日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

20、ハワイへの移民

日本から米国への移民の始まり − ハワイへの移民

アメリカ合衆国がハワイ共和国を、即ち旧ハワイ王国を自治領として合衆国の一部としたのは、マッキンリー大統領時代の1898年だった。後の1993年11月23日、クリントン大統領と上下両院は、ハワイ王国の現地に住んだアメリカ人の砂糖やパイナップル生産者に当時のアメリカ公使も加担し、旧ハワイ王国の第8代・リリウオカラニ女王をクーデターで失脚させたのは誤りだった、と公式に謝罪してはいるが、現在のハワイはアメリカの第50番目の州になっている。従って、アメリカへ向けた日本移民の歴史は、以下に記す如く、当時のハワイ王国へ向けたハワイへの移民から始まるのである。アメリカ本土に向けた最初の移民は、「若松コロニー」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) を参照。

♦ ハワイの歴史: ハワイ王国 → ハワイ共和国 → 米国のハワイ準州(自治領) → 第50番目の州

レゾリューション号とディスカバリー号を率いて世界の海洋調査に出発したイギリス人のキャプテン・ジェームス・クックが、1778年1月に現在のオアフ島やカウアイ島を発見し、カウアイ島のワイメア湾に上陸し、当時クックが 「サンドウィッチ諸島」と命名した、現在のハワイ諸島の公式発見者になった事実は良く知られている。オアフ島の北海岸にも、サーフィンで有名な同じワイメア湾があるが、これとは別の地である。発見当時のハワイ諸島にはポリネシア系島民が住み、島々の部族間での争いもあったが、独自の生活様式と宗教観で外界から孤立し、西洋文明に邂逅した形跡は殆ど無かった。しかしこのキャプテン・クックの発見が基になり、急速に西洋文明の影響を受け、イギリス人やアメリカ人等の多くの白人が入り込み始めた。このサイトの最初にある 「日本に来た最初のアメリカ商船とそれに続く交易船」に書いた様に、1791(寛政3)年に紀伊の大島にやって来た「レディー・ワシントン号(船長、ジョーン・ケンドリック)」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) は、こんなハワイを中継基地点に支那との交易に関わっていた船だ。

そしてアメリカ本土からは、次々に100人以上ものプロテスタント宣教師がやって来て、ハワイの伝統的な宗教観、生活様式や社会秩序をがらりと変え、白人の経済活動の影響を強く受けた多数の島民は、伝統的に土地所有の制度も無かったから、単なる労働力になって行った。その後、これら宣教師やその子孫達はハワイ王族と結び、サトウキビから砂糖を生産する産業を影響下に置き、いわゆる「ビッグ・ファイブ」と呼ばれる業界を牛耳る白人財閥の一角を占めるに至った。この製糖産業は爆発的に拡大したが、白人の持ち込んだ伝染病に抵抗力のない島民の人口は激減し、深刻な労働力不足をきたし、ハワイ王国は当初支那から280人ほどの移民を導入した。その後支那移民が増えたがしかし、カメハメハ4世の言葉に依れば、「支那からの移民は期待された寛容さや従順さがなく、現地人に対する親近感や親和性に乏しいようだ」ったから直ぐに嫌われ、他の国をも探す羽目になったのだ("First Year" Immigrants to Hawaii, Marumoto)。そして下に書く様に、日本からハワイへの移民も模索される様になって行く。

その後ますます発展する砂糖やパイナップルを生産する白人アメリカ資本は、国王を中心にハワイ原住民の民族主義的動きが強まる中、何かと規制があるハワイ王国を亡き者にし、アメリカ合衆国に所属することを画策し始めた。初代の統一ハワイ王国を実現したカメハメハ1世は、武器など白人の力を借りてハワイ諸島を統一したが、これはまた白人の影響力を増大させる原因にもなったのだ。その後統一王国の国王が変わるにつれ、顧問や内閣に入っている白人は権力を増大させ政治・経済の実権を握った。こんな中、リリウオカラニ女王は民族主義に駆られるハワイ原住民の後押しで未承認の新憲法を発布しようとした。これに激高したアメリカ人勢力は、1893(明治26)年1月17日、アメリカのジョーン・L・スティーブンス公使まで加担したアメリカ人中心のクーデターを実行し、戦闘による流血の惨事を避けるため第8代・リリウオカラニ女王は、このクーデター派が組織したハワイ仮政府や国民に宛て 「合衆国政府がその代表者の行為を元に戻し、私を再びハワイ諸島の立憲君主として復権させるまでは、この国王権限を合衆国政府に委ねる・・・」という宣言文と共に退位を余儀なくされたのだ(「United States Public Law 103-150」, 103d Congress Joint Resolution 19, Nov. 23, 1993)。このリリウオカラニ宣言では、国王権限をクーデター派の仮政府へではなく合衆国政府に委ねたのだが、これが、「ハワイ革命」と呼ばれる出来事だった。

