ブロートン中佐の蝦夷、千島、樺太、ロシア沿海地方、朝鮮半島の探検 - 後編
(典拠:"A Voyage of Discovery to the North Pacific Ocean: performed in His Majesty's Sloop Providence, and her Tender, in the years 1795, 1796, 1797, 1798". by William Robert Broughton. London:Printed for T. Cadell and W. Davies in the Strand, 1804,)
♦ スクーナー型伴走船の購入と再調査の準備
1796年10月の末、季節が冬になり津軽海峡に侵入できなくなったプロヴィデンス号に乗るブロートン中佐一行は計画をあきらめ、千島列島から日本列島の太平洋岸を南下し、越冬と補給のためマカオに向かった。1796年12月12日夕方、マカオとその南に位置するタイパ島の中間点に投錨したが、そこにはつい最近イギリス本国から来た郵便船・クレセント号が停泊していて、母国の最新情報に飢えていたブロートン中佐以下の乗組員を喜ばせた。
当時のマカオは清朝主権下におけるポルトガルの租借地だったが、ポルトガル人総督による独自の行政地でもあった。ブロートンは次のように記述している。
到着後、私はマカオ総督府に士官を派遣した。午後、士官は総督のもとから戻ったが、総督は丁重にあらゆる礼儀正しさで対応してくれた。翌日〔1796/12/14〕総督は港長を派遣し、我々の船をタイパ港へ入港させたが、その途中で砦に向けて11発の礼砲を撃ち、砦からも同数の礼砲が撃ち返された。日没に港に到着し、翌朝、西向きに船尾アンカーを入れ、4ヒロから3ヒロの深さの場所に船を停泊させた。マカオの町はちょうど向かい側で、港から磁北より25°西の、2、3マイル・ほぼ4Kmの地点にあった。
その月の末〔1796/12/29〕、腕が十分に回復して船を離れられるようになる前に、ラークス湾で小型船が売りに出されていると聞き、それを購入するのがこれからの航海に非常に有利だと考えた。調べに行ってみると、この船は目的に非常に適していることが分かり、その場で契約を交わし、船長に1500ポンドを支払った。この船はスクーナー帆装船で、87トンと登録されている。1796年12月30日、タイパ港で我々に加わった。
この時ブロートン中佐が即金で購入した小型のスクーナー帆装船は87トン、全長89フィート・27メートルで、イギリス人のウィリアム・ウェイクを船長とする貿易船・プリンス・ウィリアム・ヘンリー号で、ハワイとマカオにも寄港していたという。〔The Hakluyt Society, “William Robert Broughton’s Voyage of Discovery to the North Pacific 1795-1798, Edited by Andrew David, With an Introduction by Barry Gough”. Routledge, 2016. " P. xxxiv〕。
4年前までバンクーバー探検隊でブロートン大尉〔当時〕が伴走船として乗っていたチャタム号はブリグ型の133トン、全長80フィート・24mだったから、ほぼ同じ位の大きさの船で、ブロートンは気に入り購入を即決したのであろう。
また、このスクーナー船が停泊していたラークス湾はタイパ港の南西側、大横琴島西部にあり、現在は埋め立てられてしまっているが、マカオから南西に14Kmほど離れた小さな湾であった。当時ポルトガルが独占していたアヘン貿易に対する他国の参入に対し、このラークス湾まではマカオのポルトガル検察権が及ばず、イギリスやインドのアヘンを積んだ船が入り密貿易が始まった場所だという。イギリスはその後、1794年から広東の下流のワンポア(広州市黄埔区黄埔港)までへもアヘンを運んでいたという。〔”Americans and Macao. Trade, Smuggling, and Diplomacy on the South China Coast", Edited by Paul A. Van Dyke. Hong Kong University Press. 2012. Note 37, P.181-82〕
