日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

5、開港と攘夷行動

神奈川開港と外交官の江戸駐在

♦ 神奈川を開くか、横浜を開くか

前章、「初めての遣米使節」から読み続ける読者には少し後戻りする記述になる。安政5年に調印したアメリカ、イギリス、ロシア、オランダ、フランスの5カ国との修好通商条約は、ハリスが条約交渉中に井上信濃守などに再三云っていたように、アメリカ条約を見本にしたほぼ横並びの内容になった。しかし、開港場所について5カ国条約の日本文を細かく読めば、例えば第3条にある神奈川開港の記述は各国で少しずつ違いがある。これはただし、オランダ条約だけは第2条に書いてあるが、アメリカ、オランダ、ロシアは「神奈川港」を開き、イギリスは「神奈川港と町」を、フランスは「神奈川港と村」を開くことになっている。開港日については、イギリスとロシアが1859(安政6)年7月1日、アメリカとオランダが7月4日、フランスは8月15日である。

アメリカの7月4日は、ハリスが特にアメリカの独立記念日を意識し選んだもので、「愛国心」を強調したかったのだろう。独立後まだ80数年しか経っていない新興国家のアメリカが、歴史あるヨーロッパ勢に先んじて、最初に日本を開国したという誇りの象徴であったのだ。


東海道名所之内横浜風景、五雲亭貞秀画印、万延元年3月
Image credit: 東京大学史料編纂所所蔵

日本とアメリカの通商条約が安政5(1858)年6月19日に調印され、ハリスは下田に帰ったが、日本側は早速開港地の詳細検討に入り、外国奉行・永井玄蕃頭(げんばのかみ)や岩瀬肥後守、井上信濃守などが8月4日に現地を調査した。大老・井伊直弼との最終調整で井伊は、交通量の多い東海道沿いの神奈川に夷人が居留する事は問題があると主張したが、条約をハリスと交渉した外国奉行たちは、その交渉過程から、今さら横浜とはいえないと主張した。これは、ハリスとの条約交渉中ハリスが開港地を 「神奈川、横浜を開く」としたいと交渉したのに対し、日本側は強引に横浜は神奈川に含まれる土地ではないと言って、「神奈川を開く」としてしまっていたのだ。従って今さら、「神奈川は不都合だから横浜にする」とは言えないというわけだ。しかし結局は、条約交渉中にハリスが品川開港を主張したとき、海が遠浅だということで納得した経緯もあり、今回も井伊直弼の主張通りハリスに、神奈川は遠浅だからという理由で横浜にする同意を求めることにした。しかしこれが、日本側とハリスとで後々までもめることになる。

ハリスは貿易施設を造る開港場所特定のため、12月18日幕府派遣の蟠龍丸に乗り下田から神奈川にやって来た。日本側からも外国奉行・永井玄蕃頭、同・井上信濃守、同・堀織部正(おりべのかみ)、目付・加藤正三郎なども現場に出向き、3日ほどかけ一帯を見分し、細部決定の交渉に入ることに合意した。

翌年2月1日からこの実地検分情報をもとに永井と井上がハリスと神奈川で会談し、永井、井上や岩瀬らが大老・井伊と調整・合意した通り、「神奈川は遠浅だから」と横浜村に貿易用の港湾設備や居留地を造るべくハリスの同意を求めた。ハリスは、横浜は船付きの便利も良く建物を建てるにも良い場所だが、条約には「神奈川を開く」となっている。陸路で横浜から神奈川まで2里もあり、途中に山や川があって往来に難渋するから同意できないと頑強に拒否した。日本側は、良い道を付け、切り通しを作り、川には頑丈な橋を架けると約束したが、とにかくハリスは、横浜は東海道沿いでないからだめだとはねつけた。そこで日本側は、箱館や長崎には東海道のような街道はないと詰め寄るとハリスは、箱館や長崎は日本の端にあるからかまわない。しかし日本の中心にある神奈川は箱館や長崎と訳が違い、東海道沿い以外は考えられないと横浜を拒否した。こんな押し問答の交渉が延々と6回も続いたが遂に決着がつかず、2月14日の交渉で、開港日になったらまた話し合おうと物別れに終わった。上述の如く、条約交渉中に日本側に押し切られた神奈川・横浜問題で、今度はハリスが日本側の言い出した横浜を頑強に拒否し、その仇を討った格好になったわけだ。

結果的に、この交渉延期は日本側にとってまたとないチャンスだった。ハリスとの合意が出来ていなくとも直ちに横浜に運上所を作り、波止場を作り、商家を作り、立派な道を付け、頑丈な橋も架け、外国人向けのお茶屋まで作り始めた。開港日までのたった3ヶ月足らずで、貿易の町、横浜が突然出現してしまったのだ。幕府のやることで、これほど素早かったことは他にあまり例が無さそうである。


神奈川の丘の上の、アメリカ領事館・本覚寺山門
Image credit: 筆者撮影

日本側が東海道から少し離れた横浜に港湾設備と運上所や商家を建て始め、外国人居留地区も指定し、3ヶ月足らずで「貿易地横浜」が出現し始めると、安政6(1859)年6月1日公使に昇格し上海から神奈川に戻って来たハリスは大いに不満をつのらせた。そして日米修好通商条約のみならず、この日英通商条約にある「神奈川港と町を開く」という記述に照らしても違約であると、イギリスとの条約まで持ち出して反対し幕府に迫った。アメリカと日本との条約中に、イギリスやフランスのように「神奈川港と町を開く」としなかったことを後悔したのかもしれない。ハリスやオールコックといった駐日公使たちは一緒になって、条約に神奈川と記述されているから、横浜に設備や町を造り貿易港にすることは条約違反だとその都度幕府に抗議した。

たまりかねた幕府も一応譲歩し、神奈川の町に公使館や商館を建てる地域を割り付けた。しかし現実問題として、日本側が言った様に遠浅の神奈川港には大型の船が近寄れず、早々に商館を横浜に建ててしまった各国の商人たちは誰も横浜から動かなかったから、さすがのハリスやオールコックにも打つ手がなかった。アメリカ商人たちの中には「神奈川と横浜が開港されたと考えれば何も問題ないではないか」、とさえ云う人たちも居たくらいだった。

江戸に近い横浜は港への出入が容易で、幕府の準備した機能にも恵まれ、たちまち貿易主要港になる。アメリカやイギリスの商人たちは、早速幕府の造った波止場や運上所に接した海岸に沿って土地を求め、倉庫や事務所を造り、日本町と一体となり貿易の町に変身した。アメリカは日本が横浜に建てていた領事館用の建物を嫌い、ドール領事の選定で神奈川の横浜港を見下ろす丘の上の本覚寺を借りて領事館を開いたが、意地でも横浜には行かないぞというハリス公使とドール領事の強い意思を表示しているかのようだった。

♦ 公使の江戸駐在と他の開港場

日米修好通商条約の第1条に、外交官すなわち公使などの江戸駐在が明記されている。この第1条は唯一といって良いほど、公平に平等に書かれた条項である。すなわち、日本政府が任命する役人をワシントンに駐在させ、アメリカ国内の旅行も自由である。アメリカ政府も江戸に駐在する外交官を任命し、日本の各開港地に領事を置き、外交官あるいは総領事は職務上日本国内の旅行は自由である、という双方向性のあるものだ。

ハリスの上府と将軍謁見の要求と共に、外国外交官の江戸駐在は、ハリスから通商条約原案が出されると日本国内で最も反対の大きかった事項の一つである。とにかく江戸や京都といった中枢都市に夷人が入ってくる事は、「人心の折り合い」から最も避けたいことの一つだった。条約交渉中の井上や岩瀬に、日本は人心の折り合い上、全てを急がず「漸」を以って臨むと云わせたものだ。皆が理解を示すまでは、急いで江戸に夷人を駐在させないという意味だ。日本側のこの論理を切り崩し外交官の江戸駐在を認めさせるため、アメリカのワシントンにも日本人を駐在させるから、江戸にもアメリカ人を置かせるという決着だった。

