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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

13、福井のお雇い米国人

福井のお雇いアメリカ人: ウィリアム・エリオット・グリフィス (William Elliot Griffis)

♦ 明治新政府の教育政策 − ウィリアム・グリフィスの招聘

明治新政府になると、明治1(1868)年3月14日に天皇の出した五箇条の御誓文の中の、「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし 」という条項に則り、旧幕府が西洋医学を中心として開いた「医学所」を「医学校」として6月26日に早々に再開し、儒学を中心とした「昌平坂学問所」を「昌平学校」として29日に再開した。また旧幕府が「蕃書調所」を新設し「開成所」と改称していた洋学中心の組織をも10月27日に再開したが、間もなく「開成学校」に名称変更された。またこれより少し早い3月始め頃からすでに明治新政府は、政府が直轄する府・県に小学校の設置を命じてもいた。

医学校や昌平学校を開く当時は、まだ勝海舟が大総督府参謀・西郷隆盛と駿府で会談し、如何にして江戸市民を戦火から守り徳川慶喜の罪を軽くしようかと交渉し、4月11日に江戸城が無血開城され、徳川慶喜が水戸で謹慎のため上野寛永寺・大慈院を出発した頃と云う早い時期だ。そのすぐ後の5月11日、彰義隊が上野で官軍に完敗したから、「医学校」再開はこの僅か1月半後の事だ。

こんな新政府の素早い学校設置・再開の処置は、今後は教育こそが国家の根幹政策の一つだという新政府首脳の考えを則実行に移したものだ。更に翌2年7月8日に新政府は官位の制を改め、これら高等教育施設を統合した「大学校」を設立し、8月24日、統括長官・大学別当に元福井藩主・松平春嶽を任じた。

この様な経緯があり、日本の新しい大学校の大学別当になった松平春嶽としては、自分の地元の福井藩でも洋学を強化し模範を示さねばと考えたのだろう。自藩からアメリカのラトガース大学に留学している日下部(くさかべ)太郎の縁を頼り、その留学先から、いち早くお雇い外国人としてアメリカ人教師を招請しようとした。明治2年6月17日に版籍奉還をし、そのまま福井知藩事となっていた前福井藩主・松平茂昭(もちあき)の肝いりもあったはずだが、日下部太郎の時と同様再び、当時長崎から上京し開成学校の教頭になっていたグイド・フルベッキ(Guido Verbeck)を通じ、前年にラトガース大学を卒業しアメリカにいる27才のウィリアム・グリフィスに声がかかったのだ。グリフィスは次のように書いている。いわく、

私が大学の理事をしている時、アメリカ人で教頭をしているG・F・フルベッキ宣教師を通じ、越前の福井に行きアメリカの基本方針に基づく科学学校を創設し、自然科学を教授してほしいと越前守から招請を受けた。

こんな背景があって、グリフィスは早速日本に旅立つ事になる。ただしここで筆者は、グリフィス記述の通り、「the American superintendent」を「アメリカ人で教頭をしている」と上記の様に訳したが、フルベッキは、実はオランダ国籍である。

後にグリフィスは1903年の著書、『Sunny Memories of Three Pastorates(三牧師館時代の楽しき思い出), Andrus & Church, 1903』の中で、「日本の国土を踏む前に、教えたり、会ったり、交友したりで、おそらく300人ほどの帝(みかど)の国人を知っていた」と書いている。日本を去って30年も後の思い出の記だが、来日前に「300人」もの日本人がニュー・ブランズウィック近辺を訪ねていたとは、事実とすれば全くオドロキだ。あるいは、グリフィスの故郷・フィラデルフィアも訪れた、万延元(1860)年に日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府が派遣した77人もの遣米使節団や、慶応3(1867)年アメリカを訪れ、サンフランシスコやニューヨークで興行したという足芸・手品・曲独楽(きょくごま)など帝国日本芸人一座一行の17名などをも含めたのかも知れない。とにかく来日前のグリフィスは、1866(慶応2)年暮れから突如としてラトガース大学とその付属学校に留学し始めた多くの日本人の若者を教え、ニュー・ブランズウィックを訪ねる日本人とも多くの交流があった事は確かだ。また教え子で1870(明治3)年のラトガース大学理学部卒業の直前に亡くなった、福井出身の優秀な日下部太郎の印象も強く、日本と日本人に強い興味があったはずで、そんな時に受け取ったフルベッキ宣教師を通じた福井への招請に応えたのだ。

♦ グリフィスの福井行き準備

こうしてグリフィスは1870年12月29日(明治3年11月8日)に来日し、福井に行き、廃藩置県の後東京に戻り、合計3年7ヶ月あまりの間日本に滞在する事になる。この時期は、明治新政府があの奇跡的な「廃藩置県」を断行し中央集権の基盤を固め、岩倉使節団が長期外遊し、西郷隆盛が朝鮮出兵を唱え入れられず下野し、佐賀の乱が勃発し、また日本から台湾出兵が行われ多くの兵士がマラリアに苦しんでいたという時期だった。グリフィスは振り返って、

私は、「大日本」の歴史の中の最も波乱に飛んだ4年間をここで過ごした。ほぼ1年間は、封建社会の真っただ中で古式豊かな生活のある、西洋文明から隔離された、内陸奥地の一大名の藩都で孤独に過ごした。首都で私は、よくぞ「国家の開花期」とも呼ばれたそんな時期を過ごし、帝国大学の一教師として全国から生徒を選抜し、1872、1873、1874年にわたる画期的時代に起ったすばらしい発展、改革、危機、華やかな出来事の目撃者だった。