ブロートン隊は1797年4月上旬までタイパ港に滞在し、プロヴィデンス号船体への漏水止の詰め物をし、船体底部に貼ってある銅板の修理、船体の塗装、索具や帆の修理をし、経度測定に欠かせない航海用クロノメーターの確認・調整をした。また新規に購入したスクーナー帆船をワンポアまで派遣し、そこに停泊するイギリス東インド会社の補給船から諸物資や塩漬け肉を購入し、プロヴィデンス号と新規購入したスクーナー帆船の2艘のために15カ月分の食糧を搬入し貯蔵を終えた。
更にそれまでに完了した噴火湾やエトモ、千島列島の探検調査資料を整理し、イギリスの海軍本部宛に送り出した。
当時はクロノメーターを使った経度測定による航海術が確立され発展する時期であり、ジェームズ・クックの1772年から1775年の第2回目の探検にも新開発のクロノメーターが始めて導入され、天体観測との精度の比較が行われ、その有用性が確認されたという。その後イギリスでクロノメーターの大量生産が確立され、それまで製作費だけで1式500ポンドもかかったものが、1780年代には1式65〜80ポンドで入手できるようになったという〔「航海術とクロノメーター 」(特別講義;科学技術史), S. Yamauchi, 2017 年 7 月 22 日. https://sho-yama.c.ooco.jp/lecture/history/h10.pdf. P.40−41〕。従って価格が下がると多くの船が採用し、航海に使うようになってきた。航海用クロノメーターは航海時の温度や湿度の変化、気圧の変化、振動や揺れなどに耐性を持つ非常に正確な時計であり、当時イギリスの経度法では1日3秒未満の精度を持つ正確な時計が必要とされたという。ロンドンに定めた本初子午線との時差の計測により、時差1時間が地球上の経度15度の差に当たる。現位置での太陽南中高度角あるいは北極星の高度角計測から緯度がわかるから、理論上何処にいても地球上の現在位置を知ることができ、ブロートン隊の探検には食料や飲料水に次ぐ重要な測量器具であった。
♦ 八重山諸島の調査
さて、すべての準備が整ったブロートン隊は1797年4月11日の朝錨を上げ、タイパ港を出港した。台湾の太平洋岸を北上し、与那国島の東部を通過し、西表島と石垣島の北部に接近したが風の状態が悪く、両島の周りのサンゴ礁に阻まれて接岸をあきらめ、望遠鏡で見た島民と会うため探索ボートを送った。ブロートンは次のごとく記録している。
〔1797/5/15〕間もなく、サンゴ礁でつながっている低い島々〔西表島と石垣島〕を発見した。この島々は、2つの大きな島の間を航行できないように思われたが、しかし現在地の水深は深く測鎖が届かない。・・・午前中は風が弱く、蒸し暑く、島に近づくことができなかった。そこで、〔石垣島の〕住民について情報を得るためにボートを派遣したが、住民は双眼鏡ではっきりと確認していた。・・・〔派遣ボートが〕上陸後まもなく、彼らは幸運にも小道を見つけ、30戸ほどの小さな村に辿り着いた。その村の家の一つに入ると、一人の老人がいて、ボートの船員たちは非常に丁重に扱われ、飲み物を勧められ、ごちそうになった。
