日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

香山栄左衛門とペリー提督

 浦賀与力・香山栄左衛門

香山栄左衛門は浦賀奉行支配の与力として、支配組頭の下で、同心組頭、同心、足軽、水主等を使い浦賀湊を出入りする船々の「船改め」、台場の守備など幕府直轄御領地・浦賀の諸事を分担し、奉行職を支える仕事に携わっていた。浦賀は江戸湾の入り口にあり、廻船問屋が多く、江戸に出入りする船の重要な寄港地でもあったが、江戸の入り口である事から鎖国下にあっても時として外国船が訪れる要地であった。従ってペリー艦隊の来航時は、外国船の乗り留めや検査など国家的観点からの重要性が増していた。


顕彰碑「昭洞香山君碑」(浦賀・西叶神社)
Image credit: 筆者撮影

浦賀の与力は、奉行所即ち船改め関所が下田から浦賀に移って以来浦賀奉行所の近くに住み、代々与力を世襲家業として来たが、『浦賀奉行史』を見ると「与力・香山半蔵、宝暦4(1754)年、浦賀真秘録」や「与力・香山只助、文政8(1825)年、西浦賀地誌明細帳」などの名前が見えるから、恐らくは香山栄左衛門の先祖であろう。浦賀の西叶神社には、栄左衛門の子息・永隆により建てられた香山栄左衛門を顕彰する「昭洞香山君碑」がある。この碑によれば、諱は永孝(ながのり)で、紀州藩士・刈谷允塞の次子として遠江国新居宿で文政4(1821)年4月10日に生れた。15歳の時40石取りの浦賀与力・香山堅兵衛の養子になり、その跡を継ぎ、天保14(1843)年には浦賀で80石取りの与力になっていた。西叶神社の顕彰碑にはこう彫られているが、栄左衛門はペリー艦隊が浦賀に来た時は32歳の働き盛りであった訳だ。

ところで、ペリー艦隊の主任通訳官・ウィリアムズは自身で日誌を書いていて、後日「A Journal of the Perry Expedition to Japan. (1853-1854)」というタイトルで「Transactions of The Asiatic Society of Japan. Vol. XXXVII: Part II. 1910」誌に公開された。ウィリアムズはこの中で香山栄左衛門について、恐らく栄左衛門が名刺として紙に書いて渡したであろう名前を日誌の英文中に漢字でも併記している。いわく、「 Yezaimon のフル・ネームは、永孝(Naga-nori)も付いた香山連栄清門である」と記している。すなわち栄左衛門は自身の名前をウィリアムズに、「香山連栄清門永孝」と書いて伝えたのである。そしてウィリアムズは、公式地位は「浦賀騎士長」だと言うと記してもいるが、当時与力は騎乗が許されて呼称単位は「騎」であり、ここから騎士長と伝えたのであろう。現在の歴史資料は、著者のこの記述も含めて「栄左衛門」と書くが、当時香山自身は「栄清門」とも書く事があったのだろう。或いはこれが正式なのかも知れないが、上述の西叶神社にある「昭洞香山君碑」は「君諱永考香山氏稱榮左衛門・・・」と始まるから、「栄左衛門」と「栄清門」の両方を使ったのかも知れない。また姓をわざわざ「香山連(かやまのむらじ / かぐやまのむらじ)」と書いて渡したという事は、「香山」と言う姓に大いなる誇りを持っていたものだろう。「香山連」は『新撰姓氏録』の「諸蕃」にも登場する程の、歴史ある、当時千年以上も続いていた古代氏族の家名である。

 ペリー提督初回来航時の香山栄左衛門
典拠:『香山栄左衛門上申書』、東京大学史料編纂所

     噂の黒船が現れた

浦賀与力・香山栄左衛門は嘉永5(1852)年の秋の頃、来年の3月頃ペリー艦隊が来航するという具体的な噂を聞いた。栄左衛門は既に嘉永3年(1850年)の『別段風説書』でオランダから伝えられた、アメリカ合衆国の国務長官・クレイトンには「日本と交易したいという願望がある」という情報をも知っていたので、当時の浦賀在勤奉行・水野筑後守を通じ老中首座・阿部伊勢守に噂の情報確認を願い出た。幕閣からは嘉永5年の別段風説書の写しが浦賀奉行に渡され、栄左衛門はこれを読むことが出来た。この情報では絶対に来ないと言う確証も無い事から、栄左衛門は奉行・水野筑後守やその後任として赴任して来た戸田伊豆守とも相談し、「長崎に回航せよ」という諭し文を準備していた。この間の経緯は「 浦賀奉行と与力・香山栄左衛門のアメリカ船渡来対策と準備 」(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) に書いてあるが、栄左衛門にとっては心の準備が出来ていた様である。

しかし5月を過ぎても噂のアメリカ船は来なかったが、6月1日から久里浜で大筒の町打ち稽古を始めていた。ところが久里浜で3日目の町打ち稽古の昼食を済ませ休息していると、午後2時頃、城ヶ島の漁師から異国船4艘が三浦半島の松輪崎や剱崎を乗り越えて浦賀の方角へ乗り入れて来たと言う報告が入った。直ちに浦賀に帰り、応接のため栄左衛門は4番船に乗り込んで現場に向かった。


初回、浦賀に碇泊した4艘のペリー艦隊の概略位置
Image credit: Basic map: Google Earth. 位置は筆者が追加。

4艘の異国船は既に浦賀湊沖から鴨井村沖にかけて碇泊していて、1番船に乗り組む与力・中島三郎助が旗艦・サスケハナ号に乗り付けたが上官の者以外は乗船させないと言い張っていると言って帰って来た。栄左衛門と三郎助は、こんな事では細かい事が何も分からないからもう一度行って話すべきだと話し合い、再度三郎助は旗艦に行き、上官でなくとも相応の者と話をしたいと交渉した。異人側はこれを受け入れたが与力1人と通詞1人しか受け入れず、1番船に乗る三郎助と蘭語通詞・堀達之助だけが乗船する事が出来た。

やっと旗艦・サスケハナ号に乗船した三郎助は質問を始めたが、それでも異船側は、本国アメリカから日本に対する国王の書簡を持参したのだと言う事以外は一切説明しなかった。そこで仕方なくまた引き取って浦賀奉行への報告を済ませた。更に夕刻になって三郎助は再度アメリカ船に行き更なる詳細を聞こうとしたが、上官でなければ応接はしない。「上官が国王の書簡を受け取りに来るか、こちらから持参するか」と言う返事だけで、それ以上の会話はせず進展がなかった。軍船である以上、搭載する武器や人員情報は他国には漏らさない規則であるとも言って来た。夜になったので三郎助はそれ以上の応接は明朝に延ばした。

翌日6月4日の早朝、今度は香山栄左衛門が通詞の堀達之助と立石得十郎を連れて旗艦・サスケハナ号に行った。ここでも再度上官でなければ話をしないと言ってきたので、香山栄左衛門は次の様に対応した状況を自身の上申書に記している。いわく、 

自分は「応接官」であると身分を説明すると、乗船を許され将官部屋に通された(筆者注:ここでしかし、『和蘭通詞堀達之助立石得十郎手続書』によれば、「浦賀の応接長官である」と通訳したと書いている)。今度は将官・ブキャナンと副将・アダムスの外多数の異人が立ち合った。渡来の理由を聞いたところ、本国の北アメリカ、ワシントンの国王より日本に宛てた書翰を持参した。合衆国中のカリフォルニアから蒸気軍艦2艘フレガット軍艦2艘を準備し、使節として高官の者が乗船して来ている。日本より上官の者が出て来て書翰を受取ってくれと言った。

