日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ジェームス・グリン中佐への長崎行き命令と漂流者の受け取り

♦ 広東オランダ領事・ブラウンから広東アメリカ公使・デイビス宛ての書簡
(32d Congress, 1st Session, SENATE., Ex. Doc. No. 59)

日本の蝦夷地で救出され長崎に送られた15人のアメリカ捕鯨船・ラゴダ号船員に関し、1849(嘉永2)年1月25日付けで下記の如き書簡が、広東オランダ領事・ブラウンから広東アメリカ公使・デイビス宛てに出されている。いわく、

東インド植民地政府に日本から連絡が入り、その趣旨を貴公使にお伝えすべく指令を受けました。
1848年8月12日、出島に居るオランダ商館長は、松前の近くで船が遭難し、18人の乗組員はその島に上陸したと云う噂を日本人から聞いた。引き続き、遭難した水夫達は長崎に送られ、こんな場合の手続きにより日本政府は、この外国人を詮議し保護するため幾人かの役人を指名し委員会をつくったという更なる情報により、その噂は(筆者注:現実だったと)確認された。・・・
筆者注:遭難船員達が長崎に)到着したという報により、オランダ商館長・レフィスゾーン氏は遭難者達に、出来る限りの服や飲み物といった品々を与えるべく長崎奉行に託し、遅れは免れ得なかったが、許可が下りた。
・・・(筆者注:遭難者と、指定された長崎のオランダ語通詞とは全く話が通じなかったので)長崎奉行はレフィスゾーン氏に、必要な通訳をして助けてくれるよう、9月6日に奉行所に来てくれと依頼した。
遭難した水夫全員がその席に連れて来られ、レフィスゾーン氏が通訳する中で、日本人の役人の長、上級番役が多くの質問をした。水夫達の言うところによれば、彼等の名前は次の通りである。
ジョーン・ボール、ニューヨーク生まれ、25才、一等航海士。ジョーン・ウォーターズ、セーラム生まれ、22才、2等航海士。E・ゴールドスウェイト、セーラム生まれ、20才、水夫。ジェイコブ・ボイルド、ニューヨーク生まれ、21才、水夫。メルコー・ビッファン、ニューヨーク生まれ、23才、水夫。ジョーン・マーティン、ニューヨーク生まれ、19才、水夫。ロバート・マッコイ、フィラデルフィア生まれ、22才、水夫。ヘンリー・バーカー、サンドウィッチ諸島(筆者注:現ハワイ諸島)オアフ生まれ、40才、水夫。ジェームス・ホール、オアフ生まれ、25才、水夫。マンナ、オアフ生まれ、25才、水夫。マケア、オアフ生まれ、28才、水夫。スティーム、オアフ生まれ、26才、水夫。ジャック、オアフ生まれ、22才、水夫。ハイラム、オアフ生まれ、27才、水夫。マウリー、オアフ生まれ、35才、水夫。
この遭難者達が更に言うには、全員が故ジョーン・ブラウン船長指揮下のアメリカ捕鯨船 「ラゴダ号」に乗り組み、この船は1846年8月25日にマサチューセッツ州ニューベッドフォード港を出港し、その後ニュージーランドとカムチャッカ間で操業し、続いて、サンドウィッチ諸島のオアフ港で一部の乗組員を入れ替えるために入港した。船は更にカリフォルニアに航海し、1848年2月初め、千島列島から日本海に向った。6月2日、当時 「ラゴダ号」は既に1300樽もの鯨油を採取していたが、濃い霧の中で不幸にも日本海の岩に座礁した。(どの辺りかは報告無し。)乗組員が本船を捨て5艘のボートに乗移ったが、その中の2艘は直ぐ浸水し、ブラウン船長、士官のウィルソンとウィーゼルや10人の水夫は溺れてしまったが、その直ぐ後で本船はみじんに破壊してしまった。・・・
遭難者の到着時にはオランダ商船 「ジョセフィーン・キャサリーン号」が長崎港にいて、オランダ商館長は是非そうしてやりたいと、江戸の幕閣に遭難船員達をこの船でバタビアまで送るべく許可を求めた。しかしながら運悪く、許可を得なければならない場所までの距離は、速達で送ってさえも、どんな手紙も返事が来るまでに少なくとも40日も掛かり、江戸からの返事が間に合わなかった。この時の出島の規則では、オランダ商船の出発を日本の規則で定められた期間より延ばす事はできなかったので、「ラゴダ号」の遭難水夫達を乗せず 「ジョセフィーン・キャサリーン号」は日本を離れざるを得なかった。
疑いもなく、レフィスゾーン氏はその立場で許されるあらゆる事を続けるでしょうが、オランダと日本の貿易は、送れる船は年に1隻に制限され、この年の年末前に遭難者達をジャワに送還する事は出来ません。
敬意を持って、   ロバート・ブラウン、広東駐在オランダ国王の領事。
J・W・デイビス 合衆国公使殿。

