日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

アメリカ国書に基づく、林大学頭とペリー提督との日米交渉  − 幕閣の準備 −

林大学頭とペリー提督との日米交渉が横浜で行われた出来事に先立ち、ペリー提督はアメリカの国書を日本側に手渡した後に一旦香港に引き上げたが、そのため、日本側にもそれなりの準備期間ができた。

♦ アメリカ国書とその翻訳作業

フィルモア大統領がペリー提督に託して送ってきたアメリカの国書は、第一に日本とアメリカの通商を希望していた。いわく、

私は、日本と合衆国双方の利益のため、我が二国間の相互貿易を願っている。
・・・今や(アメリカの)人口は著しく増加し、商業も大きく拡大しているから、もし皇帝陛下が二国間の自由貿易を許す所まで祖法を変更できれば、相互に非常な利益があると期待されている。
もし皇帝陛下が外国貿易を禁じる祖法を完全に廃止することに不安があれば、五年から十年に限り、試みに祖法を一時中止することも出来る。もし期待の通りに有利でなければ、また祖法に戻ればよい。

と述べ更に続けて、アメリカ遭難船員の救助と保護、アメリカ船の日本寄港、石炭・必需品・水の供給、対価の支払い、この目的のため一港の開港などの要求が述べてあった。

ペリー提督が 「来春この返事を貰いに来る」と言って浦賀を出航した後、この国書は直ちに幕閣に提出されたが、国書は英文の本書に、蘭文と漢文の訳文が付けられていた。国書一式を受け取った幕閣は早速、その場でかって昌平坂学問所の秀才でもあった筒井肥前守に漢文を読ませ、大意は食料・薪水の給与、石炭の置き場、和親・通商がその三大要求である事を理解した。そこで江戸に居る中心的儒学者である当時の林大学頭(林健・号は壮軒)、林式部少輔(韑、あきら、号は復斎、筆者注:当時は式部少輔、後に大学頭になりペリー提督と交渉)、筒井肥前守(政憲)等3人を中心に、幕府の儒学者4人、幕府天文方の蘭学者3人の合計10人に詳細な翻訳を命じた。アメリカの国書は嘉永6(1853)年6月9日に久里浜で戸田伊豆守(氏栄)等が受け取り、6月14日に浦賀奉行・井戸石見守(弘道)が幕府に提出し、天文方の山路弥左衛門(諧孝)・杉田成卿・箕作阮甫が蘭語に翻訳された国書の日本語への翻訳を完成したのが6月25日だったから、翻訳作業は10日間で完成している。

幕閣は翌日、早速評定所一座に回して意見を求め、更に7月1日には阿部伊勢守が諸大名や幕臣に示し建白を許している。この翻訳の突貫作業で頑張った翻訳者達には、2ヵ月半ほどの後に夫々その身分に応じ、銀50枚から15枚づつ報奨金が出ている。

♦ オランダ商館長・クルチウスの見解を内密に聴取

ペリー提督がアメリカ大統領の国書を手渡し浦賀を出航した直後の嘉永6(1853)年6月22日、将軍・徳川家慶が死亡した。そこでその年の9月25日、老中首座・阿部伊勢守はオランダ商館長・クルチウスを通じ、これを理由にアメリカ政府とペリー提督に対し、再来航の延期、即ち国書への返事の延期を要求した。長崎奉行・大沢豊後守(秉哲・のりあき)と水野筑後守(忠徳)はこの幕閣の要求をアメリカに伝えるようクルチウスに依頼した後、引き続き10月1日からクルチウスと面談し、アメリカ船、即ちペリー提督のもたらしたアメリカ国書の取扱いについて諮問した。いわく、

昨年受け取ったオランダのジャガタラ都督の筆記中に在ったアメリカの船が、当6月始めに浦賀に来て使節が書翰を差し出した。これは兼ねて見込みの趣もあるのでそれに従って取り扱う積りである。・・・ついては、日本国法は兼ねて説明してある通りだが、この米国書翰の取扱いはどうするのが良いと考えるか。いささかの腹蔵もなく、兼ねての考えを委細申したつべし。

