商館から広東のオランダ領事を経由し広東のアメリカ公使館に伝えられた筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)。アメリカ政府は早速軍艦・プレブル号を長崎に派遣し、保護された遭難船員を救助させた。その中の数人が、日本の蝦夷地で長崎への移送待機途中、あるいは長崎で保護中に逃亡を図り、幕府に厳しく身柄を拘束され2人が死亡していたから、これが「虐待問題」として伝えられたのだ。このプレブル号艦長のグリン中佐は帰国後、長崎で日本側と遭難船員救助の交渉をした自身の経験を踏まえ、フィルモア大統領とも直接面談し、日本との条約締結の緊急性とその方策の骨子をまとめ、書簡の形で提出している。これら、ラゴダ号の遭難やプレブル号による救助などの出来事がペリー提督をかりたて、自身でも問題解決の方策を探るきっかけの一つになったのだ。

アメリカ議会は1850(嘉永3)年にこの「日本の虐待」を取り上げ、国務長官もその実態を議会に報告している。また民間人のエアロン・H・パーマー(Aaron H. Palmer)も、数次に渡り米国政府に日本を始めアジア諸国への政府特使派遣を建策したが、議会は云うに及ばず民間からの人道問題解決と通商拡大の要求は、アメリカ政府の緊急課題になった。この民間人のエアロン・パーマーは、1851年1月(嘉永3年12月)に直接フィルモア大統領にも書簡を送り、再度、特に日本に向けた使節派遣を建言しているが、パーマーはまたその1年ほど前に、長崎出島のオランダ商館長・レフィスゾーン宛てに日本開国を期待する手紙を送ってもいる。

あわせて、国を超えた通商はヨーロッパ先進諸国の常識になり、技術革新による蒸気船の使用や、国際間の電気通信も急速に普及し始めた。更にアメリカ西海岸のサンフランシスコから支那へ向かう蒸気船の定期運航も視野に入り始めたから、この定期航路に近い日本に石炭補給基地があれば好都合であり、日本との通商にも期待がかかった。このように人道的問題をも抱合した通商拡大の期待から、日本遠征計画は民間人や業界人はもちろん、政府与党や野党からも支持を受け、蒸気軍艦を複数含む大艦隊を日本に派遣し、武力誇示を主要作戦にした日本開国要求をアメリカ政府に決断させるに至った。それは誰か独りの発案ではなく、国を挙げての実行計画だったのだ。

これは、アメリカ政府が日本開国と通商を期待し、初めてロバーツ特使を任命してから約20年後のことである。この間に技術革新が更に進み、アメリカ経済は繁栄し、海軍に多くの蒸気軍艦が建造され、その機動力は過去に例を見ないほど強力なものになっていた。

♦ ペリー提督の任命

1851(嘉永4)年5月、アメリカ政府は最初にオーリック提督に全権を委譲し、蒸気軍艦を引き連れた東インド艦隊の日本派遣を命令した。これはすでにオーリック提督が東インド艦隊司令官に任命され、オーリック提督自身からも、太平洋で救助され、当時サンフランシスコに上陸して居た16人の日本人を送還しながら日本開国交渉をする提案があったためだ。しかし、国務長官はオーリックの指揮に関する問題でオーリックをすぐに更迭し、1852(嘉永5)年2月、全権を委譲し日本開国交渉へ向けた新たな命令がペリー提督に出された。

ペリーは任命される以前に自ら独自に、日本におけるアメリカの遭難船員の取り扱いや、アメリカ捕鯨船の北太平洋での活動を細かく調査した。この中には、エアロン・H・パーマーから渡された、パーマーが1849(嘉永2)年9月17日付けで当時のクレイトン国務長官宛に出した 「日本開国へ向けた修正計画」や、ペリーがデラノ船長と直接の書簡交換で入手した、捕鯨船・マンハッタン号のマーケター・クーパー船長の体験などを含むアメリカ捕鯨船情報がある。更に日本に関するヨーロッパの出版物をも多く読んで万全な準備をし、1851年1月(嘉永3年12月)には日本遠征につき独自の基本計画もグレイアム海軍長官に提出していた。

ペリーは、遭難した捕鯨船乗組員の正当な救助や保護、船舶の補給基地の整備など、先進諸国ではすでに常識であった国際公法の観点から見た問題解決と、アメリカのアジアにおける通商拡大とに強い問題意識を持っていたのだ。更にペリーが東インド艦隊司令官兼日本派遣使節に任命されるとき、その条件としてペリーから海軍長官に提出された、東インド艦隊の大幅増強要請が受理され、蒸気軍艦や帆走軍艦など多くの軍艦が東インド艦隊に割り当てられたが、複数の蒸気軍艦を日本に引き連れて行く事はペリーの考えた作戦の骨子をなすものだった。

このように単なる自国の通商拡大ばかりでなく、人道的問題を含み、当時のヨーロッパやアメリカでは常識になっていた国際公法的な見地から、日本における薪水食料の供給や遭難者の救助、更に定期航路船舶への石炭供給基地確保をも含んだ開国要求が、アメリカ政府の日本遠征の主要目的になっていった。上述の如く、議会でも議論され、貿易業界はじめ民間からも建策が出されるほど注目が集まれば、政府として当然この対策を立てる義務が生じる。当時、国際公法は主として習慣法で、人道主義や倫理観から、国籍に関係なく、困難に直面した船やその乗組員は手厚く保護されるべきだとの考えである。

 

ペリー提督に与えたアメリカ政府の遠征目的

  1. 日本の島々で難破したり、荒天によってその港に入らざるを得なかったアメリカ人船員とその持ち物は保護されるよう、恒久的な有効処置を取ること。
  2. 食料、水、薪などの補給をするため、あるいは災難にあっても航海を続ける上で必要な修理をするため、アメリカ船舶が複数の港に入港できるよう許可を得ること。石炭の補給基地を建設する許可が得られれば非常に好ましい。若し本土に建設できなければ、少なくとも、幾つか有ると聞く近辺の小さい無人の島でも良い。
  3. アメリカ船が積荷を処分するため複数の港に入港し、それを売ったりバーター取引できる許可を得ること。

