日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

カロライン・E・フート号でやって来たアメリカ商人たち

ペリー提督が安政1(1854)年3月3日に日本と締結した日米和親条約を聞き知り、パイオニア精神旺盛なアメリカ商人たちが早速ハワイでワース船長所有のカロライン・E・フート号、145トンをチャーターし、日本では入手できない捕鯨船用の碇や鎖、その他の関連雑貨類を箱館で販売しようとやって来た。この船にはワース船長と妻、リードと妻と2人の子供、ドハティー、ドティーと妻、ビドルマン、ピーボディー、エッジャートンが乗っていた。しかしこの和親条約の基本的精神は、下田と箱館の二港を開港し、海難にあった人々を親切に救助し、あるいは必要な補給物資を求めてやって来た人達に日本にある物資を供給しようというもので、居住を許し通商を許すという、いわゆる「通商条約」ではないと云うのが日本側の定義だった。従ってこのカロライン・フート号のアメリカ人たちの試みは、日本側のかたくなな拒否により失敗に終わったが、この日本開国当初にいくつもの偶然の重なりから、伊豆の下田や戸田(へだ)、あるいは箱館で、日本、アメリカ、ドイツ、ロシアの四カ国間にまたがる思わぬ出会いの物語があった。こんな出来事を書いてみる。

♦ 安政の東海大地震とディアナ号の遭難、・・・ ここから物語が始まる


現在の下田港風景 (正面に港の入り口を望む)
Image credit: © 筆者撮影

ロシアのプチャーチン提督は、アメリカのペリー提督より早くから長崎に来て和親・通商条約締結の可能性を探っていたが、そのアプローチの違いとタイミングから、和親条約締結ではアメリカに先を越された。プチャーチンはその直後からまた長崎や箱館、また大阪湾の天保山沖に最新鋭ロシア軍艦・ディアナ号で乗り入れて来て圧力をかけ、幕府はついに安政1(1854)年9月22日、プチャーチンに下田へ来航すべきを告げた。そしてロシア使節との応接掛に任命された筒井政憲と川路聖謨(としあきら)が、11月3日から使節・プチャーチンと下田の福泉寺で和親条約と樺太の日露境界の決定交渉を始めた。

マグニチュード8.4というとてつもない規模のこの「安政の東海大地震」は、その翌日の4日に突如起ったのだ。これが引き金となり32時間後には同じ規模の「安政の南海大地震」も起り、その2日後の7日にはマグニチュード7.4の豊予海峡を震源とする地震があり、3地震とも大津波を引き起こし、伊豆下田、遠州灘、伊勢・志摩、熊野灘沿岸や紀伊、土佐、豊後沿岸に甚大な被害をもたらした。伊豆下田港内で、この最初の7m近くもあった津波の犠牲になったのがプチャーチンの乗る2千トンもある軍艦・ディアナ号だった。この時下田港に停泊中のディアナ号は、一時的に海水がほとんどなくなった海底に叩きつけられ、続いて襲ってきた大津波に翻弄され、転覆こそ免れたが大被害を受けた。

プチャーチンは大破した軍艦・ディアナ号を修理するため、クリミヤ戦争相手のフランスやイギリス軍艦に見つからないよう、下田以外の安全な修理港を求め、とりあえず乗組員の陸上仮宿舎を求め、下田・柿崎の玉泉寺に宿泊した。紆余曲折の末修理港を伊豆半島の付け根にある戸田(へだ)浦に合意し、大破したディアナ号を下田から戸田浦に回航途中、11月27日の悪天候にもまれたディアナ号は風に流され、戸田浦に入れなかった。船はそのまま北に流され続け、駿河国宮島村小須浜、現在の静岡県富士市宮島沖で、富士川河口にできていた沖州に乗り上げ沈没してしまった。途方にくれるプチャーチンは、幕府の援助を得て戸田浦で新造船を造るべく要請をした。やっと緊急処置を調えたプチャーチンは幕府応接掛けと下田の長楽寺で条約交渉を再開し、安政1年12月21日、1855年2月7日、ついに日露和親条約九条及び付録四条を締結した。この時交渉役の川路聖謨は、幕閣の指示のもとプチャーチンの合意を得て、プチャーチン用のスクーナー船1艘の他に、更に1艘の同型船を平行して新造している。日本側はこの経験を生かし、引き続き更に数艘の同型船を建造し、箱館奉行所に2艘、下田奉行所に2艘、江戸用に2艘を始めその他の用途に振り向けている。ちなみに、箱館奉行所への2艘は、安政3(1856)年7月8日、品川沖で引渡しが行われている。

