日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

11、米国に於ける岩倉使節団とその活動

岩倉使節団の結成

♦ 条約改正の議論

版籍奉還のあと廃藩置県をやり遂げた新政府内に、懸案であった領事裁判権を撤廃し、関税自主権を回復し、名実共に平等な条約を模索する条約改定の議論が起り始めた。特に前ページのヴァン・リードの項で記述したように、ハワイへの 「元年者移民」で問題になった、日本の規則に反し移民を送り出したと怒る新政府が、当事者のヴァン・リードを直接処罰もできないという領事裁判権を撤廃する願望は特別に強かった。しかしこんな治外法権を撤去し、関税自主権を回復し、各国と対等の条約にしようとすれば、日本国内の法制度を外国と同等に整備し、外国人との雑居が出来るようにしなければならない事もまた明白に理解されていた。そのためには、早急に各国の制度、文化、風俗、技術、産業、交通、軍備など良く勉強した上で対策を立てることが必要と考えられたのだ。

こんな中で、明治3(1870)年4月の外務省内評議では、今から約2年後に各国と条約再検討の機会が来るが、今から準備し議論を煮詰める必要があると建議され、モデルとして、イギリスが過去から現在までに結んだ諸條約を翻訳し、内容をよく理解し、諸條約国と互角に議論できる準備をせねばならないと提案された。そしてこのための取調掛を任命し、翻訳方数名の任命をも決めたのだった。

もっともこれ以前に、新政府が出来た当初の明治1年の暮れにも、当時の東久世外国官副知事より各国公使へ、新政府になったから旧幕府の締結した条約を改正したいと申し出た事があった。しかし、「何処をどの様に変えたいか具体的提案がなければ、本国と連絡を取り談判の手筈も整えられない」と各国から回答され、国内ではまだ蝦夷共和国の動きにからみ戦争もある混乱期だったから、外務卿・澤宣嘉が2年半後に再開したいと答え、この件は沙汰止みになった経緯がある。そこで今回はその2年半後を目指し、準備を整えての再チャレンジだったのだ。

そして各省からは、新条約に向け夫々どんな改定が必要か意見が出されている。例えば輸出入関税について、大蔵省の大久保卿から太政官正院に宛て、

現條約は、輸出入物品税や貿易規則など全て條約書に盛り込み、その改正は日本と条約国の合意が無ければ変更できず、自主の権利を妨害されている。・・・今回の条約改正で昔の失策を挽回し、累年の宿弊を正し、日本固有の権利として保持したい。・・・この点を良く検討し、万国普通の公理に則り、従来闊歩した宿弊から脱し、至公の條約に改定し、現條約の輸出入税目などは全て我国の意志で決め、物産の多寡や流通の実情に応じ適正に処分決定できれば、物産の利益や富強に向けた基礎が出来、従って特別な威信も備わるから、この条約改正は実に国家の隆盛に関わる重大事である。

と申請が出された。前ページの「廃藩置県」の項でも述べたが、自ら参議の職から引き下がり、大蔵卿として国家の財政を見始めた大久保利通にとって、輸出入関税一つ変えるにも条約改正のように大掛かりな交渉が無ければ改正できないという現条約の弱点、すなわち「関税の自主権」を回復する事は焦眉の急であった。

新政府によって廃藩置県を断行し、真に内政を統一した今、次に外政に着手する事は討幕を決意した時からの課題だったし、不平等條約の領事裁判権や関税の自主権回復は一人前の独立国になるための通過関門であり、大いに議論が沸き立った。更に外国公使との交渉に際しても、イギリスのハリー・パークス公使のように、感情に任せて机を叩き大声を出すなどの非礼極まる振る舞いが旧幕府時代からあり、新政府になっても変わらなかった。対等国間の国際慣例からすれば、こんな非礼極まる行為は、日本がその政府に申し立てその公使を召還させる権利もあるが、日本とイギリスの国力の差から新政府はそれも我慢してきた経緯もある。三条実美が勅を奉じ、特命全権大使を欧米に派遣しようと決定する直前の明治4年9月、岩倉具視に書簡を送りその意見を聞いた中に、次の一節が有る。いわく、

各国政府や各国在留公使も、東洋は一種違った国体や政治風土だと認識し、異なった対応と異なった慣用手段で談判に臨み、我が国の法律が行き渡るべき事も彼らに及ぼす事が出来ない。我が権利に帰すべき事もそう出来ない。我が規則に従うべき事も従わす事が出来ない。我が税法に従うべき事も、彼らをそれに従わせられない。我らが自由に処置すべき道理がある事も、これを彼らと協議せねばならない。その他国内外に関する全てに亘り、彼らと対等で東西平等の交際ができない。甚だしい例では、公使の喜怒により、公然の談判も困難を受けるようになる。そもそも対等国の政府は、在留公使で不適当な者があれば、公法によってこれをその本国に送還するほどの権限があるべき筈なのに、この様に陵辱を受ける関係の下では、対等平等の国権を有するとは云えない。平等対等の交際をしているとは云えない。

と、その不平等と公使の暴挙とを挙げている(「岩倉公実記」)。

こんな経験もあり、早急に分裂した国体を建て直し、国権を中央政府に統一し、制度や法律を一新し、筋の通った政治を行い、民権を確立し、政令一途国論を統一し、列国と比肩できる基礎を建てねばならないという事が、国を挙げての悲願だった。そのために各国に使節を派遣し、新政府発足を伝え和親を促進し、万国公法に基づく条約に改定したいと日本の論点を説明し、前交渉を行い、更に欧米の政治システムや法整備を学び、科学技術の進展や軍備の調査などを目的に、米欧に向けた使節派遣が決定されたのだ。

♦ 使節の任命と約束

明治天皇は明治4(1871)年10月8日、右大臣・岩倉具視を特命全権大使に、参議・木戸孝允、大蔵卿・大久保利通、工部大輔(たいふ)・伊藤博文、外務少輔(しょうゆう)・山口尚芳(なおよし)を特命全権副使に任じ、その他の書記・理事・随行・通訳など合計48名に米国と欧州派遣を命じた。使節団の11月4日の発遣式にあたり天皇は、

今般、汝らを使いとして海外各国に赴かせるが、朕は素より汝らがよくその職を尽くし使命に耐える事を知っている。よって今、国書を与える。よく朕の意を知り、努力せよ。朕は今から、汝らがつつがなく帰朝する日を祝すことを待っている。遠洋の渡航だから、万が一にも自重せよ。