♦ アメリカ政府からオランダ政府への頼みごと

アメリカ政府は1852(嘉永5)年2月全権使節としてペリー提督の日本派遣を決めると、オランダのヘーグに駐在するアメリカ代理公使・フォルソム(George Folsom)を通じた1852年7月2日付けの書簡で、アメリカから日本に向けた通商交渉使節の派遣とその平和的な目的を、オランダ政府が日本に通告してくれるよう依頼した。

ほとんど同時期にオランダ政府は、オランダ領東インド総督・バン・トゥイストがオランダ国王・ウィレム三世の言葉を筆記したという名目の1852(嘉永5)年6月25日付けの書簡で、長崎へ赴任する新商館長・ドンケル・クルチウスに命じ、幕府に、オランダ政府が収集したアメリカの日本遠征計画を伝えさせた。この情報は、オランダのアメリカ駐在代理公使・テスタ男爵が、以前から政府に、アジアに向けたアメリカ使節派遣を熱心に提唱しているエアロン・パーマーから得た情報によるところも大きいように見える。同時に、この日本向けアメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案として、オランダ国王の許可のもと、かって出島の医師だったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの私案を基にしたといわれる、「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎、五ヶ所の商人に限る」など合計十項目にわたる、いわゆる通商条約素案をも示した。これらはオランダ政府が細心の注意を払って準備したものだが、老中首座・阿部伊勢守の命により長崎で翻訳され、江戸に急送され、嘉永5年9月(1852年10月、ペリー初回来航の約9ヶ月前)には幕閣に届いた。

オランダの新商館長・ドンケル・クルチウスは、このオランダ領東インド総督・バン・トゥイストの書簡とは別に、恒例となっている嘉永5年の『別段風説書』をも提出し、アメリカ政府は国書と共に交渉使節を日本に派遣し、日本漂流民を送還しながら、開港、石炭貯蓄場所提供を要求するようだと、アメリカの日本遠征情報をも伝えた。また船将・オーリックは使節の任を船将・ペリーに譲り、蒸気軍艦・サスケハナ号、サラトガ号、プリモス号、セント・マリーズ号、バンダリア号等が使節を江戸に送る予定で、更に蒸気軍艦・ミシシッピー号、プリンストン号、ペリー号(筆者注:対英戦争・エリー湖の戦いの英雄で、ペリー提督の実兄のオリバー・ペリーから命名された船名)、サプライ号などの軍艦もこれに加わる予定だという。これらの軍艦は海兵隊をも乗船させて上陸戦の用意もしているが、出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝えた。

しかし上述の、アメリカ政府がヘーグ駐在のアメリカ代理公使・フォルソムを通じ日本に伝えて欲しいとオランダ政府に依頼した、日本に向けた通商交渉使節の派遣とその平和的な目的は、オランダの新商館長・ドンケル・クルチウスが日本に向けジャワを出発した後にオランダ総督・バン・トゥイストの手元に届いたので、その時は日本に届けていない。バン・トゥイストは、この旨を記した1852(嘉永5)年9月22日付けのペリー宛書簡に、クルチウスに宛てたオランダ政府の協力約束を記述した書簡を添付してペリー提督に送り、若しペリーが必要なら長崎でクルチウスに添付書簡を見せ、協力を得て貰いたいと告げた。ペリーは日本行きの前に、このバン・トゥイスト書簡を広東で受け取っている(上院宛ピアース大統領の報告書、1855年1月30日提出。33d Congress, 2d Session. Senate. Ex. Doc. No. 34.)。しかしペリー提督は自己の既定方針で計画を進め、オランダに頼ることはなかった。

♦ フィルモア大統領の国家プロジェクト

 
ペリー艦隊のノーフォーク基地から那覇に至る航路
Image credit: © 筆者作成

ペリー艦隊の日本遠征プログラムの発足に合わせ、アメリカ政府は更に、日本遠征にかかわる基本戦略を明確にし、ペリー提督にはかってないほど詳細な遠征指令書を作成して与えた。過去の日本に向けた使節派遣には見られない、多くの用意周到な新機軸があり、まさに国家プロジェクトであった。フィルモア大統領も議会に演説書簡を送り、この日本遠征目的と方針を明らかにした。

捕鯨業界や貿易業界も、与野党も、多くの国民もこのプロジェクトを歓迎し、1853(嘉永6)年にはエド・ローブマン(Ed Loebmann)により遠征を歓迎する「日本遠征ポルカ(The Japan Expedition polka)」まで作曲されている。このポルカが何処でどう演奏されたか筆者には定かでないが、いかにもアメリカ的な陽気さも漂うペリー艦隊の日本遠征が始まった。ミシシッピー号に乗ったペリー提督は、ノーフォーク軍港から東回りで南アフリカのケープ・タウンを経由し、インド洋を横断し香港基地に向い、浦賀に来る事になる。

ペリーは全ての面において、この政府から与えられた遠征指令書に忠実に従った。従来ややもすれば、日本にはペリー個人の勝手気ままな尊大さや頑固さに翻弄された印象がある。しかしペリーは、与えられた権限の中でペリー自身の基本作戦を立て、各地から本国の海軍長官と、当時できた最善の方法で頻繁に情報交換をしていた。これは、遠征終了後の1855年1月30日付けで上院宛に提出された、前述のピアース大統領の報告書に詳しい。またペリーは、常にこの指令書通りに遂行すべく、状況に応じ選択できる複数の選択肢を準備する努力も惰らなかった。勿論その中には、ペリー流のデモンストレーションや威圧など多くの工夫がある。

 

