日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ペリー艦隊の浦賀到着

♦ 蘭語通詞・堀達之助の話した ”英語” から対話が始まった

堀達之助は長崎出身のオランダ語通詞で、他の通詞と交代で浦賀奉行所の通詞を務めていた。ビドル提督に率いられたアメリカ軍艦2艘が弘化3(1846)年閏5月に浦賀に来た時も、たまたま浦賀に居て通詞を務めた。前章の 「アメリカ政府の日本開国へ向けた公式なアプローチ」の中の「 ビドル提督の浦賀来航」で書いた通り、当時ビドル提督が英文で幕府宛てに出した 「通商の許可が出ないので、これから出帆する」と云う英文書簡を直接日本語に翻訳したほど、英語の読解力があった。その1年後に奉行が交代し、浦賀の重要性を認識する新しい浦賀奉行・戸田伊豆守と浅野中務少輔は、「堀達之助の浦賀勤務の交代時期になったが、もう一期だけ堀達之助の浦賀勤務任期を延長して貰いたい」と幕閣に申請書を出すほど、異国船の対応も含め、堀達之助の語学の実力を認めていた。

嘉永6(1853)年6月3日の午後1時頃、浦賀奉行所への異国船が来たという注進により、通詞・堀達之助は応接掛け与力・中島三郎助等と共に奉行所の1番船に乗り組み、夕方5時頃までには浦賀沖に碇を下ろした4艘のアメリカの黒船艦隊の停泊場所に着いた。4艘の内どの船に行くかを思案したが、堀達之助の知識の中には異国船の通例として中檣に長官旗を掲げる艦艇が旗艦である事実から、その長官旗とおぼしき旗を掲げる蒸気船・サスケハナ号に向かった。ペリー提督の指示で、15、6年ほど前に遭難した日本人水夫からマカオで日本語を学び少し日本語を話すウィリアムスとオランダ語を話すポートマンが舷側に出て来て、まずウィリアムスが日本語で中島三郎助と堀達之助の乗る1番船に声を掛けて来た。しかし、うまく話が通じなかった。そこで堀達之助が明瞭な英語で 「私はオランダ語を話せる」と声を掛けた。これを聞いたオランダ語を話すポートマンが以降の会話の通訳をし、オランダ語を話す堀達之助との会話が始まった。そこで応接掛け与力・中島三郎助と通詞・堀達之助の2人だけがサスケハナ号に乗り込みを許され、基本的な情報交換と交渉をすることになった。

この時の様子がウィリアムスの1853年7月8日(嘉永6年6月3日)付けの日誌に出て来る。いわく、

私が(日本語で)、舷側の梯子の直ぐ脇に居る(日本船の中の)立派な服装の人物に、直ぐ岸に帰り、皇帝に宛てた書簡を受け取りに出て来る様に高官に伝えて貰いたいと言った。こう言っている時にもう1人の役人が前に出て来て(英語で)、「私はオランダ語を話す」と言ったので、それからはポートマン氏が引き取り、提督は高官だけに船に来て貰いたいのだと告げた。

そしてペリー提督側は高官が船に来てくれる様に中島三郎助に強く望んだので、翌日高官を送ると約束し、応接掛与力・香山栄左衛門が来る事になる。その時の様子がウィリアムスの翌日の7月9日(6月4日)付けの日誌に出て来る。いわく、

彼らが船に上がって来る時に私は舷側の梯子の所に居たが、1人が私に(英語で) 「アメリカ人ですか?」と聞くので、「はい、いかにもそうですが」とその質問に少し驚きの気持ちを込めて答え、日本人と皆で笑いあった。そして達之助は私の名前を尋ね、私も彼の名前を訊いた。

ウィリアムスの日誌の表現から、この時は全て英語で行われた会話のようだ。これ以降、香山栄左衛門の態度がアメリカ側の全幅の信頼を得て、香山栄左衛門と堀達之助のコンビで滞りなくアメリカ大統領の国書を受け取る話になって行く。この様に堀達之助は、英語の翻訳や簡単な会話が出来るほどまでに実力があった事になる。

筆者には堀達之助がどうやってこれ程の実力を蓄えたのか知る術も無いが、文化5(1808)年8月15日に長崎で起こったイギリス軍艦・フェートン号事件以来、蘭語通詞には英語の素養も求められたと聞くから、弘化2(1845)年3月に浦賀に来たアメリカ捕鯨船・マンハッタン号、弘化3(1846)年閏5月に浦賀に来た前述のビドル提督や嘉永2(1849)年閏4月に浦賀や下田の測量を行った英国の測量船・マリーナ号の刺激などもあり、個人的に大きな努力があったのだろう。