と語っているが、全くグリフィスの言う通り、廃藩置県を断行して中央集権を図った明治新政府が、新国家建設に向け多くの改革を軌道に乗せ始めた時期だった。

さて横浜に着いたグリフィスは、東京に行き、元越前守・松平春嶽の上屋敷に招かれ食事を馳走され、福井行きの準備の一環として、まず一緒に福井で講義に協力してくれる通訳を探し始めた。グリフィスは、かって幕府が万延元(1860)年に日米修好通商条約の批准書交換のため派遣した遣米使節団に、年若い通詞として随行し、その率直さと朗らかさでアメリカ女性の心を捉えたといわれる一番の人気者、通称「トミー」こと立石斧次郎を良く見知っていた。当時使節団は、グリフィスの故郷・フィラデルフィアの造幣局などを訪れているから、「トミーと呼ばれる快活な若者をよく見かけた」とグリフィスも言っているが、こんな時に目にしたのだろう。グリフィスはこのトミーが東京に居る事を知ると早速白羽の矢を立て、越前の役人が交渉を始めた。トミーはしかしあまりの田舎行きに、年間手当て・金貨で千ドルという破格な提案をも受けず、この交渉は失敗に終わった。トミーはこの1年後、長野桂次郎として岩倉使節団に随行しているが、「恐らくトミーはそんなチャンスを探していたようだ」とグリフィスは言っている。しかし幸運にも、岩淵という20歳位の若者が福井での通訳を引き受けてくれる事になった。

グリフィスは更に、外務省の許可の下に福井藩と、

福井の学校で3ヵ年に渡り化学と自然科学を教授し、商売はせず、飲酒もしない。福井藩は月300ドルの報酬を払い、ヨーロッパ風の家を建て、契約終了後は横浜まで送り届ける。

という日本文と英文の雇用契約書を作った。宗教に関しては記述がなく、日曜日は完全な自由が保障された、とグリフィスは言う。

この外務省の許可取得の要求は、明治1(1868)年8月22日という早い時期から明治政府が各藩に布告を出し、「諸藩、外国人雇い入れの際は、外国官の指揮を受けよ」と命じていたし、翌年の2月7日付でも、競って外国から専門家を雇い始めた政府内の諸官に、「外国人雇い入れの年月、人名、月給等を外国官へ申し報じ、以後雇い入れの節は、同官に照会の上、願出すべし」とも命じていた。これはまだ明治4(1871)年7月18日に文部省が組織される前の事であるが、最初は人材難で、横浜などから十分な審査もなく外国人を雇うような事例も多々あり、公正な雇用を実現し、優秀な人材を確保しようとする新政府の意図による要求だったようだ。

♦ 福井の生活


グリフィスの住んだ「異人館跡」の碑
福井市中央3丁目13にある

Image credit: 筆者撮影

いよいよ1871(明治4)年2月22日、通訳・岩淵、警護役・中村、勘定役・江森、2人の使用人、グリフィスの賄い方の夫婦の合計8人で、横浜から太平洋郵便会社の蒸気船・オレゴニアン号に乗り神戸に向かった。神戸から大阪・天保山に着き、大阪の越前屋敷に泊り、淀川を遡り、琵琶湖の南岸・大津から北岸・海津まで蒸気船で渡り、敦賀を通り、福井に出るルートだったが、3月4日ついに福井に到着した。琵琶湖には1869(明治2)年3月からすでに蒸気船が運航されていて、その後に鉄道・東湖線(現在の東海道本線)が東岸を通るまで物流の中心であったという。

グリフィスの記述では、福井には親切な人々が大勢いて、最初から印象が良かった。3年ほど前にニューヨークに行ったことがあるという佐々木(権六)と呼ぶ侍が、グリフィスがとりあえず滞在する日本の侍屋敷を洋風に居心地良く改造し、ガラス窓も入れ、ベッドと洗面台も、質の良い家具も備え付け、赤々と火の燃えるアメリカの「ピークスキル・ストーブ」まで据え付けてくれていた。ニューヨークのマンハッタンからハドソン川を70kmほど北に遡った東岸のピークスキルの街は、昔オランダ移民から始まったといわれる街だが、ピークスキル・ストーブ会社やピークスキル製造会社などによりこの工業都市で製造されるストーブは、当時アメリカで有名ブランドだったし、グリフィスにとっては、「故郷」の見慣れたストーブだったわけだ。こんなストーブまで入れ赤々と火を焚いていたのだから、グリフィスの心の琴線に触れたのだろう。「気に入ってくれたと思うが」と片言の英語で言ったこの佐々木は、以降グリフィスを助ける人だ。この佐々木権六という人物は、1867(慶応3)年頃は福井藩の製造奉行で、当時藩命で軍事調査に渡米し、グラント将軍にも会って帰った人と聞く。

福井藩の版籍奉還後は、当時の福井藩主・松平茂昭が知藩事としてそのまま福井に居たが、グリフィスは翌朝早速城郭内にある藩庁に行き、松平知藩事と面会を済ませた。最初の挨拶が済み、話が進み緊張が解け、冗談も出始めると会話が楽しくなり、これなら上手くやっていけそうだと、和やかな親切な対応に心から安心したようだ。グリフィスいわく、