そこで(栄左衛門は)、ここ浦賀は異国応接の地ではない。伝えたい事があれば長崎に行く様にと答えた。すると先方は、今回浦賀に来ることは昨年中に書面で日本政府に通達してある事だから、長崎に行く事は国王の命令が無いので出来ない。ここで書翰を受取れないと言うのなら、直に江戸表に行き渡す。勿論日本政府は国王書翰の趣意は分かっている筈だと答えた。船中の状況や人々の気配は非常事態下の様子を呈し、(栄左衛門は)このまま書翰を受取らなければ(幕命の「国体を失せぬようにし、出来るだけ穏便に出航させるように」という)平穏の取計らいが出来ないと判断したので、受け取るかどうかは江戸表に伺ってみる。然し往復の日数も必要だから直ぐに返事は出来ないと答えた。するとこの件は政府は知っている事だから、往復3、4日以内に可否を知りたい。且つここで受け取らないのなら江戸表に行って渡す。江戸表に聞いてもここで受け取らないのであれば使命を誤る恥辱を雪ぐ事も出来ない。そうなれば浦賀で余儀も無い状態(=戦争)に至るが、そうなった時も白旗を立てて来れば鉄砲は打ちかけない、と覚悟の程を答えた。将官は勿論周りに居る異人一同の相貌は殺気を顔に表し、心の中では是非本願の趣意を貫くと言う気持ちが良く分かった。彼等が武力を用い強いて渡す物を受取らざるを得ない状況になっては日本の国躰に拘る重大事件になるから、万里の波頭を凌ぎ、国命を受け、使節としてやって来た気持ちを空しくする様な不仁な決定は無い筈だから、穏かに都府の命令を待って欲しいと諭した。こうして浦賀に帰り報告をすますと、この異人達の気持ちを出府して(在府浦賀奉行の)石見守へ報告し、平穏な取り扱いになる様に申上げる様にと伊豆守に言われた。

そこで即刻久里浜村にある御用船に乗り組み、同心組頭を連れて出府し、夕方4時頃江戸在府の浦賀奉行・井戸石見守に面会し一連の出来事を報告した。そして彼等は、この度国王の書翰を持参し浦賀表に渡来する事は兼ねて政府に通達してある事であるから政府ではよく知っている筈だ。だから長崎に回航する事はもってのほかの事であると、殺気立って言い立てた事は意味が分からない。昨年中に風説書の写しをお渡し頂いた頃は渡来はしないとまで内々に言われていたが、天地懸隔の相違があり、どうした訳でありましょうか。彼等が申し立てる通りに通達があったのでしょうかと言った所、実は昨年その様に言って来たと石見守が言われた。そうであったら兼て浦賀在住奉行・戸田伊豆守に通達があれば、始めから今回の様な行き違いが無かったのであるが、隠密にされていた事は今更何とも言いようがない。嘆息の限りでありますと言い、実に浅ましい事であると数時間に渡り落涙を禁じ得なかった。そして今晩は一宿し明日ご評議の結果を受けて浦賀に帰るように言われ、石見守宅に一宿した。

ここで「実は昨年その様に言って来たと石見守が言われた」と言う部分については、約1年前の嘉永5(1852)年6月5日にオランダの新商館長・ドンケル・クルチウスが長崎に着任し、別段風説書を提出した。そして同時に、ジャワのオランダ領東インド総督の公翰を受領してくれる様に強く願い出た。そこで長崎奉行・牧志摩守は幕閣の指揮を要請し、幕閣は返事のいらない風説書と見做しての受理を命じた。そこで8月17日にクルチウスはジャワ東印度総督の公翰を長崎奉行・牧志摩守に提出し、「米国政府には明年、日本へ向けた使節派遣の計画がある」事を報じ、鎖国の危険を説き通商条約の草案を提示していた。9月には阿部伊勢守がこの和解を評議のため海防掛け一同に渡し、勘定奉行にも渡していた一連の事実を指す。嘉永5年の別段風説書の写しが浦賀奉行へ渡されて間もなく、オランダの新商館長・ドンケル・クルチウスから通報されていた情報だった訳である。

     ペリー提督の香山栄左衛門の身分認識

更にここでペリー提督の香山栄左衛門の身分認識について触れる。ペリー提督は日本への遠征中自身の日誌を書いていた(「The Personal Journal of Commodore Matthew Perry. Edited by Roger Pineau. Smithsonian Inst. Press. 1968.」)。ペリー提督は第1回目の来航時に久里浜で国書を渡す時点でのこの日誌に、栄左衛門を 「政府特使の浦賀首席補佐官・香山栄左衛門(The chief deputy of the Commissioners at Uraga, named Eizaemon Kayama)」と記述している(上記日誌、 P. 106)。ここで言う「政府特使」とは、政府を代表してフィルモア大統領の国書を受取った正使の浦賀奉行・戸田伊豆守と副使の井戸石見守の事である。

従って上述の香山栄左衛門の上申書の冒頭にある如く、栄左衛門自身は「応接官」であると言い、通詞の堀達之助が気を利かせて「浦賀の応接長官である」と通訳したが、それにも関わらずペリー提督は、香山栄左衛門を「政府特使の浦賀首席補佐官・香山栄左衛門」と理解していたのである。しかし「ペリー提督の日本遠征記」の編集者のフランシス・ホークスは香山栄左衛門を「浦賀のガバナー」と呼称しているが、何故この様な矛盾を敢えて取り入れたのか、あるいは単に面白く書いたのか、筆者にはまだ不明である。

     アメリカ国書の受け取りを決定

翌日の6月5日朝に登城した在府浦賀奉行・井戸石見守は午後2時頃帰宅し栄左衛門に言うには、今日老中はアメリカ書翰受け取り可否の決定はしないから即刻浦賀に帰るように。明日御下知が済むはずだから連れて来た同心組頭を残して置き、その内容を伝えて帰浦させると言ったので、栄左衛門は陸路を夜を徹して旅をし、翌6月6日未明に浦賀に着いた。早速浦賀奉行に報告を済ませ自宅に引き取ったが、眠る暇も無くまた騒動が起った。ペリー提督の指示で蒸気軍艦・ミシシッピー号が測量のため鴨井沖の停泊地から観音崎を回り、15km余りも内海に入った小柴沖にまで接近したのだ。香山栄左衛門の上申書にいわく、 

蒸気船1艘が内海へ乗り入れたから差し止める様に応接方与力・近藤良次へ申付けられた。通詞を連れて旗艦へ行ったところ、書翰授受の一件以外の応接はしないと断られ船上にも上れなかったので、余儀なく引き取ったと報告された。事実が不明なため、また本船に行き引き戻すよう交渉せよと奉行から(栄左衛門に)申付けられたので、終夜の旅行で体が疲れ切っていたが即刻アメリカの本船に行き、アダムスに面会し、何故こんな風に内海に乗り入れるのかと糺した所、これは書翰を受取らない事になった時には内海に乗入れ騒動に及ぶので、海底の浅深を測量するために派遣したものであると答えた。そこで、未だ書翰を受取るかどうかも分らないのに御国法も守らない行動は問題であると指摘し、直ぐに引き戻すように交渉したところ、漸く承諾し、夕方4時頃本船より引き戻しの合図を出し、浦賀沖の元居た停泊地に帰り係留した。

こうした栄左衛門の論理的な交渉と努力でミシシッピー号は6日の夕方までに引き戻されたが、この状況に驚いた幕閣は6日の夜8時頃に急遽再登城して協議の結果、とにかくアメリカの国書だけは受け取る決定をした。小柴沖から江戸城までは直線距離でほぼ40km余りであるが、かってこんな近くまで侵入した外国の船や軍艦は無かったから、ペリー提督の軍事圧力に屈した訳である。