ここの人々は、中国人や日本人とは外見がいくつかの点で異なっていた。彼らの髪は頭頂部でまとめ上げられ、2本の金属のピンで留められていた。ゆったりとした麻のガウンを羽織りズボンをはいていた。彼らは士官たちに挨拶をする際に、手を合わせ、ゆっくりと頭上に持ち上げた。家々は平屋建てで、四角い形をしており、屋根は尖っていて、粗い葦で葺かれていた。家の中は整頓され清潔で、寝床となるマットが敷かれていた。彼らはその島の名前をパチュサン〔Patchusan・八重山〕と呼び、その西にある大きな島〔西表島〕をローチョ・オ・コ・コ〔Rocho-o-ko-ko、琉球王国に所属の意か〕と呼んだ。両方の島の産物は同じで、どちらの島も説明によると米、キビ、サツマイモ、タロイモが豊富に採れる。また、黒牛や馬、桃やライムもあり、見たところ、彼らは他にも多くの産物を持っているようだったが、滞在期間が短かったためそれらをすべて確認することはできなかった。
彼らは物腰が穏やかで無害な様子で、武器や防具を身につけている様子もなかった。
〔1797/5/16〕微風、好天。5時にボートは戻り、我々は風に吹かれ北西方向に出た。7時、パチュサン島〔石垣島〕の両端は東から磁南より20°東まで広がり、ローチョ・オ・コ・コ〔西表島〕は磁南より10°西から磁南より42°西まで広がっていた。・・・船大工は前檣に補強材を取り付け、船員はマストに補強用ロープを巻き付ける作業に取り組んだ。おかげで、我々は前帆を巻き込み、前檣の上帆を巻き込むことができるようになった。
♦ プロヴィデンス号の座礁と破船
ここまでは、マカオでスクーナー型伴走船を購入し、プロヴィデンス号を整備し、マカオ出港後は順調に航海を続け西表島や石垣島の調査を終えたブロートン隊は、宮古島北部の八重干瀬〔ヤビジ〕で思わぬ大事故に巻き込まれる。このプロヴィデンス号の座礁と破船は後に、無罪にはなったが、ブロートン中佐を軍事法廷に出頭させる程の重大事故だった〔"The Royal Navy 1776-1815, A Biographical History and Chronicle. William Robert Broughton." (https://morethannelson.com/officer/william-robert-broughton/)〕。
ブロートンの書いたタイピンサン〔Typinsan〕すなわち宮古島の北部にある座礁地点までの航海図はこの左下図の通りであり、図中の右上部分に座礁地点の八重干瀬がある。このプロヴィデンス号の座礁と破船をブロートンは次のように記述している。
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「ブロートン海図、宮古島列島」。座礁地点の八重干瀬(やびじ)位置。
実線:1796年マカオ行き航路、点線:1797年座礁時航路。
"A chart from the South Point of Formoso to Great Lieuchieux,
including the Islands of Madjicosemah - by Capt. W.R. Broughton. 1797."
Image credit: © Public domain, via Wikimedia Commons.
〔1797/5/17〕 昨年南側を通過した島々の北側を調べる目的で東に進路を定めた。スクーナー船に南東へ転舵するよう合図を出した。午後2時、甲板から磁南より15°東の5リーグ・ほぼ24Kmの場所に小さな砂島〔水納島か〕を発見した。3時、東の方向に別の島〔宮古島〕が見えたので東北東へ転舵した。4時、スクーナー船に風向を左舷にするよう合図を出した。5時半、船を上手回し〔風上に向かう進路〕にし、スクーナー船がこちらに追いつけるように帆を縮めた。午後7時、別の島〔宮古島〕の先端の先に、丘に見えていたものが島の形〔大神島〕になり磁南より60°東の方向に現れた。そして、東に見えていた陸地〔伊良部島〕の先端は、現在では磁南より10°西の方向に約5リーグ・ほぼ24Kmであった。この時檣頭から〔見張りの〕当直士官補佐が、丘の島〔大神島〕の東と北〔八重干瀬(やびじ)を含む方向〕や他のどの方向にも陸地は見当たらない。また我々の船の風下舷の南東の海岸〔宮古島先端の海岸(池間島北端)〕から見ても特に危険はない、と報告した。そこで私はこのままの航行を保ち、すなわち8時間タックを続け、風上へ向けて夜明けまで航行することにした。