と、内密にオランダ商館長・クルチウスの見解を求めた。この諮問は数日に渡って行われたが、クルチウスいわく、

オランダのアメリカ駐在公使からの情報では、現在の勢いは、多くの国々が自由に日本近海に来たいと願い、アメリカなどは真っ先に来たいと思っている。そんな国々の船が日本に来て種々願う事を一切聞かなければ、極めて戦争の発端になる危険がある。唐国に於いても最前は日本同様に外国人を寄せ付けなかったが、終に戦争になり、広東などの五港を開港した。こんな戦争になった後では面白くない。だからオランダ国王も憂慮し、日本に国法を緩めるように勧めたのだ。・・・二百年来の日本の鎖国は外国に良く知られているが、近来の時勢では、これまでの様な姿勢で済ますことは困難である。・・・日本全体で自由な通商を許せば国法を破ることになろうが、日本も昔はオランダや支那に限らず多国と交易をしたのだから、土地を限っての通商なら国法を変える事にはならないのではないか。・・・アメリカの第一の目的は、石炭置き場と船の修理場の確保であり、次に通商であろう。・・・彼らは石炭の購入を願い、石炭置き場への自由な出入りを願うと思われる。・・・ペリーはこんな交渉をするであろうが、最後には通商も持ち出すと思われる。・・・これらが叶わなければ戦争の危険が著しく高まり、オランダ国王が甚だ懸念し、筆記を提出した理由である。

オランダ商館長・クルチウスは日本側の諮問に対し、アメリカの願いを全て聞かなければ戦争の危険が非常に高まるとの見解を述べて、オランダ側の限定通商を薦める考えを伝えていたのだ。この情報は時を移さず幕閣に報告されたが、最早、川路聖謨や筒井肥前守の言う 「ぶらかし作戦」 は通じないし、何らかの確約を与えねばならないと云った点で、老中首座・阿部伊勢守の最終決断に影響を与えたであろう事は疑いの余地は無い。

♦ 幕閣のアメリカ国書への基本方針、「大号令」

翻訳されたアメリカ国書を幕府から受け取った諸大名からは、アメリカ国書の要求に関し様々な意見が出された。日本で太平な世の中が続いた200年余りの間に、海防に大きな遅れを来たしている状況を身をもって理解している老中首座・阿部伊勢守は、とりあえず前水戸藩主・徳川斉昭を海防参与として幕閣評議に参加させていた。

アメリカの国書を受け取って以来1ヵ月後には、ロシアのプチャーチン提督も長崎に来て修好・通商を希望して来た。この様に外国状況が緊迫する中で、幕府中枢の意見は川路聖謨や筒井肥前守等を中心に通商許可に傾いた。これに強く反対する徳川斉昭は同年8月6日阿部伊勢守に書簡を送り、「各方ご信用の肥前守ますます交易の説を主張いたし候ようにては、太平の人情、誰も当座無事の所へは泥みやすく、次第々々に交易論のみ行われ、大号令は勿論お台場等さえ実用の御普請、はばかりながら急々に御出来は何とも安心致さず候」と述べ、海防参与の辞退を通告するに至った。阿部伊勢守は直ちにこれを留めたが、最終的に徳川斉昭の示唆により、阿部伊勢守は嘉永6(1853)年11月1日付けで、アメリカ国書の取扱いに関する幕府の基本方針を示す「大号令」、即ち「老中達し」 を出した。いわく、

アメリカ合衆国から出された書翰に付き夫々が建議した内容を各々熟覧し、これを衆議の参考にしたうえで上覧に付した所、諸説に種々違いはあるが、詰まるところ和戦の二字に帰着した。然るところ、夫々が建議した通り、現在は近海をはじめ防御が備わっていないので、彼らの書翰の言う通り(アメリカ軍艦が)いよいよ来年やって来ても聞き届けるわけには行かないが、なるべく当方からは平穏に取り計らうつもりだ。先方から乱暴を仕掛けてこないとも限らないが、その時覚悟が無くては国辱ともなりかねず、防御策が実用となるようしっかり心掛け、全員が忠憤を忍び、義勇を持ち、彼等の動静を熟察し、万一先方より戦端を開く時は全員が奮発し、一髪も国躰を汚さぬ様に上下を挙げて心力を尽くし忠勤に励むべし、との上意である。