翌6月7日の朝10時過ぎ、栄左衛門は戸田伊豆守から、江戸に残してきた同心組頭が帰って来ての報告では書翰を受取る旨の御下知が済んだ。その結果をアメリカ側に伝えよ。明8日には石見守が浦賀に到着するので、9日に国王書翰を久里浜で受け取る旨を交渉せよと言われた。早速アメリカ本船に行きこの決定を伝えると、アメリカ側はこの国王の書翰の外に政府からの添書があるから、これを直ぐに江戸表に届けて貰いたいと言い出した。日本政府の政務を執る人は兼ねてその意味合いを心得ている筈だから、直ぐに返事を貰い帰国したい。即刻この添書を持参して欲しいと言って添書を差し出した。そこで栄左衛門は、そうであるなら何故最初から言わなかったのか。国王の書翰を受取ると言ってから他の添書もあるなどと言い出すのは違約である。受取れないと言うと、速やかに一戦に及び勝負を決するとか、浦賀奉行は既に日本に通達してある事実を知らない様だから江戸へ行き老中と直接談判をする等と難題を持ち出し、枝葉の事を言い出した。栄左衛門は重ねて、最初からそんな事を言いもしないで、例え日本政府が書翰の趣意を知っていたとしても、国家緊要の事であれば直ぐに決定など出来る筈がない。今回は当方が合意した様に、書翰の受け取りだけに願いたいと交渉したところ、アメリカ側も漸く承諾をし、ペリーより承諾の書面を差し出した。

更にアメリカ側は、日本で書翰の受け取りをする人はどんな官位の人か。ペリーはアメリカの国王に次ぐ大官であり、受け取りは浦賀奉行ではなく、日本の代表者も江戸から同様の官人に来て貰いたいと言った。栄左衛門は、それに付いては受け取りのため江戸より大官が来る事になっているので安心する様にと伝えた。江戸詰め浦賀奉行・井戸石見守が来る事は既に決定していた訳である。また受取り場所の久里浜は遠すぎるからもっと近い場所にならないかと交渉して来た。栄左衛門は、皇国の大官がわざわざ出向いて来るのは容易ならぬ出来事であり、狭い場所に出張する様な事などは出来ない。従って奇麗で広々とした海浜に仮陣屋を建てて行うが、ここ浦賀の地は元来応接地ではないから授受の時も一言の問答もしないので、書翰の受取が終われば速やかに本船に引き取って貰いたいとも伝えた。人前に容易に姿を見せず、威厳を印象付けようとするペリー提督の作戦をそのまま取り入れた様に、栄左衛門もまた「皇国の大官は狭隘な場所には来ない」と言って、実際に来るのは江戸在住の浦賀奉行であるが、その大官ぶりと威厳とを印象付け、また江戸湾では浦賀より更に外側に位置する久里浜を受け入れさせたのだ。そして、勿論その時は当方で道案内も行う等と細部の手続きを説明すると、アメリカ人達は大いに安心した様子になり、国王の書翰をひとまず見てくれと言い、長さ3尺幅2尺程もある箱を持って来た。その箱は外面をタールで塗って湿気の侵入を防ぎネジ釘で封印した物だったが、これを開いて見せた。内部には黄塗りの箱があり、それを開くと中にまた特別な木造りの指物箱があり、内面は藍色のビロード張で、中に書翰が入っていた。見せると直ちに元の様に封じ直したが、この時、書翰が取り出されると表敬の祝砲3発が打たれた。

いよいよ書翰受け取りの6月9日の朝8時頃、栄左衛門はアメリカ側を案内するため、中島三郎助、近藤良次、佐々倉桐太郎と共に4人で蒸気軍艦・サスケハナ号に行った。アメリカ側は久里浜沖に並んだ軍艦から夫々脚船を降ろし、合計13艘に乗った約300人が10時頃久里浜に上陸した。そして急いで浜辺に建てられた仮陣屋内で無言の内に国王書翰の授受が行われ、それが終わるとアメリカ側は全員が引き上げた。この上陸し引き上げるまでのアメリカ側の銃陣すなわち鉄砲隊の動きは、栄左衛門の見る所では、偽って深地に引き込み生け捕りにされない様にと、全く敵地に乗り込んだかの様に用心している隊形に見え、要人の前後を警護する銃隊の動きは驚くほど厳重な警戒体制を取っていた。

     アメリカ艦隊の内海侵入と引き戻し

夕方になると風波が荒くなったが、久里浜を離れたアメリカ船の4艘は観音崎を回って内海に入り、金沢乙艫(おっとも)と小柴の沖に来て錨を入れた。この辺りは、栄左衛門が江戸から夜を徹して浦賀に向かい未明に帰宅したその日に海底測量を目的にミシシッピー号が来た場所であるが、この測量情報により、艦隊にとっては安全な停泊地候補であった。これらの行動を監視していた番船から報告が入ると、戸田伊豆守と井戸石見守から引き戻す様に命令された栄左衛門は、即刻小柴沖の停泊地に行き内海侵入の理由を糺した。すると風波が強まり浦賀沖では碇泊に難渋し、殊に来春に日本の返事を受取りに来る時は本船より大型の船2艘が加わるので、その時に高波や烈風があれば迷惑する。その時のために船掛り場を探して置くためにここまで乗り入れたのであると答えた。日本側が書翰を受取ったため、アメリカ側でも親しみを感じ、少しの異心も無いと説明した。しかしこの様に内海に乗入れる事は御国法で厳重に禁止されているから是非元の場所に戻り退帆する様にと交渉した。しかし栄左衛門は、穏かに書翰を受取った事でもあり、強いて差し止めれば余分な疑念を生じかねないと心配するうちに日が暮れてしまい、明朝また交渉しようと夜中に浦賀に帰り、その顛末を報告した。

翌日6月10日の早朝、退帆を再交渉するため小柴沖に来ると旗艦・サスケハナ号の旗印が違った物になっていて、乗り付けて糺したところ、将官・ペリーと副将・アダムスはミシシッピー号に乗り組んで本牧辺りに行ったとの事で応接が出来なかった。そこでミシシッピー号に漕ぎ付けて応接をしようとも思ったがスピードの速い蒸気船ではとても相手にならず、旗艦近くで待機してミシシッピー号の帰帆を待った。しかし本牧より内部にまで入り込んではまた府内で騒動になるだろうと思い付き、アメリカ船には悪意があるのではなく安全な停泊地を探しているので心配しない様に、また軽率な行為が無い様にするため、番船に出役していた浦賀与力・近藤良次に頼み本牧近辺警備の細川越中守の家来にアメリカ船の状況を伝えてもらった。更に海防掛け衆にも届け出る事も頼んだ。そうこうするうちに夕方になったので、状況を書面にして金沢村から村継で浦賀奉行宛てに報告をし、その夜は金沢村前の夏島の陰に船を寄せその中で夜を明かす事にした。同行した下役や御用船を漕ぐ水主達は数日の労働に疲れ果て前後もわきまえず熟睡してしまったが、栄左衛門自身はどう応接して引き戻すか、どう交渉して引き戻すかに悩み、一睡も出来なかった。夜明けと共に全員を呼び起こし出発準備にかかった。