一年間の滞在中、いつも変わりない親切を受けた。知事や役人から、学生、市民、子供に至るまで私を理解し、微笑み、お辞儀をしながら「先生、おはよう」と迎えてくれ、尊敬と、思いやりと、調和と、親切以外の何ものもなかった。目を開かされた思いだった。ピストルも護衛も必要なかった。皆と心が打ち解けあい、福井は幸せな思い出ばかりだった。

しかし一方でグリフィスは、これから3年も住む町だからと期待を膨らませ、馬で町を見て歩いた。しかしグリッフィスの目に映った現実は、人々は貧しく、みすぼらしい家に住み、アメリカの小奇麗に手入れされた町並みに比べ荒廃の進む城下町の風景があった。それでもどこかにもっと立派な通りがなかろうかと探しあぐねたが、そんなものは何処にもなかった。「色収差のないレンズ」を通してみる福井の現実に、気持ちが重く沈みこみ、グリフィスはそのショックが大きかった様子を鋭く描いている。当時内戦が終わったばかりの日本では、物質面で欧米との貧富の差は隠しようもなく、工業生産が上がり、貿易が増え、日本の国が物質的に裕福になるまでには、まだまだ時間が必要な時期だったのだ。


グリフィスと日下部太郎の記念像
福井市中央3丁目14、足羽川の川岸にある

Image credit: 筆者撮影

グリフィスにはもう一つの目的があった。それは教え子で、ニュー・ブランズウィックのラトガース大学卒業を目前に夭折してしまった日下部太郎の親に会い、その努力の様子を伝え、クラスの主席を通した名誉の証、「ファイ・ベータ・カッパ」協会の金の鍵を手渡す事だった。グリフィスの到着を知った日下部の父親が、日本風にミカンの手土産を持ち、玄関ではなく勝手口から会いに来た。50過ぎの悲しみに満ちた顔をした人物だった。岩淵の通訳を通し父親が言うには、異国の地で亡くなった息子を嘆き悔やんだ母親は死に、全部で5人の子供も死に、幼い2人の男の子がいるだけだという。グリフィスが金の鍵を手渡すと、父親はその鍵を額に押し頂き、うやうやしく受取ったと云う。

さて福井の藩校・明新館は非常に大きかった。本丸の中の、かって松平春嶽の屋敷だという建物だ。生徒数も800人もいて、英学、漢学、儒学、医学、軍学の部門があり、英語はまだ2、3年と新しく、生徒も少なく、長崎に留学した日本人(筆者注:瓜生三寅(みとら)と思われる)が教えていた。医学の部には多くの蘭書があり、フランス製の人体解剖模型もあった。図書館には英語の本もあったが、かって日下部太郎が集め使った書籍も一緒にあったと云う。

余暇には近郊を散策し、福井から東に聳える白山に登り、鯖江、勝山、大野といった街にも行き、9月には約束のグリフィスが住む洋風住宅が完成し、仮住まいから引越しをした。見通しの良い足羽川岸に建つ福井で始めての洋風住宅だったから、早速知藩事や役人が訪れ、グリフィスが言うには2万人もの市民が見物に来たという。石を積み上げた暖炉と煙突、瓦屋根、壁紙、ガラス窓、洋服だんす、伸縮テーブル、椅子、本棚、チャールス・ディケンズ風の机など、全て居心地良く出来ていた。

♦ 廃藩置県のショック

殆ど突如として明治4年7月14日、すなわち1871年8月29日に明治天皇が「廃藩置県」の詔書を出し、それまでの知藩事は交代し、新しい県令(後の県知事)が任命される事になった。版籍奉還後2年を経て出されたこの廃藩置県で、それまでの、昔から続いた封建社会が完全に終焉を迎えたのだ。そして、知藩事すなわち前福井藩主・松平茂昭は東京移住が命ぜられ東京に行く事になったが、その別れの日には3千人に上る侍が正装して福井城に参集し、大広間に集まった。この席に招かれたグリフィスは、

前頭を青々と剃り上げ、武家風の男髷に結い、いかめしく正装した侍たちは家格に則って居並び、右ひざ横にまっすぐ置いた刀の柄に手を添えて正座しているのは、3千人の福井藩の侍たちだった。頭を垂れた侍たちの心中は、この重大な事態に対する思いでいっぱいだった。それは、彼らの封建的領主への惜別以上のものだ。七百年にもわたる、先祖達から伝わる制度の厳粛な埋葬式典だったのだ。夫々の顔は、あたかも過去を見つめ、かすんだ未来を見定めようとするような、遠くを見ている表情だった。

と書いている。それまで知藩事と名は変わっても昔の封建時代同様の福井藩主であった松平茂昭が、「大名華族」にはなっても「個人」になる瞬間だった。古い封建制が完全に崩壊し、それなりの身分の侍が住んだ大きな屋敷は次々に取り壊され、侍の命に次いで大切だった鎧兜や弓矢、槍、旗指物、馬具、陣羽織や野袴、手回り道具一式という封建時代の遺物は二束三文で買われていった。城での惜別の会の後の松平茂昭は、グリフィスの家をも訪ね別れを述べたという。

松平茂昭が東京に去ると、福井の有能な人たちもあるいは明治政府に出仕し、あるいは他県の県令や権令になり次々と福井を去り、他県出身者が県令として福井に赴任して来た。これは明治政府の意図した方針であり、グリフィスも上手いやり方だと書いてはいる。昔福井藩の財政を立て直した由利公正(三岡八郎)は早くから明治政府内にいて、この時は東京府知事になったし、グリフィスにピークスキル・ストーブまで買って待っていた佐々木権六は内務省勤務にと、夫々東京に出た。福井藩校・明新館の多くの教師たちも東京で職に就いたから、「最も親しい友人たちも優秀な生徒たちも居なくなり、我慢できないほどの孤独感に襲われた」とグリフィスも書くほど周りに誰も居なくなってしまった。

