日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

琉球領有、ペリー提督の提案

大艦隊で来航するペリー提督は、日本人の「畏怖の念」に訴えて開国を迫る基本作戦を持っていた。そのため、多くの蒸気軍艦や大型帆走軍艦で構成する強力な黒船艦隊を、その威力の象徴として全数そろえたかったのだ。そして万一の失敗にも備え貯炭場だけは確実に確保したが、更に江戸湾深部への侵入や、琉球の領有なども考えていた。

♦ 小型蒸気船を傭船したい
典拠:33d Congress, 2d Session. Senate. Ex. Doc. No. 34.

日本は久里浜でアメリカの国書を受け取りはしたが、その後、最悪の場合は友好の確立も出来ず、遭難船員の人道的な扱いや貯炭場の確保、薪水・食料を求める緊急避難港の開港と通商条約交渉がどうなるか全く不明である。この対策をどうするかだ。そこでペリー提督は浦賀から香港に帰る途中にまた琉球・那覇に入港し、那覇の天久寺(あまくぬてぃら、天久山聖現寺)の貸与、貯炭場の建造、物産の売渡し、商品の陳列、上陸時の尾行廃止の五ヵ条を要求した。琉球政府が難色を示すと、首里城の占拠をチラつかせその要求事項を獲得した。これで貯炭場は、小笠原・父島の二見港と琉球・那覇港の二ヵ所を確実に獲得した訳だ。ペリーは琉球から香港に帰る途中、1853年8月3日、上海近くの海上から本国の海軍長官に宛て、日本で大統領の親書を手渡し江戸湾の中を測量した報告書を書いた。その中でペリーは、他の多くの軍艦到着を待ち焦がれている事と共に、小型蒸気船が是非とも欲しいと述べている。いわく、

日本沿岸における艦隊の短期滞在中に起こった興味ある全ての出来事の報告は、形式ばった書簡では十分説明できませんので、ここに同封する一連の手記を準備しましたが、私の行動の経過と方策について海軍省への充分なる説明になると思われます。
私が毎日毎日待ち続けている追加の軍艦がここに到着すれば、適当な季節に、この手に負えない頑固な政府に、他国への、特に合衆国に向けた日本の責任を理性的に理解させると言う困難な骨の折れる仕事を更に推し進める事が期待できます。・・・
私は、測量目的だけでなく支那と日本沿岸での艦隊行動に於て、小型蒸気船の必要性を非常に強く感じました。
私の次回の江戸湾行きで、湾の先端までの測量を完了するため、また、水深が許す限り江戸の街近くまで侵入するためには、小型蒸気船は絶対に必要であります。
こんな状況下に於いて、私への命令書で許可された「特別派遣船舶の傭船、云々」という権限事項(筆者注:ケネディー海軍長官命令書にある)を当てはめ、喫水の非常に浅い蒸気船を短期間傭船することに努めます。この小型蒸気船の傭船は、測量ボートを保護するため大量に蒸気を出しながら運用する大型蒸気船の必要性を減らし、そのため消費する石炭を大幅に減らし、余分に傭船する蒸気船の傭船料以上の節約になります。
しかしながら、私が関わるこの特殊な公務から来る必要性は、本件に関する私の最善の判断に基づいて実行する権限を私に与えると思いますが、若し海軍省がそんな一時的な傭船を許可しないのならば、傭船契約に入る前に陸超え郵便(筆者注:エジプト経由郵便)で私宛に指示を出す時間があります。

この書簡を受け取ったダビン海軍長官は、1853年11月14日付けのペリー提督宛の書簡で、この小型蒸気船の傭船を許可した。そこでペリーは二回目の日本行きの直前、広東のアメリカ商人保護のため、137トンの小型蒸気船・クイーン号を月額500ドルの傭船料を払って傭船し、武装を強化し広東のアメリカ商人の保護に充てた。日本には出来るだけ多くの大型軍艦を率いて行く基本作戦を可能にするため、この様な処置にしたのだろう。

しかしダビン海軍長官はこの書簡の中で、この傭船許可を記述する前に、次の如く、ペリーの報告書の記述内容に明確な注文を付ける事も忘れなかった。

♦ ダビン海軍長官の、「日本と戦争はしない」と言う念押し
典拠:33d Congress, 2d Session. Senate. Ex. Doc. No. 34.

