日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

高川文筌、ペリー使節団のスケッチ

高川文筌は信濃松代藩の絵師であり、ペリー艦隊の来航時に幾つもの情景描写や人物画を描き、現在までも貴重な情報を提供した人物である。高川文筌は嘉永3(1850)年に松代藩医・高川泰順の養子になり、嘉永5(1852)年の泰順の死去により文筌が家督を継ぎ、信濃松代藩の御側医師になったという。文筌は武蔵国・所沢に生まれ、旧姓は三上、名は森嶺、諱は惟文、画号は文筌であり、通称が半蔵であったという。

文筌の絵は谷文晁について学び、その昔長崎奉行を務めた旗本・伊沢政義の家来として天保13(1842)年頃から長崎にも行った様である。伊沢美作守政義は浦賀奉行として第2回目のペリー提督来航時の日本側交渉団の1人であり、この旧主従としてのつながりが、高川文筌が樋畑翁輔(ひばたおうすけ)と共にペリーとの交渉の現場近くまで入り絵を描く事ができた第1の要因である。第2の要因は、松代藩が日本とペリー提督との交渉を行った応接所の警備を小倉藩と共に担当したという事実がある。こんな背景で伊沢美作守の医師として横浜応接所に自由に出入りする事が出来、林大学頭とペリー提督との交渉の席の近くまで行き、身近に観察し、スケッチをし、蒸気軍艦・ポーハタン号の機関室迄見せてもらい、画稿の作成が出来たのである。これに付き当時松代藩の軍議役として横浜応接所の警備に出ていた佐久間象山は、安政1(1854)年2月10日付けの手紙で、「浦賀奉行伊沢公より御頼みにて、御手医師頼み度き旨申し越され候に付き、文筌大悦び致し候」と書いているから、伊沢美作守から高川文筌を直属医師として派遣してくれる様に正式依頼があった訳である。日本側の首席代表・林大学頭もこれを了解していたという。

一方の樋畑翁輔は松代藩の能役者で、高川文筌とも親しく、絵は歌川国芳に学んでいた。横浜応接所の警備担当であった松代藩主・真田幸教の内命で藩医・高川文筌の薬篭持ちとして横浜応接所に入り、文筌と2人で画稿を作り、また松代藩の調役助として常時警衛の中にも出役していた。

更にこの時佐久間象山もまた藩主・真田幸教の内命で、高川文筌と樋畑翁輔や伊沢美作守の近習の仲間に加わり、応接所の広間に入り、象山いわく「図どり」を行った。これに付いては改めて、横浜に於ける 佐久間象山 筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)の項目で記述する。

 横浜記事、高川文筌 文稿
(典拠:『米國使節彼理提督来朝圖繪・樋畑翁輔遺稾・昭和五年十二月上梓』、編者 樋畑雪湖)

日本側とペリー提督との交渉時の色々な絵を描き歴史的な価値も高いが、高川文筌はこの当時の自身の観察内容を次の様に記述描写した文章迄も残している。これは全て自身の体験だったから、その臨場感が素晴らしい。いわく、

嘉永七年甲寅の歳、春正月のある日、アメリカ使節が来て国書への返事を求めた。思うにこれは去年の夏手渡した国書で、通商と開港の地を求めていた。この時我が横浜の沖に碇泊したが、火舩(=蒸気船)三隻と軍艦五隻である。幕議で既に定まったが、役人が使節と応接するのである。吾公(筆者注:信濃松代藩第9代藩主・真田幸教)はこの警衛の命令を受け、衆士(=多くの藩士)は横浜の陣に向かった。浦賀奉行の伊沢の君(きみ)が夷事(=アメリカとの交渉)を取り締まる事になった。君と吾公感応(筆者注:老中も務めた信濃松代藩第8代藩主・真田幸貫)は旧知でもあった。こういう訳で自分が仮に医者になり、そのためアメリカ応接に関係する事が出来、その情態(=ありさま)をくわしく知る事が出来た。応接所は新造で、別に内部の席が三方にあり、全てに腰を掛ける台を設けた。席は紅氊(べにもうせん)を敷き前に机があり、花模様の絞り染めの紅絹で覆った。外の席も同様であった。上下の身分別に席を定め、上位者は紫幕の内に座った。下位者も各々に違いがあった。大学頭林の君、対馬守井戸の君が、二人で交渉事に預り、民部少輔鵜殿の君は監察(=目付)、松崎の君某は林の君を補佐し、伊沢の君が獨り内外の取り締まりをした。