この様な日本の変革を目の当たりにするグリフィスは、その過程で当然自分の身の振り方も考えただろう。翌年の1872年1月10日(明治4年12月1日)、グリフィスはこう書いている。いわく、

何ヶ月か前に東京の政府に宛て、工業技術専門学校設立を促すプランとその詳細記述を送っていた。明らかにそのような企画が出来たようだ。今日東京府知事(筆者注:由利公正・福井藩出身)から手紙が来て、首府・東京に出てそんな学校の教職につくよう親しく招請するものだった。また同じ手紙の束の中に、帝国大学の外国人教頭(筆者注:グイド・フルベッキ)を通じた文部卿(筆者注:大木喬任・教部卿兼任)からの手紙で、ほぼ開校が決まった専門学校の教授職に就くよう招請するものもあった。直ちに回答を欲していた。

どんなに強靭な意思をもってしても、半年以上も仲間の西洋人にも会えず、周りの支持者も親しい人も次々と居なくなる中で孤独を通し、異文化と向き合っていれば、こんな大変革を前に、まだ若いグリフィスの気持ちが動く事は非難できない。そして特に、グリフィスを招請した福井藩自体が消滅し、その首脳や支持者や親友たちも皆東京に出てしまった事は、福井に来た理由を失った事に等しい。また廃藩置県で福井藩がなくなった後は、グリフィスの給与も日本政府が払い始めたが、そんな中で日本政府の文教のトップ・文部卿から招請が来れば、旧福井藩との契約期間が残っていても、何とか中央集権化が急速に進む中心地・東京に出たいのは人情だろう。当時、明治政府の文部卿は初代の大木喬任(たかとう)だが、新しい学制を制定する過程でグリフィスの推奨する工業技術専門学校設立について、当時大学南校の教頭だったフルベッキの意見も聞いただろうし、フルベッキもグリフィスの東京招請に熱心だったようだ。

新しい役人に替わった福井県庁には、その旨の指示が東京政府からもあったようだが、地元福井県庁の教育責任者が簡単にそれを受け入れるはずもない。県庁からは、グリフィスの気持ちの動きを知り当然強く引き止めてきたし、文部卿からの招請状の到来を知った多くの福井市民も県庁にグリフィス引き止めの嘆願書を出したとも伝えられた。しかし、グリフィスの心は決まっていた。そして粘り強く県庁と話しもつけ、福井を辞し東京に出る事にした。その後福井には、グリフィスの交代教師として同じラトガース大学出身のマーチン・ワイコフが来ているから、グリフィスの東京行きにはフルベッキも協力し、ラトガースと話しをつけたように見える。

突然の東京行きになったが、出発の前日は、朝から晩までグリフィスに別れを惜しむ人達が押しかけてきた。それまで7日間も雪が降り続き、人の背丈ほどもに積もり、まだ雪の降り続く1872年1月22日の暗い早朝、大勢の人々に見送られ、一行は福井を出発した。10ヶ月あまりの短い福井滞在だったが、ほとんどどんな外国人も経験した事のない、こんな古い田舎町での体験と福井から東京に出る長旅は、その後のグリフィスを著名な「日本学者」にする目を開かせたようだ。

♦ 東海道を登る

吹雪の早朝に福井を発った一行は、20kmほど南の武生(たけふ)の街で、そこまで雪道を見送りに来た人達と最後の別れの食事会を持った。あまりの吹雪に乗馬もカゴも出してもらえない一行は、雪の中を先に進む事にしたが、暗くなり、ついに雪に隠れた道を見失い、進む事も引き返す事もできず遭難の一歩手前まで追い詰められた。夜遅くまでさ迷った挙句、やっとの思いで今宿と云う小さな村にたどり着いた。翌日もまた雪の降る中を出発し、峠を上り湯尾村の茶屋で休み、今庄村を通り、ついにグリフィスは人に背負われて雪の峠道を登り、夜の9時もとうに過ぎてやっと名も知れぬ村で宿に入った。

こうして大雪の中を北国街道を南下しながら近江の国に入り、伊吹山の麓を回って美濃の国に入り、中山道を通って関が原を過ぎ、大垣を通り、名古屋に出た。こんな道すがら、3人だけ許されて福井から同行しいるグリフィスの元生徒から、途中の常盤御前の墓前や関が原の古戦場などで日本の歴史を関心を持って聞き、それなりの情報を集めている。グリフィスは後の1876年に、著書 『The Mikado's Empire (皇国)』の中で日本の神話時代から1872年までの歴史を書いているが、こんな実体験を通した見聞や情報収集が大きく貢献したように見える。

当時の幹線道路・中山道や東海道に出て、こんな歴史上の史跡だけでなく、グリフィスは日本の新しいシステムによる急発展の姿をも目に留めている。すでに福井に行く途上の琵琶湖で日本人運行の蒸気船に乗ったが、帰りの大垣辺りではもう電気通信用の電柱が立ち並び電線が張られ、今にも大都市間の電信が完成しようとする姿を見たし、街では多くの人力車が行き交い、馬やカゴに替わりつつあった。そしてすでに明治4年3月に発行された最初の郵便切手が使われ始め、同じく5月に制定された新貨条例による新しい一円銀貨も発行され流通し始めていた。10日あまりの旅の途中でグリフィスは、日本のこんな日常生活様式の大きな変化を目撃している。

