日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

4、初めての遣米使節

アメリカで 「供揃えを付けた、格式に合う行列を組まねばならぬ」

♦ 万延元年遣米使節派遣の背景

タウンゼント・ハリスが強硬に要求する自身の上府と将軍との会見、江戸への公使駐在、通商条約の締結などの難問題は、幕府や譜代大名を始め、朝廷をも巻き込み意見が分かれていた。しかし、アメリカ政府は戦争に訴えるかもしれないと脅しをかけるハリスは、結局老中首座・堀田正睦(まさよし)に会い、将軍家定に会い、堀田の役宅で世界情勢について大演説を打ち、通商条約作成に向けフル回転をし始めた。

そしてついに老中・堀田正睦は井上信濃守と岩瀬肥後守を条約作成の交渉委員に任命し、江戸でハリスと日米通商条約交渉が始まった。この日米修好通商条約の批准書交換のため、日本からアメリカの首都・ワシントンへ 「遣米使節」 を派遣するという合意は、この交渉中に話し合われた。合計13回に及んだ交渉の中、安政4(1857)年12月23日、第8回目の交渉の最後に話し合われている。この時日本側が、

条約に関し、貴国から日本に今回も含め3度も使節が来ているから、今度は当方から使節を派遣し、ワシントンで批准書交換をしたいがどうであろうか。

と提案するとハリスは、「非常に良いお考えです。はっきり決まれば条約にもその旨記載したい。そうなれば私もこの上なく幸福で、我国を見ていただくだけでも有りがたい事です」とすぐ受け入れた。

筆者はここで特に 「万延元年遣米使節」 の派遣は、その出発のほぼ2年前に日本側からの提案だった事実を強調しておきたい。それはこの事実から、ハリスと通商条約を交渉した井上信濃守と岩瀬肥後守の 「日本はこれから新時代に突入するぞ。出来たら自分もアメリカを見ておきたい」 という意気込みを感ずるからである。

条約の最終案が完成すると、支那でのアヘン戦争にかたをつけたイギリスやフランスが大艦隊を引き連れ、戦争覚悟で通商条約交渉ににやってくるぞというハリスの再度の脅し文句に、その前に朝廷から通商条約勅許を取ろうと時間がかかっていた幕閣の不安を煽った。ハリスは、アメリカとの条約調印が出来ていれば、イギリスやフランスが来ても戦争は回避できると言った。大老・井伊直弼の、「アメリカとの条約に調印を済ませて、イギリスやフランスとの戦争回避が先決だ」と、しぶしぶながらの同意を得た井上と岩瀬は、安政5(1858)年6月19日、ハリスと「日米修好通商条約」に調印した。引き続き幕府は7月10日にオランダのクルチウスと、7月11にロシアのプチャーチンと、7月18日にイギリスのエルジンと、9月3日にはフランスのグローと夫々ほぼ同等な修好通商条約を結んだ。この「勅許なしの条約調印」という出来事に、幕府ご三家や譜代大名の中でさえも意見が分かれ、孝明天皇も全く不満で、朝廷を中心に京都では攘夷が叫ばれ始めた。

こんな背景の中で、日本始まって以来はじめての使節が、条約批准書交換のためアメリカに行くことになったのだ。ここで興味ある事実は、日米修好通商条約の第14条にある最初の文である。いわく、

第十四条、右の条約の趣は、来る未年6月5日(即ち千八百五十九年七月四日)より執り行うべし。この日限あるいはそれ以前にても、都合次第に日本政府より使節を以て、亜米利加ワシントン府に於いて本書を取替すべし。若し余儀なき仔細ありてこの期限中本書取替し済ずとも、条約の趣はこの期限より執り行うべし。

このように、取決めた開港日までに条約批准が済まなくてもこの条約は発行する、としている点だ。合意した物事でも上手く進まない日本の政治情勢に、危機感を持つハリスが挿入させたのだろう。

♦ 渡米準備と使節変更

幕府は早くも條約調印から1月後の安政5(1858)年7月19日、ハリスに遣米使節の乗る船の斡旋を依頼し、8月23日には外国奉行・水野筑後守と永井玄蕃頭(げんばのかみ)、目付・津田半三郎、加藤正三郎に、使節としてアメリカに行き締結した條約批准書を交換すべく命じた。4人の使節と84人の供揃えも含めた総員88人が渡米すると伝えられたハリスは、その物々しさに目を丸くした。

前述のごとく大老・井伊直弼がしぶしぶハリスとの條約調印を許しはしたが、この頃にはしかし、ハリスと交渉し日米修好通商条約をまとめさせた老中・堀田備中守が、自身で京都に出向いても朝廷から條約勅許を貰えず、一連の責任において6月23日に老中を罷免されていた。9月には井伊が老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)を上京させ、尊皇攘夷派の弾圧の手始めに上京遊説中の水戸藩士等を検挙させ始め、いわゆる安政の大獄の前哨戦が始まり、直後から幕府内の役人にまで左遷や罷免が行われるから、アメリカへの使節派遣どころではなくなってきた。ハリスが11月14日、遣米使節の乗船する軍艦派遣を香港のタットノール提督に要請するからその書簡を長崎に送ってくれと幕府に依頼したが、それどころではない幕府は、しばらくの猶予をハリスに要請している。