横浜応接所に入るペリー提督(ハイネ画)、
文筌の言う「五曜紋の旗」もはっきり見える。

Image credit: Courtesy of Kauai Fine Arts.
http://www.brunias.com/

二月己卯(きぼう=甲寅年戊辰月己卯日、安政1年2月10日、1854年3月8日)、五君及び官吏は横浜に集まり、アメリカ人の到着を待った。既に海面には上陸用の小艇が浮び、合計廿有八隻。その仕掛けを働かせ、恰も天魚が水中を游(およぐ)ごとく、一時に皆が着岸した。各々が小旗を揚げていたが、一艇の舩体が全て白く、直ぐに使節が乗舩すると判った。紅の羽毛付き冠をかぶった者が、先ず上陸し、銃隊数百人を統率するのに、直抜きの剱で指揮をした。その場の左側に整列し、鼓吹者(=鼓笛隊)十有五人が、その背後に集まった。是は水軍である。次に羽付き冠をかぶった者が上陸し、同様に銃隊を指揮し、その場の右側に整列し、鼓吹者十有六人が又その背後に集まった。これは陸軍である。水陸両隊が相対し、その後隊長がこれを点検した。この時突如鼓吹の演奏が始まり、其節回しは非常にゆっくりし、その曲は非常にひなびたものである。使節の上陸の合図である。次に黒の制服に金飾りを付けた一隊が続き、先に掲げた五曜紋の小旗(筆者注:星をデザインした艦首旗。アメリカ海軍では星条旗の星の部分を使い、碇泊中に艦首に掲揚する。)が続き、こうして中隊がやって来た。中でも一人容貌が優れ威厳があり、正面を見据える人物が、使節のペリー提督である。従者五人が付いたが、躰が殊に大きく、皮膚の色は黒く、銃を持っていた。歩みにリズムが有り、応接場内に入った。


横浜応接場秘図、高川文筌
(筆者注:これは、安政1年3月3日、1854年3月31日、
条約調印の直後に日本側が出した食事の情景と思われれる。)

Image credit: Courtesy of the Sanada Treasures Museum
https://www.sanadahoumotsukan.com/

ペリー以下合計三十有六人は、部屋の上座まで入り、我が代表の五君は立って迎え、アメリカ人の列の最後まで会釈をした。訳官の森山が双方の言葉を通訳した。五君は南向きに着座し、彼等は北向きに腰かけた。先ず茶菓と煙草が出された。その後五君が入室し、ペリー以下五人を内席に案内した。一人は副使、一人はペリーの息子、一人は蘭語の通詞、一人は日本語の通詞である。しばらくして、我が五君が再度出て一行と対座したが、この時紫幕が降ろされ、内外を幕で仕切られたが、紫幕は伊沢の君家の物である(筆者注:三ッ寄せ笠紋が付いていた)。この件を担当する官吏と言えども、外席から入る事が許されなかった。茶菓が終わると、更に酒肴が出されたが、彼等が言うには、この酒は飲みにくい、甘い酒を頂きたいと。思うにその強さに驚いたのだろう。そこで養老酒を出したが、夫々口に合い喜んだ。彼等は皆が杯盤(=杯、皿鉢の料理)に向かい、先ずは刀匙(=ナイフとフォーク)を持って食べたが、一人箸で食べる者がいた。皆は争ってこれに倣ったが、これは彼等が新奇を好む証拠である。その美を尽くした珍しく旨いごちそうを勧めても只残念な事は、彼等の嗜好に合わず、各種の料理や魚も取るに足らない物だったのだ。

その時自分は腰掛の傍らにいて、筆を取り頻りにスケッチをしていた。彼等はたちまちこれを悟り、皆が来て自分の肖像を描いてくれと頼んだ。数枚を描いて渡したが、皆はその絵を喜び、帽子の中にしまい、自分の手を握った。これは感謝の意味の様だ。末席に広東から来た羅森という者が居て字を向喬と言う。非常に良く、絵を描いた。自分は書で質問を試みた。貴君は何故この舩に乗っているのかと。答えにいわく朱氏の乱を避けていると。考えるに或いは彼に有罪となる科でもあるのか。禍を潜りこの舩に身を寄せている者だろうか。しばしばこの質問をしたが、終に答えた。前年の夏国書をもたらした時、漢文を作ったが、そこに出て彼等を手伝ったと。