♦ アメリカ人のディアナ号遭難船員送還努力

少し後戻りするが、荒天で沈没したディアナ号に代わる新造船の許可が幕府から出て、500人近くにも上るロシア船員や海兵の多くが戸田(へだ)浦に移り、ロシア使節・プチャーチンも幕府と和親条約の再交渉に入る準備をしているその時、即ち12月9日、アメリカ蒸気軍艦・ポーハタン号が使節・アダムス中佐を乗せて下田に入港した。

ペリー提督が安政1(1854)年3月3日に日米和親条約を締結すると直ちにアダムス中佐に命じ、和親条約書をサンフランシスコ経由でワシントンに届けさせた事はすでに書いたが、大統領が署名した和親条約批准書を持って再び日本に向かったアダムス中佐が、この大地震と大津波の約1ヶ月後に下田に戻って来たのだ。そして、被災間もない大被害にあった下田の町を見て愕然とし、ロシア軍艦・ディアナ号の遭難を知ったのだった。ポーハタン号はロシア軍艦の被災に出来るだけの援助をし、日本側と和親条約の批准書交換を終えたアダムス中佐は、安政2(1855)年1月5日香港に向けて下田を去った。

この時、アダムス中佐の下田滞在中にプチャーチンは、ポーハタン号のマクルーニー艦長なども交え部下のロシア船員・海兵の帰国を話し合った。若しこのアメリカ軍艦に乗って香港に行けば、クリミヤ戦争で敵対するイギリスやフランス軍艦が居て、避難して来たロシア海軍将官や船員・海兵に危害が及ぶ事を危惧するプチャーチンは、この帰国方法を選ばず、上述の如く、戸田浦での新造船やその他の方策を練る事にした。そこでアダムス中佐は、適当な捕鯨船や商船を見かけたら下田に送ろうとの約束をして香港に向かったのだ。そして約1ヶ月半後の2月27日、当時サンフランシスコから香港・上海に来ていたアメリカでも有名な新造の大型クリッパー快速帆船・ヤング・アメリカ号、1380トンが、このアダムス中佐の意を受けて、日本にいる遭難ロシア人たちを送還しようと上海から下田に入港することになる。

しかしそれ以前に、全くの偶然から、ハワイでアメリカ商人たちにチャーターされた前述のカロライン・E・フート号が、安政2(1855)年1月27日下田に入港したのだ。

このカロライン・E・フート号は下田の役人に、ハワイから小笠原諸島に立ち寄り下田に入港したが、最終的に箱館に行き捕鯨船と商売をするが、とりあえず薪水食料を入手したいと告げた。この船がハワイから下田に来る途中で小笠原諸島の父島に立ち寄った時、約2ヶ月半ほど前の安政の東海・南海の大地震の後、突然島を襲ってきた高波に何軒かの家を破壊され、ほとんどの畑を洗い流された島民達に会ってきたが、同じ津波の被害から立ち直りつつある下田の町をも目の当たりにしたのだ。この津波が小笠原諸島までも襲った事実は、後にカロライン・フート号で箱館からサンフランシスコに帰ったH・H・ドティーからの情報として、「サンフランシスコ・ヘラルド」紙に載った記事を転載した1855年10月15日付けの「ニューヨーク・タイムス」紙に見ることが出来る。最近の研究では、父島の津波の高さは、3m〜4m程だったと推定されている。

このアメリカ商船の突然の入港を知ったプチャーチンも好機到来と考え、この船の船長・ワースと直接交渉し、戸田に滞在する部下の船員・海兵のうち先ず180人位をカムチャッカへ送ってもらうべく傭船契約を結んだ。そして上手く行けば更にもう一、二度の往復をする約束だった。残りは戸田で建造する新造船その他で帰ろうという考えだったし、日本側もロシア船員たちがこのアメリカ商船で大勢が帰国することを密かに期待し、大いに賛成だった。