月は真夜中に昇ると予想していたが、スクーナー船はまだ定位置に来ていなかった。船は主帆タックのまま北北東に向き、 4ノット半・8.3Km/時の速度で進んだが、私は船の場所と向きを確認した直後、位置を製図し記録するために甲板を離れた。船の位置は昨年12月3日に通過し(土地の人はタイピンサンと呼んでいた)島の北側であることがわかったが、当時は強風のためその島と連絡を取ることができなかった〔タイピンサン(太平山)=宮古島。「宮古の地名」を歩く(3)-地名の語る「宮古の歴史と文化」、仲宗根將二著、『宮古島市総合博物館紀要』第16号、宮古島市総合博物館、2012年3月、P.144〕。
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宮古島とその北方にある八重干瀬(やびじ)位置(八重干瀬位置は筆者の推定)、
及び座礁30分前の船位置と翌日正午の破船したプロヴィデンス号の位置。
参照:「宮古群島(地図6-1-6-@)」環境省。左上の「ブロートン図、1797」
Image credit: ©Google Earth
〔午後〕7時半頃、船首とその両脇にも白波が見え、当直士官(ヴァション大尉)に報告された。その直後、船は岩礁に衝突した。激しい衝撃ではなかったが、衝撃を感じた直後、私はすぐさま甲板に上がった。途中で、事故を知らせに降りて来たヴァション氏に出会った。士官と乗組員はすぐに甲板に上がり、帆はすぐに逆帆に張られた。舵は風下向きで、船首はほぼ東北東を向き、帆はすべて張られていたように見えた。〔白波が報告され〕危険を察知した時に風下向きに舵を取っていたら、私たちは難を逃れられたと思う。
スクーナー船に適切な信号が送られ、航海長はできるだけ近くに錨を下ろさせ、プロヴィデンス号を動かし離礁しようとした。その結果、船はまもなく東に向きを変えた。我々は主帆を引き上げ、他の帆を揺らして船が進路を取らずに旋回できるようにした。南へ向きを変える前に、再び船首と船尾に岩がぶつかり、ついには真南を向いて停止した。その時、両船首脇に波が立ち、右舷の測鎖では5ヒロから15ヒロの深さがあったが、船首と船尾の両方では一時的に2ヒロ半しかなかった。舵を縛って固定し、トップマストをたたいた。そして我々はボートを吊り上げ船から降し始めたが、下段の帆桁はそのために立てておいた。この時船は激しくぶつかることはなく、浸水は19インチしかなかった。残念ながらこの時北北西からの風が強まり、波が激しく打ち荒れ、すぐに舵が取れてしまったので綱で舵を固定した。時刻は〔午後〕9時になったが、スクーナー船が錨を下ろすのを待ち、離礁を試みた。その間に大型ボートを吊り上げ船から降し始めた。こうする間に浸水が急速に始まり、激しい衝撃がありマストが持ちこたえられるかどうか疑わしいほどだった。ポンプのある場所では浸水した水位が急激に上昇したため、大型ボートが出発する前に船倉の水は 7フィートにまで達した。その時スクーナー船は私たちの近くの25ヒロの場所に停泊したが、航海長が船に戻ったとき、プロヴィデンス号は突然位置を変え、東回りに南から北に回転し、これまでになく激しく衝突した。私たちが連結綱をスクーナー船に運ぶ前に、船大工が最下層甲板まで水が来ていると報告し、船が前に傾いていたため、私たちは船を引き上げようとする試みを断念した。若しそうしていたら、船は間違いなく沈没していたに違いない。予備のポンプは船首ハッチの下にあったが、大砲甲板上の水は依然として増加しており、我々の努力はすべて無駄になった。