当時の明治政府はこれに対し、偶然1月28日、サンフランシスコからホノルルに入港した日本軍艦・金剛(コルベット)を平穏が確認されるまで現地に停泊させ、2万人も居る邦人保護の役に当たらせた。当時このクーデターに遭遇した日本の在ハワイ・藤井三郎外交事務官は早速陸奥外務大臣に1月30日付けの電報を打ち、暫定政府を造ったので承認を請うべくハワイ側の要請が来たが、本国の指示があるまでは承認する旨の回答をした。しかし将来はどうすべきか至急指示を請うと記載しているが、この時点での本国指令なしのハワイ暫定政府承認は、2万人も居る邦人に敵対する事態が起こらない様にする独自判断だった。この報告を受けた日本政府の陸奥外務大臣は、応援のため直ちに軍艦・浪速と共に外務参事官をホノルルに派遣した。また派遣軍艦・浪速や金剛が去った後、藤井外交事務官は7月10日付けで陸奥外務大臣に宛て上申書を提出し、再び日本軍艦派遣を要請している。これは、若しハワイのアメリカ併合が認められなかった場合、現地で闘争が起るかも分からず、それに備えた日本人移民の保護と、日本政府は彼らの不利益を見逃さず、日本移民の選挙権を確保する圧力にもなろう、という理由だった。この「日本移民の選挙権を確保する」というのは、このハワイ革命の6年前、1887年7月、白人の中心勢力が民間のホノルル・ライフル連隊と協同し当時のカラカウア王に銃剣を突きつけ、武力を持って承認させた修正新憲法でいわゆる「銃剣憲法」と呼ばれるが、国王の権限を大幅に制限するだけでなく、その62条でハワイ居住の全アジア人から選挙権を剥奪した事を指し、この失った選挙権を回復する圧力にもなるというものだ。日本政府はこの藤井外交事務官の要請を受け、同1893年11月、再び軍艦・浪速を、4ヵ月後その交代として軍艦・高千穂をホノルル港に派遣している。

しかし一方、当時就任したアメリカのクリーブランド大統領は、ハワイをアメリカ合衆国へ併合したいと希望するクーデター後の動きを直ぐには受け入れず、アメリカ人中心のクーデターを調査すべく調査委員を指名し、その行動の是非を問う報告書提出を指示した。そして米国上院は1894(明治27)年5月31日、「ハワイ革命への不干渉」を決議し、このためクーデターを実行して以降仮政府の姿だったアメリカ人達は同年7月4日、ハワイ共和国を組織し、サンフォード・ドールをハワイ共和国の大統領に選出した。

一方の世界ではこんな中で、本国・スペインから植民地・キューバの独立闘争への圧力が強まり、これに反対しキューバの自由と独立を求めていたアメリカの軍艦がハバナ湾で爆発沈没し、1898年4月20日、この不審な事件をきっかけにアメリカはスペインとの戦争に突入した。当時のスペイン領フィリピンのマニラ湾でも5月1日海戦が始まり、アメリカ・スペイン戦争はあっけなくアメリカの大勝に終わり、1898年12月10日平和条約が締結された。この結果アメリカはキューバを保護国とし、フィリピン、グアム、プエルトリコ等のスペイン植民地を獲得したアメリカにとっては、戦争中から太平洋におけるハワイの真珠湾海軍基地の戦略的重要性が増大した。このアメリカの真珠湾海軍基地は、1875年の「ハワイ・アメリカ互恵条約」で砂糖などのアメリカへの無税輸出と引き換えに独占使用権を手に入れたものだったが、スペインとの戦争中、当時のマッキンリー大統領は議会と連携し、ハワイ共和国の要求通りその併合を決め、自治領の準州にしたのだ。その後アメリカ議会はハワイ準州の州昇格を承認し、1959年8月21日、アイゼンハワー大統領が宣言書に調印し、アメリカ合衆国の第50番目の州に認められている。

♦ ハワイへの「元年者」移民

ハワイへの「元年者」と呼ばれる第1回目の移民は、ハワイへの移民を載せたサイオト号が明治1(1868)年4月25日に横浜を出航したが、明治政府にとっては許可無くハワイに向かった全く違法な移民だった。しかし、この内の180人は旧幕府から渡航免許を受けていた、すなわち幕府からパスポートまで発行され許可された移民だったのだ。何故こんな混乱が生じたのかは、その時ちょうど幕府が突然崩壊し明治新政府が出来た大混乱の最中だったからである。この事情については本サイトの 「ユージン・ヴァン・リードと元年者移民」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) に書いた通りだ。

同じ頃たまたま商用でサンフランシスコに来て、「ハワイに来た日本人2人が自殺したと聞くが、気候も合わず困窮するだろう」という現地新聞記事に驚いた宇和島藩士より、「ウェンリード(=ヴァン・リード)がサンドウィッチへ相送り候奴隷共、甚だ困却罷り在り候様子・・・」と明治新政府に報告が入った。このため、正式な許可も無くヴァン・リードに日本人を奴隷としてハワイ王国に連れて行かれたと怒る明治新政府は、当時の外国官副知事・寺島宗則とアメリカ公使・バン・バルケンバーグとの4月末の会談により、明治2(1869)年9月に監督正・上野敬介(景範)のハワイ派遣を正式決定し、この明治元年に3年契約でハワイに渡った、いわゆる「元年者」移民たちの中の帰国希望者40人を、政府費用でハワイから日本に連れ帰っている。

しかし総勢150人ほどもハワイに渡った中で、帰国希望者は肉体労働が出来ないと言う職人や病人などの40人のみだった。ホノルルに着いた直後の上野敬介の政府に対する12月2日付け書簡に依れば、

御国民ホノルル在留のもの共は、日々追々に旅宿へ相越し種々歎訴。然り乍ら、悉皆(しっかい)困難と申すにもこれなく・・・。

と出て来るから、当初明治政府が危惧した搾取や奴隷の様な扱いは受けて居なかった様だ(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治2年」)。上野敬介のハワイ到着に先立つ半年ほどの間に、移民を代表したという奥州石巻村出身の「富三郎」から3通の嘆願書簡が神奈川県宛てに出されているが、出航前のヴァン・リードとの約束と食い違う点も種々あったようだ。例えば、農園経営者の中には、月給の半額は年末払いにすると言い、月4ドルの賃金の全額を月末に支払わない者も居た。この問題はリーダーの富三郎を介してハワイ政府の移民評議会に挙げられ、評議会は毎月の賃金の全額支払いを各農園に指示し解決している。こんな富三郎と評議会の努力が、種々の問題を少しづつ解決していたのだ("First Year" Immigrants to Hawaii, Marumoto)。こんなハワイ側の対応を見ても、奴隷とは違うことが明らかである。