と各藩に命じた。この 「平穏に取り計らうつもり」の中には当然 「交渉決裂にならない様に」、 「戦争にならない様に」という意味がある。だが弱腰とも見られかねない本音をあからさまには出せないから、「万一の場合には覚悟を持て」と言う、いわば形式的に威厳を付けた徳川斉昭流の文言も入った様にも聞こえる。また、安易な交易論への流れを止めようとする意図もあったのだろう。

♦ 「通商は許されない」、幕閣の覚悟

江戸には 「駿河沖に異船を認めた」との注進があり、暫くして 「下田沖に来た」と云う注進もあった為、老中首座の阿部伊勢守は、安政1(1854)年1月11日付けで林大学頭(韑、あきら)、井戸対馬守(覚弘、さとひろ)、鵜殿民部少輔(長鋭、ながとし)、松崎満太郎の4名を応接掛けに任命しペリー提督との交渉役を命じた。また同時に、江戸詰めの浦賀奉行・伊沢美作守(政義)を急に任地に派遣もし、林大学頭の応接掛けの一員にしたが、いよいよペリー艦隊が浦賀にやって来る気配に、一応主要な役々を現地・浦賀に配置したのだ。

しかしペリー艦隊はこんな日本側の裏をかくように、7艘もの大艦隊で浦賀を通り越し江戸湾深く小柴沖にまで入って停泊した。林大学頭の浦賀で応対するから浦賀に来てくれと言う要求には耳も貸さず、もっと江戸近くで交渉したいと言い張り、艦隊を神奈川沖にまで移動し、沿岸測量の軍艦と測量ボートを羽田沖にまで進めて来た。ペリー艦隊は、まさに江戸まで押し上ろうとする勢いと、軍艦に派遣した浦賀与力たちの情報などから、戦争になったら到底敵わないという考えを日本側に植え付けてしまったのだ。林大学頭はじめ日本側の交渉委員は余儀なくペリー提督との妥協を図り、安政1(1854)年1月28日に横浜で応接する約束になり、翌日、林大学頭も自ら浦賀から神奈川に引き移った。

この時点で幕閣は、それまで浦賀に来た外国船に対し何年も 「ここは外交の場ではない。話しは長崎で聞く」と対応してきた方法ではペリー艦隊が納得しないという確信を抱くに至り、真剣に悩むことになる。阿部伊勢守は前水戸藩主・徳川斉昭を評議の席に加え、アメリカ国書への回答案を協議した。協議に参加する幕閣の殆んどが通商を許可しなくては戦争が始まるだろうと危惧したが、徳川斉昭のみは「要求を聞かず。通商不可」という自説を貫いた。

ここで幕閣は、交渉地を浦賀から横浜に北上させて妥協を図らざるを得なかった交渉責任者・林と井戸を2月4日急遽江戸に召還し、その状況報告を求めた。早速上府した林大学頭と井戸対馬守は幕閣や徳川斉昭と面談し、ペリー提督の強硬さと艦隊の装備や訓練から見て、横浜の応接でアメリカ側の要求を全て入れなければ、ペリーは江戸に来て幕閣との直談判になろう。それでも要求を入れなければ戦争になり、勝利する術は無いと報告した。そこで一時幕閣も、「5年で承知しなければ3年の後には、交易の試み約定の事」と言う指示を出そうとする程にまで、通商の許可に傾いてもいたようだ。

こんな中で、日本側の武備の遅れから戦争をするわけには行かずある程度の妥協は止むを得ないとする海防掛けの意見や、ペリー艦隊を実際に見て彼らの優れた武備を恐れる林大学頭と、強硬意見を述べる徳川斉昭との間に立って、老中首座・阿部伊勢守は厳しい決断をせねばならなかったわけだ。阿部伊勢守はようやく心を決め、幕閣と図り、アメリカ国書の日本側対応策として 「遭難者の救助、薪水食料の供給、石炭の供給などは行う」が、「通商は行わず」と決定した。この時の阿部伊勢守の読みと覚悟は、

