日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

9、明治新政府の始動

ページ内容:
♦ 背景      ♦ 慶喜の謹慎と討幕の進軍      ♦ 江戸城開城
♦ 新政府の外交関係継続の努力 (外務担当組織の強化、 神戸事件、 堺事件とパークス襲撃事件、 局外中立要請と中立解除要請)、
♦ 明治天皇の誓文と政体書、     ♦ 江戸を東京とすること


背景

討幕挙兵を決意した薩摩・長州・芸の三藩の行動を知った山内容堂の命による土佐藩士・後藤象二郎らの建言を受け入れ、大政奉還を決意し上表を済ませた将軍・徳川慶喜は、翌日の慶応3(1867)年10月15日、朝廷からその許しを得た。慶喜は24日、正式に上表し征夷大将軍を辞職したが、朝廷が十万石以上の諸侯を招集し事後策を決定するまで旧来通り国政や外交問題の処理を任された。

一方ほぼ同時期に、逼塞隠棲中の岩倉具視を中心に薩摩藩士・大久保一蔵らの画策する討幕の蜜勅が朝廷から薩摩と長州に下り、それまで逼塞していた岩倉らも正式に許され帰宅することができた。

この様に、前代未聞の大政奉還という緊迫した状況下でも、摂政・二条斉敬(なりゆき)を中心とする朝廷首脳は迅速な事後策の確立ができず、一方の外交問題である大坂・兵庫の開市開港の時期も来てしまった。そこで慶応3年12月7日、1868年1月1日、外交を任されている幕府もそのまま開市開港を進めた。

こんな旧タイプの朝廷首脳に対抗する中山忠能(ただやす)、正親町三条実愛(さねなる)、中御門経之(つねゆき)、岩倉具視といった革新公家や大久保一蔵らは、その後の新政府につながる王政復古の大変革、すなわち再度の朝廷内クーデターの実行を画策し、明治天皇の宸裁を得て12月9日これを実行した。摂政・二条斉敬ら旧守派首脳から朝廷内の主導権を奪ったのだ。

天皇親政を掲げ総裁・議定・参与の三職で出発したクーデター後の新体制は、薩摩や革新公家の主導の下、大政奉還をした徳川慶喜をことさらに排除し、辞官・納地をも求める挙に出た。二条城に集結する徳川旗本、会津藩士、桑名藩士、彦根藩士などはその理不尽さに怒り、彼らの暴発を防ぎその統御に苦しむ慶喜はいったん大阪城に引き上げた。一方、将軍の居ない江戸では薩摩藩士・西郷吉之助の命による挑発的な破壊工作が横行し、これを知った幕府側は江戸の薩摩屋敷を焼き討ちにした。この情報が大阪城に伝わるや、陰謀を重ねる薩摩藩を朝廷から除くべきと、奏上書を掲げ大阪城から京都を目指す旧幕府の兵が動き、伏見や鳥羽で錦旗を押し立てた薩摩、長州の官軍と衝突した。

心から朝廷尊奉を目指す将軍・徳川慶喜は、官軍と衝突し朝敵となった以上謹慎しか方法がないと、突然大阪城から幕府軍艦に乗り、少数の供を連れ江戸城に帰ってしまった。

慶喜の謹慎と討幕の進軍

徳川慶喜が大阪城から江戸に帰る表向きの理由は、ひとまず江戸に帰って再起を図ることだった。後に慶喜が語るところでは、心中にある朝廷尊奉、謹慎の心は隠していたようだから、大阪から同行してきた松平容保(かたもり)や松平定敬(さだあき)は、江戸城に帰っても慶喜に熱心に再挙を説いている。しかし、慶喜にはその意思は全くなかった。慶喜はしかし一方で、朝廷尊奉を旨にしてきたが、朝廷に逆らう意思のない自分が何故こうまでも責められるのかと、釈然としない気持ちでもあったようだ。

そこで慶喜は、以前から朝廷と幕府の間を取り持ち、新体制下でも議定・内国事務総督として京都に居る松平慶永や山内容堂を頼り、明治1(1868)年1月27日、討幕軍が組織されたのは誠に心外で、鳥羽・伏見の衝突は先供の者たちの行き違いによる衝突で自分の意思ではないと、書簡を送り朝廷への取りなしを依頼した。副総裁の岩倉具視とも連携を取る慶永は、いったん朝廷に向け兵を動かした以上、慶喜が罪に服す姿がなければ解決にならないと、慶喜の書簡内容と「錦地の御見込」、すなわち京都の新体制側の考えとの大差を心配し、慶喜の現状認識の甘さに悩むことになる。慶永は老臣・中根雪江を使い幾つかの機会を捉え、慶喜に謝罪の姿を表明し朝廷の判断を待つべく強く勧めた。しかし慶喜が江戸に帰ってからも、城内では再挙論と恭順論が入り乱れ、強硬論者は慶喜へ直談判すべく次々に押しかけ全くの混乱状態であった。家臣や親藩の暴発を避け二条城から大阪城に引き、大阪城から江戸城に引いた慶喜には、もはや引くべき城もないから、如何に強硬論を統御するかに悩み、歯切れが悪かったのかもしれない。

京都から東海道、東山道、北陸道と三方から江戸に迫る討幕軍の進軍はかなり早く、1月末頃には、東海道鎮撫総督は桑名に、東山道鎮撫総督は彦根の手前の近江国愛知郡愛知川駅に、北陸道鎮撫総督は小浜に来ていた。あと2ヶ月もすれば江戸まで進軍する事ははっきりしているから、2月12日、慶喜も慶永の勧めの通り上野の東叡山寛永寺内の大慈院にこもり、謝罪の姿で朝裁を待つ態勢をとり、罪もない市民を苦しめることになる官軍の進軍を中止してくれるよう慶永を通し再度の嘆願書を出した。

しかし一方、徳川慶喜の説得で会津に帰った松平容保は隠居をし家督を譲ったが、謝罪謹慎の姿勢とは程遠く、家臣たちは武装を解かず、江戸にも500人ほどの家臣が居残り武器を集め、城内で調練を行うなどのデモンストレーションを繰り返した。これはいわば武装恭順の姿勢で、奥・羽・越の列藩同盟へとつながってゆき、後に官軍が討伐進軍を開始することになる。