 
東京都港区元麻布1丁目のアメリカ公使館を置いた善福寺の本堂と境内のタウンゼント・ハリス記念碑
Image credit: 筆者撮影

この様に、とにかく外国公使を江戸に駐在させる基本合意はできたが、何時から駐在を許すかで交渉は難航した。安政4(1858)年12月12日の蕃書調所での交渉で、一刻も早くと迫るハリスに、井上や岩瀬は少なくとも3年後でなければ人心は折り合わないと粘った。ハリスは、3年後などとは不誠実極まりない言い方だ。単に時間を稼ぐだけで、人心の折り合いなどとは程遠い。やはり日本人は1日も早く外国人を見て、それに慣れることが先決だとまくし立てた。

井上と岩瀬は、では3年後と條約に明記しなくとも「貴殿の手心で延ばせないだろうか」と、典型的な日本流で決着を図ろうと試みた。ハリスは、「では1861年1月以前には赴任しないよう自国政府に書き送ります。信濃守様ご承知の如く、私の言に違約はありません」と請合った。しかし実際は、それからたった1年半後の安政6(1859)年6月1日、ハリス自身が公使に昇格して神奈川に戻って来た。これを知った老中・間部(まなべ)下総守がハリスに、公使派遣時期について条約交渉時と約束が大幅に違うが、その違反理由を知りたいと書簡を送った。ハリスは「その件は、1年以上も前に約束通り私が書面に認めワシントンに送ってあります。我が政府がなぜ公使を早く送ったのか、私には理由は分からない。條約も整い開港時期が来たので、公使が居なくては差し支えるとの判断からでしょう」と返答した。これはしかし、自分自身は約束道り書簡をアメリカ政府に送っているから少しも約束を違えていませんよ、と言ったわけだ。もともと正規の外交官教育も無いハリスからさえこの通り手玉に取られた当時の幕閣や交渉委員には、手も足も出ない外交の世界だったようだ。ハリスは公使として赴任すると、幕府から江戸府内の麻布に善福寺を借り受け、アメリカ公使館とした。

第3条には、下田、箱館、神奈川、長崎に続く開港場を1860年1月1日から新潟、1863年1月1日から兵庫と定め、開市場を1862年1月1日から江戸、1863年1月1日から大阪と定めた。そもそも、下田は不便だからもっと便利な場所で交易したいというハリスの申し立てで、老中・堀田正睦(まさよし)が検討の約束をしていたから、條約には1859年7月4日に神奈川を開港しその6ヵ月後に下田を閉じる合意になっているが、各開港場にはアメリカ人の居留を認めた。井上や岩瀬はハリスとの交渉時、やっとの思いで京都に近い大阪や兵庫の開市や開港時期を「漸を以って」と交渉時点から5年も先に引き延ばしたが、それでも人心は簡単に折り合わず、この江戸、兵庫、大阪の開港・開市を攘夷運動の顕在化と共に延期交渉をせざるを得なくなる。それどころか、朝廷を初めとしますます攘夷の気風が蔓延したのだ。

♦ 開港場の境界線

開港場にアメリカ人の居留を認めたからには、彼らが土地を借り、家や事務所、倉庫などを建てることにも合意し、第7条に居留する外国人が勝手に出歩ける区域の設定もなされた。基本的には、ペリー提督と結んだ和親條約にある1日で行ける距離の7里を念頭に、居留者は長期滞在者ということで10里までに落ち着いた。すなわち神奈川からは、江戸方面の北東にかけては10里に満たない5里ほどであるが、六郷川筋(現在の多摩川)まで、その他へは10里まで、すなわち北西へはほぼ八王子辺りまで、南西へは小田原の手前の酒匂川(さかわがわ)までになる。箱館は各方面へ10里まで。兵庫については、京都から10里の境以内へのアメリカ人の侵入は禁止され、その他へは兵庫から10里までと決まった。ただし短期滞在になる船乗りなどは大阪への立ち入り禁止に合意した。京都御所から大阪城までの直線距離はほぼ10里だから、長期居留の商人であっても大阪から京都に向かう淀川沿いにはほとんど遡れない規定だ。長崎は公領、すなわち幕府領のみと合意した。

開港してからは、この境界規則に従い多くの外国人が自由に出歩くことになったが、横浜近辺では川崎大師、金沢八景、鎌倉の大仏、江ノ島、藤沢の遊行(ゆぎょう)寺などが外国人の人気スポットになった。

また1854年に来たペリー艦隊は、ジェームス・モロー博士を中心に多くの動植物標本を収集してアメリカに紹介したが、特に横浜、長崎、箱館が開港されるやアメリカやヨーロッパで日本の珍しい植物収集の人気が上がり、アメリカの商社・ウォルシュ商会のジョージ・ホール博士、イギリス人のジョン・ヴィーチやロバート・フォーチュンなどの人々の収集が良く知られている。これら収集家は、アメリカやヨーロッパには無い花や実をつける樹木、潅木、シダ類、花の球根などを求め、横浜、長崎、箱館の郊外までも出かけている。例えば、ジョージ・ホール博士が日本で収集しアメリカに送ったとされる、日本の野山に自生する甘い香りのスイカズラ (Lonicera japonica)は、今ではアメリカ各地に広く見られるようになった植物の一例である。また上述したペリー艦隊所属のジェームス・モロー博士も、同属で良く似た花、キンギンボク (Lonicera morrowii)を箱館で採集しているが、偶然とは言え、それだけアメリカ人の目を引く種類の花だったのだろう。

しかし時として、このように外出する外国人が被害者になる事件が起きた。次の「攘夷殺人事件」の項で書くが、神奈川や横浜から比較的近い川崎大師や鎌倉の大仏など外国人に人気の高い名所に行って殺害の難に合う不幸な人達が出た。これが大きな外交問題にまで発展する。

♦ 早速横浜にやって来た商人や宣教師たち

横浜が開港されると一番乗りでやって来た商人は、アメリカ公使・ハリスにより横浜領事に任命されたイーベン・ドールだ。ドールはハリス公使に見込まれ横浜領事として上海からハリスと一緒に横浜に来たが、同時にオーガスティン・ハード商会の横浜の代表者だった。ハリス自身も日本総領事として下田に来る前は、商人として支那に居る時ニンポー領事をしていたが、当事のアメリカ政府は能力と信用ある商人を各地の領事に任用したのだ。未だ小規模な貿易港に高級取りの官吏を本国から派遣しなくとも、現地で活躍するアメリカ商人を領事に任用すれば、彼らは商取引も現地事情も熟知しているから政府にも都合がよく実利があったのだろう。いかにもアメリカ的合理主義だ。

ドールは、横浜に着き神奈川の高台にアメリカ領事館を開設し国旗を掲揚するや、早速オーガスティン・ハード商会から派遣され、領事館の書記官にも採用したユージン・バン・リードや通訳のジョセフ・ヒコを使って、ナタネ油、ロウ、昆布、スルメ、アワビ、ナマコ等を買い集めさせ、オーガスティン・ハード商会派遣の商船・ワンダラー号(176トン)に積み込んでいる。この船がおそらく開港直後の横浜に入港した商船の第1号だろうが、横浜のアメリカ領事・ドールが抜け目のない商人だったのか香港のハード商会の本社が熱心だったのか、とにかく素早いアメリカ商人の動きだった。その後もこのワンダラー号は、頻繁に横浜、長崎、支那を往復しているのが目撃されている。

このオーガスティン・ハード商会に負けていないのがウォルシュ商会だった。ジョーン・ウォルシュが支那から長崎に来て開港と同時に商売を始めたが、ハリスにより初代のアメリカ長崎領事に任命されている。 ウォルシュ商会の横浜代表者はジョージ・ホール博士だったが、横浜の可能性をいち早くつかみ、真っ先に幕府の用意した外人居留地の2番分譲地の権利を得てレンガ造りの立派な商館を立て始めた。