浜松近くに来ると、途中の静岡で再会すべくグリフィスは、静岡で教師をする同じラトガース大学同級生のワーレン・クラークに知らせの手紙を出した。静岡に近づくと遠方に馬を引いてやって来る旧友・クラークの姿を認め、グリフィスとクラークは東海道上で懐かしい再会を果たした。2人は静岡・駿府城の堀端に建つクラークの家に着き、旧交を温めたが、この静岡でグリフィスは、17、8年も前にペリー提督が将軍に送った、すでに古く錆付いてしまったミシン、自分の故郷・ペンシルベニア州フィラデルフィアの載った1851年当時の古い地図、旧式な分光器、その他細々とした古くなった贈物を目にし、かって日本に君臨した最後の徳川15代将軍が 「謹慎した街」 で見る古式豊かな贈物の数々に、諸行無常、栄枯盛衰を目の当たりにする思いだった。

♦ 東京での活動

陸路の長旅を終えたグリフィスは2月2日、東京築地のフレンチ・ホテル(築地ホテル館)に腰を落ち着けたが、ほぼ1年ぶりに見る東京は全く変わっていた。先ず物乞いがいなくなり、番屋がなくなり、築地の番兵が消え、市内警備用の障害物は撤去され、帯刀者がいなくなり、多くの侍屋敷が消え、新しい礼儀作法が戻り、丁髷が減って洋装が増えていた。皆が帽子をかぶり、靴をはき、コートを着ていた。馬車が増え、いたるところで人力車が走り、店には洋物が増えていた。兵士は軍服を着てシャスポー銃を持ち、川には橋が架かり、ポリスは制服を着ていた。病院、学校、大学が出来て、高等女学校(官立女学校)も出来ていた。新橋−横浜間の鉄道も完成間近だった。金貨・銀貨が流通し、貧窮者収容施設も出来ていた。ドイツ人医学教授の一団が上野の古い修道院に住み、蝦夷地開拓使顧問・ケプロン将軍とアメリカ人科学者スタッフが芝の将軍家浜御殿に住んでいた。現在はブルックリンで勉強に励む息子を待つ井伊掃部守の屋敷には、フランス軍事顧問団の将校たちがいた。この様に、古い江戸の街が消え去り、新しい首都・東京が出来つつあったのだ。

こんな東京で新しい生活が始まったが、もともとグリフィスが3月頃にも開校と期待し上京した工業技術専門学校は、グリフィスが教える化学と物理学以外の教師不足で組織化が大巾に遅れ、開校の中止に至った。はじめ時間のあるグリフィスは、大学南校(東京大学の前身)のアメリカ人英語教師・エドワード・ハウスの代理を務めたりしたが、最終的に、専門学校教師の代案として要請された大学南校で、正式に化学、生理学、比較言語学を教える事から始めた。これはフルベッキ教頭の下での教師職で、とりあえずグリフィスの顔も立つ妥協案だったらしい。しかし、当時大学南校が集めたレベルの低い教師陣やグリフィス自身の経済的必要性もあり、グリフィスの担当教科が次第に拡大し、物理学、化学、地理学、生理学、文学、法学にまで及んだ。フルベッキ教頭に次ぐ地位と実力に自尊心は満足しても、物理学や化学の実験準備に多くの時間を取られ、まだ教科書も満足にない多くの教科を教える事に大変な努力を要したらしい。大学とはいえ出来たばかりで、上級学生が居ない中等学校程度の教育課程の当時としても、これ程多くの分野を教えること自体に無理があったはずだ。

グリフィスの給料は福井時代と同じ月額300ドルだったが、東京では福井から附いて来た3人の学生の他に2人増え合計5人も食客が居たようだし、完全なアメリカ生活様式で、賄い人も居て、東京の物価は福井より高かっただろうから、経済的にあまり余裕が無かったようだ。翌年7月に文部省から、グリフィスの交渉によると思われる月額30ドルの昇給があったが、こんな妥協とオーバーワークが後々までくすぶり続け、ついに離日の決断に繋がってゆく。

しかしこんな大学南校での多忙な日常も、首都・東京の多彩さは地方都市・福井とは比較にならない。アメリカ人や日本人との交流の中で、著名人ほか多くの人達との交流や面識の輪が広がっている。東京では開拓使顧問・ホレス・ケプロンとそのスタッフ科学者たち。横浜では宣教師のサミュエル・ブラウンやジェームス・ヘップバーン。日本人では、1872(明治5)年5月7日に大学南校を訪れ、グリフィスの授業や実験をも視察した明治天皇。グリフィスがラトガースで岩倉具視や勝海舟の子息たちの面倒を見た繋がりだけでなく、教頭・フルベッキの長崎時代からの強い人脈も加わり、三条実美や岩倉具視始め多くの明治政府を造った首脳たちとの交流があった。自身も参加した明六社の文化人たちとの交流も活発だった。