ただ問題は、このカロライン・E・フート号に積んでいる商売用の船荷と婦人や子供も含めたアメリカ商人たちの処置だった。上陸し仮住まいしたいとの意思表示に下田奉行・伊澤政義は、このアメリカ商船がロシアの難破・沈没してしまったディアナ号の乗組員を送還するため傭船契約をしたといっても、日米和親条約にある通りの「漂流民」でもないアメリカ商人とその家族たちが、一時的にせよ下田に上陸滞在する事は許可できない。アメリカ商人が玉泉寺に仮宿泊するロシア士官を訪ね、遅くなり寺に一泊する事さえも許可しないと云うほど厳しかった。

しかしこの仮上陸の結論が出ない間の2月9日、カロライン・E・フート号はアメリカ商人とその家族11人を玉泉寺に残し積荷を預けたまま、玉泉寺に居たプチャーチン始めロシア士官18人を乗せ戸田港に行き、そこに滞在するディアナ号の海兵を乗船させる準備を始めた。そこで日本側は、プチャーチンを詰問すべく戸田から下田へ出頭せよと呼び出しをかけたが、緊急時下での仕事が優先すると言うプチャーチンはなかなか出頭しない。仕方なく2月24日に日本側の川路左衛門尉(さえもんのじょう)と水野筑後守が戸田村まで出向き、下田に残したアメリカ商人の退去を交渉したが、プチャーチンは翌25日にロシア海兵159人を乗せたカロライン・E・フート号をカムチャッカのペトロパブロフスクに向け出航させてしまった。これを知った川路と水野は、プチャーチンにその暴挙を攻め猛烈に抗議した。この好機を絶対に逃せないプチャーチンも、アメリカ商人を下船させたのは傭船に応じたアメリカ商船の船長自身で、自分にはそれに介入するどんな権限も無いといい、500人のロシア漂民を助けその代わりに5人のアメリカ漂民が下田に居ると思ってくれといった。川路は、漂民でもないアメリカ人を下田には置けないし、ロシアの暴挙のために日米和親条約に傷がつくと、延々と双方譲らず、一日中議論しても結論が出なかった。

こんな風に、戸田村でプチャーチンと日本側の川路、水野などの応接掛けが交渉している2月27日、支那で前述のアメリカ軍艦・ポーハタン号に乗ったアダムス中佐の意を受けたアメリカ商船・ヤング・アメリカ号が、ロシア人送還の手助けをしようとアダムス中佐の命を受けた士官を乗せ、アダムスからプチャーチン宛の手紙と共に上海から下田に入港した。プチャーチン宛の手紙には、近々イギリス軍艦とフランス軍艦が下田に来航し条約交渉をするようだから、その前にロシアに帰国できるようこの商船を手配したと書かれていた。この情報でプチャーチンは早速、ヤング・アメリカ号の戸田浦への回航を日本側に願い、玉泉寺に居残っていたロシア士官を全員乗せたこの商船は下田から戸田浦に回り、プチャーチンと傭船費用の交渉に入った。このヤング・アメリカ号の船長・バブコックは傭船料5万ドルを要求し、プチャーチンは1万8千ドルと言い、バブコックは3万ドルにまで下げた。がしかし、カロライン・E・フート号傭船時の三倍の賃金を出すというプチャーチンの提示した条件では、この危険極まりない送還の請け負いは出来ないと、傭船交渉はあっけなく破談になってしまった。上海から来たヤング・アメリカ号は、ハワイから来たカロライン・E・フート号よりクリミヤ戦争に関するイギリスやフランス艦隊の動きをよく把握し、十分に危険分析をし、高額な傭船料で交渉したのだろう。しかしこれは一見、下田にイギリスやフランスの敵国軍艦が来ると云う、追い詰められたプチャーチンの足元を見ての交渉だったようにもうつる。

しかし、このように一旦傭船交渉は破談になりヤング・アメリカ号は戸田浦を出たが、数日後にバブコック船長の考えが変わったのだろう。プチャーチンの提示した1万8千ドルで請合うといって、船は再び戸田浦に帰って来た。そして傭船契約がまとまるに連れ、クリミヤ戦争の進展下でイギリスやフランス海軍の活動を非常に心配するヤング・アメリカ号の船員や士官が大反対し、船から逃亡を図る船員さえも出て、結局傭船は中止になってしまった。

♦ プチャーチンの帰国とアメリカ商人の権利主張


下田・戸田・箱館及び北方寄港地
(参考位置として示したウラジオストクは、1855年当時、まだロシア領ではない)