当初遣米使節に任命されていた外国奉行・永井玄蕃頭は、安政6年2月24日将軍後継問題で反対派に立っていたため井伊直弼により軍艦奉行に左遷され、また使節ではなかったがハリスとの交渉に大いに貢献した下田奉行兼外国奉行・井上信濃守さえも小普請奉行に左遷されてしまった。また一方の使節・水野筑後守は、安政6(1859)年7月27日に横浜で起ったロシア士官の殺害事件の責任をとり外国奉行を更迭されたから、最初に決まった遣米使節は白紙に戻らざるを得なくなった。そこで幕府は新たに9月13日、外国奉行兼神奈川奉行・新見正興、勘定奉行兼箱館奉行兼外国奉行兼神奈川奉行・村垣範正、目付・小栗忠順(ただまさ)を遣米使節に任命した。

この変更人事を聞かされたハリスは、老中・脇坂安宅(やすおり)に向ってこう非難した。いわく、

遣米使節は水野筑後守と永井玄蕃頭と聞かされていたが、こんどは新見豊前守と村垣淡路守に変更されたとお聞きした。筑後守の変更は(ロシア士官殺害責任のためと)分るが、玄蕃頭はなぜ変更になるのか合点が行かない。・・・条約調印以来それにかかわったお役人はことごとく左遷され、逆に私に不敬の態度をとった者が取り立てられている。・・・私と親しかった人達が全て退けられたが、これは私に敵対していることになる。

と感情をむき出しにした。脇坂は、なおも食い下がるハリスを前に国内事情だと説明に勤めたが、なおしつこく攻撃の手を緩めないハリスを、「人選はこちらの都合で決めることで、それを以って敵対している等という言いかたは理解できない」と切って捨てた。

しかし、ハリスが感情的になった裏にはいささか理由があった。最初にアメリカ総領事として将軍に謁見した時、ハリスは非常に丁寧に迎えられたと満足だった。がしかし今回、条約締結後に公使に昇格し戻ってきたハリスが新任公使として将軍謁見を申し入れ、安政6年10月11日に実現こそしたが、2年前の最初の謁見に比べ大巾に粗略で侮辱さえ受けたとハリスは思ったのだ。ハリスは、自分が市中を登城の折も馬を引いたり荷を背負ったりする通行人は誰も道脇に控えず、前回城内に入ってからの案内者は奉行だったが、今回は無位無官の者で、城中でも不敬の態で下人共が騒ぎたてた。こんな事は瑣末なことだが、最も許せないのは、会った将軍は言葉を掛けてくれないばかりか会釈も返してくれず、前回の老中全員の面会に代わり、間部下総守とその他一人が自分と会っただけでほとんど口も利いてくれなかった。これは自分一個への侮辱ではなく、本国の大統領を侮辱したと同じことだ。こんな軽蔑した取り扱い振りを城中の大勢に見せる意図があったのだろうと、ハリスは次々に不満をぶちまけた。これらが自尊心の強いハリスを痛く傷つけ、怒ったハリスは将軍謁見のやり直しを幕府に求めた。「公使への侮辱はアメリカへの侮辱だ」と迫ったのだ。紆余曲折の末にハリスとの再度の将軍謁見が実現したが、こんな最初の謁見からやり直しの謁見まで取り仕切った外国奉行たちが、今回の新使節に任命された新見や村垣だったのだ。ハリスは、「この奉行たちから不敬な待遇を受けた」と、たいそう立腹したのだった。

♦ 伴走の日本軍艦派遣とアメリカ人乗組みは最初から決まっていた

遣米使節とその従者たちは、アメリカ政府の好意で軍艦・ポーハタン号に乗船し太平洋を渡ることになったが、最初に遣米使節が決まった時、当時使節に任ぜられたばかりの水野筑後守と永井玄蕃頭から日本の軍艦も送るべきだとの提案が出され、幕府もその願いを認めていた。幕府はやっと数艘の軍艦を購入し、長崎で海軍の訓練を始めて4年ばかりの時の話だから、いろいろな議論もあった。

最初に任命された使節・水野筑後守と永井玄蕃頭の、安政5年8月30日の申請書にはこう書いてある。

現地に着いて公式に出歩く場合、供揃えを付けた格式に合う行列を組まねばならない。前回の申請は連れて行く人数を抑え、現地で人を雇う予定であった。しかし、雇った現地人に日本式衣服を着せれば、もし今後外国人が日本に来て日本人を雇い、洋服を着せて供に加えたらこれは問題である。この度もフランス人が日本人を雇い、洋装をさせた問題もあったばかりだ。日本から多人数を連れてゆくとそれなりの身繕いをし、食料・飲料も必要になり、この運搬はアメリカ船だけでは足りない。従ってぜひ日本からも蒸気船を出していただきたい。そうすれば、その船に乗り組む日本人水夫を供揃えに加え、現地人などに頼らずとも一石二鳥でうまくゆく。オランダ人から操船術を習い始めて3年も経ち、日本船が1艘も出ないことは誠に残念である。今回は初めての航海ということで案内がアメリカ船で、日本からも軍艦を出すという形式になれば、名義も十分にたつ。操練所の教授たちは4千里の海洋航海で経験を積み、彼の国で軍艦の種別、海軍法制など実地に研究もでき、新発明もあると聞くから海軍建設の勉強にもなる。費用はかかるが、将来のためぜひご英断いただきたい。

格式に見合った供揃えのため日本軍艦の水夫を使うなどとはよく考えたものだが、とにかく近い将来の海軍建設のためには絶好の機会であり、その経験を積みたいという強い熱意が、こんな理由をも考え付かせたのだろう。

この申請に対し、操船訓練を受けたとはいえ日も浅く、途中で万一事故にあったらかえって海軍建設の障害になるなど慎重意見も出た。これに対し、

航海上重要な測量術もマスターしてあり、蒸気船の操船にも問題はない。しかしその時の交渉しだいだが、アメリカ人の航海士と熟練船員を2、3人乗り組ますことができれば、大風に合い進路を失うようなことがあっても安心だろう。しかし常にあるわけではないが、万一のことがあったらそれは致し方ない。