と云う勅語を下すと、自ら国書を岩倉全権大使に授けた。

こうして岩倉使節団がアメリカやヨーロッパに出発することになったが、しかし当初は、岩倉、木戸、大久保といった新政府の原動力であり中枢である人々が、長期にわたり外国に行くことに多くの異論があった。主要な使節団人員決定に関し朝議で時間を費やしたが、参議・西郷隆盛が太政大臣・三条実美を補佐し、更に大蔵省の監督までし、板垣退助以下皆で政府の責任を持つとの合意によりようやく人選が決まった。そして更に出発を前にした11月7日、海外に行く使節一同と国内で政務をとる一同の間に意思の疎通は欠かせないし、同じ方向で協力せねばならないと、基本事項についての誓約書を作った。これは12ヶ条にわたる基本事項の合意書で、その目的とするところは、

万一議論矛盾し目的差違を生ずる時は、国事を誤り国辱を醸すべきにより、ここにその要旨の条件を列し、その事務を委任担当する諸官員連名調印し、一々遵守してこれに違背なきを証す。

と云うものだった。

岩倉使節団の出発前にこんな約束までなされたが、つまるところこれは、これまで過去に例を見ないスピードで変革してきたが、使節団の帰国までこれ以上何も変えるなということだ。万一変える時は、外遊中の全権大使一行の意見を聞けということだ。現実面ではしかし、今までの改革の歪から毎日のように矛盾が国内の方々で噴き出すから、改革が一段落するまで現状維持はとうてい不可能だったし、外国にいる一行に連絡するだけでも時間がかかる。三条を支えると言った西郷は、その後こんな約束には見向きもせずどんどん改革を進めたから、結果的に気休めの約束に過ぎなかった。

またその裏を返せば、それまで西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、岩倉具視などが、いかに変革エネルギーの中心になって改革を主導していたかを物語るものだが、今回は国内を預かる一方の旗頭の西郷隆盛にとって、必要な時の必要な変革は避けて通れないものでもあったのだ。

アメリカの首都・ワシントンへの旅

♦ 日本出発

明治4年11月10日(1871年12月21日)に東京を出発した使節一行は、同年11月2日付の外務大輔より各国公使宛書簡の付属書によれば、この時の総員は48人で、12日に横浜から太平洋郵便蒸気船・アメリカ号に乗船し、最初の上陸地・サンフランシスコに向け出航した。そしてアメリカ駐日公使・デロングもこの一行に付き添っている。当時全権大使随行として参加した久米邦武が記録・編纂した、「特命全権大使・米欧回覧実記」(以下「実記」)にこの船の記述があるが、4554トンの大型蒸気船で、合計92人収容の上等・次等の客室があったという。その他の大部屋などを合わせれば、1500人は収容できただろう大船だった。

このアメリカ号はニューヨークの造船所で造られ、当時アメリカでは最大の木造蒸気側輪船で、1869年に太平洋郵便蒸気船会社(Pacific Mail Steamship Company)に引き渡され、アメリカ政府と契約しサンフランシスコと横浜・香港間の定期郵便船として就航した。当時最新の大型郵便客船だったが、しかし残念なことに、岩倉使節団を乗せた翌年8月24日、横浜に停泊中火災が発生し沈没してしまった。また同じ頃就航した木造姉妹船のジャパン号も、それから2年後に香港出航後火災が発生し沈没しているから、一般客を乗せる木造船に火は禁物で、消火ポンプを備えてはいても火災には弱かった。

このアメリカ号には、使節団と共にアメリカや欧州に行く留学生の54人も一緒だったが、この留学生の中には4人の若く幼い女子も含まれていた。こんな若き留学生たちの事跡は、また記述する機会が来るであろう。

♦ サンフランシスコ


金門橋を船で潜ると見えてくる、現在のサンフランシスコ
Image credit: 筆者撮影

横浜出航以来、航海22日をかけて太平洋を渡ったアメリカ号は、明治4年12月6日(1872年1月15日)無事サンフランシスコに着いた。サンフランシスコでは現地駐在の日本国領事・ブルックスをはじめ領事館員の出迎えを受け、モントゴメリー街のグランド・ホテルに入った。ほぼ12年前の日本から、日米修好通商条約の批准書を携えた幕府の使節が来て以来の大型使節団だから、サンフランシスコは全市を挙げて歓迎した。

知事が歓迎のためホテルを訪れ、陸海軍の将官が歓迎に訪れ、サンフランシスコ駐在の各国代表者が訪れ、豪商たちも歓迎に訪れた。ホテルの前では砲兵隊の楽団が使節を歓迎する演奏をし、多くの市民が集まった。その前で岩倉全権大使がスピーチを行い、日本から同行したアメリカ公使・デロングがその内容を読み上げ、自らもスピーチを行った。岩倉具視のスピーチいわく、

天皇陛下の勅命を奉じ締盟各国に使いするその始めにサンフランシスコに来て、諸君より懇篤な接待を受け喜びに耐えない。我が国がアメリカと親しい関係を築いて以来、両国が強い友情で結ばれているのは真に通商の力による。それにより、我が国民が開化の国風を知る事が出来、海外の技芸・学問・物産・製造及び機械の諸術を研究し、良く理解したいと思う。今回の使節派遣の真意は、各国との親誼をより固くすることと、公正な政府とその国民の心の広さが、どのような繁栄をもたらしたかを見るためである。また、貴国の技芸・学問・物産・機械から、大小の学校、訴訟裁判の法制に至るまで良く見て、将来我が国に実施する参考としたい。これが我が国の繁栄への道であり、貿易は両国に利益をもたらすであろう。諸君のこのような心遣いと歓迎を天皇に伝え、日本全国の民衆も感謝に耐えないことと確信する。

日本ではかって人々が断固として尊皇攘夷と叫び、岩倉具視が中心人物の1人として徳川慶喜の征討軍を発し、戊辰戦争が始まって以来ほぼ4年後に行われた岩倉のこの、「両国が強い友情で結ばれているのは真に通商の力による」というスピーチだったが、如何に当時の日本国内の政治変化と西欧化が急であったか、改めて心を動かされるものだ。