この様に、出島のオランダ商館長・レフィスゾーンが伝えてきた詳細情報を記述した手紙を受け取ったデイビス公使は、翌26日、直ちにアメリカ東インド艦隊司令官・ガイシンガー提督に連絡し、提督は部下のグリン中佐へ、遭難船員を救出すべく長崎行き命令を出す事になる。

ここで記すべき一つの事実は、15人の遭難者達が長崎の取調べで答えたという 「みじんに破壊してしまったジョーン・ブラウン船長指揮下のラゴダ号」は、実は軽微な被害で、実の船長はジェームス・フィンチ。その後1849(嘉永2)年6月13日、ニュー・ベッドフォードの母港に無事帰港している(「Old Dartmouth Historical Sketch No. 45」, New Bedford Whaling Museum)。15人が3艘のボートで脱走したのだから、自分達の脱走を隠そうとしたのだろうか。

♦ 東インド艦隊司令官・ガイシンガー提督からグリン中佐への長崎行き命令書
(32d Congress, 1st Session, SENATE., Ex. Doc. No. 59)

上述のような経緯で、広東駐在アメリカ公使・デイビスから 「直ちに艦隊の一部を分遣し、幽閉されている遭難水夫達を救助してもらいたい」という緊急連絡を受けた香港・ワンポア港に停泊中の東インド艦隊司令官・ガイシンガー提督は、1849(嘉永2)年1月31日、直ぐに部下のプレブル号艦長・グリン中佐に宛て、下記の如く長崎行きの命令を発した。

貴官指揮下の合衆国軍艦・プレブル号が速やかに出航可能になる時点で、日本列島の九州にある長崎湾に向うべし。
貴艦航行の目的は、日本政府の役人により長崎の町の近くに監禁されていると報告される、ニューベッドフォード所属のアメリカ捕鯨船・「ラゴダ号」の遭難船員の生存者達、水夫15人の開放を勝ち取る事である。
貴官宛に、「ラゴダ号」遭難の顛末とその乗組員の生存者監禁に関する、広東駐在オランダ国王領事・ロバート・ブラウン氏からJ・W・デイビス支那駐在合衆国公使宛ての伝達書のコピーを送付する。貴官はこの伝達書から、オランダ出島商館長・レフィスゾーン氏のこれら捕虜解放を勝ち取るための熱心な努力を認識するはずであり、貴官の長崎到着時に、囚われの困難に耐え忍ぶ我が同胞に対する彼の人道的で寛大な援助に対し、また、彼の公平無私な対応を本官が合衆国政府に報告できるという心からの喜びに対する、絶大な感謝を述べるべし。
若しこの水夫達が長崎を出た後なら、または要求により貴官に解放されたなら、そこから上海に赴くべし。一方、若し長崎の日本役人が、江戸の幕閣から前以て許可がなければ捕虜は解放できないと異議を唱えたなら、直ちに江戸湾に赴き、即刻帝国の中枢役人と交渉すべし。貴官は、断固とした態度で、節度を保ち、礼儀正しく、ここに述べた捕虜を直ちに解放し貴官に引き渡すべく、その中枢役人に要求すべく命ずる。若し貴官の要求が入れられたら直ちに長崎に戻り、この捕虜を受け取り乗船させ、貴官の航海に付くべし。
・・・
貴官の日本人との通信や交渉に当って、貴官の態度は丁寧であるべきであるが、断固としたものであること。日本の法や習慣に背かぬよう、また如何なる場合も、我が政府の採ろうとしている平和的方針の実現を侵害せぬよう、注意すべし。とに角貴官は、予見できない立場や状況に置かれたり、その場合を想定した特別命令を出し得ない事態に遭遇するかもしれない。そんなあらゆる場合に於いて、貴官の判断と、我国の利益と名誉とを守るべき能力に信頼が寄せられている。
・・・
貴重なる我が捕鯨船舶の保護と捕鯨の促進とが、我が政府が深く関心を寄せる目的である。従って貴官は、機会さえあれば直ちに支援しこれら目的を促進し、貴官の航海中のあらゆる機会に、アメリカの商業と国益のため、貴官の権限に於いて最大限の保護の手を差し伸べるべし。
貴官の安全な、爽快で、上首尾な航海を祈る。
   D・ガイシンガー、東インド艦隊司令官
ジェームス・グリン中佐殿、合衆国軍艦・プレブル号艦長、香港