今日の上陸は全体で四百四十六人である。その小艇に残った者は、合計二百人であり、銃隊以外の者でも、全員が腰に短銃を帯びている。すなわち一挺に六発充填してある。然るべき所にこの長短を携え、銃には皆実弾と火薬が充填され、その変に備えている事が分かった。

日暮れになり、内席の交渉は次第に整い、次回会談の約束をして終了した。全員が艇に乗り去った。その後数回の会談でようやく事が整い、彼等が望んでいた和親条約が出来た。即ち水薪石炭などの供給で、それを授受する處は、豆州の下田、北奥の筥館(=箱館)で、ここを碇泊の處と定め、それ以外は禁止である。

二月戊戌(ぼじゅつ=甲寅年戊辰月戊戌日、安政1年2月29日、1854年3月27日)、ペリーは我が五君を饗(もてな)したいと、火舩(筆者注:蒸気軍艦・ポーハタン号)と軍艦(筆者注:帆走軍艦・バンダリヤ号)に迎えた。自分も又それに従った。この日は東北の風が烈しく、波が頗る高かった。このため大型の漁舩を使い、大波を侵して行ったが、舟師(かこ)達は精を出して励み、甚だ力強かった。変り者に口々に言った。その拙さを笑い 見るなかれと。たちまち彼の舶に近づいたが、腥気(せいき=異臭)が鼻をつき、むかつき吐き気がする程だった。怒涛が激しく銕(=鉄)壁にあたり、我が舟は近付けなかった。直ぐに一本のロープが投げられ、これに依り接弦できた。我が衆は皆心を励まし飛び移り、舩の梯子をよじ登り、鯨口(=水中への転落)をまぬがれた。

それでも我が五君は特に船首に立ち、彼は先ず銃卒の調練を命じた。又接戦で船を防御する手段とし、各々が銃剣を振るい、ふなばたで空を突き、舩に乗り込もうとする者を防ぐのだ。或いはまた龍吐水(りゅうどすい=ポンプの水)を帆柱高く噴射し、投げ込まれた火を消すのだ。その上 繩梯子である。あたかもサルが藤つたを走るが如く、次いで曲った梯子を一気に降りた。

この舩はそのまま演砲場である。鉄製大砲を各々十挺づつ装備し、この船首と船尾に、各々一挺づつ設置してあるが、殊に長大である。隊長が口附器(=メガホン)で、一声指揮すると百人余りの銃卒が同時に動き、各々大砲の傍らにならび、恰も一人の動きの様である。声に応じ一発、左舷で発射すると、続々と右舷にも及んだ。一発目の砲声が消えない間に、又一発と二十の砲口から出る砲煙が舩全体を巻き込み見えなくなった。しばらく耳が聞こえない程になり、山川に鳴り響く雷鳴と振動も及ばない程である。一瞬気持ちが悪い心持がしても、皆胸中を洗いすすがれた様で、胸のつかえが下り、心が勇み気分が良かったが、舩は少しも動揺しなかった。彼は我が五君の来臨を祝う挨拶をし、且この舩は軍艦中で最も整った奇麗な船であると言った。

ペリーが先ず白い艇に乗り込み、我が五君を導き、次々に彼と同乗した。この時従者は必ず直立不動の姿勢を取り、しかし五君は泰然としていた。我が舟もこれに続き鮑丹火舩(=蒸気軍艦・ポーハタン号)に着いたが、風波はまだ収まっていなかった。五君をその船室に案内し、先ず茶菓を勧め、その後酒肉の饗(もてなし)があった。自分は近ごろしばしば横浜で彼等と会っていたから、顔見知りが多く、たちまち握手で迎えられ、言葉をかけられるが、しかしお互いに半言位しか理解できなかった。自分が絵描きである事を知っているから、蒸気器根元(=蒸気機関下部)の薄暗い場所に案内し、その複雑極まる物を指さし、これを写す様に言った。自分はその原理も分からず、従って筆を下ろす事も出来ず、注意深く見たが 筆を収め感謝の意を示した。次に銅板を張った所に来た。中央に小さい通路があり、左右は各々二間四方の函の様で、前後共に三つの口があり、石炭を燃やすのだ。舩縁にある車輪は夫々に車軸が分かれ、中に連結できる道がある。若し舩を左旋回しようと思えば直ぐ左輪を止め、右輪の回転に任せる。左右はただ意のままである。車輪の所に居る時に声が聞こえ、舩を百歩ばかり前進させ、又百歩ばかり後退し停止しさせたが、これは一人の手で操作された。今朝頻りに烟を出していた事を知っているが、この進退操作を見せたかったのだ。その巧みな仕掛けを誇っているのだ。この間の製造(=蒸気機関区域の造り)は、全て銅鉄製である。青や緑色を作り、金銀色もあり、これが光り輝き、広大なものは増々大きく、精密なものは増々密である。目では窮められず、口では説明できない。四方上下は、皆鉄板で、半寸といえども、決して木の露出は無い。この中(=機関の中)は火気が充満し、炎を見る如くである。いわゆる地獄へ落ち込んだのかと怪しむ程だ。ようやく終わりまで来て、鉄梯子を凡そ三段上がると、明るい世界へと出た。かすかに風波の音が聞こえ、体が寒くなり始めた。