士官たちは全員、船を救う術はないという点で私と意見が一致した。マストを切り落としても効果はないだろう。我々の想像通り、船首の左舷の船底に穴が開き、船首が急速に沈下しているからだ。今や乗組員の保護が急務となり、ボートは乗組員の受け入れ準備を整えるよう命じられた。その間、士官たちは武器や弾薬を砲具や大工道具と共に集める作業に追われていた。しかし、船はほぼ側舷で横倒しになり、砲甲板は前後の隔壁や箱などが浸水して満水となり、多くの物を回収することは不可能だった。浸水は船の片側で水深6フィート・ほぼ2mしかなかったが、もう片側の水深は3ヒロ半・ほぼ7mもあった。船首部分は海に浸かり、波が上甲板に打ち寄せていた。当面はこれ以上の物資を回収することができなかったため、乗組員はボートに乗り移ることになった。幸いに事故もなく、11時過ぎに無事スクーナー船に到着したが、士官・船員ともに所持品はすべて失われた。私と残りの士官たちを乗せるため小舟が戻ってきた。そして真夜中30分過ぎにプロヴィデンス号を離れ、船は海のなすがままに残され完全な難破船となった。
12時頃、月が昇り、風が強まった。しかし、〔乗移ったスクーナー船の〕両方の錨が海底に着いていたので、片方を上げるのが賢明だと考えた。午前4時、もう一方の索を切り離し、幸運にも正しい進路を辿って帆を上げ、多くの者にとって致命的だったであろう更なる座礁を免れた。私たちは、今後の見通しが悲惨であったにもかかわらず、現状に二重に感謝した。しかし、私たちがもう少しでどうなっていたか〔スクーナー船の座礁〕を考えれば、この運命に満足し、助かったことを喜ぶべき十分な理由がある。
夜が明けると、風が吹き、霞がかかった。北北西からの風が吹いていた。航海長が難破船の残骸へ行き、将来の生存とスクーナー船の設備のために何か残せるものはないかと探した。その間、我々は岩礁の沖合を航行し、正午には北緯25度2分で、磁南より35°東に丘の島〔大神島〕が4リーグ・ほぼ19Km先にあり、磁南より10°西に陸地〔伊良部島〕が、船の残骸が2ケーブル・ほぼ400m先に、岩礁の外側が磁北より40°東にあるのを確認した。深さは56ヒロで、岩底だった。
ここで、「PA-TCHUNG-SAN island」すなわち、この宮古列島付近は危険水域であり、航行に十分注意すべしと言う警告が1870年にイギリスで発行された『北太平洋航海法・第2部』〔”North Pacific Pilot: Part II. The Seaman’s Guide to The Islands of The North Pacific.” BY W. H. Rosser. London : James Imray and Son, Minories and Tower Hill. 1870., P.126〕に記述されている。これはキャプテン・クックやジョージ・バンクーバー、このブロートン中佐、更にアメリカのペリー提督などの航海記録から危険水域を列挙した書籍である。この中で特に「注意事項と警告(Directions and caution.)」として項を改め、上述の如くブロートンが1797年5月17日に自身の座礁と沈没を記述した八重干瀬〔やびじ〕や宮古島近辺について、
北東、東、または南から宮古諸島に近づく際には、特に風が強く、水面下の岩礁を発見できる太陽が出ていないときは、細心の注意が必要である。これらの海域は、海藻に覆われた緑がかった色をしており、他の場所よりも目立ちにくいため、海図に記されていないからといってその海域が危険から解放されていると推定してはならない。測鉛では適切なタイミングで警告を発することができないからである。
と記述されている。上述のブロートンが記述したプロヴィデンス号の岩礁への衝突と破船・沈没は、太陽も沈み、月も出ていない夜の海上で、全くこの警告通りの最悪パターンになってしまった訳だ。
♦ 宮古島や伊良部島の人々の親切な援助活動
ブロートンは続けて、座礁したプロヴィデンス号から緊急に百十数人も乗り込んだスクーナー小型帆船での避難行動を記述してている。
〔1797/5/18〕〔航海長が難破した地点に行ったが〕午後、航海長は未使用のロープや帆などを満載し、7インチの大綱が付いた小錨も積んだ大型ボートで難破船から戻ってきた。これらの品々はどれも大いに役立つ物だが、特に小錨は大変役に立つ。