こう水野、永井等の使節は答えている。ここも筆者が特に強調して置きたい点であるが、このようにして、日本軍艦の派遣とアメリカ人の乗り組が、幕閣により最初から決定されていたのだ。

♦ ブルック大尉の乗り組みと咸臨丸の派遣を決定

咸臨丸の太平洋東行ルート:嵐に流されたが、最短航路を取ろ
うと北緯43度あたりまで北上し、サンフランシスコを目指した
Route plotted by the author,
Map basic image credit: Google Earth

上述のように派遣使節が再任され、軍艦派遣の実行に際し、責任者である新しい軍艦奉行・木村攝津守が幕閣からアメリカ士官を咸臨丸に乗り組ませる再確認を取り、ハリスの協力で当時横浜に仮滞在していたブルック大尉の了解を得ることができた。このように日本軍艦派遣とアメリカ人の乗組み計画は、もともと水野筑後守と永井玄蕃頭の発案であったのだ。

また咸臨丸の選定について、当初軍艦操練所の教授方頭取だった勝海舟が、最初に決まった使節の水野筑後守の内諾を得て、スクリュー推進式軍艦・朝陽丸を整備し渡航準備を進めた。しかしその後、新しい軍艦奉行・井上信濃守が、朝陽丸は小さすぎるからと側輪推進式軍艦・観光丸の派遣に決めた。派遣する日本の軍艦選定を変えたのだ。しかしまた、荒れ狂う北太平洋の帆走航海には 「抵抗の少ないスクリュー推進のほうが良い」と、日本軍艦に乗り組むことに決まったブルック大尉の助言があり、再度咸臨丸に変更された経緯がある。良く知られるように、咸臨丸のスクリューは帆走時に喫水線上まで引き上げる構造だったと云うから、帆走時の抵抗を更に減衰出来たのだ。この様に派遣軍艦の選定が二転三転したわけだが、この時勝海舟や担当技術者は徹夜で咸臨丸の整備を行い、やっと期日までに渡海の準備を完了させた。

事実咸臨丸の航海を通じ、ブルック大尉はじめアメリカ船員11人の乗船は、荒れ狂う太平洋航海成功の重要な要素の一つであった。この時から126年も後年の、1986年になって初めて刊行されたブルック大尉の咸臨丸に乗組んだ時の航海日誌を読む限り、筆者には、日本人だけであったら果たして太平洋横断が成功しただろうかという疑問が湧いてくる。上述の如く、水野筑後守と永井玄蕃頭の 「アメリカ人を乗組ます」という最初からの発案が、咸臨丸の安全航海をなしえた基のように思われる。

少し先走るが、この後の萬延元(1860)年閏3月19日、サンフランシスコから帰路についた咸臨丸は、日本人の操船でハワイ経由無事に帰国できたが、往路の暴風雨下の荒海航海の経験や、ブルック大尉から教えられた実地訓練が大いに役立ったようだ。しかし木村攝津守と勝海舟は、念のため帰路の安全策をも考えたのだろう。日本からサンフランシスコまで一緒に苦労してくれた、ブルック大尉指揮下だったアメリカ人水夫5人を雇い、帰路も同行させている。浦賀経由で5月5日神奈川に帰着すると、雇い入れていた往復の航海で共に苦労してくれたアメリカ人水夫達は、神奈川のアメリカ領事へ引き渡された。

アメリカへ

♦ 出航と太平洋横断、首都・ワシントンへ

遣米使節団を迎えに来たポーハタン号は、嘉永7(1854)年冬にペリー提督が2回目に来航した時、旗艦として江戸湾に来た。この船は排水量3600トンもある、ペリーの当時では世界でも有数の大型軍艦だ。ハリスの要請で使節団をアメリカまで乗せるため、司令官・タットノール提督は香港で多くの船室を追加してきた。

使節の新見、村垣、小栗は登城して将軍・家茂からアメリカ大統領に宛てた信書や国務長官宛の書簡、条約批准書、黒印を押した渡米命令書などを受け取り、2日後、築地の軍艦操練所から小船に乗り、品川に回航したポーハタン号に乗り込んだ。総員77人、萬延元(1860)年1月18日の事だ。

直接サンフランシスコ行きを目指したポーハタン号は、冬の北太平世を吹き荒れる嵐のため途中で直行をあきらめ、2月13日燃料補給のためハワイに寄港し、3月8日無事サンフランシスコに着いた。湾内にあるアメリカ海軍のメーア島造船所にはすでに咸臨丸が無事到着しており、アメリカ海軍の好意で補修のためドック入りをしていた。サンフランシスコでは9日間の歓迎行事をこなし、保養もした一行は、3月17日またポーハタン号でパナマに向け南下した。当時のパナマにはまだ運河などなく、60kmほどの地峡を汽車で横断し大西洋に出たが、日本国の使節が汽車に乗った初めての経験だ。