ハワイ王国へのアメリカ公使も、日本に居るバン・バルケンバーグ公使の仲介で、日本から来たばかりの使節・上野敬介に個人的な秘書をつけるなど、いろいろ仲介の労をとってくれた。ハワイ側から見れば正式なハワイ王国政府代表者の神奈川駐在総領事・ヴァン・リードだったが、明治新政府から見れば、ヴァン・リードは正式な許可無く違法な移民をサイオト号(英国籍三檣帆船・855トン)で出航させたという経緯を上野から聞き、ハワイ王国のハリス外務大臣は驚いている。しかし、日本への帰国希望者は40人と意外に少なく、全員の強制送還はハワイ政府の多大な損失になる事を考慮した上野敬介の柔軟な判断で、元年者の4分の3は自由意志でハワイに残ることに決着した。ハワイのハリス外務大臣も上野敬介から、日本政府は元年者の件を解決した後でハワイとの通商条約締結も考えているという言葉を聞き、大いに喜んだ。そして1870年1月10日付けで、

貴使節もご自身の目で確認される事と思いますが、貴国からの人達は、この王国の人民や最恵国待遇の国々の市民と同様に法律で保護され、ここの労働環境には奴隷を匂わせる如何なる気配や陰も無く、繁栄への道が開かれています。

との書簡を送っている(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治2年」)。

日本から来た「元年者」処置の交渉が整い、日本とハワイとの修好通商条約草案も合意した後、上野敬介はオアフ島の幾つかのプランテーションを実際に訪問し、元年者達の労働や待遇を見て、ハリス外務大臣の言葉に偽りの無いことを確認した。そして富三郎を正式に日本人移民の代表者 「傭夫頭取」に任命し、以降もハワイ政府との交渉役として各島の巡回を命じている。事件を解決した上野敬介一行は1870年1月20日ハワイを去り、約束通り40名の帰国者はその9日後、小型帆船のR・W・ウッド号で直接横浜に向け出航した。この帆船は3月7日、横浜に着いている。

ハワイに残ったこの元年者移民については、面白い後日談がある。1870(明治3)年11月20日付けで、ホノルル在住の傭夫頭取・富三郎から日本の外務省宛に出された申請書だ(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治3年」)。いわく、

然るに各処の御国民共の内、六十人程、何卒格別の御仁慈を以て、外国廻行諸芸業伝授の義、御許容成し下され置きたく願い奉り候。・・・差当りアメリカへ渡海職業、且は御国産の茶園養蚕等伝授望みの者これ有り、夫々下拙共(=自分共)へ引合い、前趣の如く願奉り候。

これは、ハワイでの3年の雇用契約が満期になった後は、60人程が日本に帰らずアメリカ本土に渡り、そこで雇われたり、茶園や養蚕を教えながら働きたいというものだった。これに対し外務省からは12月末、許可するのでパスポート発行のため名前や年齢などを知らせるように、と指示している。これに対し最終的に46人の名前と年齢が提出され、夫々がアメリカ本土で更に習熟したいと思われる課目を書き、「右の者共、課目の通り亜国へ航海の上、試業仕り、追て塾業の上、有難く帰朝仕りたき旨、面々申出で候」と願い出て、更に各方面で修業・習熟した後に帰国したいという、非常に前向きな意思表示をしている。これは取りも直さず、元年者移民としてハワイに渡り、3年間苦労した人達の中には、明らかに知的向上心のある人達が多かった事が良く分かるエピソードだ。
"First Year" Immigrants to Hawaii, Marumoto:「East Across the Pacific」,edited by Hilary Conroy & T. Scott Miyakawa,1972,ABC-Clio press

日本・ハワイ修好通商条約締結と官約移民

♦ 日本・ハワイ修好通商条約


官約移民の記念銅像
(ハワイのマウイ島、カフルイの町からワイルクを通り、西側のイアオ谷に
入った、ケパニワイ移民記念公園内の日系移民コーナーにある)

Image credit: © 筆者撮影

ハワイ王国政府は日本から来た使節・上野敬介との約束通り、過去に問題のあったハワイ王国の神奈川駐在総領事・ヴァン・リードを解任し、改めて日本駐在アメリカ公使のデ・ロングをハワイ王国全権公使に任命した。デ・ロングは参朝しハワイのカメハメハ王の全権委任状を提出後、日本側全権の外務卿・沢宣嘉と外務大輔・寺島宗則とハワイで上野敬介が作った条約草案を協議し、1871(明治4)年8月19日、「日本・ハワイ修好通商条約」の調印を済ませ、同日批准書交換も済ませた。

しかし日本国内ではこの10日後、「廃藩置県」という突然の大改革が行われ、秋には岩倉使節団がアメリカに向け出発するなど、誠に慌ただしい出来事が続いている。ハワイでもその後1872年12月、ハワイ国王・カメハメハ5世が死去し、あとを継いだルナリロ国王も1年と少したった1874年2月に死去してしまい、カラカウア新国王になった。この様に双方で種々国内問題に忙しかったのだろうか、その後具体的な移民の話の進展は無かったようだ。

♦ 官約移民の始まり

前述の如く、オアフ島・ホノルルの真珠湾の独占使用権をアメリカに手渡し、1875年にそれと引き換えに締結した 「ハワイ・アメリカ互恵条約」の効果で、砂糖などハワイ産品のアメリカへの無税輸出が大きく伸び始め、サトウキビの育成・収穫にも馬力が掛かり、より多くの労働力が必要になった。ハワイのカラカウア国王は1881(明治14)年3月4日、アリー・カラカウアの名前での微行(=おしのび)で、世界各国巡遊の途中日本を訪問した。微行ではあっても初めての国家君主の来日で、明治天皇と会見している。これをきっかけに、ハワイ側から熱心に日本移民の派遣が要請され始めるのだ。