例え一時の試みといえども通商は許されない。このため若し彼らがみだりに戦端を開けば実に止むを得ない事だが、彼等としてもこんな暴挙に出る筈は無いであろう。

という判断だった。

ここで若しペリー提督が通商にこだわり横浜での交渉が物別れになった場合、早くからペリー側は品川まで乗り込み幕閣との直接交渉を示唆していたから、内々に阿部伊勢守は、ペリー提督と幕閣との会見場所を隅田川河口に近い本門寺(大森・池上本門寺)か多摩川河口の川崎大師と決め、直接交渉も覚悟していた。その場合、勿論戦争を避けるため、5年先、3年先の交易開始も妥協案として検討された様である。

当時はまだ儒教的思考が強くあったから、無名の戦争に勝ってもその意味は余り無いという考があった。無名の戦争を始めれば、最終的には負けるという思考が普遍的にあった時代である。「合衆国と日本が友好関係を築き、お互い貿易すること以外の如何なる意図もない」と国書に書いてあるが、遭難者の救助や石炭・薪水食料の供給と云う人道的な要求には応えるのだから、通商をしないといっても、それ以上の名の無い、即ち大儀の無い戦端は開けない。ペリー艦隊にもそんな思考が通じれば、という期待もあったのだろうか。またこれは国家間の交渉であり、お互いが半歩づつ歩み寄り決着を付けるという、図太い作戦的思考でもあったのだろうか。

いずれにせよ、この決断をくれぐれも言い含められた林大学頭と井戸対馬守は2月6日、早速神奈川にとって返した。

♦ 品川沖に軍艦が侵入しても、「アメリカ側の武威を誇示する作戦に乗せられてはならない」 と言う答申

第2回目の来航で突然浦賀を通り越し小柴沖まで侵入したペリー大艦隊には、安全な停泊地を確保するというそれなりの理由が在った。しかし同時にこの行動は、日本側に大きな動揺も引起こし、ペリー提督の武威を誇示して交渉を優位に進めようとする作戦に大いに役立った。こんなペリー提督の行動は概ね成功しているが、幕府の役人の中にはこんな作戦を鋭く洞察し、理解し、その対応を幕閣に答申した人物も居たのだ。

ペリーは最初から、幕府高官に会えなければ江戸まで行き直接将軍に国書を渡すと日本側に言っていたし、日本側が交渉場所を横浜に妥協したのも、ペリー艦隊は羽田沖まで測量を終えたから、あと2里・8kmも北上すれば品川沖に出るという危機感からだった。こんな情報を基に、最悪の場合を想定する幕閣は、「万一応接不調時に、一時に品川海上へ異船が数艘乗り入れ、彼の願望を遂げたいと兵威を示す事でもあれば、そのための予めの覚悟が無くてはならないが・・・」と海防掛にその対応を諮問した。安政1(1854)年2月11日付けで、海防掛大目付・井戸石見守などから次のような答申が出されている。いわく、

(諮問内容を)塾考し討論した結果、応接方が上手く行かなかった場合、(ペリー艦隊が)品川沖へ乗り入れ兵威を示しても、彼より事を破っては名義にかかわり、長年の情願(=嘆願)が空しくなってしまうから、容易に兵端を開く事は無かろうと思われる。ただただ暴慢無礼をはたらき、緊急事態を造り出し、日本側から事を破る様に計策を施すかも計り知れないが、彼に釣り出されては勝利はなんとも覚束ない。例え武備が充分整っていなくとも不意に攻撃することで、勝算があるかも知れない。しかし、先ずは前回ご命令のあったとおり上意の趣旨を塾考すれば、何れにも一先ず穏便に退帆させる事である。防備が調えば種々処置の仕方も出て来る筈だから、万一品川沖まで乗り入れても更に動揺する事なく、横浜で応接したではないかと言う意味合いに於いて、穏やかに諭すべきである。それでも承伏しなければ、艦隊の薪水食料が枯渇し退帆するまで待ち、気長に鋭気を養い、持久戦に持ち込む事が肝要である。・・・いささかの頓着もせず平穏の姿を示したほうが、(先方では、日本側に)どんな秘密の謀があろうかと疑念を発し、容易に発砲などしないと思われる。