こんな素晴らしい勢いの官軍にも、全く問題が無かったわけではない。その一つは軍資金の問題が大きかった。勿論新政府を主導する朝廷にそんな大金があるわけは無く、悩んだ首脳は5月15日、急遽の策として新制の紙幣を発行して切り抜けるべく、「十両・五両・一両・一分・一朱」の5種類の紙幣、いわゆる「金札」を「通用十三年限り」として発行した。あわせて従来流通の二分金や一分銀も品位を落として増鋳し、薩摩・福岡・土佐など新政府側の大藩や会津・仙台など東北諸藩もこれに習ったいわゆる「贋造」をはじめた。こんな低品位通貨の増鋳や突然の紙幣大量発行はインフレを引き起こし、流通が滞り、偽紙幣や悪徳商人も横行し、国内の不満は増大した。更にこんな粗悪貨幣に対する外国公使達から度重なる強い抗議もあり、結局贋貨を正貨と引き換えざるを得ず、抜本的な流通貨幣制度の検討と共に、動きの取れなくなった旧藩内の負債や藩札を含め、新政府が全責任を取らざるを得なくなってゆく。

江戸城開城

♦ 山岡鉄太郎の直訴


現在の皇居、旧江戸城の西丸大手橋と伏見櫓遠景
Image credit: 筆者撮影

旧幕府の精鋭隊は寛永寺に謹慎する徳川慶喜を護衛したが、その精鋭隊頭は山岡鉄太郎だった。山岡は慶喜に会いその恭順の真意を確かめると、慶喜は「朝廷に対する公正無二の赤心を以て恭順しているが、朝敵の汚名を受ける身になった事は誠に嘆かわしい」と落涙した。慶喜の本心を知った山岡は、自分で慶喜の謹慎・恭順の心を大総督・有栖川宮熾仁(たるひと)親王にまで達したいと決心し幕府重臣たちに建議したが、官軍の中に飛び込めば命はないと誰も取り合わない。そこで山岡は、胆略があると聞く当時の軍事総裁・勝義邦にこの計画を持ちかけた。

この時の山岡の覚悟は、若し官軍中を突破する時殺されたら、「曲は彼にあり」と心の中は青天白日のように澄んでいた。それは、慶喜恭順の赤心を伝え、江戸中の罪もない市民を巻き込む戦いを避けようとする自分の使命は正しく、それを阻害する者は不正である。国家百万の生霊に代わり、命を捨てる覚悟は出来ていたのだ。勝は山岡の捨て身の決心を聞き、自身でも直接慶喜から恭順謹慎の意思を聞いていたから、許可を取り、山岡に賛意を伝え、自身でも西郷吉之助宛の書簡を書き山岡に託した。いわく、「今官軍が江戸に迫っているが、君臣謹んで恭順している理由は、徳川といえども皇国の一員であるからだ。また皇国は、内紛に乗じた外国の侮りを受けないようにする時である事をも知るからだ。朝廷の御処置が正ならば皇国の大幸、不正ならば皇国の瓦解となろう。自分で哀訴に行きたいが、士民の沸騰は鼎のごとく、鎮撫のため半日も留守にできないが、ここに至っては何の他意もない」と、慶喜の謹慎と士民鎮撫に勤める実情を吐露した。

幕府の薩摩藩邸焼き討ちの時、薩摩藩の江戸藩邸責任者として捕縛され、勝に助けられ、身請け幽閉の形で勝邸に居た薩摩藩士・益満(ますみつ)休之助は、山岡が益満を同伴し駿府に行きたいと希望している話を聞き、山岡との同行を買って出た。江戸から大総督府のある駿府まで多くの官軍先鋒の薩摩藩兵士の間を抜けるには、これほど心強い味方はなかっただろう。すでに六郷川(今の多摩川)の先には官軍の薩摩藩兵が到達していたが、駿府を目指し江戸を出て六郷川を渡った山岡と益満は、まず隊長の居ると思しき家に入り「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎大総督府へ通る」と大声で断った。その隊長は小声で「徳川慶喜、徳川慶喜」と言っただけで百人ほども駐屯する薩摩藩兵は誰も何もしなかったという。それ以降も益満が先頭に立ち、薩摩藩士と名乗って通った(「山岡先生与西郷氏応接筆記」)。筆者の想像では、六郷川岸の薩摩の隊長は、益満も当然薩摩弁で名乗っただろうから一瞬混乱し、通常「上様」とか「大君」とかの称号で呼ぶ徳川慶喜が誰なのか、とっさに分からなかったのかも知れない。

この様にして幸運にも無事駿府に着いた山岡は、3月9日、大総督府参謀・西郷吉之助に面会し、慶喜の寛永寺における赤心よりの謹慎と恭順を訴えた。山岡は西郷に向かい、先生はただ戦を望むのか、天子が理非を明らかにするための王師、すなわち官軍ではないのかと迫る山岡の熱意を見た西郷は、慶喜恭順の実効さえ立てば寛典の御処置もあるだろうと話した。

西郷は征討軍参謀として東海道を攻め上る以前、すなわちこの時より約1ヶ月ほど前には京都にいたが、静寛院宮や天璋院、更に徳川慶喜自身からも朝廷に宛てた助命嘆願書が出た。西郷はこの時、2月3日付けで大久保利通に宛て、「慶喜助命など不届きせんばん。越前や土佐などから寛論が出たのだろうが、朝廷は断然追討をご実行願いたい。ここまで押し詰めたのに追及の手を緩め失敗しては困る。ご英断をもって責め付けていただきたい」と、慶喜を許すな、追討の手を緩めるなと手紙に書いている。この時はまだ幕府の反撃を大いに警戒し味方を戒めていたが、西郷自身も駿河まで進軍し、この様に山岡とも直に話し、もう幕府の反撃は少ないと自身でも判断したのだろう。山岡が恭順の実効とはどんな事かと聞くと西郷は、先日も静寛院宮と天璋院の使者が来たが、ただ恐懼するだけで良く事情が分からないまま帰ってしまった。しかし今先生(山岡)の話で江戸の事情もよく分かったと言い、奥に入って大総督宮に報告、協議し、次の五ケ条の条件を示した。いわく、

  1. 江戸城の明け渡し
  2. 城中人数の向島への移動
  3. 兵器引渡し
  4. 軍艦引渡し
  5. 徳川慶喜を備前に預かる事
    (筆者注:勝海舟「慶応四戊辰日記」の三月十日には七ケ条になっているが、ここには「山岡先生与西郷氏応接筆記」にある五ケ条を載せた)

