日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

パーマーの1850年1月8日(嘉永2年11月26日)付け、オランダ商館長・レフィスゾーン宛ての手紙

エアロン・パーマー(アーロン・パーマーとも)はペリー提督とも以前から情報交換をしていたが、更に、バタビアや広東、マニラ等に駐在するオランダの知人の仲介で、「(パーマーいわく)愛国的気持ちから」 1842年から1853年にかけ複数回にわたり、日本の長崎奉行に宛てた手紙やアメリカ情報を送り、これが幕閣に伝わり、日本がアメリカとの貿易を開くよう促すべく努力をもしていた(33D Congress, 2d Session. SENATE Mis. Doc. No. 10)。筆者は、かってこんな手紙や情報が長崎奉行に届いていたという史実を知らないが、そんな中で、長崎出島在住のオランダ商館長・レフィスゾーンに宛てた手紙は成功している。

特にこの時パーマーは、自身の書簡と添付した情報をオランダのアメリカ駐在代理公使・テスタ男爵(Baron F. M. W. Testa)の仲介で、1850年1月8日付けで長崎のオランダ商館長・レフィスゾーン宛てに送ったのだ。これは、国務長官・クレイトン宛に1849年4月14日付で提出したアジア向け使節派遣の自身の建策書の抜粋や、当時のアメリカの新聞情報を添付し、「これは日本にとって大事だと思うので、貴方の日本の友人に伝えるべきだと思う」 と記し、日本の幕閣にそんな情報が伝わる事を強く期待していた。

これについてレフィスゾーンは、勝海舟の言う 「日本紀(Bladen over Japan, 1852)」の中で、「自分が長崎滞在中にパーマー書簡を受け取った」と証言しているが、このパーマー書簡情報の一部は、当時レフィスゾーンが自ら英文手紙と添付資料の一部をオランダ語に翻訳し、帰国直前に非公式に日本側に見せていたと考えられると云う( 『勝海舟全集 15、開国起原 I 』の補注1、講談社、昭和48年2月16日)。このパーマーのレフィスゾーン宛ての翻訳書簡の始めの部分に、「アメリカは通商を東方に開弘する趣向で、東方独立国に関する事に付き、我が友ケントン(筆者注:国務長官・クレイトン)に与えた書簡、その他の文書を送ります」 と出てくるが、このレフィスゾーン宛のパーマー書簡の中に、アメリカ合衆国の全権大使を日本に派遣し、通商や石炭貯蔵所設置の要求をする事なども載っている。

レフィスゾーンはこの年、1850年即ち嘉永3年、出島商館長として恒例の「江戸参府」を行い、1850年2月20日(嘉永3年1月9日)江戸に向け長崎を出発し、6月20日(5月11日)江戸から出島に帰って来た。そこで、筆者は次のように推定する。レフィスゾーンの出島到着後の7月19日(6月11日)、オランダ交易船・デルフト号(de Delft)が新任のカピタン・ローゼを乗せ長崎に入港しているが、この船でレフィスゾーン宛てのパーマー書簡が到着したように見える。出島でレフィスゾーンはこのデルフト号の積荷を捌き、日本からの交易品を積み込み、11月始めには自身も乗り組み帰国の途に着くべく出航するであろうデルフト号の事務処理を済ませる間に、時間を割いて、出来るだけパーマー書簡情報の英文を蘭文に翻訳したように見える。