冒険心に満ちたホール博士はハーバード大学医学部を出て医者になり、1846年に上海に向い、上海では名の知れた医者だった。しかし8年後に貿易商に転じ、支那や日本の珍しい植物収集にも熱心で、医者より貿易で資産を増やした人だ。筆者はホール博士が横浜に来た日にちをまだ知らないが、横浜が開港した年の1859(安政6)年12月初めには既にウォルシュ商会が立派なレンガ造りの商館を建築中だったから、横浜開港と時を同じくして上海から来たのだろう。ジョーン・ウォルシュの兄のトーマスも横浜に来て、横浜の業績が上がり始めた。ホール博士は、ウォルシュ商会の敷地内に日本国内から収集した珍しい植物を植え、船での出荷に備えた植物園を造っていたから、上述のロバート・フォーチュンなども一時的に植物の保管を依頼している。1862(文久2)年にホール博士がアメリカに帰国するが、その後任にホール博士の親しい友人で、1859年11月2日にアメリカからニューヨーク・トリビューン紙の特派員として横浜に来て住んでいたフランシス・ホールがウォルシュ商会に参加し、パートナーとして出資をし、「ウォルシュ・ホール商会」と新しい社名になった。ジョージ・ホール博士とフランシス・ホールは何の親戚関係にもないが、同じ「ホール」姓が相次いで同じ商社に関わり、商社名もウォルシュ商会からウォルシュ・ホール商会になったから、時として幾つかの歴史記述の中に混同して出てくるが、2人は全くの別人であり、兄弟でもない。

次に香港に本社を置くイギリスのジャーディーン・マセソン商会が1番分譲地の権利を手に入れ、デント商会が4番と5番を手に入れた。この様に外国商人の中でも資金力のあるアメリカとイギリスの進出が顕著だった。


当時ヘップバーン博士夫妻の住んでいた
横浜市神奈川区神奈川本町の現在の成仏寺

Image credit: 筆者撮影

商人の進出もこの様に活発だったが、各国の教会も新しく開港された日本での布教に熱心だった。早々とやって来たのは、横浜開港後3ヶ月半あまり後の1859年10月18日、日本語のローマ字表記の標準化に尽力し「ヘボン式」ローマ字として知られ、「ヘボン博士」として日本人に親しまれたアメリカ長老派教会宣教師・ヘップバーン博士だ。当時の日本人は眼病を病む人々が多かったらしく、博士に診てもらえばたちどころに治ったという。博士夫妻は当初、神奈川の成仏寺に住んだ。

続いて来たのは、上述のフランシス・ホールが住んでいた同じ町、ニューヨーク州エルマイラの町にエルマイラ大学を造り、米国オランダ改革派教会から派遣され、ホールと同じ船で横浜に着いたサミュエル・ブラウン牧師、そして同じ教会派遣のデュエイン・シモンズ医師だ。横浜に着いたのは、ヘップバーンに遅れること僅か2週間だった。

その後、ヘップバーン博士は神奈川で英学「ヘボン塾」を開き、ブラウン師も横浜で神学「ブラウン塾」を開いた。これらの学校は明治になって統合され、明治学院の基礎になっている。シモンズ医師は間もなく教会から独立し、個人医師として横浜で開業したが、後に神奈川県の医療発展に貢献し、東京大学の前身・大学東校や慶応義塾医学所でも講義を行い、日本の医学発展に大きく貢献した。この様に、開港直後の日本に来たこれら教会関係者は、夫々の道で日本の教育、文化、医療の発展に多大の貢献をし、今もその名がよく知られている。

攘夷殺人事件の拡大と、幕府の懸念とその対策

♦ 攘夷殺人事件


東海道、神奈川台町の関門、東から西方を望む
Image credit: Felice Beato (born 1833 or 1834, died 1907)

幕府は新開地・横浜の要所に関門を設けていたが、安全は充分でなかった。横浜で貿易が開始され2ヶ月も経たない安政6(1859)年7月27日の夕暮れ時、悲惨な事件が起こった。ロシア東部シベリア総督のムラヴィヨフが、軍艦7艘を率いて来日し、品川で幕府と長期にわたり日ロ間の課題である樺太や北方諸島の境界を設定する交渉をしていた。この領土境界問題は、アメリカのペリー提督の第1回目の来航の半年後にやってきたロシアのプチャーチン提督が、嘉永6(1854)年12月20日長崎で正式に提起して以来の懸案で、未解決の問題だった。

その艦隊のポポフ海軍大将配下のロシア士官1人と水夫2人が、横浜の波止場近くで突然抜刀した日本人に襲われ、士官と水夫1人が息絶えた。下手人は不明のままである。ムラヴィヨフは、ロシア士官殺害犯人の捕縛ができない幕府に、「神奈川奉行一向に召捕り候手筈これ無きやに候て、また政府より命ぜられ候ても捗取り申さず候えば、コーウント自分にて手だて致すべくやに候」と、神奈川奉行が捕縛に動かず、幕命が出ても犯人捕縛が出来なければ、ムラヴィヨフは自分で犯人を探すと強く抗議した。こんな背景で、当時の神奈川奉行兼外国奉行・水野筑後守はその責任において更迭された事件である。

この開港直後の事件を皮切りに、横浜開港後の半年ほどの間に、フランス領事館やイギリス公使館で働く日本人が犠牲になり、またオランダ人船長も犠牲になった。幕府は横浜の出入りを厳重に警戒し、警護の番兵を増やし、防御対策を大幅に強化した。アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランス等に開港した横浜、箱館、長崎で自由貿易が始まったが、物価が大巾に値上がりし生活が苦しいのは、こんな幕府の行った外国との自由貿易の結果だと不満が増大し、更には朝廷からの勅許を得ずに開港の決断をした異勅だと非難され、「安政の大獄」で恨みを買う大老・井伊直弼が殺害される事態にまで発展した。

♦ 老中・安藤信正の懸念と、「江戸・大阪開市、兵庫・新潟開港」の延期交渉

大老・井伊直弼の跡を継いだ幕閣の中心は安藤信正と久世広周(ひろちか)だったが、外交関係を一手に引き受ける安藤は、精力的に各国公使たちと 「更なる開港・開市」延期交渉を始めた。日本国内の紛糾と離散が加速する現状を落ち着かせ、人心一致を図るには、その大きな原因の一つの外国貿易の急拡大を押さえ、時間をかけて消化する必要がある。中でも、迫り来る 「更なる開港・開市」を延期せねばならないと考えたのだ。更に国内関係については、幕府と朝廷の仲を取り持つために期待の高まる 「和宮降嫁勅許の御沙汰を賜わる」努力であった。このとき幕府は朝廷に、「和宮降嫁」の要請に付いて 「向ふ七、八ケ年乃至十ケ年には、必ず攘夷の実効を挙ぐべき旨を誓約」していたから、この開港・開市の延期が出来れば、反対世論の沈静化が進むと期待が大きかった様だ。

そもそもこの 「更なる開市・開港場」の議論は、最初に蕃所調所で行われたタウンゼント・ハリスと日本側の安政4年12月の通商条約交渉でも最後まで決着がつかず、大いにモメた議題だった。ハリスは、江戸や大阪の開市がなければ貿易の半分を断るも同然だと迫り、一方の日本側は当初から、日本側代表の下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震(ただなり)は、特に京都に近い大阪の地は絶対に開市できないと強硬に拒否したものだ。その後の交渉でも、「江戸の開市は4年後」とまで譲歩しても、大阪は早急には開けないと、「5年後の開市」を譲らず最後まで粘ったものだったから、「更なる開港・開市」は誰の目にも最初からの大きな懸念材料だったわけだ。