♦ アメリカ国書受領の決定

嘉永6(1853)年6月4日の早朝7時ころ、ペリー艦隊と最初に接触した昨日の応接掛け与力・中島三郎助に代わり、浦賀奉行所の与力・香山栄左衛門が浦賀の応接長官としてペリー艦隊に派遣され、この艦隊は早々に退去すべく交渉のためサスケハナ号にやってきた。対応に出たペリー艦隊側の代表者・アダムス中佐とブキャナン中佐は、「この船にはアメリカの高官が乗っていて、アメリカ大統領から日本皇帝宛ての国書を持っている。またオランダ政府を通しこの艦隊が来る事を日本政府に連絡してあるので、皇帝あるいは政府高官に直接会って国書を手渡したい」 と言った。香山は、「先祖伝来の国法によって全ての異国船は長崎が窓口になる。長崎に回航するように」 と繰り返し説得した。ペリー側の反応は徐々に激高して、「あらかじめオランダを通じ日本に連絡まで入れている。命令によって遠路わざわざ浦賀に来たのに、長崎に行くことはできない。もしここで誰も国書を受け取らないなら、大統領の命を受けてきた使命が達成できない。ならば江戸に行って直接皇帝に手渡すまでだ」 とまで啖呵を切った。

この状況を幕閣に報告し指示を仰ぐ6月4日付けの浦賀奉行・戸田伊豆守の 「異国船応接の義に付き取計方伺い奉り候書付」 にこう書いてある。いわく、

・・・おいおい組のもの遣し御国法申諭し、例え国王の書翰にても通信これ無き国々の書翰受取申し難く、且つ浦賀表の儀は外国応接の地にこれ無き候間、長崎表に相廻り候様種々理解仕り候所、・・・国元出帆の節より何程当地に於て申諭候とも長崎表へは相廻り申すまじく、江戸表へ罷り越し候様申付けられ候事故、このまま帰帆仕り候ては使命を過ち候大罪を受け候事故、この所承知致しくれ候様、落涙仕り候程の存切りにて申聞け候事故、国王の書翰受取り候儀は国命に相背き候事故、国都へ伺い御下知これ無く候ては挨拶致し兼ね候段申聞け候処、左候はば相待ち居り候故右の通り取計い呉候様申聞け候間、右書翰受取り候て可然や、此の段伺い奉り候。・・・右書翰この上当地にて受取らず候節は存寄り次第取計い候旨をも申聞け候間、此の儘御差戻しの御指図に相成り候はば即刻異変に罷成り申べき哉と心配仕り候間、得と御勘弁在せられ取計い方早々仰出され候様仕りたく候。・・・渡来船中是迄に之無く厳格にて、外船々に近付け申さず、船将乗り組みの船へ組のもの壱人通詞壱人の外呼入れ申さず、日本語にも通じ候もの乗組み之れ有り不容易の様子柄故、早々御下知御座無く候ては通船差支え、且つ彌手切れの御指図に相成り候てはとて御国方御手薄にて、浦賀表も御警衛向き取調べ中故、御外聞に相成り候儀は相違無く御座候。先ず此段早々伺奉り候。以上。
    丑六月四日           戸田伊豆守

こんな浦賀奉行からの危機感に満ちた報告や、ペリー艦隊の蒸気船・ミシシッピー号が小柴沖まで遡上し測量をしている情報に大いに危機感を抱いた幕閣は、6月6日の夜8時頃に急遽再登城して協議の結果、とにかくアメリカの国書だけは受け取る決定をした。

♦ 浦賀奉行・戸田伊豆守の決断で、香山栄左衛門だけが応接の任に当った

次節の 「 国書受取前後の幕府の対応策」 の中の 「浦賀奉行と与力・香山栄左衛門のアメリカ船渡来対策と準備」 で書く様に、オランダの新商館長・ドンケル・クルチウスが長崎に赴任して提出した嘉永5(1852)年の『別段風説書』が江戸の幕閣に届くと、その年の秋の頃、「明丑年の三月頃、アメリカ国より石炭の置き場借用として軍艦が渡来する様だ」と浦賀にもっぱらの噂が流れた。これは一大事だと心配した浦賀与力・香山栄左衛門は、翌年、即ちペリー艦隊がやって来た年の3月に赴任してきた浦賀奉行・戸田伊豆守に図り、異船が来たら 「長崎表に回航し、そこで申し立てるように」と諭す書面を準備していた。奉行・戸田伊豆守はこんな責任感があり職務熱心な香山を信頼し、ペリー艦隊が来ると、その交渉を香山栄左衛門一人を使って乗り切った。

後に読み解き出版された、浦賀奉行・戸田伊豆守が当時江戸詰めの同僚・井戸石見守に宛てて書いた私信 『南浦書信』(最下段)の中に、戸田伊豆守が香山のみを使った経緯を述べる記述がある。いわく、

当時の組頭はご承知の人物で、その外の組内も皆懸念する者も無く、応接係も名のみであり、まさかの時に用立つ者は香栄(香山栄左衛門)一人に限り、同人も身命を抛(なげう)ち相働き候心得の故に、実は心腹を打ち明かし、同人も所存のあるだけを申し聞け、頼もしき者に相違いなく・・・