この様に、「必要なら江戸に行って交渉すべし」という命令書を携え、1849年4月18日、即ち、嘉永2年3月26日、プレブル号艦長・グリン中佐は長崎港に碇を下ろした。厳密には、日本行き指令書により2月始め直ちに香港を出航したが、すぐ船内に天然痘の発生が判明し、強制隔離のため香港に引き返し落ち着くまで停船していた。これが2ヵ月後の4月まで長崎に来なかった理由である。

♦ 漂流者を長崎奉行所から出島商館に引き渡す

種々やり取りが在ったが、長崎奉行にも純粋な漂流者の救出目的が理解され 結局、オランダ出島商館長・レフィスゾーンの仲介で、漂流者を長崎奉行所から出島商館に引き渡す手順で、生存しているラゴダ号漂流者の13人と単独上陸したラナルド・マクドナルドの合計14人が、グリン中佐指揮のプレブル号で帰還することになった。この結果を江戸に報告する、嘉永2年4月6日付けの長崎奉行の上申書いわく、

手紙を以て啓上奉ります。さて去月27日に申上げてあります今回渡来の北アメリカ州の軍船は、その後調べますと、この船の主役(筆者注:艦長)が提出したアメリカ語願書一通があり、在留のカピタンに(筆者注:オランダ語に)翻訳させオランダ通詞に翻訳させたところ、これは去る申年に松前の小砂子村へ漂着した15人の者と蝦夷の利尻島へ漂着した1人の者を、唐国の香港に居る上役の命令で、漂流の者どもを受け取り連れ帰りたいとの趣でした。あわせてカピタンよりも同様に横文字(筆者注:オランダ語)で願いが出され、充分に調べましたが他に問題もありませんでした。そこでこの漂流の者を呼び出し、かねてからのご指示も含め、漂流民は送還するという国の方針と、以後は日本近海での漁業を禁ずる旨を通達したところよく了解しました。これによってカピタンに引渡し、カピタンから一昨日の4日アメリカ船の主役へ引渡し、同様に以後の渡来を禁ずる旨通達させました。昨日5日、辰刻(筆者注:午前8時前後)、当沖合いから別条なく出帆致しました。添付の(筆者注:英語の)願書とカピタン翻訳の横文字の和解共々ご覧に入れます。以上ご報告申上げます。恐惶謹言。
   四月六日
      大屋遠江守
      井戸対馬守

こうしてグリン中佐は滞りなくガイシンガー提督からの命令を実行し、長崎で13人のラゴダ号の遭難船員とラナルド・マクドナルドを受け取り、無事に上海に帰還することが出来た。

この時、解放された14人が長崎奉行所から駕篭に乗せられオランダの出島商館に着くと、ラナルド・マクドナルド自身の冒険記(「Ranald MacDonald. The Narrative of His Life, 1824-1894」)によれば、商館長・レフィスゾーンは 『ここはキリスト教圏の建物だから、もう床に座る必要はありませんよ』と言い、ナイフや銀食器や椅子を使い、本当に美味なポークやパン、最高級のオランダ風ジャワ・コーヒーで歓迎夕食会を開いてくれた。心から元気を回復した全員は、晴々とした気分で迎えに来たプレブル号に乗船したと書いている。余談になるが、ラナルド・マクドナルドは支那から更なる冒険を続け、オーストラリアで金を掘り、何年も経った後に故郷に帰っている。

長崎での捕鯨船員の救出から1年半ほど経った時点でグリン中佐は、東インド艦隊での任務を終了しプレブル号と共にアメリカに帰国した。こんな長崎での交渉やその他の経験を踏まえ、ミラード・フィルモア大統領と直接会見したグリン中佐は、日本開国とその方法を話し合っている。フィルモア大統領の要請で、その直ぐ後にこの大統領との会話の骨子をまとめ、1851(嘉永4)年6月10日付けの意見書簡筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) の形で大統領に提出した。

日本でのアメリカ遭難船員の取扱いが「虐待」として伝えられた1850(嘉永3)年の初め頃から、アメリカ議会でも真剣な議論がなされているが、筆者には、このフィルモア大統領はグリン中佐との会見の後、日本への使節派遣を必ず成功させねばと思った様にも見える。またこの時グリン中佐は、1851年1月2日ニューヨーク港に帰国したのだが、その長崎からの遭難船員救出報告を聞いたペリー提督は、自身でも日本遠征につき独自の日本遠征基本計画を作成し筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)、1851年1月27日(嘉永3年12月26日)付けでグレイアム海軍長官に提出している。

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09/14/2016, (Original since 08/31/2014)