ここで筆者が特記したい事実は、タウンゼント・ハリスは激しく日本側とやり合って、大阪開市・兵庫開港より1年早い、「交渉時から4年後」の文久1年12月2日、即ち1862年1月1日から始まる 「江戸の開市」を勝ち取っていた。しかし、条約交渉当時あれほど勇み立ったハリス自身でさえ、いよいよ貿易が始まり、それに合わせて攘夷殺人が増え、大老・井伊直弼さえも殺害されるというその後の日本の政情や江戸の機能を理解するにつれ、約1年半後に迫った江戸の開市そのものを不安に思い始め、自分で交渉し勝ち取った江戸開市の延期を真剣に考え始めていた。そしてハリスは、1860年8月1日(万延1年6月15日)付け書簡で国務長官に自身の懸念を述べ、江戸開市の1年の延期を提案していたのだ。自分で日本側に無理に押し付けた江戸の開市日は、早過ぎたと後悔したのだ。

一方、「江戸・大阪の開市と兵庫・新潟開港の延期」を何とか実現したい安藤信正は、万延1(1860)年8月フランス代理公使・ベルクールと会ったが、日本の現状を危惧するベルクールから、フランス皇帝に宛てた開市・開港を延期したい旨の直接書翰や使節の派遣を示唆された。また引き続き翌月の9月にアメリカのハリス公使とも会った安藤は、カス国務長官か大統領に宛てた同様の直接書翰の提示を明確に示唆され、10月に会った英国公使・オールコックも、大君から女王宛の直書を了解した。更にオランダ総領事からも同様な直書の了解を取り付けたが、この様に、日本側の懸念の広がりによりる外国公使との交渉で開市・開港延期の具体策が検討される中、万延1年12月4日(1861年1月14日)、アメリカ公使館通訳・ヒュースケンの殺害という大事件が勃発した。

もうこれ以上猶予の余地のない老中・安藤信正をはじめとする幕閣は、文久1(1861)年3月23日、将軍・徳川家茂からの、日本の国状を述べ 「七年間の両都・両港の開市・開港の延期を要求する直書」をアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアの條約5カ国の元首宛てに出す事に決し、合わせて翌日の3月24日、新条約国のプロイセンやポルトガルも含めたヨーロッパ6カ国に向けた開市・開港の延期談判をする遣欧使節の派遣を決定し、外国奉行・竹内保徳(やすのり)を任命した。こう安藤信正や幕閣が外交関係の改善、即ち開国の遅延を図り人心一致の確立に努力する間にも、また5月28日、今度はイギリス仮公使館・東禅寺への襲撃があり、オールコック公使は危機一髪で暗殺から逃れるという大事件も続いて起った。

その後老中・安藤信正と会見し、危機一髪で暗殺から逃れた自身の経験も合わせ、ハリスと同様に開市・開港延期の必要性を理解したイギリスのオールコック公使の協力で、この事件の半年後の文久1年12月22日(1862年1月21日)、イギリス軍艦・オーディン号に乗り品川を出発しエジプト経由ヨーロッパに向かった遣欧使節団は、幸いにも文久2(1862)年5月9日、イギリス外相・ラッセル卿と両都・両港の開市・開港の5ヵ年延期のロンドン覚書に調印する事ができた。

アメリカのリンカーン大統領は、将軍・徳川家茂からの直書に対する1861(文久1)年8月1日付けの返書を送り、基本的に受け入れていた。そしてこの国際間のロンドン覚書による協定事項は、アメリカを始め他の條約各国でも正式に認められたのだった。

しかし一方の日本国内では、その間にも不穏な空気がますます悪化し、この開市・開港延期交渉をする遣欧使節団を送り出した老中・安藤信正自身が、文久2(1862)年1月15日、坂下門外で尊攘派に襲撃され重傷を負う事態にまで至った。こんな攘夷殺人は外国人のみに留まらず、幕閣にまでも刃を抜く、テロ事件の様相まで呈し始めたのだ。

この様に遣欧使節の努力で、幕閣の期待通り両都・両港の開市・開港の5ヵ年延期が各国と合意されたのも束の間、次に書くように、またまた生麦村の外国人殺人事件が続いて起ることになる。

 

攘夷殺人及び事件(1859年−1864年、主に外国関係。桜田門と坂下門以外の日本人同士の殺害は除く)
 

安政6年7月27日
  (1859年8月25日)
ロシア士官1人、水夫2人、暮れ六つ時、横浜波止場で襲撃され2人死亡
安政6年10月11日
  (1859年11月5日)
小村幸八、フランス領事館の下僕の清国人を惨殺する。小村は慶応元年8月14日に処刑された
安政7年1月7日
  (1860年1月29日)
イギリス公使館通詞の伝吉、公使館門前で暗殺される
安政7年2月5日
  (1860年2月26日)
オランダ船長デ・ヴォスとデッケル、横浜で暗殺される
安政7年3月3日
  (1860年3月24日)
通商条約の締結、安政の大獄などの弾圧政策を憎んだ水戸浪士ら18名は、江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺する 
万延元年12月5日
  (1861年1月15日)
アメリカ公使館通訳ヒュースケン、赤羽接遇所から善福寺に帰る途中の中ノ橋付近で薩摩藩士に襲撃され翌日死亡
文久1年5月28日
  (1861年7月5日)
水戸浪士有賀半弥、武州浪人吉田宇衛門ら同志14名が高輪の東禅寺にあったイギリス公使館を襲撃。オールコック公使は無事だったが、オリファントとモリソンが重傷を負う
文久2年1月15日
  (1862年2月13日)
井伊直弼の開国路線の継承や公武合体路線を推進する老中・安藤信正が、坂下門外で尊攘派の水戸浪士6人に襲撃され重傷を負う 
文久2年5月29日
  (1862年6月26日)
イギリス公使館の東禅寺を警備中の松本藩士伊藤軍兵衛が単身槍をもってイギリス伍長1人を殺害、歩哨1人を傷つけ、藩邸に戻って切腹
文久2年8月21日
  (1862年9月14日)
武蔵国橘樹郡生麦村で島津久光の行列を乱したと、川崎大師に行く途中のイギリス人4人が藩士に斬りつけられ、1人死亡、2人重傷、1人(婦人)無傷で逃げる
文久2年12月12日
  (1863年1月31日)
品川御殿山に建設中のイギリス公使館が高杉晋作らにより焼き討ちされる
文久3年4月10日−4月18日頃まで
  (1863年5月27日−6月4日頃まで)
浪士組を発案・実現した尊皇攘夷論者・清川八郎の江戸・横浜焼き討ち計画が幕府に知れ、清川は殺害され失敗に終わる。
  • 文久3年3月28日京都から浪士組と共に江戸に帰った清川の計画は、4月15日に250人程の浪士で江戸と横浜を焼き討ちにした後上京し、京都に居る浪士と共に長州軍に合流し、二条城を占領する計画だった。この江戸・横浜焼き討ち計画を実行するため、4月10日に清川八郎が横浜に潜入し、横浜夷人館焼き討ちのための視察を行った。しかし4月13日、老中・板倉勝静の指示で清川を付け狙っていた幕府の浪士取締・速見又四郎と佐々木只三郎が、麻布一ノ橋で清川を殺害した。
  • また4月14日には浪士組の暴徒が、攘夷先鋒を名として江戸府内の富豪商人を襲撃・強奪を行った。
  • この間、神奈川や横浜では奉行からの指示で、4月13日から18日頃まで在留外国人が緊急避難をした。
  • 文久3年6月24日
      (1863年8月8日)
    長崎で外国船水先案内をしていた重兵衛が何者かに殺害される
    文久3年9月2日
      (1863年10月14日)
    フランス陸軍士官アンリ・カミュ、3人で乗馬通行中、井土ヶ谷村字下之前で浪士3人に殺害される
    元治元年10月22日
      (1864年11月21日)
    イギリス軍人ボールドウィン少佐とバード中尉、鎌倉鶴ケ岡八幡大門前で殺害される
     