しかしこれを見た山岡は、最初の四ケ条に問題はないが、最後の条件の慶喜を他藩に渡すことは絶対に出来ないと頑強に踏ん張った。そして逆に西郷に、先生はご自分の主君を敵に手渡し平然としていられるか、とさえ質問し切り込んだ(「山岡先生与西郷氏応接筆記」)。自軍の大将を命の保障もない他人の手には決して渡せないという武士の意地であり、君臣の大義でもある。そんなことをすれば、必死に主君を護る家臣団は、最後まで徹底抗戦するだろうという一種の警告でもあったろう。

それまで西郷自身の行動も徳川慶喜の命を奪う勢いであったが、西郷にも山岡の論理は良く分かり、自分の責任において慶喜を備前に預けない事を保証すると引き受けた。最後に西郷は山岡に一献をふるまい、官軍中の通行手形を出し、山岡と益満は無事江戸城に戻り大久保一翁と勝義邦にこの結果を報告した。これは山岡鉄太郎の胆略のなし得た一大快挙である。徳川慶喜の助命嘆願は、山岡の他にも静寛院宮(故将軍・家茂夫人親子内親王)、天璋院(故将軍・家定夫人篤子)、上野寛永寺座主・輪王寺宮公現親王、一橋茂栄(もちはる)などが行い、帝鑑間・雁之間・菊之間詰めの大名43名の連署陳情なども知られているが、何れも直接成功していない。命を捨てて正義を語ろうとする山岡鉄太郎の気迫のなせる業だったのだろう。

♦ 西郷と勝の談判と城の引渡し

西郷吉之助は更に軍を進め高輪の薩摩藩邸に入ったところで翌14日、旧幕府陸軍総裁・勝義邦、旧幕府若年寄・大久保一翁、山岡鉄太郎は薩摩藩邸に出向き、西郷と詰めの談判を始めた。徳川慶喜は水戸に隠居謹慎し、江戸城は明け渡し、軍艦・武器を引き渡し、城中の家臣は城外で謹慎し、慶喜の進軍を援けた者の命は助け、江戸市中に暴動が起きない様取締る、という一連の合意が出来た。西郷はこれ以上の進軍を中止する指令を出すとこの合意を持って駿府の大総督・熾仁(たるひと)親王に報告し、その命により更に京都に急行し、三職会議に諮った。会議でもこの報告の通り慶喜の命は助け「寛典に処す」に決まり、天皇の宸裁を得た。

この時までに江戸に向かっていた三方からの追討鎮撫軍は、江戸城に近いところで2、3km先の芝や市ヶ谷、また7km先の千住にまで詰めていたが、江戸市中を巻き込んだ悲惨な戦争は回避され、謹慎者の命は救われ、罪もない市民の被害は最小限に抑えられた。しかし問題は旧徳川方の歩卒、すなわち一般兵士4千名の処分だった。幕府は江戸や大阪で大量に傭兵し、慶喜東帰の後多くの兵士が江戸に帰り、慶喜の留守に江戸でも雇ったから、多すぎる兵士に給金が遅配し、皆苛立ち1千人余りの脱走兵も出た。殿様が居るからその日その日の米を貰い家族が食にありつけるが、一時にお役御免と放出したら無収入になり、暴動になることは火を見るより明らかだ。勝や大久保の苦心は、こんな軍人の処分を含め、如何にして平穏に江戸城を引き渡すかだったろう。

先鋒総督との協議は、歩卒4千人は武器を持ったまま官軍に引き渡すことになったが、これはすなわち徳川の兵から官軍の兵になるのだから、少なくとも収入は途切れない。さらに江戸城引渡しには官軍の兵は入れず、上官3、4人だけで引き取りに来ることに合意したから、予想された問題のほとんどは大筋で事前に解決された。

天皇の宸裁を得たこの5カ条の決定は、4月4日、江戸城に入った勅使により正式に江戸城を預かる徳川慶頼(よしより、田安家当主)に伝えられ、慶頼よりその実行が確約された。その勅旨いわく、

  1. 去年12月以来慶喜は連日錦旗に発砲し追討の官軍が差し向けられたが、恭順謹慎し謝罪を申し出たので慶喜の死罪一等を赦し、水戸で謹慎すべし
  2. 江戸城を明け渡すべし
  3. 軍艦、銃砲を引き渡すべし
  4. 城内住居の家臣は、城外に出て謹慎すべし
  5. 慶喜の謀反を助けた者は重罪だが、死一等を免ずるので、各自その処置を言上せよ。万石以上の者へは朝裁を下すべし

いよいよ4月11日江戸城を受け取るため、参謀・海江田武次と木梨精一郎が派遣された。これは当然大きな心理的苦痛を旧幕臣に与えるから、約束により入城に際し軍隊は引き連れないが、城を取り巻く夫々の駐留軍屯所では不測の事態に備え何時でも出動できる態勢をとっていた。旧幕府側からは大目付や作事奉行といった役人が案内に付き、それまで城を預かっていた田安家も2人の使者を出迎えた。城の受け取りが済むとその警固を尾張藩が受け持ち、更に武器や歩兵も受け取り、大きな混乱もなく江戸城引渡しが完了した。

更に日本国の観点から見れば、政府あるいは国家費用と外交関係を途切れさすわけには行かない。この事務引継ぎも重要な点であり、徳川方は大久保一翁が総裁として新政府側と事務引継ぎを行った。

この当時の出来事は、歴史資料として、ノンフィクションとして、小説として現在に伝わるが、よくもこれだけ原則を踏み外さず、スムースな移行が出来たものだとびっくりするくらいだ。

新政府の外交関係継続の努力

♦ 外務担当組織の強化

王政復古クーデター直後の慶応3年12月9日、総裁・議定・参与の「三職会議」を設けた事は前節ですでに書いたが、そこで徳川慶喜に辞官・納地を命ずる決定がされた後、徳川慶勝、松平慶永、山内容堂などの巻き返しもあり、この辞官・納地の決着が慶喜に有利に展開するかに見え始めた。そんな中でしかし、周りの強硬論を押さえ切れない慶喜側の薩摩糾弾策から勃発した鳥羽・伏見の戦いのあと、突然徳川慶喜は江戸に帰り、1月7日天皇は慶喜征討令を出した。