また教える生徒たちも、上述のようにグリフィスは、「帝国大学の一教師として全国から生徒を選抜した」と言っているが、大学南校に全国から優秀な人材が集まった事は確かだ。後の日本外交の分野で活躍した小村寿太郎も、1870(明治2)年当時、日向国・宮崎県から上京し大学南校に入った一人だった。、グリフィスが初めて日本に来て東京で福井行きの準備をしている間、約1月ほど大学南校で英語授業の援けをしたが、この時に小村寿太郎の聡明さを知り、福井から戻り、再び大学南校で2年間に渡り英語や法学を小村に教えることになった。後に小村が、アメリカ大統領・セオドア・ルーズベルトの仲介で日露戦争の講和交渉をし、ポーツマス条約を締結・調印する日本全権に決まった時、グリフィスはアメリカに居て、1905年7月30日付けの「ニューヨーク・タイムズ」紙に寄稿し、昔の教え子の男爵・小村寿太郎全権大使の紹介記事を書いている。その記事は、その昔、おそらく大学南校・英語コースの卒業論文にでも相当したであろう英文のエッセイで、小村寿太郎が提出した10ページあまりの、小村自身の書いた自伝を紹介した部分がある。いわく、

学生時代と同様、快活で、楽しく、民主的で、仕事熱心な小村男爵は、昔からの教育により、今回の特別任務と今世紀の政治家に課せられた責務に対し、比類なき資格を備えている。その教育は、ユニークで多面的なものだった。1874年、二年間に渡る毎日の子弟関係の仕上げとして私に提出した、10ページに渡り大判用紙に書かれた彼の自伝は、各語のスペルや句読点、言い回しや文体、発想の広がりや人生観など、若干20歳の若者にしてはむしろ驚くべきものであり、この著作は、それ自体注目に値する作品になり、その多面性のため並外れた物語になっていた。付言すれば、彼の若い頃の生活は、封建時代の平均的侍を特色付ける単一な狭い標準ではなく、立体的なものだったと言えよう。

もちろんこのグリフィスのニューヨーク・タイムズ上の記述ははるかに長く、まだ多くのことを述べているが、小村の印象が如何に強かったのかの例として、ごく一部を引用した。

♦ 辞任と帰国の決断

このようにして約1年が経ったが、1873(明治6)年7月に事件が起った。明治政府の組織も発足当初から頻繁に大きく変わってきたが、1871(明治4)年9月には文部省ができ、大木喬任が初代文部卿に就任し、多くの近代的な教育制度が出来始めた。当時、アメリカや欧州を視察した岩倉使節団に文部省を代表する理事として参加して帰国した、田中不二麿(ふじまろ)が文部大輔(たいふ)として文部卿に次ぐ中心人物だった。帰国後も更に種々の教育制度改革を進めたが、その中に、明治政府が当初から使っていた日本流の「太政官布告の休日制」の原則実施があった。当時、日本のそれまでの太陰太陽暦は、1873(明治6)年1月1日を以て欧米流の太陽暦すなわちグレゴリオ暦に改められていたが、旧暦当時から続く休日習慣は、まだ毎月、1日・6日・11日・16日・21日・26日が休みと云うものだった。これはいわゆる「1・6休日制」で、日本にも昔から七曜はあったと聞くが、今日のように日曜日を休日・安息日とするいわゆる欧米キリスト教国の習慣ではなかった。これもしかし、その後の1876年(明治9)年3月12日に改められ、官公庁で土曜半休・日曜休日制が実施されることになって行く。

さて文部省からこの「1・6休日制実施」通達が大学南校にも届いたが、基本的にキリスト教の安息日である日曜も働けと云うこの通達に、真っ向から反対したのがグリフィスだった。勿論この日本流は欧米流より月間あるいは年間の休日数は多いがしかし、キリスト教に根ざすこの「日曜=安息日」の習慣は容易に変更や妥協できるものではなかったのだ。福井藩との契約でも日曜休日を認めさせているグリフィスは、英語を話す教師たちと図り、厳しく「ノー」を突きつけたようだ。雇用主の文部省にとっては、お雇い教師たちの反乱かとも映ったろう。

これが、文部大輔・田中不二麿の激しい怒りをかった。グリフィスは後の1900年の著作、「Verbeck of Japan (日本のフルベッキ), Fleming H. Revell, 1900」の中で当時の事情を、

先ず最初にやろうとした事は、外国人教師にとって休息日の日曜を廃止した事だ。これは、厳粛に約束され、契約書にも明記された事項に対する直接の違反だ。明らかに、担当する政治家とその後に隠れる文部省の役人たちは、彼らの考える計画を実現するため勝手に約束を破ったのだ。・・・(日曜は休日にすべきだというこの抗議は)日本に居たアメリカ人側からは見れば非常に丁寧に行われたが、知られている限り、すぐさま当時(文部省を)取仕切っていた人物の激しい怒りをかった。この人は自分の覚えている限り、典型的な日本の政治家で、利権屋で、かって会ったことのあるどんな生き物の中でも、すぐアメリカ人の「ボス」を思わせる程の人物だった。この典型的な政治家の取った処置は、(アメリカ人のボスと)全く良く似ていて、その直後に、そのアメリカ人教師(グリフィス自身)に対し、もう契約更新はしないという通告がなされたのだ。

と書き、怒りをあらわにしている。

グリフィスは更に続けて書き、この後それ以上こんな下っ端役人などを相手にせず、すぐ、昔ニュー・ブランズウィックで留学中のその息子の面倒を見て、日本に来てからも数回も食事を共にしていて親しい、右大臣・岩倉具視にこの出来事を簡単に連絡した。するとすぐ政府内である妥協ができたようで、文部省からグリフィスに新規の同等な地位と3年契約が伝えられた。恐らくこの新規契約は、この年にそれまでの「南校」が「開成学校」に改称され幾分システムが変わったが、それに伴うもののようだ。しかしすでに、グリフィスの心の琴線は切れてしまった。グリフィスの断りの返事に困惑した文部省は、低姿勢で再度グリフィスの希望を聞いてきた。そこで両者の話し合いで、グリフィスが予ねて旅行したいと考えていた中部・東北日本に行けるよう6ヶ月の契約延長に合意したと書いている。