大西洋岸のアスピンウォールには、すでに排水量4770トンもある更に大きなアメリカ軍艦・ローノーク号が待っていた。日本使節を首都・ワシントンまで送る使命を帯び、アメリカ政府が準備したのだ。ローノーク号にはマクルーニー提督が乗り組んでいたが、ペリー提督と共にポーハタン号艦長として日本に来た人だ。ここから北上し、首都・ワシントンに通じるチェサピーク湾入り口のハンプトン・ローズ(Hampton Roads)に着き、これから一行の面倒を見るアメリカ側代表者の4人に会ったが、皆ペリー提督と共に日本に来た人たちだった。ハンプトン・ローズはジェームス・リバーがチェサピーク湾に流れ込む河口の地名だが、ここにペリー提督が日本に向けて出航した軍港・ノーフォークがある。そもそもこの遣米使節がアメリカに来ることになった原因は、ペリー提督が結んだ日米和親条約とその中に盛り込まれた領事の日本駐在だ。そして総領事としてやってきたハリスが通商条約を結んだことにあるから、当時のアメリカで日本を良く知るいわゆる知日派は、ペリー艦隊に乗り組んだ人たちである。更に、ペリー艦隊のオランダ語通訳だったポートマンも今回の日本使節団への通訳として選任されたから、ペリー艦隊との再会とも言えそうな陣容である。

♦ 批准書交換

(この節以下の陰暦は日付け変更をしなかった村垣の日記に基ずくもので、実際より1日進んでいる)

ワシントン、ネービー・ヤードでの使節団
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1862年ころのワシントンのネービー・ヤード
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最近のワシントンのネービー・ヤード
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ハンプトン・ローズで軍艦・ローノーク号から川蒸気に乗り換え、チェサピーク湾からポトマック川を遡りワシントンDCの南側、ポトマック川の支流・アナコスシャ川に面した海軍造船所に着いた。副使・村垣淡路守の閏3月25日の日記によれば、

12時に街のはずれのネービー・ヤード(海軍造船所)へ着船。ここは都府の総海軍所とのことで大きな構えである。頭役とか役人の総代だといって歓迎の挨拶に来た。陸には男女が群れ集まり、家の内外や屋根にまで上って見物している。やがて代表者のデュポン氏一行が我々を案内し上陸すると、ブカナン提督が迎えに出た。この人もペリー渡来のとき、艦長として来た人だ。その他5、6人が来て挨拶したが、見物人が押し寄せて道もないほどになった。そんな中に新聞紙屋という人たちが方々を駆け歩き、何かしきりに書いていた。後で聞けば、即座にその日の新聞紙に刷り、売り出すとの事だった。向こうの二階には写真機を立て掛け、我々の上陸の様子を写すとの事だ。

と、上陸時の歓迎の様子や混雑のさまを記録している。

ワシントンでは大歓迎を受けた。上陸からワシントン・ウィラード・ホテルまで5kmほどの距離を騎兵隊や楽隊、銃隊に先導され、一行は多数の馬車に乗ったが、熱狂する観衆が花束を投げ入れ、鐘を鳴らし、2、3町行っては止まり、また止まるという程の歓迎の人波にもまれた。村垣の日記には「まるで江戸の祭りのようだ」と書いている。ホテルは今でも14番街とF通りの角にあるが、100m四方もありそうな5階建ての立派なものだった。アメリカ滞在中はどこに行ってもこんな熱狂的な歓迎が続いた。

27日にカス国務長官を訪ね、着米の挨拶をし、咸臨丸の修理や軍艦派遣など米国政府の助力に感謝した。国務長官のオフィスは国会議事堂の一角にあったが、普段のまま何の飾り気もなく事務所に通し、事務的な会見だった。前節の「渡米準備と使節変更」に書いたが、アメリカ駐日公使・タウンゼント・ハリスは将軍との公使謁見が粗略すぎたと幕府にねじ込み、外国奉行・村垣範正や新見正興が対応に追われ、もう一度将軍との謁見をやり直させた。ハリスはこの国務長官のカスと比較しても、いかに特異なアメリカ人だったかがわかる。しかし村垣の日記にはカス国務長官との会見をこんな風に書いている。

この席は外国事務ミニストルが毎日出勤する局とのことだ。机を置き、書籍など取り散らし、少しも取り繕った様子もなくただ平常のように面会し・・・外国の使節に始めて対面するのに少しの礼もなく、平常懇志の人(寺に寄進に来た信徒)が来たようにお茶も出さずに済んだが、全く胡国(夷狄(いてき)の国)という名の通りのやり方だ。

このニュアンスからも分かるとおり、「礼節の国・日本」では、ハリスの抗議を受け入れ将軍謁見をやり直したのも、礼節に関してそれほど理不尽な要求とは思わなかったからだ。そして、カス国務長官がとったアメリカ伝統の、礼節もなく実務的に合理主義を貫くやり方に面食らったわけだ。

閏3月28日はいよいよ大統領との会見の日だった。3人の使節は武家の正装の狩衣(かりぎぬ)に萌黄色の烏帽子(えぼし)をかぶり、立派な飾り太刀をつけた。お付きの役人も夫々その格により布衣(ほい)や素袍(すおう)、麻裃で正装した。儀仗兵や騎兵隊、楽隊と共に条約批准書を入れた飾り箱が進み、お付きの役人と共に、夫々1人ずつアメリカの案内人をつけた3使節の馬車が続いた。ホテルを出た行列はホワイトハウスに向かったが、広い道路沿いには相変わらずものすごい見物人の垣ができた。日本人代表団は誇り高々に進んだが、村垣いわく、

自分たちは正装の狩衣を着て、海外では見慣れぬ装束だから人々は不思議そうに見つめていたが、このんな夷狄の国に来て皇国の光を輝かせる心地がし、おろかな身の程も忘れ誇り顔で行進するのもおかしかった。

と書いている。正装した日本国の代表が、公式にアメリカ大統領に会うのだという晴れがましさと誇りが強かったのだろう。

ホワイトハウスでは、大勢の役人や軍人が左右に並ぶ中でブキャナン大統領の歓迎を受け、無事批准書を渡した。後ろには大勢の婦人たちも着飾って控えていた。オランダ通辞の名村五八郎が通訳を勤めたが、オランダ語から英語は前述のポートマンが受け持ったはずだ。批准書交換も無事に済み夕方ホテルに引き上げた。村垣は、