11日は早朝からアメリカ船の停泊地に行き交渉しようと夏島から漕ぎ出すと、蒸気軍艦2艘が動き出し、湾内を上総の富津の方に向かい移動し始めた。直ちに漕ぎ寄せて旗艦に乗り組み交渉を始めたが、アメリカ側の言うにはあと1日だけ内海の測量をしたい。昨日もミシシッピー号で更に湾内を遡って探したが適当な停泊地は見つからなかった。やはり現在の場所(筆者注:小柴沖、ペリー提督は「アメリカン・アンカレッジ」と名付けた)が最も良い場所だと言った。そこで栄左衛門は、ここより湾の内側には適当な場所は無いし、ここまで乗り入れる事は厳しく禁止されているのでこの様に差し止めにやって来たのだ。これを聞き入れてくれなければ拙い事になるから直ちに引き戻して貰いたいと強く迫った。これを聞き入れたアメリカ側は直ちに合図の旗を揚げると、小柴沖に居た帆走軍艦・サラトガ号とプリマス号も動き出し、4艘とも観音崎を江戸湾内に少し回り込んだ馬堀沖に集合し、明日は必ず出帆すると約束をした。そして食料少々を希望したので直ぐ浦賀に帰り報告すると、奉行の取計らいで、和錦5巻、扇子40本、キセル50本、椀50、鶏150羽、卵千個を与えた。するとアメリカ側は無料の品は受取らないというペリー提督の方針通り、栄左衛門への感謝のしるしとして、木綿2包み、酒2箱、砂糖1袋、アメリカ合衆国志略という道光板の本4冊、蒸気船の絵図1枚、ペリー提督の肖像画などを贈った。更に水主達は牛肉パン等も貰っていたが、それらの全てを奉行所に持ち帰り伊豆守と石見守に提出した。

栄左衛門の上申書によれば、アメリカ側から感謝のしるしに贈られたこれらの品々は、石見守の指示で翌日の12日、アメリカ船が約束通り出帆すると番所前で全てを焼却処分にした。しかしこれら品々の処分に関する伊豆守の意見は、一旦江戸表に提出し、その判断により受納するのが良いというものだった。栄左衛門によれば、元々の伊豆守の考えは、栄左衛門を引立ててくれ栄左衛門がそれに応えて素晴らしい働きをしたので、この品々は栄左衛門に与えたかったのでこう考えたものだったと言う。また、この日は4艘のアメリカ船の4人の将官が旗艦・サスケハナ号に集まり、出帆の祝杯を挙げ祝ったという事であった。

     アメリカを信頼する香山栄左衛門

6月12日は早朝から皆が御番所に詰めていたが、兼ねて出帆すると言っていたアメリカ船は朝8時頃になっても出帆する気配がなく、時刻のみが経過した。そこで一刻も早く全てに決着をつけたいと願う伊豆守は、もう一度アメリカ船に行って早く退帆する様に催促せよと栄左衛門に命じた。しかし栄左衛門が伊豆守に言うには、

今般アメリカ船に関しては初めから私1人で取扱い、その応接の間に彼等は一度も約束を違えた事はありませんでした。今は少しだけ時刻が過ぎたとはいえ何とも交渉する言葉もありません。殊に今日退帆する事は固く約束した事であり、必ず出帆する筈です。再度行って交渉せよという件はどうか他の人にご命令下さい。

と答えた。それならもうしばらく待って様子を見ようと栄左衛門を信頼する伊豆守は言ったが、そうこうするうち9時頃、旗艦・サスケハナ号始め4艘とも揃って無事に退帆して行った。

4艘の黒船が突然姿を現してから退帆する迄の9日間の間、国家的危機を背負い交渉する日本側とアメリカ側との間には、栄左衛門は艦隊参謀長・アダムス中佐とサスケハナ号艦長・ブキャナン中佐を信頼し、彼等もまた栄左衛門を信頼する良好な関係が出来ていたのだ。幕命の「国体を失せぬようにし、出来るだけ穏便に出航させるように」という困難な命題に対処する浦賀奉行・戸田伊豆守と与力・香山栄左衛門の信頼関係もまた、大きな力であったのである。

 誹謗中傷され排斥されても「命を懸けて国に報いる」、香山栄左衛門
典拠:『香山栄左衛門上申書』、東京大学史料編纂所

     香山栄左衛門も褒美をもらったが、あまりの悪説に・・・

嘉永6(1853)年6月12日に4艘の黒船艦隊は約束通り退帆し、「国体を失せぬようにし、出来るだけ穏便に出航させるように」という幕命を守った浦賀奉行配下では安堵が広がった。海防掛けの勘定役からは、阿部伊勢守の沙汰により、平穏な取り扱いが出来て特別な骨折りであったろうが、貢献の度合いにより褒美を出すから早々に報告する様にとの指示が浦賀奉行・戸田伊豆守と井戸石見守に到来した。そして香山栄左衛門は、今回の貢献に対する褒美として格別な取り立てがある様に申請したと奉行・伊豆守から聞かされた。また同時にその他の応接掛、番船出張者、警備陣へも然るべき褒美が申請された。しかし程なく将軍・徳川家慶が亡くなり、四十九日の中陰に入ったため申請した褒美の結論は延期された。ところが浦賀では、栄左衛門は奉行の申し立てで格別な身分に取り立てられる様だと妬み中傷する者があり、様々な悪い噂が広まった。しかし9月上旬になると阿部伊勢守の書付が出され、栄左衛門を始めとする4人の応接掛へ白銀20枚づつが下され、奉行から申請された身分取立の件は却下されたがしかし、特別に貢献した栄左衛門には、「格別出精相務め候に付き、別段の訳を以て、取り来る御切米八十石下さり、御譜代之を仰せ付ける」と、これまでの浦賀与力としての手当て80石はそのままに、御譜代に取り立てると老中から浦賀奉行へ通達された。地方与力から譜代の格式を持つ与力になったが、収入は変わらず、名目の名誉だけが与えられた訳である

最初に浦賀奉行から申請した身分取立に付いて聞き入れられなかった事は、結局栄左衛門の功労を妬み中傷する悪説、即ち悪い風評があったためとの事であった。その悪説と言うのは、アメリカ人との応接中にどんな事を取り繕ったのか分かったものではなく、さもなければ無事に退帆などするものではない。恐らくは交易する事を約束したのではないか等と取り留めも無い噂を伝えた者が有り、そのため、元来卑しい身分の者に応接などさせた為に表面を取り繕っているのかも知れない。今後は身分の高い者に取扱いをさせるべきである等という事を、ある高貴の人物が幕閣に伝えたと言う事も栄左衛門は内々耳にしていた。こんな疑念を持たれた栄左衛門に対する更なる悪説はその後も一日一日と増えて行ったが、12月になって、以降の異国船の応接に付いては支配組頭が担当し、支配向き目付も立ち会う様にとの幕府の指示が出された。栄左衛門いわく、

私に於いては畢竟身分は卑しくても、国家の安危に係る大切な応接であり、いささかも虚飾する心は更に無く、殊に今般のアメリカ船の取扱いは実に身命を投げうって勤め、滞りなく退帆させた上は格別の御褒賞もあり、子孫の栄ともなろうと日々楽しく御沙汰のみを待ち焦がれていた所、豈図らんやこれは反って身の仇となり、往々衆人の疑念を蒙ったのは如何なる世のあり様かと深く嘆息し、勤務する気力も失せた。

こう書いている。心底からの落胆であった。

そもそも浦賀奉行・戸田伊豆守が香山栄左衛門を1人だけ重用した理由に付いて、伊豆守は同僚の在府浦賀奉行・井戸石見守に宛てた嘉永6(1853)年12月2日付けの書翰で次の様に書いている(『南浦書信』)。いわく、