ペリー提督の1853年8月3日付け書簡で報告を受けたアメリカ政府は、「大統領の親書を手渡した」と言う進展を大いに喜びはしたが、日本と戦争になる事を警戒していた。不必要な軍事力行使はしない様にと念を押すダビン海軍長官からの1853年11月14日付けの上記書簡いわく、

これら報告書の全てを大統領(筆者注:フランクリン・ピアース)に提出しましたが、大統領は、貴提督の興味深い使節任務の成功裏の進展を喜び合法な限り貴提督に援助の手を差し伸べ様としますが、合衆国の名誉の為ばかりでなく、日本への不法行為無しに偉大な結果が達成されるべきだと言う信念を、貴殿の心に刻み付けたいと願っています。本官が貴殿に注意する必要もありませんが、貴殿の使命は平和裏の交渉であり、日本人の独特な性格を考慮に入れても、もっと重要な事は、我が国の偉大さと権威を示す印象的な証拠の提示であり、防衛上を除き、どんな暴力行為にも訴えない事であります。
商業と貿易を拡張し保護するため、我が海軍を政府の効率的な一部門にする事は非常に望ましくはありますがしかし、議会のみが戦争宣言の権限を持つため、貴殿の関わる重要な使命においてさえも、過剰な慎重さで行動する事は出来ません。
これらの提言は貴殿のあっぱれな熱意に落胆を与え様とするものではなく、貴殿の壮大な使命を傷つけ様とするものでもありません。全面的な信頼が貴殿の判断と愛国心とに置かれています。しかしながらこれらは、貴殿の興味を引く記述の一部から呼び起こされたものでありますが、そんな例として貴殿は、春に、日本人の恐怖心を掻き立てる事により成功する希望を述べ、同時にまた、「アメリカ人を駆逐する」ため既に海岸に多くの砲台が築かれていて、春になるまでにはもっと多くが築造される可能性を述べていますが、これによれば、彼らは貴殿に戦争に近い対応の準備をしている事をほのめかせています。以下の記述が本官が指摘する、貴殿の書簡の一部分であります。

ダビン海軍長官はこう述べて、ペリーの報告する軍事力行使や戦争に至りそうな記述を指摘した。例えば、「海岸には町や村があり、その間に砲台もあり、海には至る所に大小の船が多数浮かんで居る」、「多くの新しい砲台があり、外に築造中の砲台もあるが、手元に来る予定の海軍力とりわけ戦列砲艦・ヴァ―モント号の火力に頼れば、江戸湾の最深部まで侵入でき、3、4マイル向こうの江戸の街は砲弾の届く範囲だ」と述べたり、「日本人の恐怖心に訴える時にのみアメリカの要求を入れるであろう」などの表現である。そして特にペリーの強く期待している戦列砲艦・ヴァ―モント号に触れていわく、

本官の前任者により考えられていた様に、海軍省がヴァ―モント号を貴殿の艦隊に追加派遣するかと言う件については、水兵を乗組ませる事が不可能になったため、それは出来ません。乗組員を既に割り当てた船舶は、夫々に緊急性があり、その分割はできないためです。

そして更に、本国から支那に派遣したマクレイン公使のためにペリーに出した、1艘の蒸気軍艦の分遣命令を再度確認し、分遣後でもペリーの手元には補給船以外に、2艘の蒸気軍艦と3艘の帆走軍艦がある事になる筈だと述べた。そして続けていわく、

大統領は、この規模の海軍力は全ての防衛目的に対して全く十分であり、日本人に都合よく強い印象を与えるべく計算された軍事力の発揮になり、また本官が思うには議会はその分別としてこんなにも遠方の国で大きな立腹する原因が無い限り許可すると決定しないでしょうが、海兵隊の大部隊を上陸させ侵略しようと考えない限り、海軍力で達成できる限りの貴殿の使命の目的は達成出来る、と言う意見を持っています。・・・
貴殿はその現場に居り、事態に対する個人的観測は、何が得策かと言う事に関し、勿論現場から遠方に居る者より更に正確な判断を可能にするでしょう。しかし膨大な費用と他の重要目的へ向けた一部貴艦隊の大きな必要性を考慮すれば、最終行動を来年の春という遅い時期まで延期せざるを得なかった事は、非常に残念な事であります。
大統領は、貴殿がここまで進展させ来春の再訪意思を通告してあるので、それに応じて日本に行き、あらゆる名誉と理性ある努力に訴え、日本人にその不愛想で反社会的なやり方を捨てさせ、修好通商条約を締結させるよう納得させるべきだと強く望んでいます。
貴殿が支那に戻ったら、我が公使と本省に貴殿の努力の結果を連絡し、支那に対する公使の使命遂行に協力して貰いたい。

この様に本国では、ペリー提督に日本遠征の指示を出したフィルモア大統領と違い、ピアース大統領とダビン海軍長官の優先順位は既にアメリカと支那との交渉に傾き始めたとも取れる響きがあった。ペリー提督の本国出発後ほぼ1年後に受け取ったペリーからの報告書には、日本にフィルモア大統領の国書を届けたという事だけで、来年の春にならなければ日本には行かないという事である。本国政府から見て「如何にも遅い」と感じたのだろうか。日本との交渉より支那との交渉の重要性が増したのだろうか。大統領と海軍長官からの命令には従わざるを得ない。ペリーは二回目の日本行き直前の1854年2月2日、琉球の那覇から本国宛に、日本での交渉が終わり次第蒸気軍艦・サスケハナ号を支那に回しますとの書簡を送っている。