航海長は難破船から実際に役立つものをこれ以上入手するのは不可能だと考え、また我々の人数に対して水の量が非常に少なかったため、島から水を入手することが主な検討事項となった。また、船から食料を一切回収出来ない場合、我々の生存は同じように備蓄を増やすことにかかっていた。そして、我々はタイピンサン島〔宮古島〕に人が住んでおり、おそらく他の島と同様に生産性が高いことを知っていた。
ボート内を整理した後、我々は彼らと共に南西方向へ航海を開始した。午後6時、南方へ進路を変え、ハンモック島〔大神島〕の東北東〔西南西の誤りか〕に位置し、ハンモック島〔大神島〕の西端から約12マイル・ほぼ19Kmの地点にある小さな島〔伊良部島〕に向かった。この島とタイピンサン〔宮古島〕の間には水路があるが、危険がないとは思えなかった。日が暮れると、我々は〔伊良部島の〕岸から1マイル・1.6Km以内で50ヒロの深さの場所で夜を明かした。この島は中程度の標高で、面積は非常に小さかった。
夜明け〔1797年5月19日〕には、タイピンサン〔宮古島〕から3、4リーグ・ほぼ17Kmほど離れていた。そこで、停泊地が見つかることを期待して北東に舵を取り、タイピンサン〔宮古島〕と他の島〔伊良部島〕の間を通った。岸に近づくにつれて、海底は15ヒロから2ヒロまで変化する大きな落差があり、浅瀬の多くはほとんど干上がっていた。何度も上手回し(タッキング)と下手回し(ジャイビング)を繰り返し、ようやくそれを越え、13ヒロの浅瀬に錨を下ろした。そこは小さな島〔伊良部島〕の南東部分に近い場所〔佐良浜か〕で、薪や水などがいくらか手に入る見込みがあった。すぐに小舟が私たちのところにやって来たので、私たちは彼らに要望を伝えた。彼らは私たちの要望を理解したようで、私たちと別れるや、すぐに水を積んで戻ってきた。船から二つの大きな村が見えたので、士官を乗せたボートがそれぞれの村を訪ねた。彼らは非常に親切に迎えられ、ボートは水を満載して戻ってきた。午後、島民は小舟で更に多くの物資を送り込んできたが、薪とカナリアの飼料のようなもの〔穀類の粉か〕が入った大きな包み、そして鶏と豚も乗せていたが、見返りを求める様子もなく、期待している様子もなかった。彼らは、我々が必要とするものをもっと容易に供給できる東の村へ向かうことを強く望んでいた。天候は好天が続いたため、翌朝〔1797/5/20〕早く、大型ボートとカッターボートが難破船〔プロヴィデンス号〕へ食料を探しに派遣された。そして我々は21時〔午前9時の意か〕に出発し、東風に乗って風上へ向かい、2、3リーグ・ほぼ12Km離れたその方向にある村〔平良か〕へと向かった。
水路を横断の途中、私たちは次々と岩礁に遭遇し、その間には深い水深があった。そしてついに、大変な苦労の末に珊瑚礁にたどり着き、村の向かい側の数隻の小型船の近くの3ヒロ半の場所に錨を下ろした。島の友人たちは、ボート一杯の薪と3頭の大きな豚で私たちを歓迎してくれた。午後は雨が降り、強い南風が吹き荒れ、岸との連絡はなかった。翌日〔1797/5/21〕の朝食後、私たちは上陸し島人である友人たちに挨拶に行った。彼らは、私たちをこの地方によく合った大きく快適な家に、とても丁寧に迎え入れてくれた。床にはきちんとマットが敷かれ、家具に類するものはすべて非常にきちんと整えられていた。私たちはこれらのマットの上に東洋の習慣で座り、彼らが出したお茶、パイプとタバコなどを楽しんだ。数人の尊敬すべき老人たちが、私たちの一行を取り囲んでいた。彼らはティファニー風の、精巧に作られてゆったりとした、色とりどりで模様の異なる大きなガウンをまとっていた。これらのゆったりとしたガウンは、腰のあたりで帯で結ばれていた。さらに、ズボンをはきサンダルを履いていた。頭頂部は剃られ、後ろ髪はマレー風に上部で一つにまとめられ、金属のピンでしっかりと留められていた。皆、扇子を振っていた。中には、きちんとした麦わら帽子を顎の下で結んでいる者もいた。老人たちは、とても立派な髭を生やしていた。
