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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

当初、ペリー提督に与えられた軍艦と種類

当初海軍長官から東インド艦隊所属としてペリー提督に与えられた軍艦は、次のような12隻の艦船だった。

 

当初、ペリー提督に与えられた艦船と種類

        船名  種類大砲  建造  定員積載トン
1. ミシシッピー号側輪駆動蒸気軍艦121841年268人1692
2. プリンストン・II号   (注1)スクリュー駆動蒸気軍艦 81852年(不明)1385 (排水トン)
3. アレゲニー号スクリュー駆動蒸気軍艦101847年190人1020 (排水トン)
4. サスケハナ号   (注2)側輪駆動蒸気軍艦 91850年300人2450
5. ヴァーモント号・74門砲艦(バーモント号とも)帆走戦列砲艦721848年820人2633
6. バンダリア号帆走軍艦241828年190人 770
7. マセドニアン号帆走軍艦221832年380人1726
8. サラトガ号   (注2)帆走軍艦221843年210人 882
9. プリマス号   (注2)帆走軍艦221844年210人 989
10. サプライ号帆走武装補給艦 41846年 37人 547
11. レキシントン号   (注3)帆走武装補給艦 21826年 45人 691
12. サウザンプトン号帆走武装補給艦 21845年 45人 567

    (注1)ノーフォーク軍港で、側輪駆動蒸気軍艦・ポーハタン号が、故障したプリンストン・II号に替わり艦隊所属になった。
    (注2)既に、米国の東インド・支那海艦隊に所属し、オーリック提督の指揮下にあったが、ペリー提督が引き継いだ。
    (注3)レキシントン号は、ケネディー海軍長官の1852年11月13日付けペリー提督宛指令書簡に船名が無いが、後日、将軍宛のプレゼントを積載して横浜に着いた。

この内、スクリュー駆動のプリンストン・II号は1852年に新規配備された新造蒸気軍艦だ。一代目のプリンストン号は、ミシシッピー号などのそれまでの側輪駆動方式から、初めてスクリュー駆動方式を取り入れた最初の蒸気軍艦だったが、木造船体が傷み解体され、その材料を使って新造された二代目のスクリュー駆動軍艦である。ペリー提督は1852年11月18日、ワシントンDCの東50kmのアナポリス軍港でフィルモア大統領や政府首脳に祝福され、ミシシッピー号に乗りこのプリンストン・II号を伴ってチェサピーク湾を南下し、日本に向けた最終出発地のノーフォーク軍港に向け出航した。しかしプリンストン・II号は途中でボイラー故障で運行不能に陥り、その後の修理でも思わしくなく、ついに通常艦隊指定から外されている。

この時たまたまノーフォーク軍港に西インド諸島任務を完了した側輪駆動蒸気軍艦・ポーハタン号が入港したので、ペリー提督はこのポーハタン号をプリンストン・II号の代わりに艦隊に加え、ペリー提督の乗るミシシッピー号の出発より少し遅れて準備完了し、香港に向かう事になる。

また、アレゲニー号の建造当初の設計は、水中で水平方向に回転する側輪駆動の鉄製蒸気軍艦だった。従来のミシシッピー号のように垂直方向に回転する側輪は、荒海で船体がロールすると時に空中に出て空回りになるが、これを改良しようとしたもののようだ。しかしこの水平側輪機構や蒸気機関の故障が続き、ついに海軍は、1851年に通常のスクリュー駆動方式に改造し航海テストを実施した。しかし改造したアレゲニー号はこのテストに合格せず、後日仕方なくペリー艦隊から外された。

この様な経緯から、スクリュー駆動の2隻の軍艦は、ついに日本に来ていないが、スクリューは側輪と違い動きが外から見えないから、帆も揚げず、側輪もなく、風上にスルスル動く黒船は、日本人にもっと強いインパクトを与えたに違いない。

ヴァーモント号・74門砲艦は蒸気軍艦ではなく、大型で古い形態の帆走戦列砲艦である。これは一昔前の、砲艦が砲撃対象に横一列に向かって並び、一斉射撃をするための大型戦略砲艦である。名前の通り、1818年の建造計画時の標準は74門の大砲を装備する仕様だったので、「74門砲艦」と呼ばれた。1846(弘化3)年7月20日に浦賀に来たビドル提督の旗艦・コロンバス号は、この型の砲艦である。ヴァーモント号の建造計画後にはそんな海戦は極端に少なくなり、遅れに遅れて1848年に完成はしたが、あまりにも古い型で大型の操船も大変で、乗組員も通常の蒸気駆動フリゲート艦の2、3倍にもなり、膨大な費用が掛かるため予備船列に入っていた。海軍省により東インド艦隊所属の候補艦に指定されはしたがしかし、当時議会が設けていた 「海軍に於いて当面、新規補充は合計7,500人まで」という法律に規制され、800人を越える人員補充が不可能になり、この820人乗りのヴァーモント号・74門砲艦への完全な人員補充が出来なかったのだ(1853年4月11日付け「ニューヨーク・タイムス」紙)。このため日本には来ていない。

結果的に、当初計画の12隻から蒸気軍艦2隻と帆走戦列砲艦1隻が抜け、蒸気軍艦・ポーハタン号が加わったから、最終的に合計10隻の軍艦が日本に来たわけである。ただし、プリマス号は1回目のみで、2回目の日本遠征には参加していない。

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07/04/2015, (Original since October 2010)