こんな非常事態の中で、勢いに乗る天皇に直属する組織のリーダーシップが強く機能したようだし、組織や責任者も適時必要に応じ変更されたようだ。特筆すべき出来事は、外国事務担当の東久世通禧(みちとみ)は15日、早くも諸外国公使たちと兵庫で会見し、新政府の発足と王政復古の国書を伝え、仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王が外国事務総裁に任ぜられたとも伝えた。また嘉彰親王もあらためて各国公使に書簡を送り、新政府は旧幕府の結んだ諸外国との條約を全て遵守すると約束し、新外国事務総裁は嘉彰親王、また副総裁は三条実美及び東久世通禧と伊達宗城(むねなり)だという外務関係の新組織をも伝えた。

同時にまた新政府は国内にも布告を出した。いわく、

外国の件は先帝が長年お悩みになり、幕府はこれを上手く終始できず今日に至ったが、最近は世情も一変し大勢はやむを得ない状況になった。そこで朝議のうえ和親條約(=通商条約)を締結することに決めた。ついては上下心を合わせ、疑惑を持たず、兵備を充実し国威を海外万国に光輝せしめ、祖宗御先帝の神霊に対答遊ばさるべく叡慮に候。

数ヶ月前までは「攘夷、攘夷」といっていた朝廷の出す布告だから、「疑惑を持たず従え」と、少々歯切れが悪い。しかし、こんな国体維持上の最重要項目の一つ、外交方針と組織をいち早く内外にはっきりさせた事は特筆すべきだろう。

更に新政府は明治1(1868)年1月17日新たな職制を定め、神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度の七科を造り、議定と参与がその責任を分担したが、これは三職会議が出来て1月ほど経ってのことだ。直ぐに科は局と名称が変わり、総裁局を新設し三職八局になるが、いよいよ組織だって効率良く多くの決断を下して行くには当然必要な処置だ。これはしかし、まだ地方行政までには分化し影響を与えていないから、旧来の藩が地方行政の中心だった。その記録を見ると、例えば議定が分担する外国関係は「外国事務総督:外国交際、條約、貿易、拓地、育民の事を督す」とあり、参与が分担する外国関係には「外国事務掛:事務を参議し、各課を分務す」とある。以下このように夫々の科の職務が明記されていった。

これに従って新しい外務組織は、議定副総裁・三条実美、議定・山階宮晃親王、議定・伊達宗城、参与・東久世通禧の4人が外国事務総督を兼ね、外国事務掛は後藤象二郎と岩下佐次右衛門が兼ねた。今の通念からすれば、同時に4人もの外国事務総督はちょっと意外だが、通信に時間のかかる当時、京都から離れた横浜、長崎、兵庫などで決断を下すには、三職会議要員の兼職という意味で政府レベルの権限を持つ4人もの総督を決めたのだろう。

♦ 神戸事件


現在の神戸港。神戸ポートタワーとメリケンパークを望む
Image credit: 筆者撮影

この外国事務担当・東久世通禧が、明治1(1868)年1月15日にアメリカ、イギリス、フランス、オランダなど6カ国代表者と兵庫で会見する伏線になったであろうと筆者が思う事件がある。

それは、当時まだ造成中だった神戸の外国人居留地区内にある三宮神社前で、1月11日の午後に起った。発端は史料により少しづつ食い違いがあるが、西宮警備のため新政府の命により岡山から移動途中の岡山藩家老・日置(ひき)帯刀の行列の直前をアメリカ水兵が横切ろうとし、先供がこれを止めようと発砲し、フランス水兵をも槍で脅し、その辺りで目に入る外国人を追い払った。この報を受けたアメリカ海兵が行列を追いかけ、イギリス護衛兵も追跡に加わり、半分が居留地の門を固め、フランス海軍も上陸してきた。外国人の追跡隊は居留地東境の生田川岸で備前の行列に追いつき、双方の銃撃戦になった。当時の生田川は、現在の神戸市中央区のフラワーロードを流れていたから、その堤防で銃撃戦が行われたわけだ。その後岡山藩家老一行は山の手に引き上げ、死者こそ出なかったが双方に興奮の渦がまいた。居留地内での事件だから外国勢は居留地に軍隊を送り込んで自衛武装し、兵庫港に停泊中の日本側の蒸気船6隻を捕獲した。そして各公使より直ちに通告が出された。いわく、

  1. 松平備前守の家臣は何故武力行使をしたのか。各国公使に納得できる説明がない以上、外国に向け干戈を動かしたと判断し、相応の処置を取らざるを得ない。その場合は備前だけでなく、日本全体の問題となろう
  2. 神戸事件により各国軍艦は兵庫港内の日本船を差し押さえた
  3. 本事件といえども一般市民には無関係である
  4. 本事件により各国は居留地警備を行うが、武器を持たない者の通行は差し支えない

翌日イギリス公使館書記より早速、旧幕府老中外国総裁・小笠原長行(ながみち)宛に事件について面談したい旨の要求書面が届き、小笠原も承知したと答えている。

この様に、外国公使にとって正式にはまだ江戸幕府が外国との窓口だから、維新新政府も東久世の会見を通じ、現状を早急に外国代表者に明言し、新政府の存在を伝える必要があったと思われる。この東久世との会見で外国公使は、たった1ヶ月ほども前の慶応3年12月16日、元征夷大将軍・徳川慶喜と大阪城で会見した時は、大政奉還はしたが朝命をもって各国との交際はまだ自分の責任だと言っていたのだから、最近まで「攘夷」と言っていた朝廷・新政府派遣の外国事務担当・東久世通禧になかなか厳しい質問を浴びせている。例えば、

  1. 布告文では徳川慶喜の大政奉還といい、あなたは徳川慶喜の反逆というが、いったい今内戦中なのか。
  2. 徳川慶喜は江戸で罪を待つというが、征討令を出して討つ積もりなのか。
  3. 数日前に神戸事件が起り我々は止む無く居留地を自衛していて、あなたは新政府で警備するというが、新政府で全ての責任を持てるのか。
  4. 大藩大名の備前が神戸事件の張本人だが、新政府はそんな大藩の取締りができるのか。

とその覚悟の程をも聞いてきた。東久世はこれらの質問に即座に明瞭に答え、兵庫は薩長の兵で警護し、新政府で全て責任を持つと確約したから、外国公使たちは安堵しその態度を高く評価した。