その後1884年にハワイから日本へ特命全権公使・イアウケア大佐が派遣され、「ハワイ政府は、全ての日本移民をハワイ国民と同一の資格で待遇し、彼らの幸bニ安全を保護する」と言い、日本移民の派遣を正式に要請して来た。移民条約など締結していない当時の明治政府は、外務卿・井上馨の1884(明治17)年4月22日付けの松方、川村、佐々木参議宛の提議により、移民希望者とハワイ政府代理人との直接契約にすべきだとの方針を決定し、同公使に伝えた(「アジア歴史資料センター」、Ref.A03023614600)。こんなハワイ政府との雇用契約は、ハワイ政府に日本移民に関する一定の責任を課することになり、この方針が後に、日本移民を一部農園経営者の理不尽な酷使から救うことになる重要ポイントになった。そして次に書く様に、この2年後の1886(明治19)年1月28日、「布哇国渡航条約」が調印されるが、これが「官約移民」と呼ばれるゆえんである。

特命全権公使・イアウケア大佐から、こんな明治政府の移民派遣同意回答の復命を受けたカラカウア国王は、明治天皇に1884(明治17)年6月13日付けの親書を送り、

陛下は、その臣民の随意渡航の旅客となり当国に来遊せんと欲する者に許可を与え、以て当国政府の保助を受けしむるの聖意なりとの吉報を諒会するを得たり。此の恩旨たるや、即ち陛下に於いて朕及び朕が大臣併せて朕が国法を信用せられたる証拠なるを以て、深く陛下に感謝を致し、当国政府は右扶助を竭(つく)すべく、朕亦自ら力めて貴国人民の当国に来遊するものをして幸福繁栄を得せしむる事を怠らざるべし。

と、日本側の移民派遣の同意に大いに感謝した(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治17年」)。

明治政府は既にハワイ総領事・アーウィンをハワイ移住民事務局日本部代表者として受け入れていたが、こんな背景があり、1885(明治18)年1月、このアーウィンを通じたハワイ政府の移住者募集に応募した日本人男女が第1回の官約移民としてハワイに移住することになった。この応募で決まった移民達は同年1月27日に日本を出航し、男:676人、女:160人、男児:68人、女児:40人、総員944人が2月8日ホノルルに到着した。この内の過半数が、山口と広島の出身者達だったという。

♦ 移民たちの苦しみと苦情、その改善策

官約移民の第1陣が、日本で移民事務を一手に引き受けるアーウィン総領事も同行し、シティー・オブ・トーキョー号(5079トン)でホノルルに着き、夫々にハワイ政府・移住民事務局総裁との雇用契約にサインし、しかるべき雇用主に振り分けられた。その時の状況を、中村治郎・在ホノルル日本領事が1885(明治18)年3月11日付けで報告書にまとめ、外務省に提出している(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治18年」)。

これに依れば、到着後現地の人達は非常に親密で、わずか数日で夫々の職が決まったのは当地の労働力不足を反映している。移住民の導入は順調で、米もあり、苦情は少ない。ただ、東京・横浜から来て召使料理人として雇用された者は三食の割烹だけと思い込んでいたが、割烹以外の諸事に召し使われ、辞職する者たちが居た。ハワイ政府はこれを見て、次回は農民だけを募集すべく方針を変えた。今回到着した日本人移住者は、東京・横浜からの人達は洋服を着用した者もいたが、それ以外は夫々に単物・筒袖・股引・印半纏(しるしばんてん)・羽織などで、帽子を被ったり、コウモリ傘を差し白足袋をはく婦人も居た。荷物の移動には天秤棒を担いだりと実に様々だったが、現地の人達はそんな服装を意に介す風も無かった。また中村領事は、日本人は風呂を好むことをハワイ政府の理事官に告げたが、移住民事務局総裁は早速新聞告知を通じて夫々の雇い主に知らせてくれた、と順調な滑り出しを報告している。しかしこの出足の順調さに反し、たちまち多くの苦しみや苦情が続出することになる。

官約移民の第1陣がホノルルに着いた後、第2陣の990名が1885(明治18)年6月4日、山城丸(2528トン)で日本を出発し、ホノルルには6月17日に着いた。この船には移民の他に、特命を帯びた外務省派遣の井上勝之助権少書記官や、他数名の日本政府官吏も同乗していた。この井上勝之助は当時の外務卿・井上馨の甥に当たり、後に井上馨の養嗣子になる人物だが、当時法律を学ぶため8年間イギリスへ留学し、帰国後大蔵省に入省していた。この時は「大蔵権少書記官兼外務権少書記官」という肩書きだったから、この特別任務のため外務省所属にもなったように見える。以降筆者は、この井上勝之助が帰国後の明治18年8月に提出した、「布哇国派遣井上勝之助復命書」(アジア歴史資料センター、Ref.A03023615600)により記述を進める。第1回の移住者がハワイに到着の後、移民の持つ預金の取り扱いや苦情など種々の問題が在ハワイ・中村領事から日本政府に報告され、その解決のためこの井上勝之助の派遣となったようだ。