ペリー提督に与えた遠征指令書要旨

  1. 艦隊の全軍事力を持って日本の適切な地に赴き、皇帝と面接し国書を手渡すこと。
  2. 遭難したアメリカ人は慈悲を持って扱わせること。
  3. 拡大した二国間通商の準備を整えること。
  4. 鎖国の緩和や遭難者の人道的な取り扱いが拒否された場合、アメリカは日本の非人道的な待遇に懲罰を以って臨むべく明言すること。
  5. 合意事項は条約にまとめること。
  6. 今回の遠征は平和目的であり、戦争はしないこと。
  7. 艦隊の自衛や個人に向けた暴力の排除に限って武力行使を認めること。
  8. 寛容さを基本姿勢にするが、提督自身やアメリカの威信は守ること。
  9. 友好的遠征目的を日本に理解させること。
  10. ペリー提督に適切な自由裁量権を与えること。
  11. 測量により海図を強化すること。
  12. 地誌を調べ、物産のサンプルを入手すること。

和親条約交渉と締結

♦ 国書の授受


那覇に停泊するペリー艦隊
Image credit: Courtesy of Kauai Fine Arts.
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当時のアメリカ海軍の蒸気軍艦建造は、最新技術や新しい試みを次々に取り入れたから、いつも結果がよいとは限らなかった。東インド艦隊に配属された数艘の蒸気軍艦は、故障が多くアジア水域に向け航海できないものもあった。予定した蒸気軍艦がそろわずペリー提督の出発が遅れ、待ちきれなくなったペリーは1852(嘉永5)年11月24日、単独で蒸気軍艦・ミシシッピー号に乗りノーフォーク軍港を出発した。ミシシッピー号は東回りで大西洋を南下し、喜望峰を回り、インド洋に出て香港基地に向った。残りの蒸気軍艦は修理が整い次第、ペリー提督の後を追う予定になった。

こんな背景から、香港に着いても予定された十分な軍艦が手元にないペリーは、これ以上の遅延は許されない日本遠征の最終補給のため、上海への艦隊集合を命じた。しかし支那の内戦で太平天国軍は、南京に首都を移し何時でも上海を窺う位置にあり、主戦力は北上して北京陥落・占領を目指している時期だった。アメリカは支那の内戦には中立を保ち、同じキリスト教徒として太平天国軍は数人のアメリカ人宣教師たちと友好関係にあっても、ペリーは上海のアメリカ商人達から、「保護のための軍艦が必要」と強く懇請される二重苦に遭遇した。このためペリーは更に軍艦をやりくりせざるをざるを得なくなったが、主任務の日本遠征と上海での自国民保護のバランスを取りながら1853(嘉永6)年7月、2艘の蒸気軍艦と2艘の帆走軍艦を伴って琉球経由で浦賀に到着した。

いよいよ4隻のアメリカ軍艦・黒船が嘉永6(1853)年6月3日に浦賀に入って来ると、現地からの緊急通報を受けた幕閣は浦賀奉行に、

今回浦賀に来た異国船については、平常より一層厳重に警戒し、取締りを入念にし、軽率な行動をとらぬように。海防の四藩にはその旨伝えたから良く相談し、対処方法は任せるから、国体を失せぬようにし、出来るだけ穏便に出航させるように。

との指示を出した。この 「国体を失せぬよう、穏便に」 と云う対応は、幕府が11年前、「薪水給与令」を発した天保13(1842)年以来の異船に対する基本方針である。

更に幕閣には前述のごとく、前年・嘉永5年の別段風説書の 「これらの軍艦は上陸戦の用意もしている」というオランダ情報があったから、名誉を保てる範囲で出来るだけ穏便に扱い、1日も早く退去させたかったのだ。またその別段風説書には、アメリカ使節は蒸気軍艦により日本遠征をすることや、艦隊司令官としてペリー提督の名前も記されていた。更に「1、日米国交樹立以前−日本に来たアメリカ情報」でも書いたように、ペリー艦隊の琉球集結と日本への遠征は薩摩藩からも幕府に情報提供があったほどだが、しかし幕府はほとんど情報公開をしなかったから、一般の日本人にとって、突然現れた4艘のペリー艦隊・黒船の浦賀来航は青天の霹靂だった。

日本の皇帝か政府高官に直接国書を渡したいと言い張り、蒸気軍艦・ミシシッピー号を使って湾内の測量を行い、ミシシッピー号を小柴沖にまでも侵入させたペリー提督の態度に、長期交渉になったり不測の事態が出現したりして国内の混乱を心配する幕閣は、6月6日の夜8時頃に急遽再登城して協議の結果、とにかくアメリカの国書だけは受け取る意思をペリーに伝えた。そこでペリーは6月9日早朝、日本側の勧める浦賀から峠を越した西側にある久里浜前面に全ての軍艦を移動し、非常時に備えた戦列隊形に並べた。ペリーは正装した士官に率いられた護衛隊と共に久里浜に上陸し、日本代表の浦賀奉行・戸田伊豆守と井戸石見守とがペリーに会い、アメリカ大統領の国書授受を行った。この時ペリー提督は、100人の海兵隊、100人の海軍水兵、そして多くの艦隊士官や2組の軍楽隊など、総勢300人ほどの人員を上陸させている。ちなみにこの時派遣された海兵隊は、現在まで続くアメリカの海外遠征専門部隊で、1798年に「合衆国海兵隊(United States Marine Corps)」として再建されて以来、アメリカ軍の組織の一部である。

国書授受の席でペリーは、アメリカ大統領から日本皇帝に宛てた国書、ペリー提督を使節に任じた大統領の信任状、ペリー自身が日本皇帝に宛てた「ここに国書をお届けする」と述べた手紙と共に、「この国書の返事を受け取りに、来年の春、再びこの江戸湾に来る」と記した書簡を提出した。この要求の検討に時間が必要な事は分かるから、明年早春にまた来航すると、日本側が国書への返事を用意する時間を与えたのだ。これはまた、当初計画した軍艦の半分にも満たない船しか揃っていないペリー側にとっても、体勢を立て直す貴重な時間稼ぎの機会でもあったのだ。

 

4艘のアメリカの黒船(初回遠征時)

        船名  種類大砲  建造  定員積載トン
1. サスケハナ号(旗艦) 側輪蒸気軍艦 91850年300人2450
2. ミシシッピー号側輪蒸気軍艦121841年268人1692
3. プリマス号帆走軍艦221844年210人 989
4. サラトガ号帆走軍艦221843年210人 882