こんな対応が出来る東久世通禧は、文久3年の孝明天皇のクーデターに破れ、三条実美などと共に長州に逃れた7卿の1人だから、それなりに気骨ある革新公家だったようだ。当時の朝廷内には、外国人に会ったこともなく顔を見たこともない公家ばかりだったが、東久世が長州に逃れ筑前に滞在している間に、薩摩人としてこっそり開港場の長崎に行き、蘭人医師・ボードウィン、米人宣教師・フルベッキ、英人商人・グラバーなどと会って交流していたから、気後れもなく外国人と明確に話が出来たのだ(「史談会速記録」)。

ところでこの神戸事件の顛末は、岡山藩家老・日置帯刀の馬廻り士・滝善三郎が発砲を命じたとの届けにより、朝廷が外国との交際を始めるに当たって不容易な事件ということで切腹を命じられ、各国立会いの上2月9日神戸にあった永福寺で切腹が行われた。これに先立ち外国公使側では、この処罰をそのまま受け入れるか刑の執行を免除するか、4時間にもわたる一大議論になった。イギリスとオランダが謝罪をさせ切腹を免除する立場をとり、アメリカ、フランス、プロシャ、イタリアが厳しく刑の執行を求め、多数決で処罰受け入れが決まった(「Spoilsmen in a "Flowery Fairyland"」)。最初に発砲を受けたアメリカや、槍で威嚇されたフランスは厳しい処罰を求め、それにプロシャとイタリアが賛同したもののようだ。

♦ 各国公使と明治天皇の謁見、そして堺事件とパークス襲撃事件

外国事務総督・伊達宗城は2月14日、6カ国の代表者と大坂の西本願寺で会見し、外国事務局を置き外交諸事に対応すると共に、近日中に天皇が各国公使を謁見するためその上京を要請し、また徳川慶喜征討軍を発したが、横浜や箱館の外国人居住地には新政府の役人を派遣し管理すること等を伝えた。

旧幕府でも初めのころは、タウンゼント・ハリスから新任公使の将軍謁見と首都訪問は万国の通例だとねじ込まれ、苦い思いをしながら学んだ外交の基本がある。朝廷新政府も、王政復古クーデターのたった2ヶ月あまり後で、今度は天皇の方から公使たちに謁見を言い出したのだから、外交慣例と外交の重要性を十分理解していたわけだし、この謁見により、新政府の国権掌握を強力にデモンストレーションする事をも目論んだわけだ。それまで「攘夷」の姿勢を強固に持ち続けた朝廷は、孝明天皇崩御後たったの1年でその外交ポリシーを180度方向転換したわけだから、その変わり身の早さは、何百年にも亘り幕府の圧政を耐えてきた公家たちの特質が遺憾なく発揮されたものと見ることも出来よう。

この様にいち早く天皇の外国公使謁見を計画中に、翌15日、堺港内で測量任務中のフランス軍艦・デュプレクス号の兵士が「無許可上陸した」と警備の土佐藩兵士に銃撃され、死者9人負傷者6人を出すという不幸な事件がまた起った。この突発事件に対する天皇の聖旨が直ちに外国事務総督宛に出され、「徹底的に真相を解明し適切な処置を取る事を各国公使へ通達せよ」との命令だった。

当然フランスのレオン・ロッシュ公使からも19日、外国事務総督宛に堺事件に対し厳重な抗議文と共に、下手人の処罰と補償金支払いの要求が出された。いわく、この書簡が着き次第3日以内に、襲撃のあった場所で、日本官吏とフランス海兵隊立会いの上で下手人全員の首を刎ねること。土佐藩は補償金の15万ドルを遺族に支払うこと。日本政府外国事務担当の最高責任者と土佐候は、フランス軍艦を訪れ海軍司令官に侘びを述べること。これ以降、武器を帯びた土佐藩兵士は開港場に出入りしないこと、などの要求だった。

この事件に対する新政府の対応は、旧幕府時代の類似事件に比べはるかに素早かった。ロッシュ公使の要求通り、事件から1週間後の23日にはすでに土佐藩兵士20人の処罰が決まり、堺港妙国寺での切腹を命じられ、フランス海兵隊や日本官吏立会いの上全員が次々と切腹をはじめた。11人目の切腹が終わった時ロッシュ公使の書簡が届けられ、これ以上の切腹は止めるように外国事務総督・伊達宗城に依頼が出され、この刑が途中で中止された。11人も切腹すれば十分と、あまりの凄惨さにフランス側が止めたのだ。そしてフランスの要求通り、翌日の24日、外国事務局総督・晃親王と伊達宗城が堺に停泊するフランス軍艦にロッシュ公使を訪ね公式謝罪し、その翌日は土佐藩主・山内豊範(とよのり)もロッシュを訪ね公式に謝罪した。この堺事件も全てフランスの要求通り決着したが、外国の実力を理解する各藩は、神戸事件も同様に外国側の要求に従ったが、その上更に朝廷の決定であれば異の唱えようもなかったのだ。


パークス公使が宿泊した京都東山の知恩院
Image credit: 筆者撮影

しかし天皇の外国公使謁見への災難はまだ終わらなかった。アメリカ、プロシャ、イタリアの三公使は横浜に帰ってしまったが、予定通り2月30日、知恩院に宿泊のイギリスのハリー・パークス公使、相国寺に宿泊のフランスのレオン・ロッシュ公使、南禅寺に宿泊のオランダのファン・ポルスブルック総領事が参朝し、天皇謁見に臨む予定だった。しかし当日になり、パークス公使が来ないまま、ロッシュ公使とポルスブルック総領事は紫宸殿で明治天皇との謁見を終えた。その時白い羽織の紐や袴に鮮血を散らした後藤象二郎が駆け込んで来て、イギリス公使の参朝する道すがら行列に2人の浪士が切り込んだことを告げた。