大統領は背も高く70歳くらいの老翁で白髪穏和で威厳もあったが、商人と変わらない黒ラシャの筒袖股引をつけ、飾りもつけず太刀もつけない。合衆国は世界一、二の大国だが、大統領はいわば総督で、4年に一度全国の選挙で選ばれるという。国王ではないが、将軍から御国書も遣わした関係上国王に会う礼を用いた。しかし上下の別もなく、礼儀など何もなく、狩衣の正装も無益なことのようだった。

と書いているが、封建社会の支配階級を代表してやってきた村垣には、民主主義国アメリカの習慣は奇異なことばかりだった。しかしアメリカ側は大喜びで歓迎し、海外へは誇り顔で、狩衣姿を写真に撮って新聞に載せたという。初めて外国へ遣いをし、無事に将軍の言葉も伝えることができたので、男に生まれた甲斐があり、本当に嬉しかったとも書いている。

カス国務長官の夜会やホワイトハウスでの演奏会に出席し、国会議事堂や、その他多くの場所を見学をした。国会議事堂で特別に議会の様子も見たが、審議中は議員たちが演説のため「大声で罵り」、副大統領など一段と高い議長席に座っていたりと、日本橋の魚市場のようだったと村垣の目には映った。

一方のブキャナン大統領をはじめアメリカ政府は、日本からやって来た代表者たちとの批准書交換式には大喜びであった。1860(万延1)年12月3日付けのブキャナン大統領の上下両院宛の教書には、こう述べられている(James Buchanan, Fourth Annual Message, December 3, 1860)。いわく、

1858年7月29日に江戸で締結された日本との条約の批准書交換が、去る5月22日、ワシントンで行われました。本条約の保護と影響力のもと、こんなにも遠方の興味ある人民との間で、我が通商が急速に増大するだろうと期待するに充分な理由があります。
この条約批准書交換は非常に厳粛に行われました。この儀式のために、大君は特命全権大使として最も高貴な3名を任じ、彼らはアメリカ合衆国政府と国民により歓迎され、特別な栄誉と親切さで待遇されました。彼らはその訪米に大いに満足し、我国に対する最も友好的な感情に感激して故国に帰ったはずです。” アメリカ合衆国と日本大君とその継承者との間に、今後とも永続的平和と友好とを持つべし” とこの条約の条文にある如く、熱い希望を持ちたいと思います。

と非常な期待を表明していた。

♦ フィラデルフィア、ニューヨークを回る

批准書交換も終わったので、帰りはまたアスピンウォール経由太平洋岸のパナマに出て、ニューヨークからホーン峰経由で太平洋に出てくるナイヤガラ号に乗って帰る予定であった。ナイヤガラ号は、排水量5540トンもある更に大型の軍艦で、3台のピストンが水平にスクリュー軸に付いている、1995馬力もある最も大型の新鋭艦だった。それまでにも大統領や国務長官はじめ多くの人が、ぜひアメリカを見て帰ってくれとしつこく勧めていた。4月13日になって、使節とパナマで再会するためニューヨークを出航したナイヤガラ号は蒸気機関の故障で引き返し、1月ほどの修理になるとの報告が入った。国務長官は、このまま1月もワシントンに居てもしょうがないし、ちょうど良い機会だから方々の都市を見て歩き、修理の終わるころニューヨークに着けばよい。そして、喜望峰回りで帰国すれば真夏のパナマを通過せずに済むといってくれた。

村垣の考えでは、「ナイヤガラ号がニューヨークを出たというのは偽りだろう。あんな大船が出航してすぐ故障するなどとは信じ難い」と書いている。しかしアメリカ人の気質を考えれば、筆者は、おそらく船の故障は事実だったように思うがそれ以上は分からない。使節団は、それではボルチモア、フィラデルフィアを回ってニューヨークに行こうと計画変更に合意した。村垣は、このように一旦合意したことも変更せねばならず、わが国の軍艦でなければ乗ってはだめだとつくづく思った。しかし、世界一周できる技術や経験もなく、そんな大型の蒸気軍艦さえないころだから、こんな経験や見聞した新知識を早く日本の皆に伝えたかったろう。しかし帰国してみると大老・井伊直弼は殺害され、尊王攘夷が叫ばれる真っ只中で、皆一様に口を閉ざす以外の方法がなかったから、全く皮肉な結末だった。

4月17日、いよいよ大統領やカス国務長官にいとまごいをしたが、使節3人には大統領から純金の記念メダルを送られ、以下全ての団員にも国務長官から記念銅メダルが贈られた。いよいよ4月20日、ワシントンのホテルを後に、汽車に乗ってニューヨークを目指した。