Image credit: © 筆者作成

さて一方で、3ヵ月半前から続いていたロシヤ士官の指導監督の下に、日本側の協力で建造が進められていた新造船のヘダ号が完成・進水し、3月18日(1855年5月4日)、いよいよ戸田からの帰国の準備が出来た。プチャーチン始め48人が乗組んだこの船は22日に戸田浦を出港し、4月7日にカムチャッカ半島南端のペトロパブロフスクへ着いた。前年・1854年夏にこのペトロパブロフスクを攻撃したイギリス艦隊はロシア側に完敗したが、今年もイギリスやフランス海軍の来襲を予想したロシア側は、その攻撃にさらされるだろうペトロパブロフスクに全ロシア艦船の退却命令を出していて、間宮海峡北端に注ぐアムール川河口にあるニコラエフスクから南方160kmのデ・カストリ湾に向かい退却中だった。そして先にカロライン・E・フート号でペトロパブロフスクに送られたロシア船員たちも、ペトロパブロフスクで再びチャーターされたアメリカ捕鯨船・ウィリアム・ペン号で非難した後だった。

プチャーチンの乗るヘダ号はすぐさまアムール川河口のニコラエフスクに向かったが、途中薄暗がりの中にイギリス艦隊の影を見ながらこっそりと航行し、5月7日(1855年6月20日)にやっとニコラエフスクのあるアムール河口に着いた。ここでもまたイギリス軍艦の影を見て、ついに危険に直面した情況を打開すべく、こっそりと目立たないカッターに乗り換えてたプチャーチン一行は、やっとの思いでニコラエフスクの街に帰還することが出来た。プチャーチンはここから船でアムール川を遡り、馬やソリで大陸を横断し、安政2年10月1日、即ち1855年11月10日やっとモスクワにたどり着いた。

しかし一方、ヘダ号がペトロパブロフスクに着いた安政2年4月初め頃には、プチャーチンの居なくなった伊豆の戸田浦にまだディアナ号で難破した270人程のロシア兵が残って居て、カロライン・E・フート号の初回の成功とその帰還を待っているわけである。

こうして肝心のプチャーチンも出航してしまったので、幕府は下田に滞在するアメリカ商人たちと下田退去に関し直接説得するよう下田奉行に命じた。奉行所はこれまでにも彼らの下田滞在の理由と退去の意思を確認してはいたが、幕命により、日米和親条約では下田、箱館とも上陸し住居することは許可してはいないので、カロライン・E・フート号が帰港次第退去するようにと命じた。しかしアメリカ商人たちは、「和親条約の4条と5条にそれを許可している」と仮上陸居住の正当性を強硬に主張した。

この様に下田で双方の主張が食い違う中での3月27日、米国北太平洋測量調査艦隊司令官・ロジャーズ大尉がスループ型砲艦・ヴィンセンス号とスクリュー蒸気軍艦・ジョーン・ハンコック号を率いて下田にやって来た。この測量艦隊は、ペリー提督が日本遠征のためアメリカのノーフォーク軍港を出発した約半年後、同じくノーフォーク軍港を出発し、支那海と北太平洋全域、日本の太平洋側や日本海側沿岸からカムチャッカ及びベーリング海域も含む広域の海洋測量調査を目的にしていたが、測量艦隊の元々の司令官・リングゴールドが香港で病気になり、和親条約を締結し日本から来合わせたペリー提督により、ロジャーズ大尉が新しい司令官に任命されていたのだ。艦隊所属のスクーナー型小型測量船・フェニモア・クーパー号は九州から日本海側を測量し箱館で合流するルートを取り、また艦隊には補給船・ジョーン・P・ケネディー号も所属していたが、老朽化の激しい船体は更なる荒海の航海に適さないと、広東周辺の防御艦としてペリー提督の東インド艦隊に所属させ、代わりにドイツ・ハンブルグの商船・グレタ号を傭船し箱館までの補給物資輸送に当てた。しばらく後にはこのグレタ号も、このロシア船員送還の物語に深く係わる事になる。

艦隊司令官・ロジャーズの要請で欠乏の薪水食料を補給した下田奉行・伊沢政義と新しく奉行を命ぜられた井上清直は、早速ロジャーズと会い、未だカロライン・E・フート号は帰らないので、玉泉寺に仮滞在するアメリカ商人たちを連れ帰ってもらえないかと交渉を始めた。しかし海洋調査艦隊はまだこれからカムチャッカから北極海近くまで測量し5ヶ月後でなければアメリカに帰国しない予定だが、その前にはロシヤに行った商船は帰ってくるはずだと同乗を断り、この事は自国政府には報告を上げると約束した。