後藤によれば、パークス一行がその旅館の知恩院を出発するとすぐ前方に浪士が切り込んだが、後方で公使を案内する後藤象二郎が現場に駆けつけ、前駆・中井弘造と切りあう1人を仕留めた。近くに居たイギリス通訳官のサトーがもう1人の浪士が居たことを見ていたので付近を捜すと、手ひどく切られた浪士が町屋の軒下に倒れていた。この浪士に水を与え介抱し、イギリス人と共に追及すると、その白状により身元が判明した。この間イギリス公使は後方にいて無事だったが、騎兵や士官10人が傷ついたという。天皇の謁見が終わった後、早速外国掛りの山階宮晃親王、東久世通禧、伊達宗城、また内国掛り徳大寺実則(さねつね)、松平慶永などが知恩院に帰ったパークスを見舞ったが、事件の全てを見ていたパークスは落ち着いていて、格別怒りもせず陳謝状を貰いたいと言ったという(「戊辰日記」中根雪江)。パークス公使を襲った2浪士は、自白した三枝蓊(しげる)と死亡した朱雀操と判明したが、2人とも活動的な攘夷志士だった。後藤象二郎が1人の浪士を仕留めたという経緯は通訳官・サトーの記述とかなり異なるが、「戊辰日記」の描写を載せた。

事件の翌日には三条実美と岩倉具視も陳謝状をパークスに届け、生き残った三枝は士籍剥奪・斬首・三日間梟首の刑に課すことを伝えた。パークスは再度の謁見参朝を了承し、後藤象二郎と中井弘造が身をもってパークスを護ったと礼を述べた。それから二日後の3月3日、改めて天皇とパークス公使の謁見が行われ、フランスとオランダもまた参朝した。一歩対応を誤れば大きな外交問題を引き起こしかねない、神戸事件、堺事件、英公使パークス襲撃事件という三事件が立て続けに起こったが、新政府の素早い明確な対応により全て収束した。

♦ 局外中立要請と中立解除要請

徳川慶喜が大政奉還し、その後暫く朝廷から旧来通りの責務を与えられた時も、その後官軍が江戸に向かって進軍を開始し、大阪や兵庫、横浜を通過し各地域をその勢力下においてゆく過程でも、旧幕府と新政府は夫々頻繁に外国公使たちに書簡や通達を出している。こんな風に統制の取れたともいえる外国勢との情報交換は、いわゆる国を二分した内戦状況とは全く違って組織立った行動だった。それだけ外国の動静が、新政府とか旧幕府とかには無関係に、国家としての日本へ強い影響を持っていた証でもある。

すでに前節の「8、大政奉還と新体制」の最後にも書いた通り、明治1年1月3日、旧幕府老中・板倉勝静(かつきよ)は英、米、仏など6カ国へ向け、薩摩の松平修理大夫を鎮定する武力行使を行うので局外中立を保ってもらいたい旨の通達を出した。またこの後形勢が逆転し旧幕府征討軍が組織されると、新政府外国事務総督・東久世通禧は1月21日、外国公使たちに通達を出し、局外中立を要請し各国公使も直ぐその旨の通達を自国民に出しているが、旧幕府と新政府の双方から中立要請が出されたのだ。旧幕府内には崩壊直前に一時フランスの甘言に乗り、資金援助や軍事援助を受けることを謀った小栗忠順(ただまさ)のような動きもあったが、大勢は双方とも外国に頼ることを潔しとせずに嫌い、国内問題への外国勢の影響力を嫌ったのだ。幕府と朝廷は共に日本の独立を重んじ、植民地化を嫌い、強い懸念を抱く共通の明白な倫理観があったとみてよいだろう。

そして徳川慶喜は水戸で謹慎することになり、官軍は江戸城を解放したがしかし、まだ東北の鎮定が残っている。そこで佐賀藩は閏4月、横浜でアメリカ蒸気船を雇い、陸奥の松島に兵力の移送を図った。アメリカ船主は雇用されたかったようだがしかし、これを知ったアメリカ公使や海軍将官らが局外中立をたてに許可を出さず、佐賀藩が期待していた兵力移送が出来なくなった。これを知った新政府はあわてて局外中立の解除要請を出す羽目になっているが、各国公使から更に徳川慶喜が天皇の命を受け入れた証拠を見せて欲しいと要求され、徳川慶喜の恭順書写まで送ることになった。これは、外国公使としても新政府が真に日本を代表する政府かを確認する手続きだったが、新政府にとっても、国際公法を遵守する重要性を改めて認識する新しい経験だった。

しかし現実面では、各国公使が徳川慶喜の恭順書写しを見ても直ぐに中立解除にはなっていない。この年の4月2日、幕府がアメリカに発注していた甲鉄軍艦・ストーンウォールが納入のため横浜に入港したが、アメリカのバン・バルケンバーグ公使は局外中立を理由にその引渡しを拒み、直ちに日本の現状と自分の決定を本国のスーワード国務長官に報告した。アメリカが日本から前金まで受け取ったストーンウォール売却の詳細を知る国務長官の最初の反応は、公使の判断は実際的ではないと不同意だったが、最終的に日本の現状から公使の決定を受け入れている。バン・バルケンバーグ公使の決定で、入港時に日本の国旗を掲揚していたストーンウォールはアメリカ国旗を掲揚しなおし、それ以来アメリカ軍艦として横浜に停泊していた。その頃東北にこもる旧幕府グループには、旧老中・板倉勝静や小笠原長行等も参加しこのストーンウォールを手に入れようと画策し始めた。新政府側は、岩倉具視まで乗り出しての度重なる交渉で、ようやく新政府の日本平定を認め中立が解除されたのは明治1年12月28日(1869年2月9日)になってからだった。

明治天皇の誓文と政体書

♦ 五箇条の御誓文

明治天皇により明治1(1868)年3月14日に出された、日本の新しい基本理念をうたった五箇条の御誓文はよく知られている。徳川慶喜が公議による意思決定を期待し大政奉還したが、王政復古の朝廷クーデターで表に出た岩倉具視を中心とする公家たちや、大久保利通や西郷吉之助などを中心とする薩摩藩も、この改革を支える諸藩も、同じく公議による意思決定機関の三職会議を造った。「公議決定」こそが当時の重要なキーワードだった。この会議を通じ、日本が諸外国と同等の国になるには旧来の幕府専横政治から抜け出し、広く実力者や有識者の意見を取り入れ国威増強を図ろうとし、その流れがこの国是五章の誓文の元になっていると言えよう。それまで幕府のとった天皇をもないがしろにする抑圧強権政治を改革し、挙国一致を図り、外国に負けまいとする反動だ。