当時組頭はご承知の人物、其の外組内も皆懸念する者も無く、応接掛りも名のみであり、まさかの時に用立つ者は香栄一人に限り、本人も身命を投げうち働く心得のため、実は心腹を打ち明かし、同人も所存のあるだけを話し、頼もしい者に違いありませんでした。

栄左衛門以外に頼りになる者は誰も居なかったと言う事だ。更にまた戸田伊豆守が栄左衛門の昇進を幕閣に申請し、その結果期待していた地位は、同様に12月12日付けの書翰でいわく、

異船が渡来しても御台場は御手薄で、御軍艦はなく、当節の(我が国の)実用は兎角平穏に異船を出帆させる事のみで、その取り計らいは組内の栄左衛門であり、この者が一働きしたためであります。是非身分御取立てになり、組頭見習いが出来なければ日光奉行支配吟味役の釣り合いで、御勘定格とか支配勘定格とかにして頂きたく、そうでなくては浦賀へも出張いたしかねる事を種々嘆願いたし・・・

こう述べているが、奉行・伊豆守の本心は出来たら栄左衛門を組頭見習いに昇進させたかった様である。組頭見習いになっていれば他の与力には気を使う必要もなくなり、次にアメリカ船が来ても、事情が分かり交渉能力も充分な栄左衛門で乗り切れると期待していたのであろう。

一方しかし、勤務する気力も失せたその後の栄左衛門は、翌寅年元日、一同が奉行に年賀を申し述べた後、奉行・伊豆守に是迄の厚く親切な仰せつけの礼を述べ、昨年アメリカ船取扱いの後は日増しに悪説が募り、一日も愁眉を開く事も無く、もはや勤務の意欲も果てたので引退したいと内々に伝えた。伊豆守もアメリカ船の1件に付いては種々無実の悪説を被った栄左衛門の心中をよく推察してくれ、愁訴は尤もである。願いの通りにしないでもないが、どんな風聞悪評を被っても元々事実も無い浮説であるから何の問題も無い。殊に遠からずアメリカ船の再渡もある事だから、困難も予想されるそんな状況下では、元気な体でありながら不快と言って引き籠るのも恐れ多い。アメリカ船が再渡し首尾よく退帆した後で引退すべきだと奉行に諭され、納得し思い留まった。

     退けられた香山栄左衛門

栄左衛門はその後、鎌倉の寺院などの状況見分をし図面を製作したりという勤務を続けていたが、 そうこうするうち安政1(1854)年1月11日の午後1時過ぎ頃、異国船7艘が城ヶ島の沖に見えたとの注進があり、早速浦賀奉行所から見届け船が出されたが江戸湾には入らず全船が鎌倉の方へ乗り入れたと報告された。翌12日にも異船は江戸湾に姿を見せなかったが、寄合に居てずっと無役だった昔浦賀奉行や長崎奉行を務めた伊沢政義が新しく再任され、新しい浦賀奉行として江戸を発ち浦賀に到着した。これは老中首座・阿部伊勢守が林大学頭と共にアメリカ側との交渉団の1人として選んだものであった。13日に浦賀奉行の戸田伊豆守と浦賀奉行に再任された伊沢美作守の相談があったが、栄左衛門に付いては今回、前回の応接で疑念も出た事から、アメリカ側と面会もさせず応接も一切させないという内命があったと伊豆守から栄左衛門に伝えられた。これは明らかに老中首座・阿部伊勢守が伊沢美作守に与えた指示であった訳だ。栄左衛門はこんな経緯を考えてみると、今まであった悪説は妬ましく思う者たちから出たものだとばかり考えていたが、上層部の内命により今回アメリカ人に面会すら許されない事になり、全く嘆息以外の何物でもなかった。上層部の人達は何も分かってはいないと、終に身を引き引退する決意を固めた。そしてそれ以降栄左衛門は、水主や人足に与える兵糧の炊き出しを世話していた。

翌日の14日になるとアメリカ船1艘が江戸湾に入って来てそのまま小柴沖に直行し碇泊した。これは帆走武装補給艦・サウザンプトン号であったが、すぐに与力・近藤良次と佐々倉桐太郎が応接に向かい、浦賀沖に引き戻す様に掛け合ったが充分な応接が出来ず戻って来た。また15日にはアメリカ船1艘が三浦半島の西側の長井村で座礁し動けなくなったという報告が上がり、近藤良次が通詞を連れて現場に行き、栄左衛門も人足など手配のため現場に向かったが、途中で帰って来た近藤良次と出会い、解決したとの事で浦賀に帰った。座礁したのはペリー艦隊の帆走軍艦・マセドニアン号であったが、並走していたバンダリア号が救助に入り、幸運にもその後を航海していた蒸気軍艦・ポーハタン号、サスケハナ号、ミシシッピー号に信号を送り、ミシシッピー号がマセドニアン号に大綱を結び引き出し大きな被害は無かった。マセドニアン号艦長・アボット大佐の海図の見誤りで、江戸湾への入り口と間違え陸地に接近し過ぎた様だと「ペリー遠征記」は述べている。


シーボルトの地図をもとにした日本沿海図
Image credit: Courtesy of the U.S. Government、
”Narrative of the Expedition”

しかしその辺りの遠征記の記述をよく読めば、「・・・従ってアボット艦長は陸地に接近しすぎ、暗礁に船を乗り上げてしまったが、この暗礁は艦長の使った日本地図には勿論記載がなかった。この地図はフォン・シーボルトの日本地図のコピー以外の何物でもない地図を、1回目の艦隊の江戸湾来航時に日本の役人から借り、数か所の注記を入れ転写したものであった」。この様に、日本の役人が持っていたシーボルトの地図同様のものを借りて転写したとあるが、シーボルトが持ち出して事件になった日本地図は、伊能忠敬が測量し文政4(1821)年に完成した『大日本沿海輿地全図』を元にした縮小版である。こんな地図は当時国内の大型廻船の船乗りの間ではかなり頻繁に使用されていた形跡があるが、外国に対しては勿論禁制品である。これをペリー艦隊に見せた日本の役人は誰であったろうか。アメリカの国書を受取る久里浜の位置を指し示すために開いたのだろうか。非常に興味の湧く問題であり、筆者には想像は出来ても、史実はいまだ不明である。マセドニアン号が座礁したこの岩礁は現在もあるが、三浦半島荒崎海岸の約1.5q西方沖にある亀城礁(かめぎしょう)である。

     また香山栄左衛門の出番になった

こうして16日、蒸気軍艦・ポーハタン号、サスケハナ号、ミシシッピー号、帆走軍艦・マセドニアン号、バンダリア号はそのまま小柴沖の停泊地に向かい、2日前に来た帆走武装補給艦・サウザンプトン号と合わせた6艘が小柴沖に揃った。当然栄左衛門を除く応接掛け与力は交代で出張しては引き戻し交渉をしたが何の効果も無かった。こうする間に応接掛全権に任命されていた林大学頭始めが浦賀に到着し、支配組頭・黒川嘉兵衛が日々艦隊に行って応接をした。25日になると浦賀の館浦に応接所が出来上がり、帆走軍艦・バンダリア号に乗った艦隊参謀長・アダムスが小柴沖から浦賀に来て伊沢美作守と会談したが、最終的にはペリー提督の意向と会わず、浦賀応接所での交渉は拒否された。夜になると林大学頭から栄左衛門に呼び出しがあり面会したところ、驚くべき事を告げられた。栄左衛門いわく、