♦ 国書受取前後の幕府の対応策

態度を決めかねていた幕府は、上述の如くついに久里浜でペリー提督と会見し、アメリカ大統領からの国書を受け取った。久里浜でアメリカの国書を受け取った浦賀奉行・戸田伊豆守は、ペリー艦隊がやって来る3年半も前の嘉永2(1850)年12月、老中首座・阿部伊勢守の諮問に答え、江戸湾入口の浦賀近辺の防衛線は全く手薄で、軍船が来れば湾内に入られてしまうと、大幅な防衛強化策を建議していた。

更にまた、上述した嘉永5年の『別段風説書』が江戸の幕閣に届くと、浦賀の与力・香山栄左衛門にまでアメリカの軍艦が来年3月ころ渡来するという噂が伝わった。大いに心配した香山は、浦賀奉行・水野筑後守や戸田伊豆守とも協議し、その対策を準備した。しかしこんな嘉永2(1850)年の戸田伊豆守の大幅な防衛強化策の建議も充分に実現せず、戸田伊豆守の強い懸念が現実となってしまい、香山栄左衛門が浦賀奉行たちと準備した 「長崎に回航せよ」と強く諭すという日本側の対策も、ペリー艦隊には全く通じなかったのだ。

幕閣は国書授受が済むとペリー来航を朝廷に上奏し、両山(日光輪王寺と芝増上寺)に世上静謐(せいひつ)の祈祷を命じ、アメリカの国書を諸大名や幕臣に示して建白を許し、江戸近辺の内海に砲台を築き、大船建造の禁を解き、洋式火技奨励の布達を出す等、下記の如くいくつかの対応策を取った。

 

嘉永6(1853年)年の幕府の対応

嘉永6年6月 6日ペリーが国書受取を迫り、測量ボートと蒸気軍艦・ミシシッピー号を江戸湾内部にまで乗入れて測量をした。これに驚いた幕閣は夜中に急遽登城して協議し、アメリカ国書の受取を決めた。
嘉永6年6月 9日久里浜でペリーと会見した戸田伊豆守がアメリカの国書を受け取る。
嘉永6年6月15日幕府、ペリー来航を朝廷に上奏する。
嘉永6年6月18日若年寄・本多越中守に武蔵・相模・安房・上総海岸の巡視を命じ、勘定奉行・川路聖謨、目付・戸川安鎮、韮山代官・江川太郎左衛門が随行する。
嘉永6年6月   両山(=日光輪王寺と芝増上寺)に世上静謐(せいひつ)の祈祷を命ずる。
嘉永6年7月 1日アメリカ国書を諸大名、幕臣に示し建白を許す。
嘉永6年7月 3日老中・阿部伊勢守は、隠居している前水戸藩主・徳川斉昭を海防審議に参加させるべく隔日の登城を求める。
(斉昭はこれを受け入れ、以降、開港拒否、通商拒否の強硬姿勢を崩さない。ペリーの直後、通商を求め長崎に来たロシア使節・プチャーチンの要請について、ロシア使節応接掛・筒井政憲と川路聖謨の和親の必要性上申にも反対し、10月2日、和交の不可を幕府に建議した。)
嘉永6年7月12日幕府の京都所司代・脇坂安宅、参内してアメリカの国書の訳文を朝廷に奏進する。
嘉永6年7月22日江川太郎左衛門等に内海台場築造と大砲の鋳造を命ずる。
嘉永6年7月25日老中・阿部伊勢守、船艦建造の事を前水戸藩主・徳川斉昭に相談する。
嘉永6年8月 6日洋式砲術家・高島秋帆を赦免し、江川太郎左衛門の配下とする。
嘉永6年8月15日台車付き鉄製36ポンド砲25門、24ポンド砲25門の鋳造を佐賀藩に要請する。
(嘉永4年に反射炉を築造し、翌年新鋳大砲試射に成功していた佐賀藩主・鍋島肥前守は、この年11月、火術局及製煉局を設置し、鋳砲・製艦に具えた。)
嘉永6年8月16日浦賀奉行・戸田伊豆守と井戸石見守が浦賀での軍艦建造を幕府に請い、後日許可される。
(安政1年5月4日、洋型軍船鳳凰丸竣工。)
嘉永6年9月   万石以下の旗本や家人へ拝借金及び下賜金を与える。
嘉永6年9月15日大船建造の禁を解く。
嘉永6年9月21日洋式火技奨励の布達を出す。
嘉永6年9月   幕府、長崎奉行・大沢定宅に命じ、オランダカピタン・クルチウスに軍艦、鉄砲、兵書を発注する。(後に納入された軍艦は夫々、「観光丸」、「咸臨丸」、「朝陽丸」となった。)
嘉永6年10月1日長崎奉行、オランダカピタン・クルチウスを奉行所に召し、米船(ペリー)の処置につき、その見解を内密に訊ねた。クルチウスいわく、昔は外国との交易が在ったのだから、1、2港の開港は日本祖法の改正に当らず、そうしないと戦争の可能性が高まる、との意見を述べた。
嘉永6年10月勘定奉行は下役に命じ、松平土佐守(山内容堂)家来・中浜万次郎の北アメリカ在留中の様子を尋問させた。万次郎は、アメリカが使節を送る噂を聞いたが、フィルモア大統領やペリー提督の名前は知らない。ペリーが届けたという書簡を見ればその真偽を判定できる。石炭や石炭置き場は蒸気船運行に必要で、九州なら都合が良い筈だ。アメリカ使節なら長崎には行かず、浦賀に来るはずだ。その他、見聞・体験事項を報告した。
嘉永6年11月1日老中・阿部伊勢守、「老中達し」を出し、「(諮問に対する)諸藩からの建議は詰まるところ和戦の二字。再来航時、通商の許可はせず、当方は平穏を旨とするが、先方より兵端を開く最悪時には戦の覚悟を持て」と各藩に命じる。
嘉永6年11月5日幕府、松平土佐守(山内容堂)家来・中浜万次郎を、切米二十俵・二人扶持で普請役格に召抱える。江川太郎左衛門手附。
嘉永6年11月13日老中・阿部伊勢守、若年寄・遠藤但馬守など品川台場を巡見し大砲試射を検閲する。
嘉永6年12月  同年7月の江川の反射炉建設の申し立てが允許され、韮山に反射炉を建設する。