筆者には実際、グリフィスが敬虔なクリスチャンとしてアメリカで受けた高等教育への誇りや、もともと新しい専門学校の「化学と物理学の教授」として福井から出て来たのだと云う、自身のプライドが強く底辺に流れていたように見える。日本でも余暇を見つけては聖書教室を開き、帰国後は牧師になった人物だから、「日曜=安息日」に教師の仕事で働く事などは、とても受け入れられなかったのだろう。普通なら、アメリカから来た一教師と雇い主の文部大輔との争いは、その勝敗は分かりきっている。しかし、とに角幸いにもこうして、1874(明治7)年夏までの日本滞在が合意できた。やはり岩倉具視の影響力が大きかったであろうが、この間の1873(明治6)年暮れには、グリフィスがラトガース時代に良く知っている、当時日本からラトガースに留学していた畠山義成が開成学校の校長として赴任して来たが、こんな事もグリフィス有利に、穏やかな帰結に向けて働く要素だったのかも知れない。更にこの時には、ラトガース大学教授のデイヴィッド・モルレーも文部省顧問として招請され1873(明治6)年6月に来日していたから、ラトガース出身者らでグリフィスを理解し間接的にサポートする環境も有ったようにも見える。

更に興味深い事実は、当時文部省がグリフィスの契約切れを念頭に探した交代教師は、静岡で教える、上記のラトガース出身のワーレン・クラークだったし、グリフィスの後任として福井に来た前述のラトガース出身のマーチン・ワイコフも、4年後には東京開成学校で教鞭を執ったと云うから、当時の日本の高等教育発展に深く絡んだ、いわば「ラトガース・コネクション」が浮かび上がる。
(以上の記述は、主に「The Mikado's Empire, W.E.Griffis」を参照したが、東京での活動・帰国までは「An American Teacher in Early Meiji Japan, E.R.Beauchamp」も参考にした。)

ラトガース・コネクション

ウィリアム・グリフィスとワーレン・クラークやマーチン・ワイコフの事跡を調べる中に必ず登場する、筆者が「ラトガース・コネクション」と呼びたい一群の人達がいる。彼等はラトガース大学で学んだアメリカ人やラトガース大学の教授陣と日本人達のつながりだが、明治新政府の首脳たちとも色濃い関係を持つので、このラトガース大学について簡単に記述する。

♦ ラトガース大学

この大学は、アメリカ合衆国の歴史の一面を体現している大学と言って良いほどアメリカ史と共にある学校の一つだ。現在はニュージャージー州立大学だが、イギリス植民地時代から続く古い大学の一つで、1766年11月10日にオランダ改革派教会の大学として、当時の英国王・ジョージ三世のシャーロット王妃に因み、「クイーンズ・カレッジ」としてニュー・ブランズウィックに創立され、初等教育機関の付属予備学校(grammar school)も併設された。以降、独立戦争当時は多くの学校関係者が戦争に参加し、独立宣言後は学校運営の経済的危機に見舞われ、二度も一時閉鎖を余儀なくされたという。そんな学校経営の経済危機を救ったのが、ジョージ・ワシントン将軍の下で独立戦争を戦いその後成功したニューヨークの慈善家・ラトガース大佐であったが、以降その名誉を称え、「ラトガース大学」と称した。更にその経済基盤を強固にしたのが、1864年に、「モリル法(Morrill Act of 1862)」による「連邦政府助成大学(land-grant college)」に認定され、農業・技術・化学の3部門を持つ、、ニュージャージー州を通じて経済的に連邦援助される「ラトガース科学学校(Rutgers Scientific School)」が追加創設され、1868年から理学士(Bachelor of Science)の卒業生を出している。またこのモリル法そのものも、その審議中に南北分裂の影響を色濃く受け、成立に反対していた南部諸州が連邦脱退した影響で突然成立した経緯がある。その後この大学の組織下にいくつもの学科や大学が増設され、1924年に総合大学・ラトガース大学として組織されたが、創立以来多くの局面でアメリカ史に大きく影響を受けて来た学校だ。

♦ 日本人の留学

この様な歴史の中で、1859(安政6)年にアメリカのオランダ改革派教会から宣教師として日本に派遣され、長崎の洋学所・済美館で英語を教えていたグイド・フルベッキ(Guido Verbeck)の紹介状を持った2人の若者が、1866(慶応2)年の秋、乗ってきた船の船長に連れられニュー・ヨークのアメリカ・オランダ改革派教会・フェリス牧師を訪ねて来た。彼らは日本を密出国してアメリカ留学に来た肥後藩出身の横井佐平太(当時、変名で伊勢佐太郎を名のる)と横井大平(だいへい、当時、変名で沼川三郎を名のる)の兄弟だったが、牧師は2人をニュー・ブランズウィックに伴い、下宿を探しラトガース大学付属予備学校に入れ親切に面倒を見た。彼ら兄弟は、日本からのラトガース留学生の第1号だった。次にまた翌年の夏、フルベッキの紹介で福井藩出身の日下部太郎がラトガース大学付属予備学校経由でラトガース大学理学部へ留学し、先に来ていた横井佐平太・大平の兄弟にも会った。幕府は下関戦争後の慶応2(1866)年5月13日、4カ国と新しく合意した「改税約書12カ条と運上目録」に調印したが、その第10条で海外渡航希望者には公儀の海外行御印章(パスポート)を発行する事に合意している。日下部は、この正規の印章・パスポートを受け渡航して来た最初の1人であると云う。