アメリカ船の引き戻しに付き明日26日に旗艦に行き、篤と交渉する様に言われた。吃驚し考えた所、これまでアメリカ人とは一切の面会を禁じられていたが、突然に明日応接せよと言われるがそれで良いのだろうか。今まで数十度もの応接が成功せず、こんな場合になり自分に命令されてもどうして引き戻しが出来るものだろうか。全く不都合な命令だと思い、何れ篤と考えた上で返事を致しますと答え引下がった。そして内々に伊豆守に会い申上げたのは、既にこれまで御疑念を被り今回は一切御用筋の取り扱いをしなかったが、最初からの経緯も分らず、今日になり俄かに応接せよと言われるのは何故なのでしょうかと尋ねると、これ迄引き戻しを交渉したがアメリカ側は納得せず、昨日美作守がアダムスと交渉しても受け入れなかった。そのため江戸表から伊勢守が内命をよこし、お前に応接をさせる事を命ずる様にと言って来た、と言われた。これは、これ迄の御疑念を解かれてこう命じられたのだと、実に有難く思い、且つは歓び、且つは勇み、直ちにお受けした。

そこで栄左衛門は、明日の交渉は通訳が入りやり取りに時間がかかり説得は複雑になるので、次の様な文書を作り通詞に翻訳させたものを持参させますと大学頭に言い許可を得た。更に、他の与力の時には関係ない事だが、昨年中自分には種々の贈り物があり、それは焼き捨てた事ではあるが、今回アメリカ船に行く時は少々の手土産が無くては交渉時の不都合になるかも知れず、これはどうしたら良いでしょうかと聞くと、問題は無いからどんな品でも持参せよと大学頭が言ったので、貝細工の漆塗り盆、少しの布類等を用意した。翌26日朝、御徒目付中台信太郎が立ち会い、アダムスの乗船に行き、既に大学頭の許可の下で文章にし翻訳した栄左衛門からアダムスに宛てた書面を渡し、浦賀への引き戻しと浦賀での会見の交渉を始めた。アダムスからは書翰を検討する旨の返事があり、栄左衛門は浦賀に引き取った。しかし翌日アダムスから返答の書翰が届き、浦賀は問題があり同意できないとの回答であった。ペリー提督は江戸湾内に更に深く入った場所で日本側と会い、交渉時により大きな圧力をかけられる状況を狙っていたのだ。この間の、栄左衛門が再度やって来た事情を「ペリー遠征記」では次のように記述している。いわく、

1854年2月23日(安政元年1月26日)の朝バンダリア号は未だ浦賀に碇泊中であったが、我々の旧知である浦賀のガナバー、栄左衛門が現れた。それはずっと記憶に留まる事であろうが、この人は艦隊が最初に江戸湾に行った時に抜群に目立つ高官であった。今日まで彼が来なかった事は非常な驚きであり、前回の彼の振る舞いが政府に受け入れられず、その結果不興を被ったのか、或いは降格され不満の切腹を遂げてしまったのか懸念されていた。しかし彼は、長い間の不在は病気のためであり、公務に忙殺されていたのだと説明した。彼は旧知の人達に会えてこれほど嬉しい事は無いと言い、前回と全く変わらず、愛想が良く礼儀正しい紳士ぶりを示した。

遠征記のこんな記述を読めばアメリカ側は、栄左衛門が悪い噂に悩まされた結果、これほど貢献した栄左衛門を信頼せず、アメリカとの交渉の場から完全に外すという処置を取っていた事なかれ主義の幕府上層部の態度をも見通していた様な表現である。

こうして林大学頭は何とか浦賀で応接しようと粘って居る内に翌日の1月27日、参謀長・アダムスの乗るバンダリア号の浦賀からの帰りも待たずペリー提督は、残りの全艦を引き連れ小柴沖から神奈川を乗り越え羽田沖にまで乗り込み、ミシシッピー号は近辺の測量を始めた。日本側番船からこんな報告を受けた大学頭は、栄左衛門を再び御用所に呼び込んだ。栄左衛門の上申書いわく、

これまで何回も引き戻しの交渉をして来たがアメリカ人は聞く耳を持たず、終には江戸表に於て応接したいなどと言い始めるだろうから、このまま捨て置いては必ず御府内に乗入れる。急遽乗り付けて交渉し、応接場所に付いては、お前が神奈川近辺で場所を見立てて取り決める様にと申された。即刻出張し旗艦に行こうと押し送り船を漕ぎだしたが、アダムスの乗る船も浦賀沖から本船に向け走り出した様子である。そうこうする内に夜になり波が荒く小船では凌ぐことが出来ず、富岡村に漕ぎ寄せ上陸し押し送り船は本牧に廻し、その夜は富岡村に一泊した。つくづく考えると、今回のアメリカ船については、昨年来御疑念を被りこれまで一向に御用向きを取り扱わなかったが、今回の仰せ渡しで御疑念を解かれた事は心魂を貫くほど有難く思い、この上は、唯々命を懸けて国に報いる以外には無いと覚悟を決めた。翌28日の早朝本牧まで陸行し、ここから船で旗艦まで行ったところアダムスも帰っていたので直ぐに面会し、御府内に乗入れる事は絶対に許されず、萬一それをも無視して乗入れれば、当方に於いても阻止する覚悟である。若し異存があれば私を切り殺した後に行きなさい。今両国の信義をかけた応接を始めるに当たって相互に人命を損なっては、不吉の兆しである。某の意(筆者注:林大学頭の意か)に従い、これから、西神奈川在に横浜という所があるがここに陣屋を建てて応接をする。是非々々この土地を一覧して貰いたいと言った。アダムスが言うには、両国の信義を取り結ぶ事等に付いては国都で行う事が万国普通のやり方である。このため江戸表に行こうと思うのだが、そこまで言って差し止めるのなら今回は江戸に行く事を止める。この辺りで応接所を決めて呉れと、羽田、生麦辺りを指さした。そこであまり御府内に近い所は良くないと考え、ブキャナンとアダムスにはボートを降ろして貰い、自分達は押し送り船で案内し、横浜村まで漕ぎ戻し、上陸した。畑地や海辺の様子を見分し、仮陣屋の間数はこうこうと見積りで広さを取り決めたところ、2人は承知し、この辺りで応接しようと同意して来た。そうなれば後日に違約等が無い様に双方が立ち会い、既定の杭を立てようと、村方から印の杭を取寄せここを応接地とする杭を打ち込んだ。これが済む頃には日が沈み薄暮になり、これ以上話す事もないのでアメリカ側の2人と別れ、私達は浦賀に、ブキャナンとアダムスは旗艦に引き上げた。同夜の12時過ぎに浦賀に着き、是迄の経緯を説明したところ、全権衆御一同は神奈川宿へ移転する事が決まった。

こうしてまた香山栄左衛門が使命を完遂して帰って来た。何時も穏やかだった栄左衛門が今迄に無く強い言葉で 「当方に於いても阻止する覚悟である」 と言ってアメリカ軍艦の府内へ向けた侵入を阻止した上に、応接地を双方合意の上で横浜に決着する事が出来た。林大学頭始めの全権達が神奈川に移転を決めると大学頭は、栄左衛門にも引き続き神奈川に来て詰める様に命じ、支配組頭・黒川嘉兵衛は浦賀に留まる様に命じた。与力の栄左衛門に出来て上司の支配組頭には手強い交渉が出来ないとは困ったものだと、浦賀に留まらせたのであろう。すかさず栄左衛門は、昨年幕閣の書面で以降の応接は組頭が行うように命じられているのに、黒川嘉兵衛も神奈川に呼ばないのは筋道に合わないと進言し、大学頭もそれを受け入れた。