特に、老中首座・阿部伊勢守はアメリカの国書を翻訳させ、広く諸大名に示し対策の建言を許した。このように幕閣で直ちに決裁せず、広く建白を許す事はかってなかった。幕府自ら詳しく朝廷に上奏したり広く諸大名の意見を聞く事は新しいやり方であり、挙国一致を期待したものであろうが、阿部伊勢守はじめ幕閣の持った危機感の大きさが分かる。しかし現実に事件が起こった後では、国難に当たって政治的混乱を増殖する皮肉な結果を招く事にもなってゆく。

 

嘉永六丑年七月朔日、伊勢守演達

このたび浦賀表へ渡来のアメリカ船より差出し候書翰の和解二冊、相達し候。このたびの義は国家の一大事にこれあり、まことに容易ならざる筋に候間、右書翰の主意、得と熟覧を遂げられ、銘々存じ寄りの品もこれあり候はば、たとひ忌諱(きき=嫌ったり機嫌を損ねる事)に触れ候ても苦しからず候間、いささか心底相残らず申し聞けらるべく候。
このたび亜墨利加船持参の書翰、浦賀において受取り候義は、全く一時の権道(ごんどう=目的達成のための臨機応変の処置)にこれあり候間、右に相拘らず、存じ寄りの趣、申し聞けらるべく候。

♦ 和親条約交渉と調印

国書を渡した後、来年の春にまたこの返事を貰いに来ると言い残し、ペリー艦隊はいったん香港基地に帰った。ペリーは香港に帰る途中ダビン海軍長官宛ての報告書に、「日本人は畏怖の念を感じた時のみ要求を受け入れると思われる」と書き、一定の自信を示した(上院宛ピアース大統領の報告書)。しかしそんな報告書を読むアメリカ政府内には、日本は余程手強く、畏怖の念も感じず、万一ペリー提督の努力が実らない場合に備えて、第二の矢を準備する動きもあった。

一方、自信に満ちたペリー提督の心の中にも、いくつも不安があった事もまた事実だ。日本はアメリカの国書を受け取りはしたが、その対応が全くわからない。最悪の場合は友好の確立も出来ず何の条約さえも結べないかも知れないが、この対策をどうするかだ。また、ロシアやフランス海軍の隠密行動に日本行きの兆候もあった。イギリス海軍も日本に行く事は明らかだ。これらの国々に先を越される危険性を危惧したペリー提督は、早めの日本行きを再度決断し、翌1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、更に蒸気軍艦や帆走軍艦、補給船を加えた大艦隊で再来航し、こんどは浦賀を通り越し、江戸湾深く小柴沖にまで入って停泊した。これこそ最大限に 「日本人の畏怖の念」に訴える演出だった。

これで江戸に向う気迫を見せ、初回より更に規模が大きく最先端を行く海軍力を誇示し、人々に畏怖の念を起させ条約締結交渉を有利に導くペリーの基本作戦だ。蒸気軍艦や炸裂弾砲など近代的軍事力の威力を熟知しているペリーは、全ての大砲や蒸気軍艦の中を隅々まで日本側に見せ、充分にその威力を理解させ、交渉のテコに使ったのだ。これは、ペリーがグレイアム海軍長官に提出していた上述の日本遠征基本計画書にある通りのやり方である。当初東インド艦隊所属としてペリー提督に与えられた2隻のスクリュー推進の蒸気軍艦・プリンストン・II号とアレゲニー号は、ボイラー故障や能力不足で日本に来ることができなかったが、ぺりーは、側輪もなく、潮の流れに逆らい、風上に向かいスルスルと動く最新鋭の蒸気軍艦を日本人にぜひ見せたかったに違いない。

 

再来航のアメリカ艦隊

     船名  種類大砲 建造 定員積載トン
1. サスケハナ号(旗艦)、 (1854年2月13日江戸湾小柴沖着)側輪蒸気軍艦 91850年300人2450
2. ポーハタン号(江戸湾で旗艦に変更)、(1854年2月13日江戸湾小柴沖着)側輪蒸気軍艦 91852年300人2415
3. ミシシッピー号、 (1854年2月13日江戸湾小柴沖着)側輪蒸気軍艦121841年268人1692
4. マセドニアン号、 (1854年2月13日江戸湾小柴沖着)帆走軍艦221832年380人1726
5. サラトガ号、 (1854年3月4日江戸湾着)帆走軍艦221843年210人 882
6. バンダリア号、 (1854年2月13日江戸湾小柴沖着)帆走軍艦241828年190人 770
7. サウザンプトン号、 (1854年2月13日江戸湾小柴沖着)帆走武装補給艦 21845年 45人 567
8. レキシントン号、 (1854年2月13日江戸湾小柴沖着)帆走武装補給艦 21826年 45人 691
9. サプライ号、 (1854年3月15日江戸湾着)帆走武装補給艦 41846年 37人 547

一方の日本側では、再度の日本行きのためペリー艦隊の最終集結基地とした琉球の那覇港に、補給船で石炭を運んだりと準備に余念の無いペリー艦隊の行動が、嘉永6(1853)年10月薩摩藩から幕府に報告された。いよいよ国書の返事を受け取りにやって来そうなペリー提督の行動を知った老中首座・阿部伊勢守は、11月1日付けの命令書「老中達し」を出し、「(諮問に対する)諸藩からの建議は詰まるところ和戦の二字だった。再来航時、通商の許可はせず、当方は平穏を旨とするが、先方より兵端を開く最悪時は戦の覚悟を持て」と各藩に命じ、また12月9日、評議所や海防掛け等にその節の手続きを評議させた。