途中ボルティモアで降りるとまた大歓迎が待っていた。ホテルに入り歓迎の食事になったが、消防隊のデモがあり、7階まで簡単に水を噴き上げてみせた。暗くなると花火が上がった。流星や火の玉が砕け散るものがあり、色もさまざまに変わり、明らかに隅田川・両国の花火より優れたものだった。翌21日また汽車に乗ったが、河にかかる1マイルもある長い橋をいくつか渡った。更に驚くべきことは、チェサピーク湾にそそぐサスケハンナ河はその河幅が1kmほどもある広さだが、急流で橋がない。使節団の乗る汽車をそのままフェリーに乗せ対岸につくと、何事も無かったようにまた汽車は走り出した。これは全く驚くべき経験だった。車中で居眠りしているものは、そんなこととは露知らず居眠りを続けるほど自然の出来事だった。かくして夕方フィラデルフィアに到着したが、駅からホテルまで、相変わらず熱狂的な群衆が待っていた。車中の昼食はパンを食べただけで皆空腹を抱えてホテルの食卓についたが、肉料理などと共にやっと出てきた米の飯はバター入りだった。これでは食べられないと交渉し、また別の飯が出てきたが今度は砂糖入りだ。仕方がないからパンを食べるだけだったが、「世界の国々は風俗も食べ物もほぼ一緒で日本だけが特異だから、異国の旅の難儀は筆舌に尽くしがたい」と村垣は書いた。今でこそ日本食レストランは世界中にあるが、当時は確かに大変だったろう。

フィラデルフィアにアメリカ政府の造幣局があったから、通貨交換比率の交渉の参考にするため、日本の金貨・小判や一分金の分析を依頼した。サンフランシスコでも同様な分析をしたが、これはアメリカ政府のお膝元という意味もあったのだろうか。ここは工業の中心地であり、街の造りもワシントンよりはるかに良く、人々の暮らしも裕福そうだった。23日の現地の新聞記事で、江戸で井伊大老の負傷というニュースに接したが詳細は一切不明だったから、使節一行は大いに心配だった。桜田門の事件は日本に帰ってからはじめて詳細を知ることになる。さて7日ほど滞在した28日、対岸に蒸気フェリーで馬車ごと渡った後また汽車に乗りニューヨークに向かった。

ニューヨーク湾岸に達し、アムボーイ(Perth Amboy, New Jersey)という町で迎えの大きな蒸気船・アリダ号に乗り換え、ハドソン川河口のニューヨーク第1波止場に着いた。アメリカ第一の商業都市にふさわしくおびただしい船が停泊し、海岸には見物人が雲霞のごとく押し寄せていた。ブロードウェーをはじめ街中を馬車で行進するとここにも歓迎の見物人が押し寄せていて、行っては止まり、行っては止まりと際限がなかった。壇上に案内され着席すると、その前を何組もの騎兵隊が行進し、楽隊まで騎乗兵であった。更に、色とりどりの服装で楽隊を先頭に行進する歩兵部隊が次々に通り、気付け薬のウォッカの樽を背負った兵士まで来た。また馬車に乗り、夕方になってやっとメトロポリタン・ホテルに着いた。

フィラデルフィアもそうだったが、夕方からガス灯に火が入り、戸外は昼のように明るかった。しかしこのような夜の繁華街は2筋くらいで、あとは比較的閑散としていた。村垣は日記に「フィラデルフィアは富裕の商人が多く、諸物を製造する所だから良い品も多く、人々も温順だった。ニューヨークは各国の商船が多数停泊し、方々から人が入り込み、貿易は盛んだが人は薄情で、物価も品質が悪く高い。案内のデュポン氏は、この街には外国人が多く入り込み人品も悪いから、往来にも用心すべしといった。何方も船着の大都会は人情が同じようだ」と書いている。おそらく函館奉行の時の経験から書いたのだろう。

ニューヨークでも大歓迎を受けたが、ボストンからもぜひ来て欲しいと市長が出てきた。しかしもうこれ以上は動けないと断ったが、今回わざわざ造ったものだと、残念そうに懐中時計を記念に置いて帰った。この金時計はボストンのアメリカン・ワッチ・カンパニー(「ウォルサム」のブランドで知られる)が特別に造ったもので、今も日本の外務省に保存されていると聞く。ニューヨークにはペリー提督の立派な持ち家があり、提督自身は3年前に亡くなっていたが未亡人に会い、日本から使節が来たのはペリー提督の功績だとの世論が再び高まっていることを聞いた。更に娘婿のベルモント氏とも会い、その晩餐会に招かれもした。

♦ 東回りで帰国

5月12日、いよいよ使節一行はキーン艦長率いる軍艦・ナイヤガラ号に乗船し、明日の出航に備えた。通訳のポートマンも一緒だった。翌日は快晴で、ずっと面倒を見てくれたアメリカ側の案内者・デュポン氏はじめ見送りに来たが、ナイヤガラ号は蒸気力だけで出航した。

大西洋を南下し、喜望峰を回り、インド洋に出てバタビアを通り、香港を経由し、9月28日浦賀沖にかかった。村垣の目には、快晴で富士山もきれいに見え地球を一周してきた甲斐があったがしかし、日付けを確認すると9月27日だという。「されば1年のうちに1日余分に手に入れたことは一生の得だ。詳しいことは航海者に聞くべし」と書いたが、サンフランシスコへ向かう途中の日付け変更線を知らず、日にちを調整せず日記をつけ続けたからにほかならない。品川沖に停泊した翌日、すなわち正確な9月28日、使節一行は軍艦操練所に上陸した。8ヶ月以上にも及ぶ世界一周の旅だった。

随行者・玉蟲左太夫が見たアメリカ

正使・新見豊前守に随行した仙台藩士・玉蟲左太夫は『航米日録』と名づけた日記を書いていた。当時の日本人が見た外国の一例として、その中の特徴的記述をいくつか簡単に列挙してみる。

 

船中で

1月20日(横浜停船) ポーハタン号の船員たちは極めて丁寧で、誰にでもよく物事を教え、少しも隠さない。彼らの日常を見ると、各々その責任範囲を専一に務め少しも怠らず、総官の命令いっか神速に命令遂行する。まるで手の指を使うようだ。