この時の栄左衛門の手強い交渉でペリー提督は江戸行きを断念した。しかし江戸の街を見る事も無く、ましてや日本皇帝に会う事も無く、後に日本側と日米和親条約を締結する事になるペリーは、その残念な気持ちを抑えきれなかった様だ。そして最後に江戸湾を去るにあたって江戸見物をする事になるが、これに付いては「 ペリー提督の江戸見物 」(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) の項を参照して下さい。

3日後の2月1日、栄左衛門が神奈川本陣に出勤すると大学頭が言うには、アメリカ船は27日以降羽田沖に停泊し、近辺所々を測量し、小船は御府内まじかまで乗り寄せ、江戸表では大いに心配しているので早々引き戻す様に厳しい下知が到来した。そこで栄左衛門に直ぐにアメリカ船に行き横浜渚迄引き戻すように命じ、繰り返し納得させて、例え横浜渚まで引き戻せなくても、一町でも一間でも横浜側に引き戻せれば江戸表の趣意に叶うので特別な努力をする様にと申し渡した。栄左衛門は、目的が達成出来るかどうか分からないが命令を受けた以上は兎も角も交渉してみますと答え、昼12時頃に旗艦・ポーハタン号に行きアダムスとブキャナンに面会し、28日に応接所を建てる場所を横浜と取り決めたので、旗艦始め全ての軍艦は横浜渚まで戻り碇泊して貰いたいと交渉した。アメリカ側が言うには、応接場所が決まったのでその近辺に移動し碇泊する事はよいが、元々大船であり、海底の深さが12ヒロ以上無いと碇泊できない。横浜渚は浅瀬ではないのかと聞いて来た。栄左衛門は既に海底が深くないといけない事には気付いていたので、横浜を応接地と決めた後2日かけて横浜村の漁師達に命じ測量させ、17ヒロ以上の深さがある事を確認していた。そこでアメリカ側に深さは問題ないので安心する様に。また朝暮の用事があり旗艦に来るにもこんなに隔たっていては往復に不都合であり迷惑である。今日そこまで案内するから速やかに全軍艦は横浜に移動して貰いたいと、懸命に説得した。彼等も、17ヒロ以上の深さなら問題も無く、離れていれば勿論朝暮の用弁にも不都合な事はお互い様である。江戸に向かわない事を了承した上は横浜に行く、と答えた。それから蒸気を上げて旗艦から合図をすると他の蒸気軍艦始め帆走軍艦合わせて7艘が一斉に錨を巻き上げ横浜渚に移動し、無事停泊した。夕方神奈川宿に帰りその旨を大学頭に報告すると、今日の勤労努力は素晴らしかったと大いに褒めてくれた。栄左衛門も一旦命ぜられた困難な交渉が無事に成功し、これこそ「御国威のための貢献であり、有難い事であります」と言って宿に帰り休息した。そこに、引き戻しが出来なかった場合に備え阿部伊勢守から命ぜられていた如く、代官・江川太郎左衛門がアメリカ船に乗り込んで交渉すべく中浜万次郎を連れ、江戸から一騎打ちで神奈川にやって来た。しかしペリー艦隊は既に横浜まで引き戻されていたので今日の引き戻しの経緯を聞きたいと、栄左衛門は本陣へ呼び出された。栄左衛門は艦隊引き戻しについての交渉内容や横浜渚の水深を測量しておいた事などを具体的に報告したところ、江川太郎左衛門は了解し江戸に戻った。

2月3日は兼ねてアメリカ側から応接に当たった栄左衛門などを招待したいと言われていたので、大学頭の許可を得て、与力・中島三郎助や同心、御徒目付、御小人目付等を同伴しポーハタン号で饗宴を受け、大学頭から依頼された質問を仲介し、アメリカ船へ水の供給などを開始した。この2月3日の夜半過ぎ、林大学頭と井戸対馬守が突然老中に呼ばれて江戸に向かったが、ペリー全艦隊が羽田辺りまで侵入した状況に動転する老中達は、アメリカの国書に対す最終方針の決断を迫られていた。大学頭と対馬守は前水戸藩主・徳川斉昭にも会い状況を説明した。2人に会った徳川斉昭はその日の手記に

四日登城し両度老中と会った所、当月は伊賀守(筆者注:松平忠優)が海防の月番との事で、同人のみ頻りに談判し、伊勢守は黙止して居た。伊賀守は専ら和議を唱えた。林大学、井戸対馬にも会った所、両人とも墨夷を虎の如くに恐れ、奮発の様子は豪髪も無く、夜八時頃迄営中に居たが廟議は少しも振るわず、いたずらに切歯するのみ。

と書いている。当時6人居た老中の中でも、松平伊賀守や松平和泉守は特に和親・開国を主張していた人達であったが、最終的には徳川斉昭の強硬意見に譲歩する老中首座・阿部伊勢守の判断で「通商はしない」立場での交渉を決断し、林大学頭に指示を与えた。

2月6日夜になると上述の如く、急遽上府し老中と面会し最終的な指示を受けた林大学頭と井戸対馬守が神奈川に帰って来た。栄左衛門が本陣に待機していると、大学頭からアメリカ船との下掛け合いは今後も行う様に命ぜられた。そこで栄左衛門いわく、

兼て申上げてある通り、昨年中に幕閣からもご指示があったが、殊に今回は支配組頭・黒川嘉兵衛も本陣に来ている事でもあり、アメリカとの応接は組頭に仰せ付けられるのが相当であります。私はご命令に背く訳ではありませんが、この程羽田沖より引き戻した一件に関し、私が異人共に御国地の情報を内通加担したのでこの様に自由にすることが出来たのであり大罪を犯した国賊であるかの如くの悪説があり、またその外無実の浮説も紛々と流布している事も知っております。これは即ち、その位に無い者がその政を計った事からこの様な悪評を被ったのであり、非常に迷惑であります。その筋道としも、どんな観点から見ても、組頭に仰せ付けられたいと申し立てた。大学頭が申されるには、昨年のアメリカ船応接に付いて悪説があるのは、結局一人で取扱い、外の立ち合いが無かった事だからそんな噂になった様だが、その件は良く分かっている。殊に此度の取扱いはこの通り一同が出張していたので、少しも浮説などを信用するものではない。取りも直さず御委任の御書付をこの様に渡されているので、見込み通り充分に取扱いをして何の問題も無く、今回の取り扱いをお前に任せるから精を出して務める様申し渡された。その様に後々迄の事をも引き受けて頂けるのなら、どの様にしてでも勤めましょうとお答えをした。それよりいよいよ精を出して勤めようと決心し、旅宿に引き取った。

     また排斥された香山栄左衛門

翌7日からは、ペリー艦隊に乗り香港から連れて来られた1人の日本人遭難者である安芸国広島生まれの倉蔵と会ったり、8日には完成した応接所を見たいというアメリカ人を案内したりと仕事に忙しかったが、報告をする積りで本陣に行くと大学頭は突然栄左衛門に向かって言うには、これ迄は色々と骨を折ってくれたが、まず穏やかになりった。付いては、お前は浦賀表でも種々御用向があるだろうから一先ず帰浦する様にと申し渡された。栄左衛門の上申書いわく、