阿部はまた翌安政1年1月11日付けで、ほぼ1ヶ月前に命じていた幕府の交渉担当者を少し入れ替え、林大学頭、井戸対馬守、鵜殿民部少輔、松崎満太郎の四名を任命し、その準備を命じた。これは、「駿河沖に異船を認めた」との注進があり、暫くして「下田沖に来た」と云う注進があった為の様だが、ペリー艦隊が江戸湾に入ってくる5日前のことだ。


横浜応接所に入るペリー提督
Image credit: Courtesy of Kauai Fine Arts.
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大艦隊で江戸湾深く小柴沖にまで入って停泊したペリー提督は、こうして浦賀に会見のための応接所を建て待っていた日本側全権、林大学頭のたびかさなる浦賀への艦隊引き戻し交渉にも応じなかった。日本側は12日間にも渡りペリー艦隊の浦賀引き戻しを交渉したが、その間にもペリーは前回同様、熱心に沿岸測量を進め羽田沖あたりまで測量が進んだ。まさに大艦隊を直接江戸に向けそうなペリーの作戦に林大学頭はたまらず、ついに譲歩の姿勢を打ち出し、交渉地を横浜に合意した。 浦賀での交渉に固執しすぎてこの大艦隊に江戸に向われては、大混乱になり、その結果はおのずと明らかだ。これも、ペリーが用いた交渉の主導権を握る方策の一つだった。


「日米和親條約締結の地」記念碑とその説明文
Image credit: 筆者撮影

日本とアメリカの交渉は、安政1(1854)年2月10日、急いで横浜に新しく建てられた応接所で始まった。この応接所を建てた場所は、現在の神奈川県庁の付近である。

日本側の交渉全権・林大学頭は、幕議で決した通り最初から、通商条約は結べないが、アメリカ国書要求の通り遭難者の親切な取り扱いや薪水食料、石炭などの補給は行うことを明言した。開港場もアメリカ大統領の要求した1港ではなく、ペリーの要求をも入れた2港まで開き、下田と箱館とに合意した。下田における外国人の自由徘徊区域の範囲は下田港中心より半径7里と決まり、米国官吏の下田駐在も決まった。ここで合計12条に渡る日米和親条約(日本文)(英文)は3月3日に調印された。

ペリー提督は人道的な問題を前面に押し出して交渉したから、その主旨は日本側にも良く分り、また幕府は天保13(1842)年に遭難船には薪水食料を与える 「天保の薪水給与令」を発していたから、大きな問題もなく受け入れている。むしろ自由徘徊区域というような、異国人と日本人との安易な交流の方が問題点になった。 しかしペリーは、通商条約締結の先延ばしには合意したが、米国官吏の日本駐在という形で通商條約締結に向けた足がかりを組み込む事に手ぬかりは無かった。この第11条の米国官吏の下田駐在は大きな議論になった形跡はなく、日本側は駐在を先延ばしにした安心感からか、その本質と影響力を見抜くことができなかったようだ。しかしこの条項こそが、ペリー提督が仕組んだ通商条約締結に向けての「時限爆弾」だったのだ。これについては次の「3、通商条約と内政混乱」の項で述べる。

 

嘉永7(1854)年幕閣、応接掛全権、著名大名の動き

嘉永7年1月16日小柴沖に停泊したペリー艦隊を浦賀に引き戻す交渉が、林大学頭の手で始まる。一方江戸では幕閣を中心に、徳川斉昭も連日登城して海防の議が持たれる。
嘉永7年1月23日浦賀を拒否し江戸行きを目論み、羽田沖まで測量を続けるペリー艦隊の行動に危機感を抱いた老中・阿部伊勢守は、徳川斉昭にペリーの強硬な態度を告げ、漂民の人道的取り扱いを許容する外に、貯炭場として無人島を貸与する案を諮った。斉昭は、書を以って不賛成の意を主張。
嘉永7年1月24日本牧警備の鳥取藩が、もしアメリカ人が不法に台場に侵入すれば逮捕する許可を申請した。これを聞いた林大学頭などの応接掛は、「措置穏便」を主旨とし、一切を応接掛に委ねるよう要請した。
嘉永7年1月28日林大学頭、浦賀奉行支配組与力香山栄左衛門を米艦に派遣し、参謀長アダムスと交渉させ、横浜を応接地として合意した。香山は更に米艦に派遣され、艦隊を横浜に引き戻した。
嘉永7年2月 4日幕府は神奈川より林大学頭と井戸対馬守を召還し、応接の方針を論議した。林と井戸は和親の利を主張。
嘉永7年2月 6日徳川斉昭も含めた幕議で、米国に通商を許さないことに決し、林、井戸は再び神奈川に赴く。
嘉永7年2月10日横浜で日米の交渉が始まる。
嘉永7年2月12日福井藩主・松平慶永は以前から通商不可を唱えていたが、横浜応接の開始を聞くと、鳥取藩主・池田慶徳、徳島藩主・蜂須賀斉裕、熊本藩主・細川斉護等の賛同を得て、老中阿部伊勢守を訪ね、通信交易拒絶の幕議を確立せよと建策した。また、名古屋藩主・徳川慶恕に書簡を送り、老中を説得すべく促した。
嘉永7年2月22日ペリーから出された神奈川ほか数港の開港要求を検討するため、林大学頭と井戸対馬守が登城し、老中はじめ斉昭等と論議をもつ。斉昭は下田開港にも懸念を示したが、結局下田開港に決定し、両応接掛全権は神奈川に帰着。
嘉永7年3月 3日日米和親条約調印。
嘉永7年4月30日前水戸藩主徳川斉昭、海防参与の辞職を願い許される。
(嘉永6年7月3日、幕府は斉昭を海防参与に任命していたが、斉昭の日米和親条約調印への不満による)
嘉永7年5月22日日米和親条約付録十三条(下田追加条約)調印。
嘉永7年6月 2日米国艦隊は全て下田を去り、応接掛全権・林大学頭等は夫々帰府した。
嘉永7年6月29日幕府は開港を合意した箱館を中心に六里四方の地を松前藩から上地させ、箱館奉行所を設置した。
嘉永7年7月17日老中首座・阿部伊勢守は、老中・久世大和守や若年寄を伴い、前年に引き続き再び品川台場を検分した。