筆者にはまた、パーマーがレフィスゾーン宛てに出したこの手紙の内容と添付資料は、部分的にせよ、幕閣や阿部伊勢守に伝わっていた様に見える。それは、このレフィスゾーンがオランダ語に翻訳し、帰国直前に非公式に日本側に見せていたと考えられるパーマーからレフィスゾーン宛の書簡と添付資料の一部は、長崎奉行・一色丹後守の厳重な管理統制の下、極秘裏に、嘉永3年10月中旬から2ヶ月かけて通詞・立石得十郎により日本語に翻訳され、阿部伊勢守宛に送られた様に見えるからだ。これは、東京大学史料編纂所の維新史料綱要データベース中の「嘉永3年10月10日・荷蘭通詞立石得十郎書留」に、10月10日(1850年11月13日)に奉行所から呼び出しがかかり、11日に麻裃で長崎奉行所に出頭した。そこで、直接長崎奉行・一色丹後守から阿部伊勢守の名前をもって、カピタンが提出した蘭書の秘密厳守の和解を命じられ、ウェイランド辞書やキュンスト辞書、また英蘭対訳辞書を拝借したと出て来るからだ。時間的に見てこれは明らかに、恒例の別段風説書等の翻訳作業でないことが解る。

レフィスゾーンの公式な商館長任期は1850年10月31日(嘉永3年9月26日)までだったと聞くから、レフィスゾーンが帰国直前に極秘に提出したオランダ語に翻訳したパーマー書簡とその添付文書の処置を、長崎奉行がすぐ江戸の幕閣に連絡して指示を仰ぎ、幕閣の命により、立石得十郎に、極秘にカピタン提出の蘭書を翻訳させたと解釈しても余り矛盾が無い。ただどんな内容の翻訳かは極秘だったから、原典が見付からない限り今は知る術もなく、勿論断定も出来ない。しかし立石得十郎はこの翻訳の功績により、阿部伊勢守の命による報奨金・銀5枚を牧志摩守より受領している。従って、あるいはこの立石得十郎の翻訳したものが、勝海舟編纂の『開国起原 I 』の始めに出てくる 「外国人日本通商の企て、亜墨利加人当今日本へ志望のことを載せたる公顕の告牒記録の事」 の中の冒頭にある部分かも知れない。

筆者には更に、レフィスゾーンがこの年、嘉永3年6月11日(1850年7月19日)に提出した嘉永3年の『別段風説書』の最後には、

一、北アメリカ合衆国は諸国と通商いたし来たり、その土民の噂にては、日本にも交易に参る所存これ有る趣に候。
一、右は「スターツセケレターリス」官名、「カライトン」人名(筆者注:国務長官・クレイトン)、の所存と相見え候。
一、北アメリカ州の内、イギリス領「カナダ」地名、に於て昨春騒動これ有り候へども、速かに相静り候。
右の通りに御座候。以上。
   戌六月   古カピタン ヨフセフヘンリフレフソン
           新カピタン フレデツキコリテリスロフセ

と出て来るから、パーマーからレフィスゾーン宛てに出した手紙の内容と添付資料の一部分でも急いで日本側に見せ、この『別段風説書』中の北アメリカ合衆国情報を補完しようとした様にも見える。

レフィスゾーンは長崎商館長の任期を終えオランダに帰国してから、上記のように、正式な 「日本紀(Bladen over Japan, 1852)」を発表したのだ。その内容は、

1、オランダと日本の歴史関係及び日本の政体
2、レフィスゾーン自身の商館長時代の出来事
3、パーマーからの公式書簡及びアメリカ合衆国の日本開国へ向けた文書類
4、その他の日本関連事項

というものだが、この長崎での極秘の提出分は、この 「3、パーマーからの公式書簡及びアメリカ合衆国の日本開国へ向けた文書類」中の、約半分に当たる部分の様に見える。
(「日本紀( Bladen over Japan, 1852)」:BLADEN OVER JAPAN, VERZAMELD DOOR J. H. LEVYSSOHN, RIDDER DER ORDE VAN DEN NEDERLANDSCHEN LEEUW, LAATSTELIJK OPPERHOOFD VAN DE FACTORIJ VOOR DEN NEDERLANDSCHEN HANDEL OP JAPAN. (MET EENE AFBEELDING VAN DECIMA.) 'S GRAVENHAGE, GEBROEDERS BELINFANTE. 1852

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10/27/2016, (Original since August 2010)