吃驚し自分でも考えてみた所、私に対する悪評がいよいよ募ったので、とに角私に取扱いを命じては良くないという事になったのではないか。殊に応接所も出来上がり、最初とは違い段々取り扱い方も違って来たのでアメリカ人は和らぎ、最早異変も無いだろうから、悪説が出て御疑念もある私に取扱いをさせなくとも他の人でも良いだろう、という事になったのだろうと察した。一昨日は萬事御委任の御書付迄見せられ、懸念も無く国家答恩のため、とに角出精して勤めようと一図に思い込んでいた所、今日になりこの様に申渡されるのは薄運のなせる業でどうしようもない事と思った。これより御用向きは一切取扱わなかった。さて、以上の様に退けられた事は、元より全権衆の御存念ではなく、全て江戸表へ関係する事と推察するものである。

その後栄左衛門は組頭・黒川嘉兵衛から聞いた噂の真偽を確認するため浦賀には帰らず、神奈川に留まっていた。嘉兵衛の言うその噂とは、昨年中アメリカから栄左衛門に送られた品はいわゆる公的な献貢物であり、その中には国王の肖像画や今回持って来た献貢物の目録もあったはずで、これらを全て焼却してしまった。若しアメリカ側が今回持参した品を去年渡した目録と照合し受取って欲しいと言って来れば、大問題に成るなどというものであった。栄左衛門が考えるに、去年贈られた品は確かに栄左衛門に贈られたものであり、こんな噂を流す者はいったい誰だろうと強い疑問がわいて来て、目録の一件を調べ尽くすまでは浦賀に帰る事を止めたのである。2月15日にはアボット艦長とアダムス参謀長の指揮下でアメリカ側の贈り物が陸揚げされたので、栄左衛門は翌16日に応接所に行くと、栄左衛門にも贈り物があるので船に取りに来て欲しいとアメリカ側から言われた。そこで大学頭にその許可を求めると、交渉が入り組んでいるのでアメリカ船に行く事は困るとの理由で許可が出なかった。栄左衛門は、恐らく更なる悪い噂で御疑念が強まったのだろうと推察した。19日になると贈り物を目録書と突き合わせている事を知り、早速応接所に行き、良く顔見知りの主任通訳官・ウィリアムズから 目録書 筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) を借りて書き写してみたが、嘉兵衛から聞いた噂の様な懸念は何も見当たらず、栄左衛門は単なる悪い噂であった事を確認した。

 香山栄左衛門、江戸表に御用あり
典拠:『香山栄左衛門上申書』、東京大学史料編纂所

こうして自身で組頭・嘉兵衛から聞いた噂は根も葉もなかったという事事の調べを付けた栄左衛門は安心し、浦賀へ帰った。そこで伊豆守に会いそれまでの報告を済ませ、アメリカ船の御用も済んだので、春に嘆願した様にいよいよ引退したい。どうかその様に手続きをお願いしたいと願い出た。伊豆守はその件はよく承知しているが、今回浦賀で幕閣から許可の出た洋式軍船・鳳凰丸を造っている最中であり、完成が間近である。この計画に参加し、もう暫らく務めるように説得され同意し、鳳凰丸の完成に向け働き始めた。

この鳳凰丸は、ペリー提督の初回来航直後の嘉永6(1853)年8月に浦賀奉行・戸田伊豆守と井戸石見守が浦賀での軍艦建造を幕府に申請し、阿部伊勢守から許可されたものであった。これは三檣バーク型帆走軍艦で、船底は銅板で被覆され、和船構造が多く使われていたと聞くが、安政1(1854)年5月4日に日本で最初に完成した洋式軍艦であった。この頃はまだペリー艦隊は箱館から下田に回航しようとする頃で、下田で日米和親条約付録十三条(下田追加条約)の調印がされる直前の事である。

そんな中で4月19日になると、江戸表に御用があるので家内を引き連れ出府する様にと言う御奉書が幕閣から下されたと申し渡された。栄左衛門の上申書いわく、

大変驚き支度を整え、二十六日に出府を届け出た。段々と考えるに、昨今の両年は大切の御奉公で身を投げうって勤め、却って種々の悪説を被ったのは遭厄の時期が来たのだろうか。しかしながら御政道が正しく行われるこの時節、浮説などを採用する筈もなく、格別に良い身分へ御取立て下さるかも知れないと、且つは歓び且つは歎き案じていた所、二十八日になり(筆者注:老中・紀伊守により躑躅間(つつじのま)で)富士見御宝蔵番を仰せ付けられた。身分では御取立てになり有難いとは言いながら、これまで常々精を出して勤めた事により特別に下し置かれた扶持は召上げられ富士見御宝蔵番役を仰せ付けられた事に付いては、衆人には全く不審であり、親戚中には面子を欠く事になった。その頃浜御殿庭先で下曽根金三郎の砲術が上覧に供され、自分は打方頭取という名目で手伝いにまかり出た所、何故天下の罪人を上覧に差出すのかと監査方のある人物が金三郎に伝えたという事を同人から聞き、誠に仰天俯地の嘆息であり、身を置く所も無い程の状態だった。ここまで精を出し御奉公に務めたのに、どれほど悪説を被っても何とかしてこの汚名を濯ぎたいと思い、以来当年迄六ヵ年(筆者注:安政6年正月まで)静かに暮らしていた。

この様に再三再四難題に向き合い、その都度自身の誠意と機転とで乗り越え、同僚の与力や組頭にも出来なかったペリー艦隊との応接を成功させ、ひいては日本の国威を守る先端に立った香山栄左衛門は、成功すればする程に悪意ある噂に苦しめられ続けた。その結果得たものは、身分は上がっても収入は減り、栄左衛門いわく「衆人には全く不審であり、親戚中には面子を欠く事になった」のである。

更に1856(安政2)年になり「ペリー提督の日本遠征記」がアメリカで出版された。これはペリー提督自身が多くの公式資料を提出し、ペリー提督始め有能な艦隊士官の報告書や日誌などをも網羅し正確性を期した、日米和親条約と呼ぶ国際条約を締結した経緯に関する公式報告書である。かつまた、日本や沖縄、小笠原諸島といった西洋には良く知られていない文化圏の公式調査報告書でもある。それほど正確性を期した報告書の中で、栄左衛門は編集者のフランシス・ホークスに「浦賀のガバナー」と呼称されている。しかし一方上述の如く、栄左衛門は「自分は浦賀の応接官である」と言い、オランダ語通詞の堀達之助が気を利かせて「浦賀の応接長官である」と通訳し、ペリー自身も栄左衛門を「政府特使の浦賀首席補佐官・香山栄左衛門」と自身の日誌に記録している程である。その後この「ペリー提督の日本遠征記」を日本の翻訳者が訳し出版されたが、その中で「Yezaiman, governor of Uraga」を思慮も無く「浦賀奉行・栄左衛門」と訳した。上述した様に、これは間違いである。ペリー提督が上海で雇ったオランダ語通訳官・ポートマンのオランダ語から英語にした言葉の問題だったのだろうか。応対したサスケハナ号艦長・ブキャナン中佐や参謀長・アダムス中佐に、オランダ語通詞・堀達之助の意図が変化して伝わったのだろうか。記述内容に正確性を期したペリー提督自身の日誌記録とも違う。こうした翻訳書を読む読者の中には、「自分は浦賀奉行だと言ってアメリカ側を騙した香山栄左衛門」と罵る人もいるし、現在でも時に、当時の「悪説」にも劣らない不名誉が語られる時もある。全く残念な事である。

こんな経緯を考えると筆者は思うのだが、フランシス・ホークスが正確性を期すペリー提督の監修のもとに記述した「浦賀のガバナー」という表現は、或いは、浦賀の代表者も充分務まるほど立派な働きをし日米双方に貢献した栄左衛門を顕彰したいペリー提督の、栄左衛門への、遠征記録を通した昇格辞令だったのかも知れないと。

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04/01/2021, (Original since 04/01/2021)