この様に、ペリー側の挑発に乗っては負けてしまうと、自重すべきという答申だった。

アメリカ国書に基づく、林大学頭とペリー提督との日米交渉  − 横浜での交渉 −

♦ 林大学頭とペリー提督との、初日の日米交渉

ここで安政1(1854)年2月10日、兼ねて約束の如くペリー提督は上陸し、横浜応接所に入った。双方の初対面の挨拶の直後に、ペリー提督からは公方様に21発、大学頭様に18発、そして今回は自分達の初めての上陸を祝い18発の祝砲を発するとの言葉があった。会談の冒頭から57発もの大音響の祝砲を放ち、日本側の度肝を抜こうという仕掛けのようだった。林大学頭は早速言葉を継いで、幕閣の指示通り単刀直入に 「昨年夏に貴国大統領より我が大君に対し書簡を貰ったが、その希望事項の中で、薪水食料の供給と日本産の石炭の供給は行う。漂民の救助も行う。しかしこの2項以外の交易などは一切同意できない」と明確に伝えた。

ペリー提督はこれには直接答えず、艦隊に軽輩1人の病死者が出たので金沢の夏島に埋葬したいと言い出した。大学頭は、遥々やって来て病死とは、軽輩とは言いながらその人命は軽いわけは無い。日本ではちゃんと寺院に埋葬すると言った。こうして、近くの寺院への埋葬が決まった。

ペリーは言葉を続けて、日本では外国船に向け発砲し、外国船の遭難者を囚人のように扱い、アメリカが日本人遭難者を送り届けても直ぐ受け取ろうともしない。これでは敵国と同じで、アメリカは国力を尽くし戦争せねばならないが、我々はその準備をしてきている。我国は近年メキシコと戦争をし、その首都までも攻め取った。貴国も同様になるが、良く考えてもらいたいとまくし立てた。林は、その時の事情で戦争もするが、全体、使節の言う事には事実との相違が多くあり、誤った伝聞を誤認しているようだと指摘した。日本は外国と国交が無いから、我国の政情が分からないのは当然であろう。我が国政に徳が無いのではなく、人命を重んじることは万国に優れている。その証拠に、我国では300年にも渡り平和が続いている。大船を建造し外国への行き来は許されないので、海上で他国船を救助することは出来ない。しかし近海で難渋し日本に薪水食料を乞う場合は、充分に手当てする事になっていて海外へも通知してある。他国の船を一向に救わない訳ではないから、従来通り薪水食料は与える。また漂民を囚人の様に獄に入れて拘束するなどは、これまた全く伝聞の誤りの様だ。国法により何処に漂着しても厚く手当てして長崎に護送し、オランダ商館長に引渡し、帰国させている。既に貴国の人民も北方の松前近くに漂着した事が在ったが、彼らも皆厚く手当てし、長崎に送り、貴国に返している。しかし漂民の中にも不良人物が居て国法を犯し、わがまま勝手に振舞えば、止むを得ず拘束し長崎に送った事もある。そんな者が帰国して囚人同様の扱いなどと言い触らし、誤伝につながったかも知れないが、とにかく非道の政事などは一切無く、貴殿もこの状況を良く考えれば事実が分かり、疑念も解けよう。これが戦争を始める程の事とは思われず、貴殿もとくと考える問題だと思う。林はこの様に、明快に、理論的な返答をし、ペリーも納得している。