現在もサトウキビ畑が海岸まで続く、マウイ島のハイクー耕地
Image credit: © 筆者撮影

井上勝之助は先ずハワイ国王・カラカウアに謁見し、また明治天皇から送られた日本国勲一等旭日大綬章を外務大臣・ギブソンや宮内大臣・ジャードに交付した後、日本政府からの訓令を次々に結論付け、第三訓令である移民達の就業状況調査に入った。ハワイの内務大臣や司法大臣と共に、最も苦情の多いマウイ島とハワイ島視察に出かけたが、移民からの苦情は概ね、言語が通じないため重大な誤解が生じ、細かい意思疎通が出来ず、また雇い主は自己利益のみを優先すること等から発生していた。マウイ島ではパイヤ耕地とハイクー耕地で問題が多く、ハワイ島ではリッドゲート耕地だった。病気になっても医師の診察や投薬が不十分で、酷い例では医師が仮病と判定し裁判所に連行され罰金刑になった者も居た。これは裁判所で充分な通訳がなく日本人の申し立てが伝わらず、罰金または禁固の判決が出たのだ。また契約時間以上に労働を課せられたり、契約通りの子供手当てが支給されない例があった。これらはハワイ政府が雇い主に任せ切って、監督制度の無いことにも大きな原因があった。

更にまた井上勝之助がハワイに向け航海中に日本政府からの電報で指示された訓令は、日本移民の虐待に付き情報が来たが、清国人同様な虐待があり改善策を取らないならば移住民全員を引き上げると伝え、改善策を取れと言うものだった。そこで井上勝之助はハワイ国王に内見し、充分な改善策が無ければ移民中止にも至る可能性を伝え、カラカウア国王の改善策実施の確約を取り付けた。こんな背景もあり、自身の現地視察を基にし、日本人移住民事務取り扱いの専門部門を新設し、日本人通訳や巡回員を雇い、日本人医師を招聘する等7ヵ条の改善要求項目を出し、外務大臣・ギブソンと交渉し、全面的な合意を取り付けている。ハワイ政府もこんな抜本的改善策を取ったことにより、環境は改善されたようだ。

しかしここまでは上述の如く、日本からの移住民とハワイ政府移住民事務局との間で契約する契約書のみで、国家間の條約にはなっていない。従ってその保護を確実なものにするため、1886(明治19)年1月28日、「布哇国渡航条約」が調印された。これは当時の外務大臣・井上馨とハワイ代理公使兼総領事・アーウィンが全権となり調印されたものだ。特に第4条に、ハワイ政府は渡航人に対し雇主の義務を負担し、諸条款を正当誠実に履行する責任を負い、その法律で日本人渡航者を保護し、その幸福安寧を図る事。第6条に、ハワイ政府は日本語と英語の出来る監督人と通訳を応分に雇い入れ、法廷では日本人がこの通訳を無賃で使えるようにする事。第7条に、日本医師を応分に雇用し官医の資格を与え、必要な地域に住居させる事。第8条に、ハワイ政府は日本外交官や領事を自由に日本人渡航者と接触させ、契約違反の場合には、ハワイの法律や地方庁の保護請求の権利を与える事などを定めている。これらは、前述の井上勝之助とハワイ政府が合意した改善策を反映したものだ。この後引き続き、第3回目の移住渡航者・男女子供合計943名もシティー・オブ・ペキン号(5079総トン)でハワイに渡った。

♦ ホノルル在勤総領事・安藤太郎の義憤

歴史には、公開された史料だけでは如何にも分からない影の部分が多く在る事は周知の事実だが、利権の在る所に、この種の話は尽きない。さてここにも明治21(1888)年2月25日付けの、ホノルル在勤・安藤総領事から伊藤外務大臣宛の「ハワイ移民渡航費は不当に高額なるを以て、改正を要する旨意見具申の件」と題する外務省の「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治21年」に収録された史料は、こんな物の一つだ。伊藤外務大臣とは当時の内閣総理大臣・伊藤博文のことで、第1次伊藤内閣の後半にそれまで外務大臣だった井上馨が辞任し、伊藤博文が外務大臣を兼務していた時の事だ。いわく、

第4回移住民渡航費75弗の義は、布哇(ハワイ)公使既に我政府の允許を相受け、その渡航約定中へも明細記載の上渡来に及び候処、布哇政府には右の費額を極めて過大となし、各耕地雇主等にも一般不服を相唱え候に付き、遂にその約定面、75弗の文字を削除し、之に代ゆるに男子は1人前60弗、妻携帯の徒は65弗と改正相加えて、(男子1人前の)残額15弗の分に対しては、布哇公使私に移住民と相対の借用證書を相製し、追って追徴候事に治定致したる趣、承知仕り候。

と書き出し、ハワイ公使・アーウィンはもとより相当の手数料を含めているとは思うが、これが真実の必要経費なら誰から異議が出ようと事実を滅却できる筈が無い。しかしこんなに簡単に75ドルから60ドルへと数字を改定する所を見れば、この差額・15ドルは充分弁解できない額ではないのか。若しそうなら、こんな高額な金額を賎民(=移民達)に押付ける事は不都合千万だと一時は腹が立ったが、一旦日本政府も認め移民達も承諾したのだからと思い直し、嘴を挟むことはしなかった。しかしハワイ政府の外務卿と内務卿が自分に言うには、渡航費用は従来通り1人55ドルと決めてあるが、アーウィン氏はこれに反し75ドルも取ると言う。これはハワイ政府の出費にはならないが、移民が支払わねばならない金額で誠に理不尽だ。聞く所によると今回の日本郵船・和歌浦丸の移民輸送経費は、その居住地から横浜経由ホノルルまで1人合計23ドルだったというではないか、と重ねて言われましたと報告している。