そして天皇が新しい国是とする五項目は、公議決定、挙国一致国治策遂行、挙国初志貫徹、万国公法採用、知識吸収国威発展の五つであり、大改革に際し天皇自らこの国是を定め万民保全の道を定めるから、心を合わせ努力せよと勅語により激励した。この公布に当たっては、祭場を設け、天皇が総裁、公家、諸侯一同を率い神の前で誓う形をとり、誓文を読み上げ、参列者が「叡旨を奉戴し、死を誓い黽勉(びんべん=努め励む)従事します」との奉答書面に署名した。この署名はその後も追加され、650人以上もの署名があるようだ。

この国是の誓文は、木戸準一郎(旧名、桂小五郎)の「前途の大方向を定め、天皇自ら公家、諸侯、百官を率い神明に誓い、国是の確定を天下の庶民に知らすべき」との建議に基ずき、議定参与から国是として相応しい案を出させ候補を絞り、福岡孝悌(たかちか)や由利公正に命じその最終文が起草されたという。更に多少の修正の後、天皇の宸裁を得て決定された。このエネルギーは何処に起因するかを見れば、儒学精神に基ずく君臣の大義から天皇こそ君主であり、ペリー提督来航いらい、全て先進諸外国に適わない日本を立て直そうとする義憤であろう。このタイミングで出されたこの五箇条の御誓文は、当時の大きな改革のうねりを集大成したものであり、日本が近代国家へ脱皮する宣言だったわけだ。

♦ 政体書と三権分立の明言

上述の如く、五箇条の誓文として国是がはっきり表明されると、それに相応しい政府組織が必要になるのは当然だった。それまで機能し必要に応じ修正された三職会議とその分担職責は、いわば暫定政府のようなものだから、新しい政府組織にとって代わられることになる。

4月の半ば、岩倉具視が大阪に行き三条実美、中山忠能、木戸準一郎、後藤象二郎、福岡孝悌、副島種臣など中心人物と政府組織変更を協議し、京都に帰って正親町三条実愛、小松帯刀、大久保利通などと図り、福岡孝悌と副島種臣とが選ばれ1ヶ月ほどかけ新しい政体機構の草案をまとめた。これが会議にかけられ、宸裁を得て閏4月21日、新政府統治基本法、すなわち政体書が公布された。同時に、「今回御誓文が出され、その実現を目的とする政体職制が改められたが、変更を好んでするのではなく、今までなかった制度や規律を立てるためであり、従前の方針を変更するものでもない。この趣旨を良く理解し、疑いを挟まず、各々その職掌をつくすべし」というお沙汰書も太政官から出されている。1月に組織変更し、4ヶ月目でまた変えたわけだから、変更を好んでするわけではないから疑いを挟むな、と言い訳がましいお沙汰書になっている。この政体書の主な内容は、

その政体は、五ケ条の御誓文を基本とする。天下の権力は全て太政官に属し、これを立法・行法(=行政)・司法の三権に分ける。立法官と行法官の兼務は禁止する。各府・藩・縣より議員を出す。私に政事を議すを禁じ、全て公論で決すべし。諸官の任期は4年とし公選で選び、将来最初の交代では半数の任期を2年延長し交代する。各府・藩・縣は御誓文を基本に政令を行う。

その官職は、太政官を議政・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の七官に分ける。議政官は上・下2局に分け、上局は議定、参与、史官、筆生で構成し、下局は議長2人を置き、議員で諸事項を議する。行政官は輔相(ほそう=宰相)2人、弁事、権弁事、史官、筆生で構成する。外国官は知事、副知事、判官事、権判官事、書記、筆生で構成する。

の如く細かく職制を定めた。この様に立法・行政・司法の三権分立制をとり、諸官任期を4年にし、立法権を持つ議院を上局・下局の二院制にし、行政権を持つ行政・神祇・会計・軍務・外国の五官をつくり、行政官の輔相2人が他の四官を統括し、地方行政を府・藩・縣で行うと明確にし、新しい国体を目指すものだった。司法権は刑法官に与えた。

草案を造った福岡孝悌、副島種臣などはアメリカ合衆国憲法とその法制を参考に決定したもののようだが、年が進み国内情勢が変化するに従い、まだ多くの変更が加えられてゆく。

江戸を東京とすること

♦ 江戸を東京とする建議と明治天皇の東幸

歴史的に長く天皇が住む京都は、延暦13(794)年に長岡京から平安京として遷都して以来千年以上も続く。その京都に維新政府が出来、旧将軍・徳川慶喜も水戸に謹慎し、江戸城も引き渡され、閏4月24日に議定・三条実美が関東監察使として江戸城に到着した。これは、未だにその去就のはっきりしない奥羽、新潟方面の旧幕藩の攻略につき、大総督や三道鎮撫総督と軍議し方針を確定するためだった。

こんな時佐賀藩出身で当時軍務官判事に就いていた大木喬任(たかとう)が、佐賀藩論として江戸を東京とし、天皇が東幸すべき案を建議した。それまでにも薩摩藩の大久保利通から大阪に遷都する案や、長州藩の木戸準一郎からも京都を帝都とし、大阪を西京とし江戸を東京とし、状況により天皇が3ヶ所を巡幸する案なども出されたが、何れも薩摩・長州の陰謀くさいとか、いろいろな異議が出て実現しなかった。しかし今となれば、新政府に抵抗する旧幕藩側の素早い恭順を狙う軍関係者から見れば、天皇が自ら東に乗り出す姿勢は大きな圧力として作戦上重要になり、この提案は大きな意味があったはずだ。岩倉具視はこの大木案を天皇の内諾も得て議定にはかり、江戸に居る大総督・熾仁親王や三条実美との意見調整のため、6月19日木戸準一郎と発案者の大木喬任を江戸に派遣した。親王や三条の合意を得て翌月京都に帰った木戸と大木は、その旨報告し、朝議はついにその決行を決めた。

この頃、一時徳川慶喜が謹慎した上野寛永寺の座主・輪王寺宮公現親王は彰義隊の盟主として新政府軍と戦ったが、上野戦争に破れ仙台に逃れ、陸奥・出羽・越後三国の連合軍盟主として白石城に本拠を置いた。ここには旧幕閣・板倉勝静や小笠原長行も参加し、東北連合軍として新政府に対抗した。この様に東北情勢が一挙に不安定になり、水戸藩などへも影響が及び始めたから、水戸に謹慎する徳川慶喜は自発的に駿府に避難する申請を出し許可されている。こんな東北の問題解決が焦眉の急になったから、7月17日、江戸を東京とし、鎮将府を置いて駿河より東を掌握する中心にし、三条実美が鎮将を兼ね、熾仁親王は会津征伐大総督として東北の鎮圧に集中する組織改正も合わせて行われた。これで、日本全土の平定を完成する体制を創ったわけだ。