    生麦事件

    ♦ 孝明天皇と大藩の政治介入 − 生麦事件前後の背景・その1 −

    前述の「3、通商条約と内政混乱‐朝廷の影響力」でも書いたが、夷人嫌いの孝明天皇は日本が開国される現状を嫌い、神国日本の先祖に申し訳ないと心配し、幕府に影響力を行使し始めた。すなわち伝統的な徳川家康以来の「禁中並び公家諸法度」に反し政治介入を始めたのだ。安政5年の5カ国との通商条約が締結され、神奈川、箱館、長崎が開港され貿易が始まると物不足が顕在化し、諸物価が上がり始め、武士をも含め庶民の生活を直撃した。多くの外国人が日本国内に入り込み、更に京都の膝元の兵庫の開港や大阪の開市が迫っている。こんな中で孝明天皇は、危機意識と共に攘夷の考えを更に確たるものにしていった。

    そんな中で大老・井伊直弼による反対派へ向けた大弾圧・安政の大獄があり、幕府関係者だけでなく、朝廷内にも青蓮院宮への「隠居・永蟄居」を始め、左大臣や右大臣の「辞官・落飾」、前関白の「隠居・落飾」など多くの処罰者が出た。しかし桜田門外で突然井伊直弼が殺害された後、朝廷と幕府の関係改善に向け斡旋しようとする大藩が出てきた。

    文久1年3月に長州藩主・毛利慶親が直目付・長井雅楽(うた)の建策を採用し、その「航海遠略」を藩是と定め、これをもって、「国内一致が達成され軍艦の数を増やし士気が奮い立てば、一皇国が五大州を圧倒する事は容易であります」と朝廷に遊説した。朝廷もこれを受け入れ、「天皇もこの考えにご賛同された」と毛利慶親に朝廷・幕府間の関係改善に当たらせた。長井は京都と江戸を往復し1年近くも公武関係の修復斡旋に努力したが、この間に自藩内の反対意見が強力になり、これに呼応するかのごとく朝廷からも長州藩の「航海遠略策」を説明した長井の書簡が朝廷を誹謗しているとの非難も出て、この努力は頓挫してしまった。その後長州は、急激に藩論を180度変え、朝幕間の斡旋を止め尊皇攘夷に突っ走る事になる。

    こんな長州の公武斡旋開始からほぼ1年後、今度は薩摩藩の島津久光も朝廷に建策した。そして朝廷の命で、この建策の実現を命ずる勅使護衛に当たり、自ら江戸へ行くことになる。文久2(1862)年4月13日、島津久光は手勢千人を引き連れ大阪に着き、16日非公式に近衛邸を訪ね、近衛忠房や議奏・中山忠能、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)などに面会し、御所近くの薩摩屋敷に移った。薩摩藩主の実父であっても無官の久光が軍隊を率いて入京できたのは、親戚筋の公家・近衛忠房や、当時孝明天皇の侍従兼近習で和宮親子内親王と将軍・家茂の婚儀を成功させた岩倉具視の京都所司代・酒井への影響力によるもののようだ。久光はこの3日後、正式に権大納言・近衛忠房に会い国事建言の趣意書を提出した。九項目からなる久光の建策の主要部分が採用され、朝廷から幕府へ勅使が発せられる事になった。

    このころの兵庫、大阪など京都近辺には西国の浪士が集まり不穏な動きが顕在化していたから、朝廷は公武関係の斡旋に熱心で建策も行う久光に、京都で浪士鎮撫の任にあたらせた。この時、自藩・薩摩藩の過激派までも成敗した久光は、朝廷の命で勅使・大原重徳(しげとみ)を護衛し上府した。勅使・大原は将軍・家茂に会い、「夷狄を掃攘し万民を安んぜられ候えば、叡慮も自ら安んぜらるべく」と朝旨を伝えた。これは攘夷の督促と、安政の大獄の初期に罪を受けていた一橋慶喜や松平慶永の登用の督励だったが、こんな一橋慶喜や松平慶永の登用案は、もともと島津久光の朝廷への献策に基づいたものだった。この上府の帰り道に、久光一行が「生麦事件」を起こすことになる。

    ♦ 朝廷のたび重なる攘夷要求と将軍家茂の上洛 − 生麦事件前後の背景・その2 −

    井伊直弼の暗殺後、「公武一和」を目指す安藤信行を中心とする幕閣は、攘夷実行を朝廷への言質に和宮を嫁がせる事に成功したが、その後に勅使・大原が東下しても攘夷に向けた明確な行動を起さない腰の重い幕府の動きを見て、薩摩、長州、土佐の3藩は朝廷から幕府へ更なる攘夷決行の勅使派遣を建言した。朝廷はついに文久2年9月21日、朝儀をもって攘夷を決定し、勅使に三条実美(さねとみ)を選び江戸下向を命じた。前勅使・大原重徳の派遣から半年も経っていない時だ。勅旨は、「攘夷をはっきり決定しなければ人心一致も困難だ。幕府は直ちに攘夷を決定し、『攘夷と拒絶』の期限を奏聞せよ。そして京都を警護する親兵を設置せよ」というものだった。将軍後見役になったばかりの一橋慶喜は条約破棄をしてはならないと開港の必要性を論じ、朝廷の意思を尊重すべく攘夷の意見を述べる政事総裁・松平慶永を翻意までさせていた。しかし朝廷の居丈高な勅命を受け、そんなに方針が隔離してはもう責任がもてないと、10月22日将軍後見職の辞表を出す事態にまでなったがしかし、慶永などの説得でこの辞表は撤回された。君臣の大義をもって朝廷を敬いながら、何とか幕府孤立を避ける打開策を講じようとしたのだろうか。

    このように朝廷から二人もの勅使を受け、これ以上の優柔不断が許されなくなった将軍家茂は、許されて再び幕政に参加した政事総裁・松平慶永の強い進言もあり、終に攘夷決行と親兵編成の奉答書を朝廷に上提した。更に朝廷に攘夷計画の詳細を報告すべく上洛を決め、文久3(1863)年2月13日、自ら3千人を引き連れて江戸城を出発し、3月4日京都二条城に入った。これに先立って京都に入っていた将軍後見役・一橋慶喜や政事総裁・松平慶永は、将軍が天皇の謁見を得た後江戸に帰り攘夷の方策を立てると関白・鷹司輔煕(すけひろ)に伝えたが、では攘夷期日を先に決めるべきだと迫られた。 将軍が攘夷期日を約束するために上洛してくるはずなのに、帰ってからとは全く心外で、これでは幕府から何を云われても全て信頼にはつながらない。

    この頃朝廷では孝明天皇の肝いりで学習院が開かれ、下情上達の道を開くためとして誰でも学習院で時事の建言を許したから、我こそはと思う志士たちが殺到し、将軍や幕府にも陰の圧力になり始めた。一方慶喜や慶永は前関白・近衛忠煕(ただひろ)、関白・鷹司輔煕、中川宮等の朝廷の中枢と会い、このように全て朝廷が政治をやるつもりなら、国家の方針が幕府と朝廷から出るという「政令二途に出づる」弊害を論じ、大政委任か政権奉還か二者択一をすべきだと迫った。また生麦事件に絡む対英交渉が逼迫し戦争も視野に入ったから、在京諸侯の帰藩を許してもらいたいとも申し入れたがしかし、幕府の中枢をもなかなか信ぜず、学習院を中心に脱藩の志士や過激派公家の台頭に支えられた朝廷からは何の進展も得られない。とても「公武一和」どころではなかった。