安藤総領事は更に報告を続け、これに対し本官は、医師や通訳も付けなかった昔のハワイ政府の移民取り扱いを非難し、日本政府の経費増もそのためだろうと政府の立場を説明し、情報提供を感謝した。しかし自分の立場は赴任以来、日本人移民に特別な不利益が無い限りハワイ公使・アーウィンの私益は度外視してきたが、外人即ちハワイ政府の大臣達にここまで言われては、そのまま放って置く事は出来ず、今回第4回の渡航実費を「私に収支概計調製仕り候間」ご一覧下さいと言って詳細に数字を記述し報告した。そしてこの試算に基ずき、日本政府で検証して頂きたい。若しこの通りなら、アーウィンは総経費の5割もの膨大な純益を得ている事になる。これを一言すれば、「アーウィン1人の私益により、ハワイ労働市場に我が国体を汚し、我が公益を損すると申すも、敢えて過言にはこれあるまじくと存され候」と切って捨てた。そして、「不利の除くべき者は直ちにこれを排除し、以て我が人民の実益を拡張し、兼て外侮を防禦仕りたき鄙見(ひけん、=私見)に御座候」と渡航費用見直しを建言している。

これに対し後任の外務大臣になった大隈重信は、早速ハワイ公使・アーウィンと話を付けたのだろう。渡航費用男子1人に付き55ドル、女子1人20ドルという減額費用でアーウィンの第5回移民申請を4月7日に許可し、明治21年4月17日、安藤ホノルル総領事に宛てた渡航費用減額の上許可を出したという書簡、「第5回移民渡航許可通知の件」を送達している。ホノルル総領事・安藤太郎の噛み付いたこの第4回移民の渡航許可は、外務大臣・井上馨か外務大臣・伊藤博文の時に出された事は確実だが、何時、誰が、どの様な文書で許可を出したものか、あるいは外務大臣交代のドサクサに紛れてアーウィンがこんな条件を上手く潜り込ませたのか、その詳細について筆者は知らない。

しかし第6回移民については再びアーウィン公使と大隈外務大臣との再交渉があり、男子の費用を55ドルから65ドルに増額してはいるが、安藤総領事が噛み付いたように、第4回の75ドルはいかにも高かった。このハワイ弁理公使・ロバート・W・アーウィンについては、官約移民を成功させ、日本・ハワイ間の外交に貢献したとして何回も明治政府から顕彰され、勲一等瑞宝章まで受賞したという好い評価もあるが、このホノルル在勤総領事・安藤太郎の報告書を読む限り、零細日本移民を獲物にしようとした食わせ者の一面もあったことは否定できないだろう。

♦ 成功と見なされる官約移民

この様にして公式な移民環境が整い、1885年2月の第1回の官約移民以来、1894年6月にハワイに着いた第26回目の最後の官約移民までの10年間に、約2万9千人もの日本人の成人契約移民がハワイに渡っている(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治35年」)。この移民環境の整備はしかし、労働環境の改善とは全く別ものではあったが、両国政府間の合意に基づく取り決めであり、前述の如く1886(明治19)年の「布哇国渡航条約」に定められた日本人の移民監督官や医師までも手当てされていたから、それなりに管理・保護された状態ではあったのだ。

ところでこのハワイ政府に雇われた上述の日本人の移民監督官については、興味深い廻り合わせがある。このサイトの「13、福井のお雇い米国人」や、「17、特派員、エドワード・H・ハウス (その1)」で登場させた通称「トミー」こと立石斧次郎が、その後1887(明治20)年2月から2年間、移民監督官として家族でハワイに派遣されたという。この立石斧次郎は、1854(嘉永7)年冬に幕府がアメリカに派遣した始めての使節団に参加し、通訳としてアメリカに来たが、その若く快活で率直な態度で、たちまちアメリカ人の人気者になったという人だった。

こんな官約移民を、その後ハワイ革命以後の民間移民会社の取り扱った移民や、次に本サイトで記述したいと思う直接アメリカ本土へ渡った自由移民などと比べれば、筆者には、労働環境は厳しくても、非常に幸運な時期だったように思われる。

ハワイ向け民間移民会社取り扱いの移民

♦ 日本人の参政権回復問題

ハワイ国内では、1893(明治26)年1月17日の革命武装蜂起と、リリウオカラニ女王の退位宣言で混乱するハワイ仮政府の状況を見た日本人移民の中の有志達は、同年3月15日、日本政府に宛てた 「参政権享有に関する建白書」をホノルル駐在日本国総領事に提出した。5年半ほど昔の憲法改正、即ち上述した「銃剣憲法改正」で失った参政権を取り戻すには千載一遇の好機だから、日本政府も応援して欲しいというものだ。合計68人の署名があるが、21人が「士族」と書いている。いわく、

ハワイの人口は凡そ9万5千人で、その内日本人は2万人だが、この土地で政治経済の実権を握る欧米人は1万2千人である。この全人口の9分の1強でしかない欧米人が、「人の土は踏み、人の国を犯し、その勢力の猖獗(しょうけつ、=猛威を振う)なる、恰も無人の鏡を蹂躙(じゅうりん)するが如き、・・・殊に米人の如きは、僅かに2千人の衆を以て縦横この国土を左右し、・・・。翻って我日本人の地位を見るに、愛国の衷情は生等(=自分達)をして転た(うたた、=益々)慨嘆、措く能(おくあた)わざらしめ、敢て尊厳をも顧みず、聊か微意を陳じて内閣諸公の英断に訴えんと欲す。・・・」。

これはまだ長く続く建白書だが、欧米人同様の公権を手に入れ、政権に参加し、我が日本民族がその価値を世界に発揚すべき千載一遇の好機会である事を述べている(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治26年」)。