♦ 琉球領有の提案
(典拠:『ペリーを訪ねて』、中野昌彦著、東京図書出版会、2006年4月、 ISBN4-86223-017-2、P. 223-226 から引用)

更に日本の対応に不安を抱くペリー提督は、日本がかたくなに門戸を閉ざす時は、薩摩藩の支配下にあると聞く琉球の一部領有をダビン海軍長官へ再度提案した。これは、ペリーがフィルモア大統領の親書を日本側に手渡した後、二度目に日本に行く途中、琉球からの提案である。

ペリーは、日本が何の譲歩をしなくとも、琉球の一部を領有する可能性を考えた。勿論この考えは今に始まったわけではなく、ノーフォークを出発し最初の寄港地・マデイラ島ファンシャル港から海軍長官に送った書簡にもやんわりと出てくる。・・・しかしペリーに条約締結の権限は与えられていたが、軍事力が伴うであろう領有を単独で実行できる権限はなかった。ペリーは1854年1月25日付けで琉球からダビン海軍長官に手紙を出した。いわく、
他の(開港と条約締結という)二点の成功を勝ち取るには、軍事力を用いない限り少なからぬ不安があります。日本側が武力に打って出ないかぎり、そうすること(武力行使)は多分間違った選択でしょう。従って、個々に特別な命令がない状況下では、私がその責任を持ち、その状況によって行動し、私の最善の判断が出来る選択肢が必要です。私が意図していることは、若し日本政府が交渉を拒否したり、我が商船や捕鯨船に寄港地を提供しなかった場合、日本への従属国であるこの琉球の地を、我が政府が私の行動を認めるか否かはっきりするまで、アメリカの国旗の下で「監視」し、「アメリカ市民への侮辱と損害を知らしめる土地」としてアメリカの「拘束下」で領有することです。・・・若し私が江戸に向けて出発する前に一時的な対策としてそれを実行しなければ、ロシアやフランス、あるいは多分イギリスもそれに手をつけるでしょう。
とアメリカ政府へ「琉球領有」の明確な指示をあおいだ。この「アメリカ国旗の下で『監視』し、アメリカの『拘束下』で領有すること」は、軍事力を使った領有をはっきり意思表示したものだ。前述のマデイラからの書簡は、琉球の数港の領有は、最も厳格な道徳律や断固とした必要性、また住民の生活レベルの改善にもなる手段として正当化できると言いつつ、琉球住民との友好を強調し、やんわりとした表現だった。しかし今度は、はっきりと政府の決断を促した。ダビン長官は、5月30日付で次のように回答した。
『若し日本政府が交渉を拒否したり、我が商船や捕鯨船に寄港地を提供しなかった場合』、琉球の一部の島を『アメリカ市民への侮辱と損害を知らしめる土地』として領有するという貴官の提案にはもっと当惑します。本件を大統領に説明しましたが、この提案を出してきた愛国心には大変感謝するが、現在以上に緊急で有力な理由がない限り、議会の同意なしにそんな遠方の島を領有する事は気が進まないといっています。将来、万一抵抗が強くそれが脅威になり、若し一度領有し、その島を明け渡すような事にでもなればむしろ屈辱的で、それを保持する軍隊を駐留させる事にでもなれば不便で費用がかさみます。提案された手段に訴えざるを得ない不測の事態が起こらないことを祈るとともに、貴官の老練さや慎重さ、適切な判断が、武力の行使なしに日本人の無知な頑固さに勝利する事を祈ります。貴官の書簡に提案されてはいますが、島を領有しないことは明白な方針です。
とはっきり拒絶した。

ペリー提督は最悪のシナリオをも考えこんな提案までしていたのだが、フィルモアからピアースに大統領が変わっても、アメリカ本国政府の方針は不変で、フィルモア大統領の下でペリー提督への最初の指令通り、自衛以外に軍事力は使わず、戦争はしない方針に変わりはなかった。

ちなみに上記引用文に出てくる「マデイラ島ファンシャル港から海軍長官に送った書簡」に対しても、エヴェレット海軍長官はペリーの琉球滞在が歓迎される事を希望しつつ、開港地として、日本本土の代わりに琉球でも良さそうだとフィルモア大統領も了解したと返答した。すなわち、あくまでも武力に訴えず、友好を下にした琉球港湾設備獲得についてはフィルモア大統領も了解だったわけだ。ヨーロッパ勢のイギリスやフランスの方針と違い、当時のアメリカに海外領土拡張の野心はなかった。

さて、林大学頭とペリー提督が横浜で「日米和親条約」に調印したのは安政1年3月3日すなわち1854年3月31日だったから、もちろん5月30日付で出されたダビン海軍長官からの、「島を領有しないことは明白な方針です」という上記書簡は、条約調印時点でまだペリーの手元には届いていない。しかしペリーには琉球領有の必要性はもはやなかったのだ。

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06/05/2019, (Original since 07/03/2010)