この舩の船尾の一方に、幃(とばり=テント)を張り杯盤の席を設け、中に大机を二卓置き、屈曲させて使い、机の廻りには全て椅子を置いてあるが、混雑によるものである。先ず杯觴(さかずき)を受け、各々に一礠盆(=一皿)、一組の刀匕(=ナイフとフォーク)があり、肉を取るためである。豚牛や菜菓の類が、卓上に所狭しと並び、その間に所々に焼き物の瓶があり、桃やスモモの花を生け、椿の花もある。これは昨日我々に頼んだものである。牛肉豚肉になり、ようやく股肉(ももにく=ハム)になり、鶏の丸焼きになり、これを大皿に盛り、各々の皿に切り分ける。希望するだけ分けると次第に骨が現れる。又祝い我慢せずこれも食べる。各種の酒が出された。やや酸味を帯びたところは良くないが、葡萄酒と呼ぶものは、味は良く且まろやかで、オランダの烈酒(=ダッチ・ジン、イェネーファ)の比ではない。これは普通の物でないと言うが、極ていねいに仕込んだものである。又本来 彼等は羮(あつもの)や豆豉(とうち)の味を知らないので、海塩だけで全ての味を調える。その調理の一例は一箇の器に肉を入れ、焼いて蒸したものである。我が衆は頻りに杯を傾ける以外は肉に手を付けなかった。彼等が教えるには、これは牛豚鶏である。何故手を付けないのかと。しかしまだどんな肉をも疑わしく思い、各々先ず鶏のもも肉にナイフを入れ、これを切って口に入れた。味は非常に良かった。そこで外の肉にも手を付けてみた。まだまだ沢山盛られている。又一切れを取り皿にのせた。更に乾杯の音頭があった。彼等も我々も共に酒に酔い心持が良くなり宴が盛り上がった。その時突然一人が立ち上がり一声かけると、皆がこれに応えた。また数語があり、始めて一節の言葉となり全員が唱和した。或いは上を向き帽子を投げ上げ、またこれを取り、各人が同様にし、喜色が満面に現れた。通詞が言うには、この合 [□](筆者注:一字不明)声は我が衆をもてなす意味であると。我が衆もまたこれに合わせると、殊に喜色が増した。幕の外の鼓笛隊が、次々に演奏を続け、未だ [□□□](筆者注:3字不明)。この時ペリーの船室内では、殊に極めて珍しいおすすめ料理が出されたが、牛舌と菜菓の各種である。五君はまた否 [□□□□](筆者注:4字不明)。

 [□](筆者注:一字不明)各種の肉を食べ、且各種の酒に酔い、杯盤が乱れ始めた。彼は直ちに命令を出すと、弦(=バンジョー、フィドル、マンドリン等)を演奏し歌が始まった [□□□□](筆者注:4字不明)。顔を塗り、唇を朱に染め、獣毛のカツラをかぶり、各々花柄の服を着た、合計九人である。椅子に並んで座り、 [□□□](筆者注:3字不明)、ある物は阮咸物(げんかんもの=中国の琵琶様の伝統楽器)に似て、ある物は鼓(つづみ)或いは鼓笛の類。歌を歌い、その調はほぼ清楽(=清国の音樂)の様で、或いは金属音を出し、或いは鈴の音を出す。 [□](1字不明)その早いリズムが、たちまち止まり、二人が顔を見合わせて挨拶をし、それは滑稽な俚語(りご=いやしい語)であるのが分かる。あるいはしかめ面をし、口を開け目を閉じ舌を出し、これがまた黒い顔で赤い唇である。二人がたちまち持っている楽器を投げ出し、立って向かい合い、足や頭を動かし踊り回る。時には足を上げ一足飛びをする。立ったまま蝶が乱舞する様に早い。そして皆がリズムに合っている。ペリーは、普段は喜怒を見せないが、この時ばかりは拍手し大笑いをし、大いに喜び楽しんでいた。その曲やその情景は、何が滑稽なのか、いまだ分からない。ただ大笑いの理由を耳で聞いて理解したいものだ。この戯曲を良く知らないが、ほとんど我らを愚弄(=からかう)するものなのだろうか。皆は刀を持って立ち上がりこれに感謝をし、下の我が舟に降りた。この時は風も無く波も静かだったが、腥気(せいき=異臭)が始まり我慢しながら、日暮に金川の旅館に帰り着いた。