ペンシルベニア州ゲチスバーグ古戦場
リンカーン大統領の「ゲチスバーグ演説」で名高い

Image credit: 筆者撮影

一方、この10年前に始まり4年間続いたアメリカの南北戦争では、アメリカ合衆国が北部と南部に二分し、4年間に北軍で36万人、南軍で25万人、合計61万人にも上る戦死者を出した。筆者は2年にわたる戊辰戦争の戦死者数の詳細を知らないが、勝手に約1万5千人程と想定しても、日本国を二分し政府が入れ替わったほどの日本の国内戦争とアメリカを二分した南北戦争との戦死者数を比較してみると、日本の戦死者はアメリカの40分の1以下と、当時の日米の文化的背景や生死感、及び勝敗の思考形態の二国間での特異性が際立つ事も事実だ。

使節団が渡米したこの時のアメリカでは、南北戦争の激戦地・ゲティスバーグの戦いで敗北し追い詰められ、更にまた激戦地・ピータースバーグをも撤退して南下途中の南軍総司令官の将軍・リーを捕虜にし降伏させた、北軍総司令官の将軍・グラントが大統領になっていたが、岩倉使節団は首都・ワシントンでこの南北戦争の英雄・グラント大統領に会う事になる。

使節団はその後サンフランシスコにある大きな馬車製造工場を見学し、ブランケットやカーペットを造る毛織物工場を見学し、動物園や植物園、博物館などの建ち並ぶ公園を訪れた。更にサンフランシスコ湾内を蒸気船で遊覧し、かって咸臨丸を修理したメーア島の海軍造船所も見学した。また女学校や小学校も見学し、サンフランシスコの名士たちから自宅に招待されてもいるが、全てにおいてアメリカの裕福さを実感する体験だったようだ。

♦ ワシントンへの大陸横断鉄道の旅

サンフランシスコで歓迎を受け先進技術を見学した後の明治4年12月12日、サンフランシスコから船で対岸のオークランドに渡り、そこから汽車で首都・ワシントンDCに向けアメリカ大陸横断の旅に出た。この旅は、使節一行と留学生の外にも同行しているデロング公使の家族も一緒だったから、全員が5両の客車に分乗していた。

汽車はオークランドからサンフランシスコ湾の東岸を南下し、湾の終端辺りで東に折れて山を越え、サンオーキン平野を流れるサンオーキン河を渡り、サンオーキン平野の中でも比較的大きなストックトンの町を経由し、そこから北上しカリフォルニア州の州都・サクラメントに着いた。ストックトンの手前の平野を横断する汽車の窓からは、地平線が果てしなく続き、北東方向には山も樹木も見えず、ただ青草が地平線まで絨毯の様に続き、まるで青草の海原の中を行くようだった。現在でも、南北に650km、東西に100kmもある細長く広大なこの平野を車でドライブする時は、ほとんど耕地になってはいるが、当時使節一行が見た広い風景がある。


塩が析出して雪のように白く見えるソルトレーク湖畔
Image credit: 筆者撮影

サクラメントで12泊し、州議会を表敬訪問し州政府のシステムを学んだ後、一行はまた汽車で東に向かいシェラネバダ山脈を越え、ネバダ州を横断し、12月26日(1872年2月4日)の早朝、ロッキー山脈の西麓にあるユタ地区ソルトレーク湖東岸のオグデン駅に着いた。この1872年当時のユタはまだ州になっていないから、オグデンも人口3千人ほどの町だった。オグデンに着くまで、シェラネバダ山脈を越える最中の外気は吹雪いて寒く一面の雪景色だったが、客車の窓ガラスは2重で蒸気暖房も良く効いていたから、花毛氈の上に腰かけ銀世界を眺めながらの快適な汽車の旅で、日本では想像もつかない旅だったようだ。オグデンを出るといよいよロッキー山脈を越えることになるが、ロッキーにも大雪が積もり汽車は動かないという。そこでオグデンの南にある中心都市・ソルトレーク・シティーのホテルで除雪を待つことになったが、ここにも雪はかなり積もっていた。ソルトレーク・シティーには18日間も缶詰になり、やっと明治5年1月14日(1872年2月22日)オグデンから汽車に乗り、東に向けて出発することが出来た。

途中ワイオミングの広大な丘陵地帯の草原を過ぎ、ミズーリー河岸のネブラスカ州オマハに着いたが、オグデンからオマハまでの約1600kmを3日間も汽車に乗りっぱなしだった。ここで汽車を乗り換え、更に引き続き約800kmの汽車の旅で、18日にやっと大都市・シカゴに着き、ホテルに入ることができた。シカゴはこの前年の10月に大火があり、繁華街の大半を焼き、2万もの家が消失した。岩倉使節一行はこの被災地を見て回ったが、世話になっているアメリカの災害を見て、5千ドルの寄付も忘れなかった。

シカゴのホテルで1泊した一行は、19日の夜にまた汽車に乗り、インディアナ州、オハイオ州、ペンシルバニア州、デラウェア州を過ぎ、21日の午前11時にメリーランド州バルチモアに着いた。バルチモアは当時27万人の大都市だったから、市中を通る鉄道は、安全のため北駅で客車をいったん切り離し、夫々を6頭の馬で南駅まで牽引し、あらためて機関車に接続するという珍しい体験をした。そして最終地のワシントンDCに向かい、午後3時に議事堂の傍らにある駅に無事到着した。

駅には日本から派遣されている現地駐在辨務使・森有礼をはじめ、アメリカ政府の接待係代表が出迎え、岩倉使節一行はアーリントン・ホテルに入った。明治4(1871)年12月12日にサンフランシスコを出発してから、翌年1月21日まで、1月以上をかけて首都・ワシントンに着いたのだ。カリフォルニア州都のサクラメント表敬訪問を除き、大陸横断に7日を想定していた予定を大巾に超過し、ロッキー山脈越えで雪に前進を阻まれ、ソルトレーク・シティーで18日間も缶詰になりながらも、汽車によるアメリカ大陸横断はインパクトの強い体験だったようだ。

アメリカでは、特に南北戦争が終わった直後から政府の後押しで鉄道網開発が促進され、多額な投機的民間資金も投入され、全国的に急速に蒸気鉄道網が設置されて行った。この1866年から1873年にわたる鉄道建設ブームはやがて終息し、経済危機にもつながってゆくが、岩倉使節一行の大陸横断時は鉄道事業拡大の最も華やかな時期だった。

大統領会見と条約改定交渉

♦ グラント大統領の歓迎と会見

汽車で明治5(1872)年1月21日ワシントンDCに着き、雪の降る中アーリントン・ホテルに腰を落ち着けた岩倉使節一行は、綺麗に晴れ上がった25日、正副大使は衣冠の正装で、書記官は直垂姿で、明治天皇よりの国書をホワイトハウスに持参し、グラント大統領と会見し直接手渡した。国書いわく、