当時の幕閣や下田奉行は測量艦隊入港以来、ロジャーズ司令官から出された戸田浦まで行き遭難ロシア船員に会いたいという要請や、沿岸を測量したいとの要請は許可せず、日本側の和親条約精神の理解通り、下田と箱館の二港のみの開港であり、不足品は供給するがそれ以外のどんな要求も固く断るという態度だった。海洋の安全航行に必要な沿岸測量や人道的に遭難者へ親切な手を差し伸べるという国際慣例には全くなじまない対応で、条約日本文の一字一句から一歩も譲らない、かたくなな態度だった。一方のアメリカ側は、それでも勝手に戸田浦に軍艦を派遣しロシア船員と会い、付近を測量し、後に咸臨丸に乗り込む事になるブルック大尉に小型ボートで下田から箱館まで沿岸測量をさせている。和親条約とは言いながら、アメリカ人の目から見れば、まだ日米二国間の真の「和親」には程遠かった。

ロジャーズ司令官は1855年5月20日、即ち安政2年4月5日付けで下田奉行宛に長い書簡を送った。その要旨は、

下田に仮滞在するアメリカ市民から事情を聞いたが、二国間条約に関しては、お互いが遵守すべきことは明白にお分かりのはずだ。上陸滞在は第4条と5条に明記してある通りだが、「當分下田箱館逗留中」の解釈が問題になっていると聞く。アメリカやヨーロッパの習慣は、商人や留学生が自由に他国に滞在し、観光もし、また帰化する事も出来る。この問題は日米間の理解に差異があることだから、先ず政府間で話し合う必要がある。その決着がつくまでは、単に日本政府の意向だけでアメリカ人を退去させる事は出来ない。本官が推奨する最も賢明な策は、下田・箱館の奉行は自国の解釈をゴリ押しせず、アメリカ政府は公正で平和的で高潔で、しかも強くもあるが、先ず政府間で話をし、日本皇帝とアメリカ大統領の間で合意する事だ。本官もこれを政府に報告するが、この推奨安を真剣にご検討願いたい。

という、理にかなった公平な提案だった。当時下田には優秀なオランダ語通詞として活躍し普請役に出世した森山多吉郎やオランダ語通詞・堀達之助がいて、彼らは英語も解しこの問題に深く係わったが、この長い手紙の真意を正確に翻訳できたのか、下田奉行がその意味するところを理解できたのか、日本側史料をこれ以上入手出来ない筆者には不明である。しかし下田奉行は、下に書くドイツ商人・リュードルフがアメリカ人だと言って下田に仮滞在した時、このロジャースの手紙を参考にして、「帰化したのでしょう」と幕閣に上申書を上げている史料もあるから、ロジャーズの提案は幕閣あるいは評定衆が無視したように見える。またすぐ次の章で書く通り、アメリカ総領事としてタウンゼント・ハリスが下田にやって来たが、当初下田奉行がハリスを追い返そうとしているから、ロジャーズ司令官の真意は伝わらなかった事は明らかだ。

こんな中で待ちに待ったカロライン・E・フート号が4月12日に下田に帰ったが、クリミヤ戦争の拡大から樺太やカムチャッカ辺りまでも危険海域になり、ペトロパブロフスクでは全ロシア艦船の退却命令が出される程までになった事をはっきり見て取った。このアメリカ商船は第一回目のロシア船員送還時に立ち寄った箱館で、寄航していたイギリス軍艦から、若し海上で遭遇すれば敵国に味方する船として拿捕し全員を捕虜にし、船も没収すると警告されていた。再航すれば今度は自分たちの船もイギリス軍艦に拿捕されてしまうと、プチャーチンと約束していた二回目以降のロシア船員送還をキャンセルしてしまった。

アメリカの測量艦隊も下田を出航し、4月21日にはカロライン・E・フート号も全員を乗せて下田から箱館に向かったが、下田を退去するに当たりアメリカ商人・W.E.ビドルマンとH.H.ドティは下記の手紙をアメリカ国務省に送った。下田で奉行に強硬に主張したように、あくまでも和親条約第4条の「渡来の人民取扱の儀は、他國同様緩優にこれ有」と、5条の「其他の者ども當分下田箱館逗留中」は、一般のアメリカ人の仮滞在を許す条項だという主張だった。いわく、