ペリーは言葉を継いで、交易は何故しないと言うのか。交易により必要品を得て、今や万国は交易を通じ富強になっている。貴国も交易を開始すれば格別国益になる、と強く推奨した。林は、なるほど必要品が入手できれば国益になるかも知れないが、元来日本は自給自足ができ、外国の品が無くとも事欠かないから交易は開かない法になっている。先に受け取った国書によれば、今回渡来の主意は、第一に人命を尊重し難渋船の救助である。その望みが叶えば眼目が立ち、交易の件は利益の論であり、人命とは無関係ではないか。まず眼目が立てばそれで宜しくは無いのか、と詰め寄った。暫く考えていたペリーは、確かに人命の尊重と難渋船の救助を求めて渡来した事が主意であり、人命は交易利益とは違う事はその通りである。強いて交易の件は願わない、と引き下がった。

こんなやり取りが行われ、日本とアメリカの第1回目の話し合いが始まったが、この交渉で話の大枠が決まり、以降の交渉で細部の詰めが為されて行く事になる。

林大学頭は応接掛けに任命される約3ヵ月程前、即ち嘉永6(1853)年10月ころ幕府の命による日本外交史料をまとめた 『通航一覧』を完成し、引き続き続編 『通航一覧続輯』もその3年後に完成する。そんな史料の調査過程を通じ、嘉永1(1848)年5月のラゴダ号船員の遭難と長崎送致及び嘉永2(1849)年4月のアメリカ軍艦・プレブル号への引渡しの経過を充分調べていたはずだ。従ってペリー提督の強い非難に対し、「囚人同様の扱いなどは無かった」と言下に具体的回答が出来たのだろう。こんな素早い正確な対応も、ペリー提督を納得させる大きな要因の一つだったはずである。

ここで筆者が一つ指摘しておきたい点は、林大学頭を始めとする日本側交渉委員の態度には、確かに科学技術・軍事技術には大きな遅れがあり到底適うべき物は無いが、思想面で劣っているという認識は全く無かったという点だ。だから、日本の法律を遵守する遭難船員は親切に待遇し帰国させたし、難渋する船には薪水食料を無料で供給しきた。また、日本国内では三百年にも渡り平和が続いてきたのだと、堂々と述べている点である。当時、儒教思想の 「仁、義、礼、智、信」、即ち 「五常の教え」が根付いていたからである。

♦ 通商交渉を次回にゆだねるべく、和親条約条文に組み込んだペリー提督の思慮

日米の談判は曲折があっても前進し、双方政府からの贈り物交換や蒸気船・ポーハタン号での饗応などを経て、双方の友好が確立されていった。その後薪水食料、石炭等の供給港を箱館と下田に合意した。その2月30日の横浜の会見でペリー提督いわく、交易のためでなくともアメリカ船がたびたび来る事になるが、何れ役人1人を派遣し、下田へ駐在させねばならなくなる。若しアメリカ人と日本人の争論が発生すれば、この役人に処置させるためであり、これは国際慣例であると提案した。林大学頭は、難渋船に折々薪水食料を供給する程度だから、アメリカ役人は不用である。また政府はそんな許可はしないと拒絶した。ペリー提督は引き下がって、それなら役人の派遣はしないが、18ヶ月後に使節を派遣するから、その時本件を話し合って欲しいと提案した。林大学頭も了承している。

これは、18ヶ月後にアメリカ政府が日本に外交官を派遣し、更なる交渉を行えるようにする処置であり、当然ペリー提督の心の中には、その時通商条約の交渉をも行おうとの考えがあったとみるべきである。これは和親条約の第11条に書かれているが、いわく、

第十一ヶ条
一、 両國政府に於て據(よんどころ)無き儀これ有候模樣によリ、合衆國官吏のもの下田に差置候儀もこれ有るべく、尤約定調印より十八ヶ月後に之無き候ては、其儀に及ず候事。

この日本語条文は、解釈の仕方によれば 「両国政府に止むを得ない事情がある場合」とも取れ、英語条文の 「双方政府が必要と認めるため、領事か役人を下田に駐在させる」という記述と少しニュアンスが異なり、後にタウンゼント・ハリスが総領事として下田にやって来た時に日本側と問題を起こすことになるものだ。何れにせよハリス総領事は下田に来て、通商条約交渉を始める事になる。その細部は、次章の 「3、通商条約と内政混乱」を参照して下さい。

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09/14/2016, (Original since 06/15/2015)