朕、天の加護を得て萬世一系の皇統を継ぎ、天皇の位に就いて以来、未だ使節を派遣し和親の各国訪問をしていない。よって朕が信任する宰相右大臣・岩倉具視を特命全権大使となし、参議・木戸孝允、大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文、外務少輔・山口尚芳を特命全権副使となし、各々に全権を与え、貴国及び各国に派出し、訪問の礼をおさめ、益々朕が親好の意を表したい。かつ貴国と結んだ条約改正の時期は迫り来年であるが、朕が希望し意図するところは、人民に開明各国と等しい公権と公利を保有さすべく従来の条約を改正したいが、我が国の開化は未だ行き渡らず、政治や法律も異なり、時間をかけずしてその希望成就はない。故に、努めて開明各国に行われる諸制度を選び、我が国に適するものを採り、徐々に政治と習慣を改め、文明諸国と対等の位置を保ちたい。ここに我が国の事情を貴国政府に諮り、その考案を得て、現今と将来に向けた制度改良の手段を商議させる。使節帰国の上条約改正を審議し、朕の希望と意図を達成したい。この使節は朕が信任する重臣であり、大統領閣下、その発言を信用され、待遇されんことを望む。かつ心から大統領閣下の康福と貴国の安寧を祈る。

この様に、出来るだけ早く日本国内に西洋に比肩できる適切な制度を導入し、その上で西洋諸国と対等な条約改正を行いたいと、強い期待を表明している。使節の帰国を待って、条約改正を審議するというものだ。岩倉全権大使と会見し、日本の国書を受取ったグラント大統領は、

我が合衆国と最初に和親貿易の条約締結を行った日本から派遣された使節を、また最初に受け入れる光栄は歴史に名を留め、我が国と我が在職期間中の美事である。・・・一国の繁栄と幸福は、彼我の有益なる点を比較し、互いにその長所を取り政治法律を改正し、人権を尊重し、全国の富強を図るには学術を採用することである。・・・日本はその建国以来長い歴史があり、我が合衆国は新国のひとつに過ぎないがしかし、我が国は旧制を改める政治を行い、すこぶる繁栄している。そもそも人民が富強幸福を受ける理由は、外国と交際し貿易を鼓舞し、人の功労を尊重し、実学を用いて工作技芸を奨励し、国内の運輸を便利にし往来する交通を迅速かつ大量にし、移住してくる人民はこれを好み、他国の改革や才芸が集まる。出版を制限せず、人の信心や優れた能力を束縛せず、宗教を自由にし、我が国民は勿論我が国に居住する外国人といえども一切制限はしない事による。これは、従来の経験に照らし、疑いのない方法である。閣下が奉命する、公法に基づく条約改正の交渉は我輩の喜びであり、両国間の貿易方法の修正は重要で望むところでもあり、国交の増進は決して怠ってはならず、真実この美事に賛成するところである。

この様に、グラント大統領をはじめフィッシュ国務長官などアメリカ政府首脳は、日本の条約改正の希望に対し非常に友好的な考えを表明した。多国間に渡る条約改正という国際的な交渉経験がない岩倉使節団一行は、このグラント大統領の考えに大喜びし、「条約改正交渉に向けた法整備を習得し、条約改正の予備交渉をする」という初期の目的を超えて行動する事になる。しかしそれは、アメリカはよいとしても、その後各国を回り、それ以外の国々との交渉を考えると難点が少なくないことを理解し、条約交渉の難しさを痛感することになる。

この時のアメリカの国をあげての歓迎振りは、この大統領の言葉にもある通りで、サンフランシスコからワシントンまでの旅行中も、使節一行は至る所で身に沁みて感じていた。これは言葉だけでなく、1872年1月30日のアメリカ議会で、岩倉使節一行歓迎のための「5万ドルの予算」を計上した事でも良く分かる。

♦ アメリカとの条約改正調印の試みと断念

こんなアメリカ政府の真に友好的態度に勇気付けられ、2月3日、岩倉大使と四人の副使をはじめ、アメリカ駐在辨務使・森有礼やサンフランシスコ駐在領事・ブルックスも参加し、フィッシュ国務長官と第一回会談が始まった。先日大統領に手渡した国書に記載された天皇の方針と大使・副使に委任された権限を読んでいる国務長官は、

長官 : この度の使節には、条約を締結する権限はないと理解してよろしいですか?
岩倉 : 条約中、改正すべき条件を協議、討論する権限があります。我々はただこれを論ずるだけで、今回の談判で互いに述べ合った事を日本で取り結ぶべき条約の基とし、天皇陛下の批准後に本書を取り交わす運びです。
  (この回答は「イエス」「ノー」がはっきり答えられていない。国務長官は再び、)
長官 : 使節公は、草案書に調印する権限をお持ちですか?
岩倉 : その通りです。談判の結果を記載すべき書面に署名する権限があります。
長官 : 貴国天皇陛下よりの書翰中には、その権限を与えていません。今あなたの言われることに従えば、別途その権限を与えられているようですね。
岩倉 : そうです。
長官 : この書翰には条約の条項を取決める権限は与えられていません。ただこれを論ずることのみです。
  (続いて日本での批准のタイミングの会話の後に、)
長官 : 草案に署名する事は政府がその条約を履行するということで、すなわち条約だから、すでに改正をした事と同様です。
岩倉 : 我々はただ、今度改めるべき条約条項を論じたいのです。そして我が政府の許可なしにはこれを決定せずとの約束だから、談判の結果を記載する書面に調印することは出来ます。
長官 : それは困難ではありません。我が方でも上院と大統領の許可を必要とするからです。

こんな会話を見ると、出だしはうまくかみ合っていない。通訳の問題もあっただろうし、ここで日本語に訳された「草案書」という技術用語の理解が同じではなかったようにも見える。しかし、最終的にフィッシュも各条項の交渉に入ることに異存はなかったが、条約批准のタイミングを大いに気にしていた。アメリカで批准するには上院議員の3分の2以上の賛成がなければならず、2年毎にその3分の1が入れ替わるから、短期間に批准しないと上院の意見が変わる可能性があり、現政府としては大きな問題になる可能性もあった。従って現政府がやるからには、上院での批准まで出来るタイミングでないと、交渉の意味そのものがなくなるのだ。この時はグラント大統領の第1期めで、1869年3月4日に就任していたから、残すところあと1年という時期だった。