 甲寅(安政元年)春三月  松代 高川惟文識  

画家の眼で細かく観察したこの高川文筌の記述内容は、情景が活写され、非常に興味深い。特に2月10日、最高の本膳料理を出したと言われる日本の料理は、文筌の見た所では、アメリカ人の口に合わなかったのだ。ここで日本側の出した料理のアメリカ側の印象に付き、『ペリー提督日本遠征記』の表現と、艦隊主席通訳官・ウィリアムズの日誌の記録を以下に載せる。

 日本食について、『ペリー提督日本遠征記』の表現とウィリアムズの記述
(典拠:「Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, etc., By Francis L. Hawks, D. D. L .L. D., Washington: A. O. P. Nicholson, Printer, 1856. (Vol. I)」、「A journal of the Perry Expedition to Japan (1853 - 1854) by S. Wells Williams, First Interpreter of the Expedition. Edited by his son F. W. Williams, 1910」

ペリー提督と日本側との第一回目の交渉が、安政1年2月10日、即ち1854年3月8日、横浜応接所で始まった。林大学頭は最初から、通商は出来ないが薪水石炭の供給はするし遭難者は救助すると言った。ペリー提督はこれに答えず、ミシシッピー号に死者が一人出たので埋葬地を購入したいと言い出した。日本側はこの希望にどう対処するか別室で協議に入ったが、このタイミングで大学頭は酒、果物とケーキ、スープと魚、等の食事の提供を提案した。すると、「ペリー提督日本遠征記」の表現いわく、

若し代表委員たちが提督と士官達と一緒になってパンをちぎりながら食べるのであれば、多くの他国と同様に合衆国では、友好の証拠だと考えるというのがアメリカの歓待という観念により良く合っている、とのコメントと共にこの招待は受け入れられた。日本人は、外国の習慣を知らないが、喜んで一緒に食べようと答えた。いったん彼等は全員が引き取ったが、しばらく後に二番目と三番目の位の人が戻って来て、すでに始まっていた食事に社交的な態度で参加した。高官の一人はコップに一杯の酒を注ぎ、一滴も残さず飲み干し、底を上向きに逆さまにし、招待主が始めに飲むのが日本の習慣だと言った。・・・
もっと暖かくなり次第日本の高官たちを喜んで自分の船に招きたいと言いながら、提督は出発の準備が出来た。日本側は喜んでその招待を受ける事を慎重に述べ、お辞儀をして退出した。交渉中に下位のアメリカ士官達は外側の大きな広間で飲食物を出して歓待され、江戸から派遣され、彼等の肖像画を描く日本人画家の遠慮もない力作を楽しんでいた。

この「江戸から派遣された画家」は勿論上述の高川文筌である。これに対し主席通訳官・ウィリアムズは次の様に記述している。いわく、

我々は他の高官が書類を検討している間、二人の高官にもてなされた。それぞれ異ったやり方で調理され、茹でた海藻で囲んだ二皿に盛られた魚とクルミ、細長く刻まれたニンジン、卵などが酒や茶、醤油、酢と共に出された。琉球の料理人が料理した物と同様に塩味だったが、料理は悪い味ではなく、私にとって新鮮なクルミの味が非常に満足だった。疑いも無くオランダ人から手に入れたマデイラ・ワインの入ったガラス瓶とグラスが出された。若しこの歓待が標準なら、今日の歓待費用は大きな出費ではなかったが、日本人の側から見れば良い気分だった事は明白だったし、去年の夏の会見に照らしてみれば非常な前進だった。
他の高官達が戻って来ると食事の席に誘われ、機械装置を彼等に向けて動かすとほのめかされるやいなや、終に招待を受け入れた。

以上の二史料を読む限りは、2月10日のこの食事は日本で最初に出された食事であり、しかも日本側はまだ別室でペリーから出された死者の埋葬と言う件に関する対応策を協議中と言う交渉中の食事であった。「ペリー提督日本遠征記」では情景描写だけで献立内容には触れもせず、むしろ「仕事中の食事はこんなものか」と言う感じで自然に受け止められたかの様に響く。しかし後日、和親条約を調印した日に出された日本側の饗応に付いては少し様子が違った。