この建白書と殆ど同じ頃の3月18日、陸奥外務大臣は藤井総領事宛の書簡で、ハワイの現状がどの様な形にしろ、収まる時は憲法改正があるはずだから、日本人もまた欧米人と同様な権利特典を憲法に規定させる事は最も緊要である。先日アーウィン公使にも会ってその尽力を確認したが、貴官もこの点に配慮し、機会到来の節は充分尽力するようにと指示した。更に11月22日の書簡では、アーウィン公使の一時帰国に当たり会談したが、公使は、ハワイで日本人に参政権を与えるか否かは新しい立法府の憲法発議に掛かっており、更に日本政府には半年の猶予を要請したい。それまでは、是非日本政府は(ハワイ向け移民の)渡航条約破棄などしないように、と頼んできた。そこで、ハワイの新旧政府の決着が付いた時点では(日本人に欧米人同様の参政権を与える)確答が必要で、それ無しには渡航条約の破棄も在り得ると述べてある、との指示も出した。ハワイ政府にはこの様に、官約移民の廃止も視野に入れ、ハワイに行った日本人の参政権獲得に向けた政治圧力をかけていたのだ。

♦ 民間移民斡旋会社規制法  「勅令第42号、移民保護規則」

上述のようにハワイ王国に向けた移民は官約移民として行われて来たが、その他幾つかの外国に向かう移民は、民間の移民斡旋会社が手掛け始めていた。例えば日本最初の移民斡旋会社になった、日本郵船会舎(現・日本郵船株式会社)の2代目社長・吉川泰次郎と事業家・佐久間貞一が創立した東京の日本吉佐移民合名会社は、明治25(1892)年1月、仏領・ニユーカレドニヤ島のニッケル鉱山に約600人の移民を九州から広島丸で送り出している(「佐久間貞一小伝」、豊原又男、秀英舎庭契会、明治37年11月)。しかしこの移民は、現場の困難を訴えた移民達の騒動に発展し、憲兵が出動するほどの事態になり、結局、病気その他の理由で約100名を残し500名が帰国する事態になった。当時これが日本の衆議院で問題になり、新聞にも取り上げられ、当時の外務大臣・陸奥宗光は少なからず苦慮する事態になった。この斡旋会社は更に明治25(1892)年10月、オーストラリアのクイーンズランド植民地でサトウキビ耕作に従事する広島県の移民50人を送り出し、その成功により明治29(1896)年6月までに合計1千495人を派遣し、その他南太平洋のフィジー諸島やカリブ海のグアドループ島等にも移民を派遣している。

この様な背景があり、明治27(1894)年2月13日、当時の内務大臣・井上馨と外務大臣・陸奥宗光が内閣総理大臣・伊藤博文宛に、

近来種々の名義を以て海外に渡航する者著しく増加し、随いて、是等渡航者を周旋し亦は募集する事を営業となす者、亦少なからず。・・・之が為に生ずる弊害を防止し、・・・殊に米国の如きは此等移民の陸続渡航するが為に、契約労働條例を厳重に施行するのみならず、往々本邦移民の放逐を唱える者あり。・・・この際移民を保護し、並に移民取扱いを営業となす者を取締るが為、相当の規則を設けん事を欲し、本大臣等協議の上、別紙移民保護規則勅令案を具し、至急閣議を請う。

と発議し、同年4月12日、勅令第42号・移民保護規則の公布に至った( 「国立公文書館・ディジタルアーカイブ」、[請求番号] 本館-2A-011-00・類00685100)。これは即ち、民間移民斡旋業者の取り扱いを規定し、規則を設けることでその活動が法的に公認されたわけだ。これは更にその2年後、当時の情勢を受け「移民保護法」として取締り・罰則が追加修正強化され、施行された。

♦ ハワイ向けの官約移民から民間斡旋移民へ

革命でリリウオカラニ女王を退位に追い込んだアメリカ人達は、早急にアメリカ合衆国への併合を求めていた。アメリカ本土では、当時既に1882(明治15)年に「中国人排斥法」が出来ていたが、1891(明治24)年のサンフランシスコでは日本人の売春容疑者が新聞沙汰になったり、「合衆国予約労働者移住禁止条例」が出来たり、1893(明治26)年にはオレゴン州で、白人に代えて雇われた日本人線路工夫が白人の集団襲撃を受けたりと、徐々に日本人移住民制限法をも求める声が高まって来た。こんな状況を知るハワイ仮政府では、自分達の保身のためにも、またアメリカ併合のマイナス要因にもなりかねない日本人を含むアジア人への参政権付与は、避けるに越したことは無かったのだ。

以上述べたように、日本国内では「移民保護規則」が出来て民間移民斡旋業者の活動が活発になり、一方のハワイでは、日本人の参政権復活の問題は宙に浮いたまま実現されなかった。こんな中で、ハワイ仮政府を運営しながらアメリカ政府や政界に政治工作を続ける白人合併派勢力は、クリーブランド合衆国大統領が合併に同意せず、またアメリカ上院議会の1894(明治27)年5月31日の「ハワイ不干渉」決議を行った状況を見て、7月4日仮政府をやめ、大統領にサンフォード・ドールを選び、新憲法を発布し、「ハワイ共和国」の建国を宣言した。この新憲法下で選挙権を得るには、その第74条で、帰化を含む共和国民の20才以上の男子で、憲法や法律を遵守し王政復古には加担しないという宣誓を行い、税金を払うべき一定の財産を持ち、英語かハワイ語でものわかり良く話し、読み書き出来る事、という条件をつけた。従って財産もなく王政を熱望する大多数のハワイ人や、日本人移民を含めほとんどのアジア人は政治に参加できなかった。これで、紛れもないアメリカ人中心の「白人共和国」が出来あがったのだ。

こんな経緯で成立した新ハワイ共和国の建国により、日本政府が8年半前に「布哇国渡航条約」を締結した相手国のハワイ王国が消滅し、別政府の共和国になった訳だ。従って、同年・明治27年6月にホノルルに着いた第26回目の官約移民・1千524人を最後に、それ以降の官約移民としては当然政府は許可を出せなかったのだ。これに換り、おそらくは同年4月12日の「勅令第42号・移民保護規則」の公布に触発され、活動が活発化したであろう糸半商会の送り出した510人の契約移民や、小倉商会の送り出した819人の契約移民と自由移民がホノルルに着いている。これ以降は、民間斡旋会社がハワイ移民を取り仕切る事になったのだ。