2日後の2月5日、再びフィッシュ国務長官と会談した岩倉は冒頭、

前回の会談の折に、自分の持参した国書に全権委任の文面がないとのお話しがあったので、その後自分の方から森少辨務使を通じ相談に及びましたが、早速同人へ必要とお思いなさる内容をお伝えいただき、これにより、当方では副使を帰国させ、天皇陛下より必要事項を明記した国書を願い受ける積りに決定しました。

と、岩倉の新しい方針を伝えた(「日本外交文書デジタルアーカイブ」、外務省)。更なる史料を持たない筆者はこの発言から推定するしかないが、岩倉の命令で、更に突っ込んでフィッシュ国務長官と話した森有礼に、あるいは国務長官から 「すぐやる方が良い」とのアドバイスがあったのかも知れない。そして、森もアメリカの友好的態度をを好機と捉え、アメリカと条約の本交渉をし、すぐ調印するよう岩倉に進言したのかも知れない。当然同行の木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳などとも協議したであろう岩倉具視は、アメリカとの条約改定・調印を決断し、副使・大久保利通と伊藤博文を日本に急きょ帰国させ、条約調印の権限を委譲する新しい委任状を申請し持ち帰ることに決定したのだ。そして新委任状入手を前提に、フィッシュ国務長官と条約改定交渉を継続している。

そこで大久保と伊藤は明治5年2月12日にワシントンDCを出発し、3月24日横浜に着いた。早速アメリカでの状況を政府に説明し、条約交渉の要点を

  1. 内地雑居の漸次拡大
  2. 治外法権の撤廃
  3. 信教の自由と外教禁令高札撤去

として改正条約締結全権委任状を稟議申請した。しかし、これは当初の使節派遣目的を変更する事になるため、政府内で議論が起き許可を得るのに1月半もかかった。しかし最終的に同意を得て、5月17日新しい全権委任状を携えて横浜を出発し、6月17日再びワシントンDCに帰って来た。しかしこの4ヶ月間に、ワシントンに滞在する岩倉使節を取り巻く状況はすでに大きく変わっていたのだ。

少し遡るが、日本政府は大久保・伊藤の要請による岩倉具視への改正条約締結全権委任状を発する事に決定すると、直ちに関係各国に向け、条約の改訂交渉と調印は岩倉使節団が出先で各国と行うとの通達を出した。これに基づき各国公使たちは自国政府と対策を協議し、あるいはイギリス公使・パークス等も打ち合わせのため召還・帰国をし始めた。そんな公使の1人、ドイツ公使・フォン・ブラントはアメリカ経由で帰国の途中、ワシントンDCで岩倉と会見した。これはまだ大久保利通と伊藤博文が新しい全権委任状を取りに日本に帰国中の事だが、フォン・ブラントいわく、日本政府の決めた外国を回っての条約改定交渉と調印は、むしろ日本政府にとって大きなマイナスであろうと述べた。その理由は、現条約に記載してある「最恵国待遇条項」にある。すなわち、アメリカとの交渉中少しでも日本側が譲歩した項目は次の交渉国にとっての既得権になり、たとへ瑣末なことでも日本側の各国への譲歩は次々に積み重なり、最終的に全ての国へ多くの譲歩をする事になってしまう、という実務上の論理だった。こんな考えは、条約交渉をしたこともない岩倉はもとより外国通を自負する伊藤博文さえも考え及ばなかったし、木戸や大久保も勿論知らなかった。

これにはフォン・ブラントに会った岩倉をはじめ木戸や山口は大いに驚いた。言われてみれば理論上その通りで、例え岩倉といえども意見のすり合わせなしに、出先でそんなに多くの譲歩や変更の決定は出来ない。ブラントの忠告を聞いて驚愕した木戸などからは、「こんな事もあろうかと外国通を自認する伊藤を連れてきたのに、気が付かないとは困ったことだ」と恨み節も出たようだ。こんな騒ぎの後にワシントンDCに帰ってきた大久保利通、伊藤博文を含め、岩倉はアメリカと約束した条約改定調印の対策を話し合ったが、外国での本交渉と調印は中止に決定し、伊藤に一任しこの変更をフィッシュ国務長官と協議させた。汗水たらし日本から飛んで帰ってきたばかりの伊藤は、「他人の言う事を聞いて、困ってくると俺に背負わせる」と文句をいいながらも、フィッシュ国務長官に掛けあわざるを得なかった。

伊藤は国務長官に会うと、新しい全権委任状は日本政府から交付されたが、交渉国が多いヨーロッパのロンドンかパリで一括交渉し調印したいので、アメリカからも交渉全権使節をヨーロッパに派遣して欲しいという希望を述べた。アメリカも日本での交渉ならいざ知らず、ヨーロッパまで出張し日本と条約改定交渉をする理由はないから、「お気の毒ながらそれは出来ない」とフィッシュ長官は受け入れず、条約交渉調印は白紙に戻ったという(「後は昔の記」、林董述、東京時事新報社、明治43年)。

この著述者・林董(ただす)は、当時岩倉使節団に二等書記官として随行した林董三郎(とうさぶろう)であるから、アメリカで岩倉具視の取った条約調印の決断とドイツ公使・フォン・ブラントに会った後のその修正の経緯は、ほぼこの通りだったと思われる。これは、当時の明治政府首脳がいかに条約改定を強く望み、不平等条約といわれる各国との通商条約改定に熱心だったかが良く分かる出来事だ。当時のアメリカ政府はグラント大統領をはじめとして、日本との通商条約改定に非常に前向きで、第2期も大統領に当選したグラント大統領の下でフィッシュ国務長官も続けて国務長官を務めた。そんな経緯から、4年後の明治9(1876)年に日本政府の提案で、フィッシュ国務長官と再び改税条約が話し合われた。そして翌年引き続き、ヘイズ新大統領とエヴァーツ新国務長官の下で後に 「吉田・エヴァーツ条約」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) と呼ばれる税権を回復した改税条約が調印されたが、その後イギリスやドイツの反対で施行できず、幻の条約に終わった。

結果的に思わぬドタバタ劇で時間を費やしてしまった岩倉大使一行は、6月19日ホワイトハウスで大統領に謁見し友好と親切に感謝し、岩倉具視はフィッシュ国務長官の自宅も訪れ、感謝の意を表し暇乞いをした。そして一行は22日、夕方の汽車でワシントンを出発し、ボストン経由でイギリスに向かった。