最初の応接日から23日後の3月3日、和親条約の合意が出来て調印が行われた日、日本側は応接所で食事を提供した。この饗宴に付いて「ペリー提督日本遠征記」の表現いわく、

日本の交渉委員達は、この機会に提督と随行士官達を特別に準備した饗宴で食事を共にするため招待した。
応接所の大きな部屋にテーブルが準備された。それは腰掛に使われた物に似ていて広めの寝椅子程の幅で、同じ高さだった。テーブルは赤い縮み紗が掛けられ、招待客と主催者側の位に応じ、上席のテーブルは提督や上級士官と交渉委員達に相応しく、他の物より少しばかり高くしつらえられていた。全員が着席すると、従者達が素早く次々に、主に新鮮な魚が主要食材である濃く、むしろシチューの様なスープ料理を運び込んだ。これは小型のカップ状の焼き物の椀に入り、ほゞ14インチ角で10インチの高さの漆塗りのお膳に載せてあり、夫々の客の前のテーブルに出された。各料理と一緒に醤油か薬味が付き、独特な容れ物に入った日本の国酒とも言える米から蒸留したウィスキーの様な沢山の酒が食事中ずっと出されていた。各種の甘い菓子や多様なケーキ類が、テーブルの色々な物の間に自由に置かれていた。宴の終わりころ、焼きあがったイセエビ、何かの魚の揚げ物、二、三の焼いた海老、小さく四角い何かで作ったブラン・マンジェの様な硬さのプディング等が入り、招待客達が船への帰りに持って帰れるかの如くにした一人前の包みが各人の前に置かれ、帰ってから船に届けられ、確かに受け取った。
交渉委員達の饗宴は、招待客達に著しい好印象は与えなかったが、しかし客達は主催者側の好意に大いに満足させられ、その上品さと行き届いた配慮は、丁寧な扱いについてそれ以上望む事は何も無かった。しかしながら認めねばならないのは、招待客達は彼等の前に並べられた変わった献立のために、食欲の貧弱な満足しかなく退席して行った。ところで陳謝は彼等の宴会の習慣的な特色だと判明したが、食事の貧弱さの理由は神奈川で最高食材を入手する困難のためであると、陳謝の気持ちを述べられた事は事実である。ポーハタン号上で交渉委員達に提供された晩餐は、今回日本人により提供されたものの様な理由で、少なくともその量に於て勝っていただろう。これを一言で言うならば、一般的に日本の宴会は親切なもてなしに満ちていても、彼等の調理技術が好ましくない印象しか残さなかった。明らかに琉球人の方が、良い暮らし向きにおいて日本人より勝っている。

この様に、当日の日本食は満足できなかったと明確に書いているが、ウィリアムズはどう見たのか。以下にいわく、

条約は調印され正餐が我々に提供されたが、とても我々の期待に沿う物ではなかった。第一のコースは茶、結んだ砂糖菓子、スポンジケーキ。第二は生カキ、きのこスープ、茹で梨、茹でた後でケーキ状に押し固め帯状に切られた卵、砂糖で調理された海藻、生ショウガ、茹でたクルミときのこ、好みに応じたお燗付きと冷の酒。第三は煮た鯛、大型イセエビ、海老、魚の刺身、青野菜入り豆スープ、刻みのり、野菜、茹で筍と玉ねぎ、長芋と見た事もない野菜。第四は魚スープ、長芋、赤い文字で長寿と入れたブラン・マンジェ、茹で栗、更に良く分からない物が一つ二つあった。全体的に首里で出された正餐には比べようもなく、疑いも無く江戸か神奈川ならもっと良かっただろう。

ウィリアムズも日本の食事は期待以下で、首里で出された琉球料理の方が遥かに、比べ様もないほど良かったと書いている。筆者は当時の料理を見た事も食べた事も無いから何とも言いようがない。伝統的な本膳料理には料理を並べる位置や食べる順序にまで形式を重んずる文化があったと聞くが、旨いと思う料理で満腹になりたいアメリカ側とは、食文化に大きな違いもあった様だ。しかし、当時の食材や味付けや調理法が今も日本料理の伝統に残っているとすれば、現在の日本食が世界中で歓迎されている事実から見て、世界の食文化の移り変わりを感慨深く思わざるを得ない。

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01/01/2021, (Original since 01/01/2021)