日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

マンハッタン号とクーパー船長

クーパー船長指揮のマンハッタン号は、ニューヨークのサグ・ハーバーを母港とする捕鯨船である。当時1840年代は、アメリカの捕鯨船が活発に太平洋にまで乗り出し、鯨油を採るため捕鯨を行った。鯨油は機械用の潤滑油として、またローソクの原料として重要な資源だった。 また鯨のヒゲは女性のスカートに入れて丸みを強調するファッション材料にもなった。

1843年11月8日サグ・ハーバーを出航したマンハッタン号は、永い航海の後新鮮なウミガメの肉を手に入れようと、八丈島の南約300kmの太平洋の真中にある、伊豆諸島の鳥島(北緯30度29分、東経140度18分)に立ち寄った。 現在この鳥島全体が天然記念物に指定され許可なしに立ち入ることは出来ないが、周囲10kmほどの火山島は当時も無人島だった。1845年3月15日、マンハッタン号が鳥島に近づくと人の気配がし、11人もの漂着した日本人にめぐり合った。ウミガメを捕り漂着者を救助したマンハッタン号は、翌日また日本人が11人も乗った沈没しかけた漂流船に出会った。 この船は塩魚を積んだ船だったが、いくらかの積荷や船具と共に更にこの11人も救助した。

こうして救助した22人もの日本人を何とか日本に送り届けようと考えたクーパー船長は、3月24日に房総半島に近づくと先ず2人を興津(千葉県勝浦市興津)辺りに上陸させ、翌日少し南下してまた2人を上陸させた。これは、鎖国に基づき遭難した日本人さえ容易に受け入れない徳川幕府の方針を知っていたクーパー船長の作戦で、あらかじめ人道的に漂流民を江戸湾内にまで送り届ける意図を役人に知らせる目的であった。 この直後にまた吹き荒れた嵐で流されたマンハッタン号は、本州の北の端の青森県辺りにまで来てしまったが、逆戻りして、4月16日にまた太東崎(だいとうざき、千葉県勝浦市)近くに現れた。これを見つけた村民は小船多数を出してマンハッタン号を牽引し、洲崎(すのさき、千葉県館山市)に待ち受けていた幕府役人に引会わせる事が出来た。 幕府役人は、江戸湾内での漂流者の受取りを許し、マンハッタン号はまた多くの引き舟に曳航され4月18日浦賀に着いた。

マンハッタン号が嵐にあって流されたのは、先に上陸させた漂流民が役人に報告し、幕府が検討し許可を出す時間を確保でき、結果的によかったわけだ。 報告を受けた江戸詰めの浦賀奉行・土岐丹波守は、漂流民を受け取るべく何度も幕閣に意見を述べた。当時の幕府の中心人物は老中首座の阿部伊勢守だったが、この伊勢守さえも即刻判断したのではなく、勘定奉行の評議に廻し、大目付や目付の評議に廻し、長々と時間をかけた末の決定だった。こうしてクーパー船長の好意で、全員が無事帰国できたのだ。

当時幕府の規則は天保13(1842)年に出された薪水給与令で、翌年オランダを通じ諸外国に伝えられ、漂流者は長崎のみでの受取りが許されていた。しかし最後には、阿部伊勢守は諸事情を考慮し、土岐丹波守に直接指示をし浦賀での受取りを認めたのだ。 この時の指示は、

一昨年卯年(天保十四年、一八四三年)に外国に通達を出してあるが、今回浦賀に来た異国人はこの通達を受けていず、まだ知らない可能性もあり、今回に限り一時の権道をもって漂流者を浦賀で受け取り、異国船には必要な食料や薪水を与えて帰すよう手配すること。
    (『ペリーを訪ねて』、中野昌彦著、東京図書出版会、2006年4月、 ISBN4-86223-017-2、P. 142-143 から引用)

クーパー船長は幕府からおおいに感謝され、充分な薪水や食料を与えられ、色々な贈り物も貰って浦賀を後にした。160年後の今でもアメリカのマサチューセッツ州ニュー・ベッドフォード市にある捕鯨博物館には、クーパー船長が幕府から贈られた漆器や、救助した日本人が持っていたコンパスや、日本製の子午線まで入った日本地図が保存されている。

このクーパー船長の浦賀入港から9年後、江戸幕府と日米和親條約を締結する事になるペリー提督は、その日本遠征の出発に先立って、浦賀に行ったクーパー船長から日本情報を得ている。その時クーパー船長はペリー提督に書簡を送り、捕鯨の観点からもぜひ日本の開国が必要だと意見を述べている。

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11/30/2016, (Original since 08/04/2010)