♦ 下田追加条約


下田港のペリー提督上陸地点近くにある記念碑
Image credit:筆者撮影

調印した和親条約条項のうち、下田の自由徘徊区域の半径7里について、条約調印の4日後に幕府中枢に強い異議がでて、応接掛け林大学頭の「越権」と断定され、区域縮小を再度折衝すべきことが命ぜられた。すなわち、幕議決定し許可した範囲を逸脱し過ぎたということだ。横浜で和親条約調印後に下田を訪れ、ペリー自身の目で港を確認し、同様に箱館港にも行き確認したペリー艦隊は、再度下田に戻ってきた。横浜から下田に出張してきた林大学頭とペリー提督は再度会談を持ち、条約の細部の詰めに入った。林は幕府から「越権」と譴責された下田の自由徘徊区域の縮小に知恵を絞り、熱心に再交渉を持ちかけたが、ペリーはいったん調印したものは変えられないと相手にしなかった。その理由は、すでに調印した和親条約の書類が、サラトガ号でアメリカ議会の批准に向けワシントンに送られた後だったのだ。

下田で細部にわたって合意した内容は、「日米和親条約付録」あるいは「下田追加条約」として嘉永7(1854)年5月22日調印された。この下田追加条約は、日本文で13条、英文で12条である。これは内容が違うのではなく、すでに調印した日米和親条約(神奈川条約)と下田追加条約の優先順位を述べる項が、日本文では独立した項目になり、英文では一般文として最後に置かれている違いである。すなわち、神奈川条約と下田追加条約に矛盾が出た場合は、神奈川条約の解釈が優先するというものだ。この理由は、既に調印した神奈川条約は、批准手続きのためアメリカ本国に送ってあるからである。

 

交渉時の、ペリー提督の特徴的行動

  1. 最初から長崎回航を断り、江戸行きを強く示唆し、江戸湾内を測量し、日本側の懸念をかきたて久里浜で国書を受け取らせた。
  2. 江戸湾に奥深く小柴沖まで入り、安全な停泊地を確保した。
  3. 二回目の来航では、大艦隊でこの江戸湾内の停泊地まで一気に入り、ここを足がかりに行動した。
  4. 初回同様江戸行きを強く示唆し、広範囲に江戸湾内を測量し、日本側の懸念をかきたて、交渉地を日本側で用意した浦賀ではなく横浜にさせた。
  5. 交渉開始後、日本側が人道的に遭難者の救助や薪水食糧の供給を受け入れると、以降の会見には大部隊だった護衛隊をごく少数にし、目立った武器も持参しなくなった。
  6. 人道的要求が受け入れられるや、大統領からの贈り物をして、珍しい物品を紹介した。
    (11日後、日本側も大統領や使節以下への答礼品を贈った。)
  7. 開港地として日本側提案の長崎を拒否し代替港を要求したが、林大学頭の即答がないと、日本全権の権限を行使して即答せよと迫った。
  8. 日本側から下田、箱館の開港提案があると、ポーハタン号に林大学頭をはじめ多くの役人を招待し、宴会を持ち友好を演出した。
    (日本側も条約調印が終わるとペリー始めアメリカ側を招待して食事を供した。)
  9. 和親条約調印後、士官数人を連れただけのペリーは、横浜村に上陸し民家を訪ね、近郊を散策した。
  10. 指令書の中で命令された皇帝にまだ会っていないとの理由で、江戸の街だけでも見るため、品川沖まで蒸気軍艦を乗り入れた。
  11. 下田に回航したペリーは、上陸の都度後をつける日本側の警固を嫌い、強く抗議してやめさせた。
  12. 下田で、吉田松陰にアメリカに連れて行ってくれと懇願されたが、幕府の許可が必要だといって密航を受け入れなかった。
  13. 箱館から帰ったペリーは下田で林大学頭と会い、補足条約を協議し、ほぼ決定すると、ミシシッピー号に招き饗宴を持った。

♦ 幕府から朝廷への報告、孝明天皇も納得

日米和親条約とその追加の下田追加条約がペリー提督と調印され、ほぼ1年半ほど経った安政2(1855)年9月18日、幕府はアメリカ、イギリス、ロシアなどとの和親条約書の写しを朝廷に提出し、京都所司代・脇坂安宅(やすおり)と禁裏付武士・都筑峰重がその経緯を説明した。禁裏付の都筑はつい最近まで下田奉行だったから、アメリカとの交渉の経緯を直接具体的に関白・鷹司政通に口述している。

脇坂が9月22日付けで老中・阿部正弘はじめの幕閣宛に送った報告書簡によれば、朝廷への報告の経緯について、

関白殿にお会いしたところ、去る18日の3カ国との条約書写しを持参した折の(自身から関白への)説明と、都築駿河守の(関白への)直話を詳しく天皇に報告し条約書の写しもお見せしたところ、逐次の対応振りを具(つぶさ)にお聞きになり、殊の外叡感(えいかん、=天皇が感心し褒める事)にあらせられ、まず以てご安心になられた。容易ならぬ事情があってもこの様に折り合った事は、誠にご苦労だったろうとの思召しだった。なお更なる交渉があれば国体に拘らぬようにとのお頼みで、この様な事を宜しく申し上げてくれるよう仰せられた。なおまた、各位には一方ならぬご心労があり、その他の係の面々にもご苦労であったろうと察せられておられた。これらのことを各位までよく伝えるようにとのお沙汰であった、と関白殿が申されました。

この時点での孝明天皇は、おそらくまだ関白・鷹司政通の影響も大きかったと思われるが、条約が薪水食料や石炭の供給と遭難者の救助という人道的な内容であったので、多くの軍艦が来て脅威や圧力を受けたが大事に至らず大変ご苦労だったと、上述の京都所司代・脇坂の幕閣宛報告のように、幕府の対応に納得し非常な危機感を募らせる程の気持ちにはなっていなかったのだ。しかし孝明天皇は、次ページ「通商条約と内政混乱」に書くが、タウンゼント・ハリスが来て通商条約交渉を始めると、多くの異人が神国・日本に入り込むことを心から嫌い、幕府と鋭く対立してゆく事になる。