アメリカ国内の視察と研鑽

以下の各項目は、幾つか興味深い記述が出てくる、久米邦武の「実記」を中心に書く。その「アメリカ合衆国の部」の最後に、

アメリカの本質は、欧州から最も自主と自治の精神にたくましい人々が集まり、この国を主導している。その上、国土が広く肥沃で産物が豊富だから、自由な生産市場を開き、全てが繁栄し、世界の全勝者になった。これが米国の米国たるゆえんだ。

と久米に言わせた国だ。この佐賀藩出身の久米は、帰国後明治政府の国史編纂を行う修史館と内閣臨時修史局に勤め、明治21年から帝国大学・文科大学教授となる歴史学者だ。

♦ 地政学的体験

既にサンフランシスコで多くの工場や教育関係を視察し、州都・サクラメントで州政府の実際をも見学した後、大陸横断の汽車の旅では、身をもって国の大きさを体験した。そしてシカゴやピッツバーグ、フィラデルフィアやバルチモアなど繁栄する大都市をも通過しその経済活動を垣間見て来たが、東部から西部に向けたアメリカ開拓史にも強く心を動かされたようだ。久米邦武の「実記」に次のような記述がある。

一行の汽車がサンフランシスコから海岸山のトンネルを出て、はるかに広々とひろがるカリフォルニアの平地が、天に連なり地平線となっている様を見て以来、米国の開拓当時の様子を思い、皆の心に触れるものがあった。そして川を見ればその廻船や灌漑の様子に注意し、野を見ればその畑作りや道路に注意し、山を走ればその材木や鉱物に注意し、村の駅を過ぎればその生活状況に注意し、車中では皆が見るもの全てに開拓の話にならないものはなかった。すでにネバダやユタの貴金属鉱山の話を載せたが、ロッキー山で険しい地形の鉄路敷設、ミシシッピー河の水運、オマハでトウモロコシと移民、その他橋梁建設や道路修理、モルモン教徒が塩地を開墾し羊毛を紡織する等、全て荒地開拓の強い印象が残った。今シカゴを発しこの州(オハイオ)に来て見れば、野は熟し林は茂り人家は多く、すでに堂々たる開明・シヴィルの地域だ。・・・米国の人口の現今の全数は、我が国にほぼ相当する。しかしその数十倍もある国土をよく開墾している実績を見れば、非常に驚くべきことである。現地に行き実情を目撃すれば、かえって我が国の怠惰こそ驚くべきことのように思われる。

これは、広大な自然を相手に開拓が進んだ現状を汽車の旅で実体験し、強い印象を受けた記述だ。現代は汽車の代わりに車だが、アメリカ大陸の横断は同様に強い印象を受ける。

♦ ワシントン府と連邦政府

合衆三十七州の首府にして、独立の縣をなす。その全地を総じて「ディストリクト・オブ・コロンビア」と云う。これは久米邦武の「実記」の記述だが、続けてワシントンDCについて、

合衆国の連合を盟約した後三十七州が相互に話し合い、規則を定め、入費を収集し、主者を公選し大政府を建てた。よってこの政府には法則と制度が所属し、土地と人民は各州の支配になり、大政府は必ずしも土地と人民を所有する必要がない。しかし大政府を設けた理由は、その大政府の地でなければ、他州に所属しては不都合なことがあるためである。だんだんと合衆国に統合する時、土地を許し与え大政府の所有にしたのだ。・・・全縣の人口は十三万七百人で、その内ワシントン府の人口は十万九千百九十九人である。バージニアとメリーランドの両州は共に昔、英人の開拓殖民した始めから多くの黒人を使役したので、縣中に黒人が多く、総人口の内四万四千人は黒人である。一般の風俗は非常に悪い。

という。そしてここは大政府の所在地だから、全国の官吏や将士、議員や代理人、外国公使など旅費の支給を受けた旅客が多く集まる事で繁盛しているから、物価の高い事は全国一だった。しかし、市中にはホテルなど広大な建物は多いが、商業都市ではないから景気状況は寂しかった。

市街は議事堂を中心に四っつの大路が配置され、中でも街の中心部を貫く最大のペンシルベニア・アベニューは、長さ4マイル、道幅160フィートもあった。そして議事堂と大統領館の間は往来が激しく、建物は特大で、貨物の行き来も錯綜していた。久米はまた、「道路が念入りに作られているのは、商業国の長所だ」という。ペンシルベニア街などはその好例で、160フィート(約50m)もの広さの道路の中央を車道とし、左右を人道とし、人道の広さは約20フィート(約6m)で、レンガを敷き詰め歩行に便利に出来ていた。

また馬車や汽車といった「車」利用の有用性を記述し、

西洋人は荷物を背負う事をしないし、馬にも荷物を負わせない。したがって荷物の運搬力は日本人の数十倍もある。そして馬一匹の力で三十トンの荷を動かす能力を持つようになった。こんな言い方をすれば、人々は疑い、にわかには信じないだろう。しかしこれは甚だ平易な理屈で、あえて驚くには当たらない。それは車輪の造り方が精巧で、道路が素晴らしく良いからだ。およそ一トンの重量は二十人が背負う重さで、馬なら七匹に付ける分に相当する。然るに精巧な車輪で運搬すれば、健康な馬一匹で十分だ。これを鉄軌道上で行えば、たった八ポンドの力で動かせる。車輪が重量物を運搬するに最適である事は、今なら日本全国のやや知識のある者は十分知っているはずだ。しかし、その摩擦と回転の抵抗力の理屈を知らねばならぬ。・・・その国に入ってその道路の精巧さを見れば、その政治の良し悪し、人民の貧富などが直ちに分かるほどだ。

と、首都・ワシントンの道路の素晴らしさと共に記述している。確かに日本は一、二の例外を除き、地理的にもまた歴史的にも、戦略上の重要点として、意識して道路をより広くより平にと改善して来なかったから、広い滑らかな道路造りはよほど印象深かったのだろう。

♦ 議会と共和政治の得失

久米はまた、「議会は米国の最上位の政府で、大統領は行政の権を統率し、副大統領は立法の長となり、大審官は司法の権を取る」と、その政治形態を説明している。次いで米国憲法が合意に至る大議論とその民主主義を尊ぶ国民性を述べ、