1月23日(暴風雨) 70余名の使節一行は全員魂を失い、一人として声を発せず、病人のようだ。真夜中に風波いよいよ激しく、陶器は砕け水器は破れ、今にも沈没かと思われた。しかし、その仕事に慣れているアメリカ人の挙動に全く変化はなかった。こんな事は彼らにとっては日常的で、我々の示した恐怖の色は一笑に付すだろうと、翌日になり赤面の至りだった。

1月27日(強い南風) 南風が暖かく平日と異なり、皆気分が悪くなった。午前10時ころ船上で音楽が始まった。怒涛が船上に飛び込んでくるにもかかわらず、悠々と演奏を続けた。これを聞くと心中が和み、苦痛を忘れた。外国の音楽でさえこんなに心を癒すから、日本の音楽なら更に良いはずだ。

2月1日(大雨・強い南風) これまでアメリカ人の様子を観察してきたが、波浪で船が動揺し歩行困難のときは手を取り助け、(波浪が打ち入る自分の船室から避難して)夜中に中層デッキに行っても、「お早う」と言って布団を敷きここに寝なさいと手で示す。日本人の悲嘆の色を見れば「じきじき(すぐ着くよ)」と言っては慰める。そのほか何事にも丁重に世話をし、自分の事は二の次で面倒を見る。その親切は全く感心だ。従って夷人といえども、みだりに卑下してはいけない。この人達へも儒教の五常(仁、義、礼、智、信)の教えを説けば、必ず礼儀の人となるだろ

サンフランシスコで

3月12日(メーア島) (別船でサンフランシスコの歓迎式典に参加しメーア島海軍基地に帰ってきたが、そこに停泊中のポーハタン号が撃った祝砲が、運悪く通りかかった海軍基地を統率する提督を打ち倒してしまった。自宅に送られた)提督はこんな重傷を意に介さず、「この度は重傷を受けたが心配するに足りない。45年前メキシコ戦争で死ぬところだったが、一眼を失っただけで40余年の時を過ごせたのは実に天幸だった。今たとえ一命を失っても遺憾とは思わない」と言い、椅子に腰掛け泰然としていたという。この話を聞いて大いに驚いたが、尋常の人ではない。歴史書に載せて恥じない人だ。アメリカには英雄や豪傑が多い事はこれで分かるはずだ。

3月16日(サンフランシスコ風俗) この湾は金鉱に近く、大きく湾曲して停泊に便利であるから、ヨーロッパやアメリカの商船が隊をなして来る。今も数百艘ほども停泊している。合衆国の諸府やニューヨークとは殊に往来があり、2艘の小型蒸気船が互いに連絡している様は、日本の常飛脚のようだ。フランス、イギリス、オランダなどからここに転居する者が多く、支那人もまた一万五千人ばかり居て、別に一港をなし唐人街と名付けている。また電信機を設置し、サクラメントの方々に通じている。急用を告げたい者は、それなりの金額を出せば数百里の遠方といえども一瞬で通じ、たちどころにその用事の往復ができ、その便利さといったらない。

3月17日(サンフランシスコ停船) アメリカ船員は、船将の前でもただ脱帽するだけで礼拝はしない。平日でも船将・士官の別なく上下で交わり、たとえ水夫でも、あえて船将を重んじる風も見えない。船将もまた威厳を張らず、同輩のようだ。従ってお互い親密で、事あればお互い力を尽くして助け合う。凶事があれば涙を流して悲嘆する。日本とは相反する事だらけだ。日本では礼法が厳しく、総主などには容易に拝謁できない。あたかも鬼神のようだ。これに準じて、少し位の高い者は大いに威厳を張り、下を蔑視し、情を交える事はいたって薄く、凶事があっても悲嘆の色を見せない。彼らとは大いに違う。こんな風では、万一緩急の時に誰が力を尽くすだろうか。これは、長く平和が続いた弊害だろうと嘆かざるを得ない。しからば礼法が厳しく情交が薄いより、むしろ礼法は薄くとも情交が厚い方を取るのか。自分はあえて夷俗を貴ぶのではないが、最近の我が国の事情を考えれば自ら分かるはずだ。

ワシントンで

4月16日(ワシントン) 夜、旅館の別部屋で影絵幻灯会が模様された。大統領が来たが、御者一人、女性2、3人を連れただけだった。従僕は連れず、平人と同じだったが、周りの人は何も怪しまず、礼拝する者も居ない。自分たちもその席に行ったが、誰が大統領か判別できなかった。夷人の上下のない平等の風習はこれでよく分かる。

ワシントン滞留中のこと この地に着いてから、我が役人が厳禁にしたので外出ができない。たとえ外出が許されても、官吏が付き添う。そんな時、たいていの人は時計やラシャ、ビロードといった類の品を求めて市中をうろうろするだけだ。1人で4個も5個も買うなどしているのを見ると、日本に帰って利益を得ようとしているに違いない。そして安いものを買おうと奔走する。実に見苦しい限りだ。自分はぜひ学校を訪ねたいと願ったが、付き添ってくれる官吏など誰もいず、ついにその願いを遂げられなかった。まして貧院、幼院など推して知るべしだ。これらは皆アメリカの風俗などを探索する格好の場所で、第一に行くべき所だ。今回渡海した者は、お奉行始め誰もそんな心のある者はいない。

ワシントン滞留中のこと 日本が万国と貿易するときは諸品の製造も今の十倍も作らねばならないが、限りある人力でどれ程頑張っても、そんな事は決してできない。貨幣の損失は論ずるまでもなく、国が衰弱するだけだ。これを解決するには、蒸気機械を製造し一人で百人分の仕事をする術を始めねばならない。その上で貨幣の改革をすれば、百年千年貿易しても衰弱に陥る懸念はなくなる。