通商条約への期待

♦ アメリカ商人の反応とペリーのコメント

ペリーは、横浜で日米和親条約を締結した後直ちにアダムス海軍中佐に命じ、アメリカ政府の批准を得るため、調印した約定書をサラトガ号でハワイ、サンフランシスコ、パナマ経由ワシントンに届けさせた。この条約締結の話を寄港地のハワイやサンフランシスコで聞いたアメリカの積極的な商人、リード、ドハティー、ドティ、ビドルマン、ピーボディー、エッジャートン達は、早速ホノルルでカロライン・フート号を借り上げ、箱館で商売をしようと条約の開港日に合わせ来日した。日本では入手できない捕鯨船向けの必需品を箱館で売ろうとしたのだ。

最初に入港した下田でも箱館到着後も、夫々の奉行からこのアメリカ商人たちの上陸は許可されず、箱館では偶然に来合わせたアメリカ北太平洋調査船団の司令官・ジョーン・ロジャース海軍大尉の援けをも得て交渉したが、いずれも商売をする滞在許可は下りなかった。ロジャース大尉はこの状況を箱館からダビン海軍長官に報告している。このように一部には、日米和親条約を通商条約の如く解釈し期待を膨らます商人達もいたのだが、次章に書くタウンゼント・ハリスが安政5年に幕府と締結した日米通商条約が出来るまで、下田奉行や箱館奉行たちが手探りで対応せねばならない時期があったのだ。


米国、ロードアイランド州ニューポート市
トーロ公園内にあるペリー提督の銅像
Image credit:筆者撮影

日本ではあまり一般的に解説されていないが、こんな気の早い商人達の苦情も考慮したのだろうか、ペリー提督が帰国後政府に提出した公式遠征報告書の第二巻の中の「日本及び琉球との予想される将来の商業関係について」と題する文中に、自身で締結した日米和親条約に関するペリーのコメントが載っている。いわく、

貿易業界の一部では故意に、あるいは無知故に、国書と上述した日米和親条約の精神を誤解し・・・あらゆる約束事の中で公認されていない事をあえて行おうとした。 
日本人が受け入れた譲歩を見れば、この条約の内容は最初から日本遠征方針を支持した人達の最も楽観的な期待すらはるかに越えたものである。それは、在来の国際的な法と友誼の資格についてより完全な知識を会得した後に、日本政府が次なる公約に向けて、通商を始めるにあたり合意されるべき、手始めで、断じて最も重要な第一歩である。

これはいかにもペリー流の、修飾文節が幾重にも重なった、訳し難く、読み難い文章である。要はここでペリーがいいたかった事は、長い鎖国をやっと解いた日本が、これから国際社会の一員としていろいろ学び、ステップを踏んで真に開国しなければならない。そういう条約の精神を理解せず、急いで貿易業界の言い分だけを一方的に押し付けてはだめだ。日本が国際ルールを学び、国際社会の一員になる第一段階に踏み出したばかりなのだ、ということだ。「温かく見守れ」という言葉が出てきそうな文意である。

ペリー自身の報告書に載せたこんな公式コメントや、林大学頭との交渉過程で無理に通商条約締結に踏み込まず、近い将来は通商条約締結ができるよう、使節あるいは総領事派遣を和親條約の第11条に組み込む事までにとどめた史実から見て、ペリーは、交渉中に大学頭が述べた、「我が国はそもそも自給自足が出来る国だ。他国の産物が無いといっても不満はない」という言い分を聞き、今は通商条約を結ばないという日本の立場をよく理解していたように思われる。ペリーは軍事力を誇示し、交渉では強引に頑固を押し通した尊大な人物との印象が日本の一般通念である。しかし、必ずしもそれだけではなかったと云うのが筆者の見解だ。押すべき時は強硬に押すが、引くべき時はスッと引く柔軟さを合わせ持つ老練な策士ともいえる人物だ。

♦ アメリカ政府の通商条約締結に向けた動き

アメリカ上院議会では大統領の要請に基づき、アダムス海軍中佐のもたらした調印された「日米和親条約」の内容検討を行い、無修正の条約批准に同意した。同時に議会は、更に進んだ「通商条約」の締結を決議し、大統領に、それに向けた次なる行動を求めた。これは前述した積極的なアメリカ商人・ビドルマンやドティのように、一般世論として、日本との通商条約締結が強く期待されていた事実の反映である。アメリカ政府は直ちにタウンゼント・ハリスを駐日アメリカ総領事に任命し、同時に通商条約交渉の権限をも与えた。こんな背景から、タウンゼント・ハリスが下田に来ることになる。




  (注)  ペリー提督来航時のアメリカ海軍における 「提督=Commodore」 呼称について


当時のアメリカ海軍の士官階級の最上位は「 海軍大佐=Captain」 止まりで、現在のような 「海軍大将=Admiral」や「海軍中将=Vice Admiral」、「海軍少将=Rear Admiral」 等の階級はなかった。しかし、ペリーのように艦隊を指揮する責任のある海軍大佐は、「艦隊司令官」 の意味で 「Commodore」 が用いられた。 従って本サイトではその訳語に 「提督」 を用いるが、「艦隊司令官」 を意味するものである。
これは、当時の清朝でも 「提督」 は正式武官名で、「軍営長官または水師長官」 を意味し、当時の漢文文書にも英語の 「Commodore」 は 「提督」 と翻訳されている。特に、当時ペリー提督より提出された1852年11月13日付けのフィルモア大統領の英文の国書に、蘭文と共に添付された漢文にも 「水師提督彼理 (=海軍提督ペリー)」 として出てくる。
従って、本サイトでも 「提督」 を用いる理由はこのためであり、当時のアメリカ海軍の士官階級を意味するものではない。ガイシンガー提督やビドル提督、オーリック提督なども同様である。

 


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10/15/2017, (Orginal since July 2006)