アメリカ合衆国、国務省 御中

神奈川条約の第4条と5条にのっとり、我々は全財産を投資し、我が家族と我々自身の生命を賭し、多くの不便を忍び、サンフランシスコ登録のアメリカ船、C. E. フート号に乗って今年3月15日、仮に滞在するつもりで日本に到着した。そして今、本条約の第4条と5条に違反し、我々の下田と箱館への仮滞在を拒否し我々を退去させようとする日本政府の決定の結果、この計画が挫折し、競売で清算し得る以上の大損害を蒙る程の被害に直面している。
したがって今我々下記署名者は、前回も日本帝国政府に抗議したごとく、本条約違反は我々の不利益なるが故に、前述の日本政府の決定に抗議する。

♦ 箱館でも上陸の許可をせず

ワース船長以下21人乗り組みのカロライン・E・フート号が5月1日箱館に入港すると、そこにはすでにロジャーズ司令官指揮下の測量艦隊が停泊していた。下田から来たアメリカ商人たちの依頼により、ドティー夫妻始め7人の上陸宿泊を許可すべくロジャーズ司令官から箱館奉行・竹内保徳に依頼書簡が届いたが、下田と同様に箱館奉行も許可の返事を与えなかった。それでも初志貫徹を願うアメリカ商人たちは、ロジャーズ司令官に頼み更なる滞在許可依願書簡を差し出し、またエヂャートン、ピーボティー、ビッドルマンのためには上海行の便船があるまで6ヶ月間の止宿を申請したりと、粘り強く交渉を続けた。

この様な押し問答が測量艦隊の箱館滞在中20日あまりも続けられたが、基本的には下田同様に箱館でも商人たちの仮上陸や仮滞在が許可されず、測量艦隊の出航時期が来た。ロジャーズ司令官もアメリカ政府に委ねる以外の道がなくなり、箱館奉行に条約に違反したこの理不尽な取り扱いを自国政府に通告するとの1855(安政2)年6月25日付け書簡を送った。箱館奉行所には入り組んだ英文書簡を日本文に翻訳できる通詞は誰も居なかったから、蘭学者・武田斐三郎(あやさぶろう)やオランダ通詞・名村五八郎、同心などをアメリカ士官の許に派遣し、一語ずつ説明してもらい、意訳を作った。これを読んだ箱館奉行・竹内保徳は次のような上申書を江戸に送っている。いわく、

ようやく書面の大意が分かりましたが、直訳はできず、二通とも意訳で和訳したと言って提出したので一覧したところ、今般(アメリカ商人が)当所に居住を願ったがその期限が不明なため許可できないと(奉行所から)申し渡された。リードとドハティーが(箱館で)難渋していると彼の国の政府に訴え出るので、その旨日本政府へも通達して欲しいと(リードとドハティーが)コモドールに差し出した願書の写しと、その趣意をあらかじめ心得て置いて貰いたいと(コモドールが)箱館奉行宛によこした書面のようで、全く不容易な件であります。 ・・・何れ遠からず必ず使節船が渡来すると思われますが、私と部下が条約の文意を誤解していて、彼の国政府と日本政府の主意が符合しているのなら私一己の不調法で済みますが、日本政府の主意が(アメリカ政府と)違うのなら不容易な事端にもなろうかと深く心配します。

この様に箱館奉行は、ロジャーズ司令官やアメリカ商人が必死に不満を述べたてる裏には、ひょっとして何か重大問題がありはしないかと大いに心配もしていたのだ。そしてついに、5月13日に測量調査艦隊が箱館を出航し、翌日にはアメリカ商人たちも全員がカロライン・E・フート号に乗って箱館から退去したのだった。

♦ ドイツ商船・グレタ号の不覚

米国北太平洋測量調査艦隊の補給船・ジョーン・P・ケネディー号の代わりにドイツ・ハンブルグの商船・グレタ号が傭船され、香港から箱館まで補給物資の輸送に当ったことはすでに書いた。このグレタ号は安政2年4月3日、傭船契約に基づいてアメリカ国旗を掲揚し、アメリカの補給物資を積んで箱館に入港したが、箱館奉行所ではアメリカ船として扱った。傭船契約を終えたグレタ号の荷主・リュードルフらが箱館奉行所に自分たちで持ってきた商品の交易を願ったが、欠乏品補給用としての交換しか認められなかった。