彼らはこの付属予備学校で、当時ラトガース大学生でもあったウィリアム・グリフィスからもラテン語学習などで指導を受けたが、学業に励んだ日下部太郎は大学の理学部卒業を目前に病気のため1870(明治3)年4月13日現地で亡くなった。大学側ではその成績と努力に感銘し卒業証書を発行しているが、こんな日下部に深い友情を感じたグリフィスは、当時の福井藩からの教師の求人に応え、日本に来ることにした。またグリフィスのラトガース大学の友人で級友のワーレン・クラークも、静岡藩からの教師の求人に応え後を追って来日したが、このグリフィスとクラークがここに記述したラトガース・コネクションの中心人物である。

その後、こんなラトガースに日本の多くの若者が留学したが、横井佐平太や勝小鹿のように大学付属予備学校を出てアナポリスの海軍学校に進む若者も居たし、、松村淳蔵(変名:市来勘十郎)のようにラトガース大学理学部に入った後にアナポリスに転校し卒業した人も居た。畠山義成(変名:杉浦弘蔵)はロンドン留学経由で1868年ラトガース大学理学部に入り、途中で明治政府の呼び戻しのためと聞くが、ラトガースを3年で退学し岩倉使節団と共にヨーロッパに渡った。畠山はワーレン・クラークと親交が深く、後にクラークが東京の開成学校で教鞭を取る時、畠山が学校長であったというめぐり合わせもある。畠山が校長赴任の時は、まだグリフィスも開成学校で教えていた。吉田清成(変名:永井五百助)もロンドン経由で1868年ラトガース大学理学部に入ったが、3年で退学帰国し、大蔵省に入った。1874年にアメリカ駐在全権公使になり、4年後の7月25日、懸案であった日本の関税自主権回復を盛り込んだ「吉田・エヴァーツ条約」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) に調印したが、イギリス・フランス・ドイツの反対に遭い、幻の條約に終わった。この松村、畠山、吉田は良く知られている、薩摩藩が密かにイギリスに送った15名の留学生の一部である。また日下部太郎を除けば、ラトガース大学の最初の正規卒業生は、1875(明治8)年に理学部卒業の服部一三(長州出身)であった。1884年当時農商務省御用掛であった服部は、ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場でラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)に会い、6年後に日本に来たハーンが、文部省普通学務局長になっていた服部の斡旋で島根県松江の英語教師の職を得たというエピソードも知られている。ただし小泉八雲は、ラトガースと直接の関係はない。

日本からの留学生をこんな形で受け入れ始めたアメリカ・オランダ改革派教会とラトガース大学の善意については、1872年1月にアメリカに着いた岩倉使節団もこれを良く理解し、ボストンからイギリスに出発する前日、岩倉具視と大久保利通の名前でフェリス牧師に書簡を送り、その厚意と友情に深く感謝した。

♦ 当時来日したラトガース大学関係者

この他にも、幕末から明治初期にかけてアメリカから、2代目アメリカ公使・ロバート・プルーイン(1833年卒)、横浜に来たアメリカ・オランダ改革派宣教師・ジェームス・バラ(1857年卒)、長崎に来て広運館(旧・済美館)でも英語を教えた改革派宣教師・ヘンリー・スタウト(1865年卒)、上述したウィリアム・グリフィス(1869年卒)とワーレン・クラーク(1869年組)、グリフィスの次に福井に来たマーチン・ワイコフ(1872年卒)などがラトガース大学の卒業生あるいは在籍した人で、当時日本に来て知られている人々である。

更に卒業生ではないが、ラトガース大学で数学・物理学・天文学教授だったデイヴィッド・モルレー(David Murray)が、明治6(1873)年に日本政府に招聘され、6年間にわたり文部省顧問の役職に就き、明治の教育制度と教育法整備に大いに貢献した。この人選に当たっては、1872年当時まだアメリカに滞在して居た岩倉使節団が、アメリカの著名な教育機関に対し日本の教育に関するアドバイスを求めた。これに対し非常に明確で完璧な回答を寄せたモルレー教授に対する認識が一気に高まり、来日の招請がなされた(「In Memoriam, David Murray, 1915」)。またこの招聘は畠山義成の強い推薦もあったと聞くが、モルレーは、1863年から1876年までラトガース大学の教授としてラトガース大学要覧(Catalog)に載っているから、理学コースを取った上記の日下部太郎、松村淳蔵、畠山義成、服部一三などは、このモルレー教授の講義を聴いたはずだ。来日期間中の前半の3年間、すなわち1873年から1876年までは、ラトガース大学の教授としてもまだ大学要覧に載っている。この理由は、ラトガース大学評議員会がモルレーに対し3年の休職を認めていたためである。

特にまた、日本への2代目アメリカ公使を勤めたロバート・プルーインは、1853年−1882年までラトガース大学評議員(Trustee)をも勤め、フェリス牧師の要請により他の慈善家と共に、ラトガースへの最初の留学生・横井佐平太と大平兄弟がニュー・ブランズウィックに着いてからの費用の一部も用立てている。

 


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10/15/2017, (Original since April 2011)