この様に議論を尽くし、日月を経て決定した憲法だから、よく道義にかない人々に受け入れられている様は、あたかも天の教えを戴くが如くで、独立宣言以来九十六年経ち、三十七州もの多くの州が加わっても変動する事もない。しかし各州で自主権を主張し、大統領の権限をおさえ、人民の間の討論は年を追って益々盛んになっている。・・・米国の国民はこんな政治体制の下で暮らしているから、百年も経てば、三尺の子供でも君主を戴くことを恥じるようになる。この習慣が日常のことになり、その弊害を知らないだけでなく、ただそれを長所と思い込み、世界中にこの国是を広めようとする。短時間の話でもそういう印象を与える。到底そういう考え方を変えそうもない、純粋な共和国の国民達である。・・・議員を公選し法律を多数決で決めるのは、一見実に公平に見える。しかし上下院の議員全員が最高の俊才達ではありえないから、卓見や深い思慮が必ずしも議員の理解するところとはならない。故に大議論の後に多数決で決めれば、上策が採用にならず下策が採られる事が多い。選任者達が一旦草起したものは、議論があっても十中八、九は必ず原案に決まる。従って下部で賄賂が無いとも言えず、行政官吏の私見が陰で立法院の議論を低めたり高めたりしないとも限らない。これらは全て共和政治の残念なところだ。

これは、「儒教」と「君臣の大義」の下に教育を受けた当時の日本人・久米邦武の、天皇親政の政治形態とアメリカの民主的共和政治形態についての考え方の一端を知る、非常に興味あるコメントでもある。また、「ただそれ(民主的共和政治)を長所と思い込み、世界中にこの国是を広めようとする」というくだりは、当時から約140年も経った現代のアメリカにもそのまま当てはまる観察である。

♦ ワシントン府の主要施設の見学と女性論

首都・ワシントンでは、大久保と伊藤が明治5年2月12日に日本に向け出発の後、使節一行は2月25日から、白い花崗岩造りの特許局、印刷局、ドイツから購入した大反射望遠鏡を備えた天文台、大蔵省と紙幣印刷局、海軍省造船所、郵政局、農務局、アナポリス海軍学校、病院などを次々と見学して回った。

特に3月27日、フィッシュ国務長官やロビンソン海軍省長官らと共にメリーランド州アナポリスの海軍学校を訪問したが、久米にとって恐らく始めて見る珍しい体験を通じ、興味あるコメントを書いている。青い芝生でおおいつくされた広大な校庭の所々には木を植えて、極めて清潔な雰囲気の中で行われる訓練を見学した後に、校舎の中で昼食会に招かれた。それは、集まった男女数百人の立食パーティー形式で、素晴らしい食事と酒類も出され、狭い館内に溢れんばかりの男女の参会者は夫々に弾む会話を楽しんでいた。そして食事が終わると、講堂で男女の舞踏会が始まった。久米のコメントである。

米国は、官邸に女性を入れることを禁じない。海陸の軍校にも婦人が参観に集まり、訓練が終われば舞踏会を開き、男女が互いに手を取り合って舞踏し歓楽を尽くす。これが共和政治の風俗だ。・・・我が一行が横浜から米艦に乗り込んだ時から、全く変わった珍しい風俗や習慣の真っただ中で、我々の挙動は彼らの関心の的になり、彼らの挙動も我々には不思議に見えた。・・・中でも最も不思議だったのは男女の交際だ。日本では妻が舅や姑に仕え子が父母に仕えるが、彼らは、夫が自分の妻に仕えるのが道徳だ。明かりを持ち、履物を揃え、食べ物を取ってやる。衣装を直し、上り下りには手助けをする。座る時は椅子を進め、歩く時は荷物を持ってやる。婦人が少しでも怒れば愛をささやき、敬意をこめ、恐れ入って侘びを述べ、それでも受け入れられなければ、室外に出され食事をもらえない事もある。男女が船や車に同乗する時は、立派な男が立って席を譲り、婦人は辞退もせずにその席に着く。婦人が着席するため歩み寄れば、みな起立して敬意を表し、同席している間は控え目に、大声を慎み、常に婦人に先を譲る。婦人はあえて辞退することもない。婦人が座を立てば、皆は始めてホッとした表情になる。・・・これが大体西洋一般の風俗だが、米英はことに甚だしい。英は女王を立てる国だからこれを増長し、米は共和政治だから、男女同権論が普及している。近年米国では、婦人が参政権を持つべきだとの議論があり、ある州ではすでに公許したと云う事だ。・・・要するに、男女の義務は自ずから別のものだ。婦人を国防の任務に就けないこともまた明らかだ。東洋の教えは、婦人は内を治め外務を行わない。男女の違いをはっきりと見分けることには自ずから条理がある。識者は慎重に考えを巡らさねばならない。

久米はこの様に、アメリカやイギリスの女性のあり方に否定的だった。

♦ フェリーとニューヨークの喧騒、ウエストポイント陸軍学校


ハドソン川の注ぐニューヨーク湾から、現在のニューヨーク市(中央から右)
とジャージー・シティー(左端)を望む

Image credit: 筆者撮影

四月中は、アーリントンを訪れた程度でほとんどその活動はなかったが、5月5日夜、寝台車に乗ってワシントン北駅を出発し、ニューヨークなどの北部視察を始めた。夜だから車窓からは草原や林が影のように見えるだけだったが、久米はその中を飛ぶ蛍を見たと書いている。早朝、ニューヨークからハドソン川をはさんだ対岸の人口8万人余りのジャージー・シティー駅に着いたが、この駅はニューヨークに渡る基点だから常に喧騒を極めていた。鉄道駅から馬車に乗り換えて波止場に着くと、波止場と同じ高さのフェリーの甲板に馬車ごと引き込む方式で乗船が終わった。待合室の建物に入って馬車が停止したと思っていると実はもうフェリーの中で、すでに船は動き出し四方は水で、またたくまにニューヨークの波止場に着いてしまったという。その手際のよさと設備の巧妙さに、愉快この上もなかった。

ニューヨークの市街に入ると道路の上を行く鉄橋があり、その上を汽車が走るという巧妙な仕掛けもあった。ブロードウェーの大道りはニューヨーク第一の繁華街で、レンガ舗装の広い道を乗合馬車がひっきりなしに走り、1分も待たずに次々とやって来る。この街の喧騒さに至っては、多くの車が常に通りを塞ぎ、四、五台の馬車が並走するのは通常で、左に向かうとすぐ右から割り込み、後から追い越すと思えば横から回り込み、御者もその操縦の腕を競い、一日中混雑している。世界中にこんな混雑は例を見ない。ホテルに入って通りに面した部屋に入ると、時には万雷が来る様に、時には松林に大風が吹くように、大音が鳴り響きとどろき渡り、言葉も通じないほどだった。