ここで、明治1年7月17日に天皇は、

朕は今、政治上重要な事柄を自ら裁決を下し、全国民が安らかなるよう鎮め治めている。江戸は東国第一の大都市で、四方から寄り集まる中心地である。然るべく自ら出向き、その政事を視ることとした。従って、今より江戸を東京と称える。これは、朕が日本全国、東西を同一視する理由からである。全国民はこの意図を理解し、遵守せよ。辰七月

と詔書を出したが、これは江戸を東京とし、自ら出向いて国政を執ろうとする決意を述べたものだ。

これによりそれまでの江戸は東京となり、江戸府知事も東京府知事と呼ばれることになったが、これから3ヶ月ほどたった10月13日、明治天皇も京都から東幸し、東京城と改めた旧江戸城に入った。ここで明治天皇は、各地の氷川神社の総本社である武蔵一宮・氷川神社(現、埼玉県さいたま市大宮区)に行幸し、京都における賀茂神社や石清水八幡宮と同様これを武蔵国の鎮守とし、東京という帝都と共に勅祭社の鎮守の宮が出来たことになる。その後12月8日に東京城を出立し一旦京都に帰ったが、また翌年3月28日、再度東幸し東京城に入り、引き続き政府の諸機能も移り完全な帝都の機能が動き始めた。

♦ 「慶応」から「明治」への改元

明治天皇が江戸を東京となすとの詔書を出した後の9月8日、西暦1868年10月23日、天皇はまた年号を「明治」と改元し、新政府は、

今度、(天皇は)御即位と御大礼を済まされ、先例の通り年号を改められた。就いては、これまで吉凶の兆象に随いるゝ改号があったが、自今は、御一代は一号に定められた。これにより、慶応四年は明治元年になさるべく旨、仰せ出だされた。

と詔書にもとずく行政官布告を出し、慶応4年9月8日は明治元年9月8日になった。そして今後は、天皇の一代の間に改元はしないと、一代一元制の新規則も明言された。ちなみにこの明治という年号は、中国の周時代の易経に「聖人南面して天下に聽き、に嚮(む)かってむ」という文から採られたものという。松平慶永の『逸事史補』によれば、恐らく改元があるので五、六の元号案を提出するよう岩倉具視から依頼され、その通り提出した。明治天皇は自ら賢所へ入り籤を引き、明治が選ばれたという。これは、新政府の船出に相応しい典拠のようだ。

お気ずきの読者も居られようが、筆者は上記の、天皇が「今より江戸を東京と称える」という詔書を出した「7月17日」をすでに「明治1年」と記述している。これは、この時点の時間を当時の人々の時間軸に直せば慶応4年であったが、「慶応四年を明治元年となす」という9月8日付けの天皇の詔書により、1月1日に遡って明治としたという。ここはその適用に従ったことによる一時的な矛盾である。

ここに至って、新しい首都・東京が出来、年号も明治になり、東京を守る鎮守の宮も造られた。新国家が出発する体制が整ったことになる。

♦ 外国公使への布告と天皇の謁見

こんな遷都決定について7月29日、東久世通禧によりイギリス、フランス、アメリカなどの諸国公使へ「江戸を称して東京と改める」旨の通知が出された。そして天皇が東京に移った1月後、11月22日にイタリア、フランス、オランダの公使が天皇に謁見し、翌23日にはイギリス、アメリカ、ドイツの公使たちが天皇に謁見している。

アメリカ公使・バン・バルケンバーグは随従として海軍提督、領事館員や書記官などを引き連れ登城し謁見に臨んだ。天皇の前でアメリカ公使は、

私が日本に赴任するに当たり、大統領から、これまでの両国和親交際を保持するよう命を受けました。第一番に日本と条約を締結したのは我がアメリカ合衆国であり、この條約締結は日本と日本政府の幸福と発展に大きく貢献したものと信じます。自分が赴任以来、両国の間には毎月世界最大の蒸気郵便定期船が運航し、両国関係はより緊密になりました。その利益は更に増大し、国家に大きな富を与え、文明開化するに従い一層増大するでしょう。両国の交際を更に懇篤にし、両国関係の発展に貢献するのが私の使命であり、最も望ましいことであります。アメリカ政府に代わり、当今の太平と幸福とを皇帝陛下に慶賀致します。そして日本全国が静謐になり、太平と幸福を全うする日が速やかに来ることを祈ります。

と述べた。これに対し天皇は、

貴国大統領は安全なりや。朕は常に貴国が平穏であり、両国交際が益々深くなることを祈る。今東京に臨み、はじめて公使に会い、益々両国の交際が盛大になり、万里隔たるとも隣国と思っている。宜しくこの意を諒察して欲しい。かつ公使がつつがなくその職にある事は、朕の深く喜悦するところである。

と返答した。

こんなやり取りは謁見時の形にはまった外交辞令とも取れるが、まだ箱館では榎本武揚などが北海道を平定し、五稜郭にこもって蝦夷島政府樹立を目論んでいる時だから、新政府による一日も早い全国平和の確立を願うバン・バルケンバーグ公使の希望表明は、単なる外交辞令だけでもなかったはずだ。事実、バン・バルケンバーグ公使はこの天皇謁見の2日後、アメリカ国務省宛の報告書で、

現在のところまだ帝(みかど)の政府が名目的なものであったにしても、帝以外のどんな大名にも、この国を統一し強固な体制を築けないと思われるから、近い将来は必ず現実的な政府になって欲しい。先般の外国公使たちとの謁見では、皆がそんな期待を抱いた。

と強い希望を表明している。この様な謁見が済んだ1月後に各国は、岩倉具視の折衝でその局外中立を実質解除したから、天皇謁見を通じ、各国公使は安定した新政府が出来つつあることをより実感したに違いない。

 


コメントは 筆者 までお願いします。
このサイトへのリンク  は自由ですが、「著作権」 のページの内容を読み、そのルールに従って下さい。

(このサイトの記述及びイメージの全てに、またコーディングの一部に 著作権 が適用されます。)
10/15/2017, (Orginal since January 2009)