 

この時から8年後には徳川幕府が政権を返上し、新しい明治政府ができたが、この間の政変のめまぐるしさに目を奪われ、それだけでこの時代を見がちだ。しかし当時の名も知られない武士の中に、初めて接する異文化に対し、このように優れた観察力と思考能力を持ってよく見据えていた人達がいたのだ。歴史を学ぶ者は、表面にあまり出ないけれど重要な、当時の人間像をよりよく見つめる必要があろう。

とりあえず幕府が学び実行できた改善策

♦ 軍艦操練所の教育と徽章の制

軍艦奉行・木村摂津守や軍艦操練所教授方頭取・勝麟太郎一行が咸臨丸でハワイ経由無事帰国し、品川沖に着いたのは万延1(1860)年5月5日のことだ。その10日後には登城し、将軍・家茂に帰国報告をした。またその5ヵ月後には遣米使節・新見豊前守一行もアメリカ政府の用意した軍艦・ナイヤガラ号で帰国し、将軍・家茂に帰国報告をした。しかしこの7ヶ月ほど前には桜田門で井伊直弼が暗殺され、幕府内は相当混乱していたから、アメリカで見聞してきたことも十分報告・実行出来ず、難しい政局が続いた。

初めて出来た長崎海軍伝習所の後、築地につくられた海軍教授所がより発展し、勝麟太郎が教授方頭取になり御軍艦操練所が開設され、咸臨丸の渡米も成功し無事帰国した。暗い中にもこんな朗報が幕閣を勇気付けたのだろう。万延1年6月17日には幕府の命により、石高に無関係に全国の大名家臣の軍艦操練所入学を許し、夫々の得意学科の測量や算術、造船や蒸気機関、船具運用や帆前調練などを習得させた。

また11月6日には、幕府や諸藩の艦船に掲揚する「徽章(きしょう)の制」を定めた。すなわち、大船には日の丸の幟(のぼり)を掲げ、公儀の船は中檣に白と紺混じりの吹貫きを掲げ、中黒の帆を使うといった旧来の規則を改め、その代わり白地に赤丸の国旗を艫綱に引き揚げ、白帆を使う。また更に公儀の軍艦には中黒の細旗を中檣に掲げるようにする。従って各藩でも大船が出来次第、夫々公儀の印に紛らわしくないものを定め幕府の許可を取ること、というものだ。特に軍艦などは万国共通の規則で、国旗の掲揚、将官旗の掲揚など必ず行っていたから、こんな規則を学んだ日本もようやくその仲間入りをしたわけだ。

♦ 蒸気軍艦購入と造船局取立て答申

11月17日にはまた幕閣が、蒸気軍艦購入を英・米両国公使に依頼する件を外国奉行に諮問し意見を求めた。水野忠徳(ただのり)や新見正興(まさおき)、村垣範正(のりまさ)や小栗忠順(ただまさ)などの外国奉行は連名で、外国との通商が盛んになりまた万一のことがあった場合、十分なる海軍が備わっていなければならないから、複数の蒸気軍艦の英米からの購入は直ちに実行する必要があるのみならず、日本で軍艦を建造する設備も備えた造船局を作り、国産の軍艦を造る必要があると答申した。自身では不運にもアメリカ行きのチャンスを逃した水野始め、アメリカをつぶさに見て来た新見、村垣、小栗などの外国奉行の目には日本の著しい遅れがはっきり分かり、2、3艘の蒸気軍艦を購入したくらいではとても間に合わないと、真剣な答申だった。これに基ずき幕閣はアメリカ公使・ハリスに3艘の蒸気軍艦を発注し、日本人留学生の派遣をも合意したが、1861(文久1)年4月に始まったアメリカの南北戦争等の影響で実行できず、アメリカからの購入は先延ばしせざるを得なかった。

甲鉄艦、のちに東艦
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しかしこの2ヵ月後にまたまた坂下門外に於ける老中・安藤信行への襲撃事件が発生し、一命は取り留めたものの、造船局取立てなどの海軍強化策は脇にのけられてしまった。しかし安藤は傷つきながらもアメリカの代わりにオランダと交渉し、蒸気軍艦の建造と日本人留学生の派遣とを合意した。その後実際に3艘の蒸気軍艦がアメリカに発注されるのは、アメリカ駐日公使もハリスからプルーインに交代した文久2(1862)年閏8月21日になってからである。

発注された1艘目・富士山艦(ふじやまかん)は2年後の1864(元治1)年6月に完成し、翌年の慶応1年12月に横浜に着いた。2艘目の甲鉄艦(こうてつかん)、のちに東艦(あずまかん)と呼ばれる軍艦の納入に関し、発注を受けた当時のアメリカ駐日公使・プルーインの不手際もありゴタゴタがあった。この解決のため、7年前に元咸臨丸の航海士として渡米したことのある勘定吟味役・小野友五郎が、福沢諭吉も連れてその交渉役としてワシントンに派遣され、フランスがアメリカの南北戦争当時に南軍のために建造した蒸気軍艦・ストーンウォールの購入を決めた。このストーンウォール、すなわち東艦は1869(明治2)年に納入されている。この購入経緯については、蒸気軍艦・ストーンウォールを参照 (:ここに戻るにはブラウザーの戻りボタン使用)。

一方の造船所については更に遅れ、勝麟太郎の将軍・家茂への直接の働きかけにより、やっと文久3(1863)年4月24日、神戸海軍所・造船所の取建てが勝麟太郎に命じられた。

 


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10/15/2017, (Orginal since November 2006)