    上洛前には、攘夷などすべきではないから朝廷を説き伏せると言っていた一橋慶喜は、京都ではその立場を微妙に変えていたから意見に相違も出たようだ。何の打開策も考えられなくなった政事総裁・松平慶永は、「もう道理によって事をなすことができない」と、上洛した将軍・家茂にも辞職を勧め、自身も幕府に辞職を再三願った。しかしその返事が保留されている間に、行き詰まった松平慶永は 「辞職だ」 と言い勝手に京都から帰国してしまった。無責任もここに極まった感である。慶永の身になって考えれば、橋本左内など自藩生え抜きの有能な家臣を安政の大獄で失った今となっては、自分一個の考えも、諮問した藩論もその限界にきていたのだろうか。「政令二途に出づる」弊害を論じ将軍の大政奉還を幕府に献策しても、一橋慶喜を初め幕閣は何の反応も示さない。朝廷からは、幕府が攘夷期日を決めたからには交易拒絶の談判は最重要課題だから、政事総裁自身が関東に帰って談判せよとの命令まで出始めた。打つ手の無い慶永とその家臣団は、無断帰国を決めたのだろう。

    これほどまでに朝廷の攘夷姿勢は過激さを加え、かってないほど行動的だったから、将軍後見役・一橋慶喜や政事総裁・松平慶永といえどもなす術がないほどの勢いだった。見方を変えれば、将軍を支える要職には就いたが、一橋慶喜や松平慶永には 「辞職、辞職」 と言う以外に、朝廷の強い政治介入を撥ね返す決断力がなかったと言うことだ。それほどまでに 「天皇は征夷大将軍・徳川家茂の上位に君臨する」 という考えが幕府中枢の共通項になっていたのだ。従って上洛している将軍・家茂も一旦江戸に帰りたいと何度も朝廷の許可を求めたが許されず、ついに出来もしない攘夷期日を空約束する事になってゆく。

    ♦ 生麦事件とイギリスの賠償要求


    武蔵国橘樹郡生麦村、「生麦事件」の現場
    Image credit: Felice Beato (born 1833 or 1834, died 1907)

    文久2(1862)年8月21日には生麦村で、勅使・大原を護衛し帰国途中の島津久光の行列を乱したと、乗馬通行中のイギリス人4人が警護の薩摩藩士に斬りつけられ、一行のうちリチャードソンが死亡し、2人が重傷を負い、婦人1人だけが無傷で横浜まで逃げきるという大惨事が発生した。

    生麦村の惨事を知った直後の横浜外人居住区では、自分でリチャードソン一行の捜索に生麦まで出かけたイギリスのヴァイス横浜領事や商人たちは勿論、フランスからも、直ちに軍隊を上陸させ連合追討軍を派遣すべしと厳しい議論が沸き立った。しかしイギリスのニール代理公使は、ほぼ確実に戦争に発展するであろう島津久光追討軍を制止し、むしろ幕府との交渉を模索した。

    上述のアメリカ人フランシス・ホールは、この時イギリスのニール代理公使に向けられた横浜外人居住地区内からの非難を、次のように当日の日記に書いている。いわく、

    イギリスの代理公使は、彼の示した明らかな無関心さに多くの人々から強い非難を浴びせられた。リチャードソンを探すため、一隊の派遣を求められると彼は拒絶した。外人居留地のためよりも自分の安全を心配していたと、彼を非難する噂が流れた。彼がリチャードソンの遺体を見た後も、ボロディール婦人の口から直接襲撃の様子を聞いた後も、彼の部下の代理人に、「自分はそんな騒動が発生したという公式報告は聞いていなかった」と云った。事件の起ったちょうどその日の午後、幸運な事にキューパー提督指揮下のイギリス砲艦と蒸気軍艦が入港した。この横浜港に集まったそんな強力な軍艦、すなわち、8艘のイギリス軍艦にフランスとオランダだが、この軍事力で、横浜からおよそ3マイル程の保土ヶ谷宿に泊ったとされるその大行列の主を捕縛しようと大勢が話し合った。この考えにフランス公使は大賛成だったが、提督は更なる情報と司法権が必要だと乗り気ではなく、代理公使は反対を表明した。騒動を恐れた横浜の奉行は、早速保土ヶ谷に使いを出し、行列の主は夜中までに、供回り全員も宿をたたんで安全な場所へ出発した。この主は薩州候に仕える高官だということだ。

    一方、問題を起こした久光の行列を宰領する小松帯刀は同行の大久保一蔵とも相談の上、イギリス側からの追討軍に備え、神奈川に2人の藩士を残し情報収集に当たらせた。この日の大久保利通日記にも、「神奈川にて高崎猪太郎、土師吉兵衛へ夷人挙動探索相託し候。今晩問合せ度々相達し、夜明け高崎猪太郎参り、則出殿云々」と出てくるが、宿泊地の保土ヶ谷からも頻繁に神奈川に残した2人に問合せの使いを出し、厳重に警戒していた様子がわかる。

    当時のイギリス政府はニールからの報告により、武力行使を避けたこのニールの対応を直ちに認めているが、外務大臣・ラッセル卿がニール代理公使に宛てた1862年12月9日付けの下記書簡に明らかだ。いわく、

    先月27日到着の9月15日、16日、19日、21日付けの貴書簡で私は、主要大名の一人に従う従者により英国民の一行に加えられた残忍でいわれない攻撃により、一人が殺害され、二人が大怪我を負い、一行中の一婦人が奇跡的に難を逃れたという報告を受けた。
    この暴挙による受難に対する女王陛下政府の心からの同情を、攻撃された人達に伝えるよう私は貴君に指示する。そしてまた貴君にそんな機会があれば、リチャードソン氏の身内にも同様に伝えてもらいたい。
    私には、日本政府に要求されるべきこの賠償と、条約により保障された日本に滞在するイギリス国民全員の個人的安全を確保すべき方針とにつき、貴君に対し十分な指示を出す義務がある。
    貴君に向けられた(横浜外人居住地区内からの)圧力に抗し、貴君が示した判断と忍耐を女王陛下政府が承認する事を、私は貴君に知らせずにはおけない。更に、若し貴君がそう決っしたとしたら、女王陛下政府は日本と敵対する事についてでも同様である。
    貴君は誠に慎重で、この暴挙を行った大名の従者に即座に復讐すべく艦隊の軍隊を上陸させる行為に賛同しなかった。
    日本政府と大名とに、これほどの暴挙が彼らの上に報復をもたらすという有罪宣告を明白に下すため、現況の中で、今後女王陛下政府が採るべき如何なる方針についても、貴君は本国の指示なしに日本政府に賠償させる事に全力を傾注し、貴君の採る方針にキューパー提督が賛同している事さえ判明すれば、それで(英国政府は)満足である。
    大君政府への賠償要求に関し、貴君はまさに貴君に適切に指示された方針を採用している。女王陛下政府が期待する貴君の要求への結果が次の報告書簡でもたらされたら、それが女王陛下政府が日本に対し採用する方針の最終的な決定となろう。

    このようにラッセル外務大臣は、ニール代理公使の判断と行動に全幅の信頼を寄せ、ニールの判断が英国政府の決定になるとしている。この出来事に興奮し、イギリス、フランスの久光追討軍が出発していれば、ニールの危惧した戦争にも発展していたかも知れない。

    翌年初めに具体的な賠償要求金額の指示を本国から受けたニール代理公使は、文久3(1863)年2月19日、これは将軍家茂が2月13日に京都に向け江戸を出発した6日後であったが、長文の書翰を幕府に送り、生麦事件に関するイギリス政府の賠償要求を伝えた。

    まず幕府に対し、次の条件を20日以内に実行しなければイギリス艦隊の武力を以って適切な処置を講ずると通告した。

    1. この謝罪のため、十分な、公式赦免を乞う書簡を出すこと
    2. この罪科のため、十万ポンド・スターリングを払うこと

    薩摩藩に対しては、次の条件を直ちに実行しなければ海軍力を以って適切な処置を講ずると通告した。

    1. 殺そうと襲い掛かった諸人中の主なる者を速やかに捕え吟味し、女王陛下の海軍士官の眼前でその首を刎ねること
    2. 二万五千ポンド・スターリングの償金を払うこと