こんな中でその後入港したロジャーズ司令官やカロライン・E・フート号のワース船長等から、伊豆の戸田浦にはまだ遭難したディアナ号の船員や海兵が270人余りも滞在している事を聞いたのだろう。5月8日に箱館を出航したグレタ号は、21日にアメリカ船として下田に入港した。状況観察のため常時柿崎村の玉泉寺に滞在するロシア船員士官に連絡したグレタ号は、戸田村に残留するロシア船員を送還するので、船の積荷と積荷監督・リュードルフほか1名を仮滞在させて欲しい旨を奉行所に共同申請し、申請書を書き直したりして下田奉行・井上清直の許可を受けた。下田奉行はこの経緯を幕閣に上申し、評定の上その通り許可が出たが、日本側も残留ロシア船員全員の帰国のためには、荷主・リュードルフに玉泉寺での仮滞在許可を出したのだ。早速下田に居たロシア士官全員と戸田浦に回航したグレタ号は、戸田に残留のロシア船員270人程の全員を乗船させ、6月3日カムチャッカに向け出航した。

ところが7月6日になると、箱館奉行・竹内保徳から、

イギリス蒸気軍艦・バラクータ号が、北洋ロシア領・アヤン港でロシアのブリグ型帆船1艘を拿捕し、全員280人程を捕虜にした。捕虜は本船と外1艘のイギリス軍艦に分乗せてあるが、もう1艘の軍艦と拿捕したブリグ帆船も近々箱館に入港予定である。ついては食料を補給したいといって入港し、補給が終わるとすぐ出航してしまいました。

と云う上申書が出された。14日になると、案の定イギリス蒸気軍艦・バラクータ号の予告通り、ブリグ型帆船が箱館に入港した。この船は3ヶ月程前にアメリカ船といって入港したグレタ号で、船にはイギリス蒸気軍艦・バラクータ号の士官1人とグレタ号船長・タウロウと水夫たちが乗っていた。イギリス士官いわく、「蒸気軍艦・バラクータ号の滞在を期待して入港したがすでに見えないので、薪水食料を補給する目的だが、当船の船長・タウロウが用事があるというので立ち寄った」と言った。船長・タウロウが奉行所に語るところでは、

前回、5月8日に箱館を出航以来下田に立ち寄ると、遭難したロシア船員たちが送還してほしいとの要望があり、下田の役人からも頼まれたので、荷物と荷主・リュードルフを下田に残し、ロシア士官供270人あまりを乗せロシア領に向かい、北洋オホーツク海のアヤンに着いた。6月19日にここで2艘のイギリス軍艦に出会い、ロシア人共々拿捕され捕虜になってしまった。下田に居るリュードルフはこの災難を知らず、待っているはずなので、書簡2通を届けて欲しい。

ということだった。リュードルフ宛ての書簡を手渡し、食糧補給が済むと長崎・支那に向かって出帆して行った。

さて下田奉行所では8月15日、江戸経由で箱館から届いたタウロウ船長からの手紙を森山多吉郎などが玉泉寺に滞在するリュードルフに届けた。リュードルフはその場でタウロウ船長からの手紙を読むと顔色を変え、上述のグレタ号が拿捕され全員が捕虜になった経緯を日本側に説明し、次の便船があるまで下田滞在を願った。その後3ヶ月も経つ頃、アメリカ商船・ゼネラル・ピヤース号が下田に入港し欠乏の薪水食料の補充を求めたが、この機会を捉えたリュードルフは、11月11日ゼネラル・ピアース号で帰国の途に着いた。

この様に日米和親条約が締結された直後は、期待してやって来る他国商人たちとの間にその解釈の違いがあり、下田や箱館の現地奉行たちを大いに悩ませる問題が多発した。それまで堅く鎖国を守り、切支丹を排除し、外国人を排除して来た中での二港の開港だったから、奉行たちにはそれ以上人道的な取り扱いをする柔軟性もなく、あるいは柔軟性を発揮したくとも幕閣や評定衆も許可はしなかったろうが、更なる真の開国は、次章に書くタウンゼント・ハリスの交渉を待たねばならなかった。

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07/04/2015, (Original since 02/15/2011)