この様に浦賀奉行所の与力の中で、香山1人だけが真剣に心配して準備も怠り無く、浦賀奉行・戸田が心から信頼できる唯一の人物だったと言う。

そんな香山栄左衛門は、中島三郎助とペリー側との最初の交渉の翌日サスケハナ号に行き、詳しくペリー側の要求を聞いた。大統領の国書を日本高官に届けねば使命達成ができないというペリー提督の目的を理解した香山は、奉行所に帰ってその旨報告をした。そして奉行・戸田伊豆守の命により夜通しかけて浦賀から江戸に行き、江戸詰め浦賀奉行・井戸石見守に面会し、上述の浦賀奉行・戸田伊豆守の報告書の提出と共に、ペリー艦隊の軍備と緊張に満ちた状況やペリー側の要求を説明し、大統領国書を受け取るかどうか幕閣による決断を申請した。更にそのまま、また浦賀に引き返した。その日、7日の早朝、ミシシッピー号と測量ボートを使ったアメリカ側の小柴沖辺りまでの湾内測量を中止させるため、与力・近藤良次と通詞が旗艦・ポーハタン号に派遣されたが、アメリカ側に相手にされなかった。一方、与力・中島三郎助が通詞・立石得十郎と共にミシシッピー号を追いかけて抗議した。この出来事に、江戸から浦賀に帰って来たばかりだった香山は通詞・堀と共に再度旗艦・サスケハナ号に行き、「国書の受け取りが決まるまでは、事を荒立てないで貰いたい」と抗議し、ペリー側も理解し、ミシシッピー号に信号を出し、測量を中止させ浦賀に引き戻した。こんな香山の活躍により、日本側の海防藩の兵士達とアメリカ側との諍いや武力衝突も未然に防ぐことが出来た。

しかし、香山栄左衛門だけを使う奉行の決断には、同僚の応接係りの与力達から大きな不満が巻き起こった。東京大学史料編纂所、近世史編纂支援データベース、幕末外国関係文書中の 「樋田多太郎より聞書き」によれば、

通詞一人と、当番にて中島三郎助が参るべきところ、奉行より香山栄左衛門は内意も申し含め置き候間、香山を遣わし候よう指図に付き、右一人にて応接いたし申し候。香山内意の含みに付き、同役不平。色々議論相起こり甚だむずかしき儀にこれあり、これは仲間内の事故え委細は申上げずと云て止まり候。また異船応接、香山一人に託し候は、深き意味これありの事の由。

以降もこんな不満が元になり、「(香山いわく)種々様々の浮説」が流布し、ペリー艦隊の二回目の来航では香山栄左衛門への非難中傷が表に出て、香山は交渉役から外される事になる。

(『南浦書信』、浦賀近世史研究会、未来社、2002年3月29日)

♦ ペリー提督の軍事力誇示作戦を見通していた前水戸藩主・徳川斉昭

嘉永6(1853)年6月3日に4艘の黒船が浦賀に現れるや、早速浦賀奉行から江戸の幕閣に報告が為されたが、翌日の4日朝にはその情報が江戸に居る諸侯の間を駆け巡り、午後には北アメリカの軍艦であることも判明した。2ヶ月ほど前に参府の時期で江戸に来ていた越前福井藩主・松平慶永は、4日の夕方4時頃、幕閣首座・阿部伊勢守から使者を通じ直接、今回の黒船は特別で、軍隊を差し出すよう将軍の命が出るかも知れず、その時は直ちに行動を起こして欲しいと極秘の依頼があった。早速更なる情報を集めるべく、松平慶永は前水戸藩主・徳川斉昭の元へ書簡を送った。徳川斉昭の意見は、「3日に現れた軍艦は4艘だが、場合によってはだんだんと船の数を増し、日本の動静を見計らう計策があるかも知れない」 と答えている。

また、後日発表されたペリー提督の日本遠征報告書にある通り、7日になると、「提督は、強力な軍艦が江戸の方向に向かう行動は、日本政府を驚かせ、提督から出された要求に対しより良い返答を引き出すと云う効果も期待して、ミシシッピー号と数艘のボートを測量任務に就かせた」。こうして蒸気軍艦・ミシシッピー号が測量のため江戸湾内深く、小柴近辺まで侵入したが、この情報を受けた松平慶永は、再度徳川斉昭の元へ書簡を送った。斉昭からの返事いわく、

内海へ進入した蒸気船の行動は、全く日本側の動静を見る為で、おびやかして願いを叶えようとする策だと考える。・・・浦賀奉行が国書の受け渡しは長崎に行ってしてくれと断っても、戦争になると言われその結果受け取っては、日本の軟弱さを見透かされてしまうから、対応は非常に難しい。・・・アメリカ側は日本側から手出しをするのを待っている様だから、打ち払う様な事をすれば、例え浦賀から後退しても大島や八丈島は簡単に奪われてしまうだろう。大島や八丈島に防備体制が無い以上、今打ち払うわけにも行かない。・・・場合によっては、品川辺りまでにも侵入するかも知れない。とに角日本側から手出しをする事を待って、色々仕掛けて来る作戦の様だ。

この様に、ペリー側の意図に対する徳川斉昭の読みは、非常に正確なものだった。しかし、かって幕府の譴責を受け隠居させられた身では、許可も無く直接幕閣に面会に行ったり、めったな事も言えないと嘆いてもいる。

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11/13/2016, (Original since 08/30/2015)