    とその速やかな実行を迫った。

    この島津久光の引起した外国人殺傷事件は、いってみれば幕府にとって二重の重荷であった。そもそも藩主でもない久光の上府と生麦事件は、上述の如く、朝廷による幕府督励の勅使・大原重徳(しげとみ)の護衛という公的行動の帰途に起ったものであり、幕府として単に薩摩や久光を非難できなかった。そして一方イギリスは、条約を締結し国政に責任を持つという公的な立場から幕府責任をも追及したから、薩摩藩の起こした問題が、幕府自身の管理責任をも問われる問題になってしまったのだ。

    賠償金支払いと幕府首脳の混乱

    ♦ 戦争の危機と賠償金支払い

    イギリス代理公使・ニールから、前述した生麦事件に対するイギリス政府の賠償要求書は将軍・家茂の江戸城出発の6日後に出されたから、とても20日以内に幕府の返事を得られるものではない。それどころか、京都に着いた家茂は朝廷から明確な攘夷決定と実行を強く要求され、最初の京都滞在予定は10日間くらいであったが、再三の帰国申請にもかかわらず江戸に帰ることも許されず、京都に留め置かれるかっこうになる。

    一方江戸で留守を預る老中はイギリスの要求に返事も出来ず、何回もその回答の延期を交渉した。ニールは家茂不在を知っているし、強い賠償要求は出すが戦争はできる限り避けるという本国の外交方針もある。そこで4回もの幕府の延期交渉に同意したが、ずるずると京都に滞在する家茂の動向に、ニールはもうこれ以上の延期はしないと幕府に通告した。老中も将軍さえ帰ってくれば賠償金を払うとニールに示唆していたが、家茂はなかなか帰らず、イギリス艦隊は横浜に終結し終わっていたから、江戸を預かる幕閣もこのままではイギリスと戦争になると真剣に心配しはじめた。 将軍・徳川家茂や一橋慶喜、松平慶永など幕府の中枢が京都にいる間、江戸で外交の事を委任されていた大将軍目代・水戸藩主・徳川慶篤(よしあつ)や尾張藩主・徳川茂徳(もちなが)は、文久3年4月28日朝廷に、「生麦事件の償金の支払いは攘夷鎖港とは別件だから」、と戦争回避のための償金支払いを上申したが、朝廷の強い反発にあわててその提案を引っ込めざるを得なかった。

    将軍・家茂が「攘夷開始期日」と約束した5月10日に孝明天皇は、前日この幕府の「償金支払い上申」が出された事を聞いていたから、

    そもそも攘夷拒絶の期限も今日になったのだから、いよいよ諸臣一同にその心得があるのが当然だ。合わせて、償金の一件は予想外の事になったが、今さら仕方がない事だ。以後こんな事にならず、朝廷で定めた命令通りになるようよく話すのが本筋だ。こんな所で諸臣の気合が緩むようでは、かねてから言ってきたように皇祖神に対し申し訳もなく、かつ両社での参拝祈念や毎朝の祈りの詞にも相違し、これ以上の困苦はない。たとえ皇国の一部が黒土になっても開港交易は決して好ましくない。(償金を支払うなどと)こんな不心得の事を唱える者があればきっと罰を下すから、この天皇の命令を貫徹せよ。

    と震翰に書くほどまでに強硬姿勢になっていた。天皇が一国の最高権威者と自ら任じていたとしたら、多数の無実の国民をも巻き添えにするであろう 「皇国の一部が黒土になっても」と言う言葉は、余程の大義が無いと口に出来ないはずだ。本当にこの 「開港交易」がこの大義にもとるものだと信じていたのだろうか。

    一方江戸の幕閣は5月4日、沿岸警備の諸侯に命じ警備を厳しくさせ、江戸沿岸に居住する婦女老幼の避難を命じた。7日になると横浜駐在の英国領事はニールの指示により、イギリスは生麦事件の賠償金交渉は決裂したと断定し、艦隊司令長官・キューパーに命じ自由行動を開始させると神奈川奉行・浅野伊賀守に通告してきた。翌日には、イギリス軍艦2艘が品川沖に来て付近を測量し始めた。いよいよ軍事行動に出るぞというイギリス海軍のデモンストレーションだ。

    それまで表面的であったにせよ、朝廷の主張通り賠償金の支払いは認めない事が一橋慶喜の方針であったが、たまりかねた老中格・小笠原長行(ながみち)は翌9日独断で横浜に出張し、横浜運上所にある全てのメキシコ銀貨をかき集め、英国公使館襲撃の際に遭難したイギリス人に対する扶助料4万ドルおよび生麦事件賠償金40万ドルの合計44万ドル(11万ポンド相当)を、独断で英国代理公使ニールに即金で全額支払った。

    ここで筆者は通説の如く、「老中格・小笠原長行は翌9日独断で横浜に出張し、・・・合計44万ドル(11万ポンド相当)を、独断で英国代理公使ニールに即金で全額支払った」と書いたが、勝海舟の『開国起原』には、

    この時、一橋府には命を奉じて関東に下りしも、もとより鎖港の理なくして行われがたきを知るを以て、この度英人の求めに応じ、償金を与えざればたちまち擾乱に及ばん事を慮り、小笠原図書頭と議する処ありて、図書頭はまた密かに神奈川奉行浅野伊賀守に命じて、横浜税関の銀貨を出し、十万ポンドステルリングを払わしめたりという。(但し、四十四万弗、この節の相場を以て二十六万九千六十六両二分二朱余に当る)。

    と出て来る如く、小笠原長行の独断ではなく、一橋慶喜との了解事項だったと書いている。「独断支払い」は小笠原長行が公言した世間に対する名目上の行動で、下に書く通り、一橋慶喜の命による「三港の鎖港」を言い出す前提であったわけだ。

    これは天皇の意に反する償金支払いではあったが、上述の如く、一旦は将軍の滞京中外交の事を委任されていた大将軍目代・水戸藩主・徳川慶篤や尾張藩主・徳川茂徳が朝廷に提案したもので、一橋慶喜も了解していたものだった。これで、からくもイギリスとの戦争を回避出来たのだ。イギリスはこれでやっと戦争をせず幕府に要求した条件に結果を出したが、まだ薩摩の方が残っている。これが次章に書く「薩英戦争」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) につながるのだ。そして時系列的にはまた翌日の5月10日になると、長州藩が幕府命令の攘夷期日が来たと、下関海峡東側の田ノ浦沖で汐待のため仮停泊していたアメリカ蒸気商船・ペンブローク号を突然砲撃し、5月23日にはフランスの小型報道軍艦・キエンシャン号を、26日にはオランダ軍艦・メデュサ号をと次々に砲撃し下関海峡を完全に封鎖してしまった。これがまた次章に書く「下関戦争」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) につながるのだ。

    ♦ 鎖港通告と幕府首脳の支離滅裂さ

    幕府と朝廷の関係もまだ決着が付いていない。朝廷の強い攘夷要求により、将軍・徳川家茂、すなわち将軍後見職・一橋慶喜は開港した三港の鎖港で攘夷を始めよと小笠原長行に命じていたから、そのつもりで京都から帰ってきた小笠原は、前述のごとく独断で44万ドルの賠償金をイギリスに支払わざるを得ないほどイギリスとの関係が緊張していた。しかし小笠原は、イギリスとの戦争を回避するためこの賠償金を支払うや開港場の三港閉鎖交渉を通告する書簡を条約国公使たちに送ったから、こんな不可解な行動に、イギリスをはじめフランス、アメリカ、オランダ公使たちは、日本国内政治における攘夷勢力からの強烈な圧力と幕府の追い詰められた立場をはっきり見て取った。

    もちろん小笠原の「三港鎖港・全員退去」交渉通告に対し、アメリカ、イギリス、フランス、プロイセン(ドイツ)、オランダ5カ国はすかさず、鎖港し在留外国人を退去させれば直ぐに戦争になるぞと一斉に反論した。また仏国公使・ベルクールなどは、三港を鎖港しフランス居留民を退去させれば、その資産分だけでも日本はフランスに対し、「合計127万3千ドル以上もの賠償金を支払わねばならぬ勘定になる」との内訳までも入れた見積りを出し、脅してきた。その裏には更に、条約国側の勝利に決まっている戦争費用の賠償やフランス以外の条約国への賠償金もあるぞ、とのメッセージでもあったはずだ。