ハワイ併合後の状況

♦ ハワイ共和国のアメリカ併合と移民環境の変化


1901年に操業され現在も砂糖製造をする、マウイ島プウネネにある砂糖工場。
ハワイ最後のこの工場は、周りのサトウキビ畑と共に2016年末の閉鎖が決まり、
Alexander & Baldwin社の会長・Stanley Kuriyama氏により発表された。
(向かい側のこの写真撮影場所には砂糖博物館がある)

Image credit: © 2013年11月、筆者撮影

新共和国の中心をなすハワイ政府要人達もそれを支持する主要産業である砂糖製造業界も、移民による労働力供給が無ければ立ち行かない訳だから、民間斡旋業者が送り込む日系移民は増え続けた。一方では同時に、新共和国政府はアメリカへの併合を諦めた訳ではなかったから、日本が日清戦争に勝利するとこの併合派は、ハワイで就業する日本人の多さと日本軍事力の実力を結び付け、アメリカに圧力を掛け始めた。アメリカ駐在栗野公使から、1895(明治28)年12月3日付けで外務大臣宛にこんな報告が上がっている。いわく、

彼らは我国日の出の勢いと、該島に居留する我が国民の多数なるに口を藉(か)り、我国を目して領土侵略の方針を執り居るものの如くに見做し、米国に於いて布哇を併合せざれば、我国これを押領するに至るべしとの風説を伝播するに至り候。

そして自身では、ハワイからのこんな通信は合併論者の捏造だ、と各新聞に記載していますと報告した(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治28年」)。上述の如くこの後、ハワイの太平洋に於ける戦略的重要さからアメリカ政府と議会は、アメリカ・スペイン戦争の最中の1898(明治31)年7月、ハワイの併合を決めた。そして、この併合がその後の日本からハワイへの移民事業に大きな影響を与えることになったのだ。筆者はまた、後日、この併合と1910年前後のアメリカ本土への日本人移民規制法が、太平洋戦争の遠因の一つになったとも思っている。

アメリカ上下両院で審議していた、併合後のハワイに対する「ハワイ施政法案」が1900(明治33)年4月30日に確定し、大統領が署名し発布・施行に至った。これは、基本的にアメリカ合衆国の全ての法律を併合したハワイ準州にも適用するというもので、貿易、税金や関税、契約労働者禁止などハワイの日系移民に深く関わるものだった。特に、1898(明治31)年8月12日以降に交わされた労働契約は無効になり、契約労働者への刑罰を廃止し、その代わり民事訴訟による損害賠償の制裁を加える等の内容だったから、移民形式がそれまでの「契約移民」から完全な「自由移民」になるものだった。勿論これは斡旋業者が無くなるのではなかったが、良きにしろ悪しきにしろ、長年行われてきた「契約労働」が無くなった、或いは遠からず無くなる事だった。

♦ ハワイ移民の労働内容の多様化と統計数字

ここに、ハワイ併合から4年後の1902(明治35)年11月22日付けでホノルル総領事館から出された、当時の移民統計数字がある。オアフ島、マウイ島、ハワイ島、カウワイ島といった島々の主要な耕地で働く日系移民数は3万1千620人で、その他日雇いなど数字を正確に掴めない日系移民は2万人以上、と報告している。従って当時のハワイには、合計5万数千人の日系移民が居たのだ。

更に当時のサトウキビ農場の労働賃金を報告しているが、日曜休日・1日10時間労働・家屋薪水は雇い主持ちで、男・1ヶ月:17ドル〜19ドル、女・1ヶ月:12ドル、日曜以外の病気や事故での休みは日割りで月給より控除、というものだった。また農場の日雇い労働者も居たが、これは家屋薪水は雇い主持ちで1日・1ドルが相場だが、一定の場所に長居はせず方々の耕地へ移転遍歴するのが普通だったという。

また併合後の新労働法により契約労働は出来なくなったから、耕主と利益を分配する一種の小作が行われ始めた。これは耕主がサトウキビ苗、肥料や耕作機械を準備し、移民は16ヶ月から20ヶ月に渡る一耕作期間の労働を請け負い、最終収穫高の一定割合を耕主と分け合う形式だった。これは砂糖相場により収入が変化するが、概ね1ヶ月・14ドルから28ドル位だったという。

また収穫したサトウキビを搾り、煮詰め、砂糖にする工程にも機械工として従事する人も居て、その機械操作の熟練度により、1ヶ月・12ドルから50ドル・60ドルの高収入者まで居たという。

更にそんな中で、教育が有ったり経験が豊富だったりして英語も話せる人達の何人かは、労働者の監督になる人も現れ、1ヶ月の給料が40ドルから60ドル、70ドルという高収入の人も居たという。

ハワイ併合後は明らかにこんな労働内容の多様化が急速に進んだようだが、サトウキビ耕地で働くだけでなく、ホノルル市内での職業に付く人たちも現れている。園丁、家僕、家政婦などは食料雇い主負担で1週間の賃金が2ドル50セントから4ドル。また料理人は同様に1週間の賃金が5ドルから7ドルだという。また日雇い人足は1日・1ドルから1ドル50セントだという。この様に、明治元年以来ハワイに渡った多くの移民達が居たが、最初の契約労働移民から、ハワイ併合後はこの明治35年の統計に現れるように、多くの自由な、自己責任で生活する職業の多様化が見られるに至ったのだ。この傾向は益々強くなり、子弟の教育に投資する日系人達の職業は、世代が進むに連れ白人と同等になって行く。(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治35年」)。

 


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10/15/2017, (Original since May 2013)