ニューヨーク市民の日用品、雑貨、食料売買など日常生活の中心をなすマーケットや広大なセントラル・パークを見た一行は、ハドソン川を蒸気船で遡りウエストポイント陸軍学校に来た。通常夏の始まる西洋暦の6月は期末試験や卒業式などがある季節だが、ウエストポイント陸軍学校でもその季節で、生徒の父兄や親戚の男女が集まりホテルも満員の状況だった。

陸軍省長官も来場し広い校庭で卒業操練があり、一連のプログラム終了後校内で食事会がもようされ、来場の男女も招待された。陸軍と海軍の伝統が違うのだろうが、海軍学校の時と違い男女は別室に別れて会食し、混雑も見られなかったという。翌日はまた校内施設や陸軍学校生徒の軽砲隊の試験を見、暗くなった8時過ぎから、400mほど離れて灯された明かりをめがけた炸裂弾砲発射の試験を見たが、的中はごくわずかだったという。久米のコメントは、

米国では大小砲の的射ちを見ることが多かった。その命中度は、我が邦人に比べ非常に低い。いつも未熟だナと思う。手指の技や臨機応変の才に関しては、我が邦人は常に欧米人より優れている。

炸裂弾砲発射のあと花火が打ち上げられた。西洋人はみな支那や日本の花火の技のほうが高いという。また久米のコメントだ。

発射時にまっすぐ打ち上げる方式はなく、落下傘方式で吊り下げ降下する技もなく、星になって四方に錯乱しすぐ消滅してしまうのは、見ていて飽き足らない。しかし、化学に長じ火薬作りに詳しく、かつ費用を惜しまないから、飛び出す星々が綺麗なことは本当に目が覚めるようだ。ここが西洋の長けている点だ。最近日本では大花火を禁じ、その長所を捨てて稚拙な業だけになってしまったが、惜しむべき点である。

この後更に北上し、アルバニー、シラキュース、ナイヤガラを見て、ボストンに回り、ニューヨーク経由ワシントンに帰ってきた。明治5年5月17日、すなわち1872年6月22日だった。首都・ワシントンではすでに議会も終わり、夏休みが始まって、官庁街は閑散としていた。しかし日本へ委任状を取りに帰った大久保利通と伊藤博文はまだ帰ってきていないから、6月17日まで更に1月も待つことになる。

♦ アメリカからイギリスに向かう

ワシントンを出発した岩倉大使一行は、フィラデルフィア、ニューヨークを経由しボストンに向かった。ニューヨークからは客船に乗り込み、明治5(1872)年6月28日早朝、船はナラガンセット湾の北の奥にあるロードアイランド州の州都・プロビデンスに着き、港近くのボストン・プロビデンス鉄道会社の駅から汽車に乗り、マサチューセッツ州の州都・ボストンに向かった。プロビデンスからボストンは、北東に片道65kmの距離である。当時のプロビデンスは良港に恵まれ早くから商工業の開けた街で、大きな貿易港でもあった。

当時のボストンは人口25万人の大都市で、おそろしく地価の高い所だったという。ボストンを含むニューイングランド地方は、イギリスの植民地としてアメリカ大陸で2番目に出来て殖民が成功した地方で、歴史的に非常に古い土地だったが、当時マサチューセッツ州は綿・羊毛紡績で全米第一の生産高を誇っていたし、その他の工業生産も非常に高い地域だったから、使節一行はそんな大工場を幾つか視察した。


ロードアイランド州ニューポートに現存する
ペリー提督の生家

Image credit: 筆者撮影

ボストンやプロビデンスでは熱狂的な歓迎を受け、久米はサンフランシスコ以来の盛会だったと書いている。特に、嘉永6(1853)年6月に浦賀にやって来て幕府にアメリカの国書を渡し、翌年1月に再来航し日米和親条約を締結したペリー提督は、このプロビデンスから南に約40kmほど離れたロードアイランド州ニューポートの出身だから、この地域から熱烈歓迎を受けた一要因でもあったのだろう。我が州出身のペリー提督が開国した国・日本から使節団がやって来てくれた、という感慨を込めた大歓迎でもあったはずだ。

またこの地域は昔からアジア貿易に船を出す船主も多かったから、日本が開国する以前から、オランダのチャーター船として何艘ものボストン船が長崎に来ていた。そんな事もあり、ボストンでは日本の茶や工芸品などが早くから知られていた事もあったろう。

岩倉使節一行は7月3日、いよいよイギリスに向かうため、ボストン港からボストン・リバプール間を運行する英国キュナード社の定期郵船・オリンパス号(2415トン)に乗組んだ。ボストンの街からは、ボストン港の出入り口にあるロングアイランド島の灯台辺りまで、7艘の船に100人以上もの別れを惜しむボストン市民が乗り込み見送りに来た。この灯台のあたりでいったんオリンパス号は停船し、船上で見送り人と共に最後のお別れ会が開かれた。久米は次のように書いている。いわく、

灯台の前まで来てここに船を止め、ボストンの下院議長・テイス氏を上席につけた立派な食席を設け、郵船の中で別れの宴を張った。そしてスピーチを行い、別れを告げた。米国の人は外国人を家族のように待遇し、よしみを通じ兄弟のようだ。殊にボストンに来てから5日の間、市中や付近の村々からは互いに親しみやよしみを通じ、親切極まりなかった。出船に際し、港口まで送って来てこの盛餐を設けたことは、東洋諸国の人に昔を回想させ、冷や汗が流れる思いをさせた。ああこの開明の際にあたり鎖国の夢を醒まし、和やかな世界交際が出来る事を、我が日本の全ての人々は、大事な事だと心に命じなければならない。

アメリカとの別れに際し、そのフランクさと親切さが久米の心の琴線に触れ、感傷的ともいえるコメントを書いた。確かについ5、6年前までは「攘夷」を叫んで外国人排斥をしてきた日本だったから、昔を回想し、「冷や汗が流れる思い」をし、鎖国と世界友好の落差の大きさがよほど印象深かったに違いない。

 


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10/15/2017, (Orginal since January 2010)