    江戸で外交の先端に居る老中格・小笠原長行らとイギリスやフランス、あるいはアメリカ、オランダの公使たちの関係と、まだ京都や大阪に留め置かれて動けない将軍・家茂と朝廷の関係は、明らかに大きな矛盾を露呈しながら進んでいた。横浜にイギリス軍艦が集結し今にも戦争が始まる事態であるが、江戸の幕閣と京都にいる将軍・家茂や朝廷の意見は食い違ったままだ。イギリスとの戦争だけは回避せねばならないと、5月9日小笠原長行は独断で賠償金を支払った。全く同じタイミングで京都からは、将軍・徳川家茂の「攘夷期限につき、来る5月10日に間違いなく拒絶と決定致しました。また列藩へも布告致します」と云う4月20日付けの奉答に基づき、将軍後見職・一橋慶喜が朝廷の意を奉じ、少なくとも表面的には討死覚悟で外国勢と談判し断然鎖港を完遂しようと、京都から横浜のすぐ近くにまで帰って来ていた。賠償金支払いをせねば今日明日にもイギリスと戦争が始まることを横浜で知った慶喜は、予定された途中の川崎に泊まりもせず急いで江戸に帰り着き、翌5月9日、京都で決定した「5月10日の攘夷」について幕閣と協議した。しかし江戸の幕閣や役人たちは、攘夷即ち三港鎖港から誘発されるであろう戦争など不可能だと攘夷賛同者は一人も出ず、慶喜一人宙に浮いた格好で孤立してしまった。

    この背景には、前述の小笠原長行が三港鎖港談判の通告書を外国公使に送る直前に、小笠原から、オランダをも含めた「全条約国と三港鎖港」をするという案件の評議を命ぜられたが、外国関係の窮状を良く理解し、信義に基ずき危機感を募らせる江戸の寺社奉行・町奉行・勘定奉行達が、5月6日に連名上書し、

    三港を同時に鎖港し、日数三十日を限り外夷一人も在留なきようにと仰せ出だされた事は、詰まりはご難題で、皇土国境の安危となり、不相応の事件、即ち戦争を誘発する。無名の戦争に及んでは千萬のご失策で、挽回する事は出来ない。・・・三港を一挙に閉鎖するなどとは是非を論ぜぬ難題で、戦争になり、我が国が蚕食され、天皇の伝統も危ぶまれ、神祖以来のご武徳も廃れてしまう。事ここに到っては、この様な次第を天皇に申し上げ、大将軍職を辞すべし。

    とまで厳しい建言をしていたのだ。この三奉行職には連名上書の当時、井上清直や阿部正外が町奉行に、津田正路や川勝広運が勘定奉行に、浅野氏祐が勘定奉行格に、松平忠恕や土井利善や松前崇広が寺社奉行として居たと思われるが、小笠原はイギリスへの償金を支払うと、結局、慶喜の命令どおり三港鎖港通告を出したのだ。そこへ京都から江戸に帰って来た慶喜が「攘夷・鎖港」と叫んでも、「是非を論ぜぬ難題で、戦争になる」と、当然慶喜を支持する役職者など誰もいなかったわけだ。このため慶喜は、またまた関白・鷹司輔熙(すけひろ)に将軍後見職の辞職を願うほどに幕府内の首脳たちは混乱していた。

    一方、まだ大阪・京都に留め置かれ江戸に帰れない将軍・家茂は、大阪や兵庫近辺の海防を視察してお茶を濁していたがしかし、小笠原の独断償金支払いが京都に報告されると、早速京都守護職・松平容保、老中・水野、板倉などが参朝し幕府の不手際を陳謝し、上述の如く将軍後見職・慶喜は辞職願を出し、江戸の将軍目代・徳川慶篤(よしあつ)も辞職願を出した。ここまで外交問題がこじれあわや戦争が始まる間際にも、ただただ朝威を恐れ、命を懸けてでも筋道を立て朝廷説得をしようとする幕府首脳は皆無だった。

    ♦ 小笠原長行、兵二千人を率い突如の上京

    老中格・小笠原長行は文久3(1863)年5月9日、イギリスに生麦事件の賠償金を支払うと、同日、突如として各国公使に三港鎖港交渉開始を通告した。更にまた5月20日、突如として幕府軍艦・ライモンや朝陽丸に幕兵を乗せ、当時の町奉行・井上清直や神奈川奉行兼外国奉行兼勘定奉行格・浅野氏祐、目付・向山栄五郎、更に元勘定奉行・水野痴雲等を同道し、品川を出航し横浜に向った。5月25日に横浜でイギリスから蒸気商船・ラディヤー号とエルギン号の2艘を借り入れ、横浜に陸行して来た更なる幕兵を乗せ、公称・総勢2千人の軍隊を引き連れ大阪に向った。実質1千6百人程と聞くが、大阪上陸後は更に進軍し、淀近辺まで達していた。

    この時、幕府がイギリス商船を借り入れる前に、酒井飛騨守を通じ、当時横浜に入港して居たアメリカ軍艦・ワイオミング号を借りて兵員輸送をする交渉があったが、プルーイン公使から、アメリカ軍艦で日本兵士の輸送は出来ないと断られるというエピソードもあった(「1863年7月24日付け、プルーイン公使からスーワード国務長官宛報告書」)。このワイオミング号はこの数日後、下関戦争の前哨戦となった長州軍艦によるアメリカ商船・ペンブローク号砲撃の懲罰のため、下関に向かっている。これについては、次節の 「6、薩英戦争と下関戦争」の「下関戦争」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) のページを参照されたい。

    この小笠原長行の突然の独自行動は引率の兵士にまで行動目的を極秘とする秘密が保たれ、今日に至るまでその真相が明白ではない。しかし当時の将軍・徳川家茂は、上述の如く繰り返し帰府を願ったが、朝廷の捕虜になった如く京都に留め置かれていたから、引率の軍隊で二条城を囲み、将軍・家持を奪還し、武威の下で攘夷決行を叫ぶ朝廷を押さえ、天皇から 「和親交易の勅定」を得る目的であったという(「懐往事談」)。これは一種のクーデター的行動で非常に計画的であり、小笠原長行を先頭に、同行した三奉行中の井上清直や浅野氏祐、目付・向山栄五郎や元勘定奉行・水野痴雲などもその実行の中心だったと考えて不思議ではない。また当時は上述の如く、一橋慶喜も江戸に帰って居たわけだから、こんな大部隊の行動を知らなかったはずは無かろうし、それを止める権限も有ったはずである。しかし、慶喜はそれをしていないのだ。

    朝廷もこれまでは将軍・家茂を手元に置いて離さず、これを幕府へ圧力をかける梃子にしてきたが、小笠原長行など江戸の「奸吏」は孝明天皇の意思をも無視しイギリスに償金を渡し、攘夷期限の5月10日をはるかに過ぎても攘夷を始める気配もない。また今回は自分で軍隊を率いて、淀まで迫っているという。不安におののき、これ以上他に打つ手もなくなった朝廷は、早々に将軍・家茂の帰府を認め、即ち京都から開放し、小笠原の進軍を止めさせ、入京させないよう命じた。また京都守護職・松平容保の異議もあり(「懐往事談」)、将軍・家茂は直書をもって小笠原長行に淀での待機を命じた(「幕末外交談」)。朝廷はその後更に、小笠原の官位剥奪と処罰をも命じていた。こんな背景で家茂はやっと3ヶ月ぶりに大坂城を出発し、老中・水野忠精や板倉勝静などを従え、文久3年6月13日順動丸に乗って海路帰府の途につく事が出来たのだ。

     


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    10/15/2017, (Orginal since November 2006)