家は主要な人物の所有のようで、海から少し離れた高台に位置し、高さ12フィート・3.7mの四角い石垣に囲まれ、入口となる門があり、その上に番所があった。部屋は広々として、両側に吹き抜けがあり、張り出したバルコニーがあった。私たちは彼らに私たちの要望を理解してもらうのに苦労しなかった。むしろ、彼らがそれを提供する意欲だけでなく、その力も持っていることがわかり、大変満足した。
別れを告げた後、私たちは町中を歩き回りたいと思ったが、彼らは強く反対し、どんなに説得しても無理だった。現状では相手を怒らせたくなかったのでその話は諦め、ボートで少し離れた水場まで行った。そこでは、近隣の農園に水をまくために掘られた石造りの井戸から水を汲むのを、住民たちが快く手伝ってくれていた。彼らは、洗濯にも使えるし、飲み水としてもっと良い水を送ってくれると言ってくれた。
午後は快晴で、島の友人たちは米、薪、水を送ってくれた。夜は雨が降り、天候は不安定だった。朝になると南西の風が吹き晴天の見込みが立ったので、私はもう一隻のボートと海兵隊員を出し、難破船の対岸の浜辺を捜索することにした。これは食料が漂着した場合や、必要であれば他のボートを援助するためである。しかし、間もなく強風が彼らの作業を中断させ、私たちは風で岸への乗揚げを防ぐために、もう一つの錨を下ろさざるを得なかった。 この荒天は続き、他の船の無事を心配するほどだった。しかし夕方には、我々の大きな喜びの下に彼らは無事に帰ってきた。彼らは難破船を訪れたが、船から直接、あるいは当然漂着すると予想される海岸沿いを辿っても食料を見つけることはできなかった。船は右舷を海面上に少し出して沈没しており、彼らは、切ったマストが岸に打ち上げられることを期待してマストを切断した。航海長はハンモック島〔大神島〕を訪れたが、驚いたことにそこには人が住んでいた。島は一部を除いてアクセス不能だったが、ジャガイモなどの農作物が栽培されていた。彼らは、島の家屋の建築材料の中に船の木材の一部をいくつか発見し、島の周囲の岩でできた洞窟の中で人間の頭蓋骨をいくつか見つけた。おそらく我々よりも不運な船の残骸であろう。島に上陸する前に、住民たちは水とジャガイモを届けてくれた。そして、〔航海長が島を見回り〕留守の間も、彼らは何度も同じような親切なもてなしを受けた。これらの善良な人々は私たちの不幸をよく知っていたので、当然のことながら、私たちが最も必要としているのは生活必需品だと考え、彼らが持っている限り、それらをとても親切に手放してくれた。
航海長の説明から、難破船からは何も期待できないことが明白に分かったので、ここでの不必要な遅延は食料不足のため危険となった。南西モンスーンを乗り越えて広州へ向かうことを考えると、わずかな配給量で乗り切ろうにも不十分な量しかなかった。また、乗組員が非常に多い(すなわち112名)ため、3週間分の水しか運べなかった。加えて、船が小さいため、乗組員の4分の1以上が同時に下部にいることはできなかった。悪天候に遭遇した場合、衣服もなく快適さも欠いた乗組員の間であらゆる苦情が出ることを恐れなければならない。若し難破船から十分な量の食料を確保できていれば、私がスクーナー船で航海を続ける間、70人を島に残し、北の調査を終えた後、北東のモンスーンの時期に彼らを迎えに戻ってくるという考えもあった。しかし、少なくとも彼らの同意があれば別だが、住民たちは私たちがその土地を見ることを嫌っていたので私の計画の実行を阻止しただろう。彼らの承認がなければ、それは賢明な策ではない。
23日の朝、島の友人たちから残りの贈り物を受け取った。小麦50袋、米20袋、サツマイモ3袋で、各袋は1cwt.・51Kg 〔1 hundredweight=112ポン=51Kg〕である。さらに、3cwt.・152Kgの雄牛1頭、大きな豚6頭、そしてたくさんの鶏も届いた。全く、私たちが頼んだものは何でもすぐに送ってくるが、私たちの小さな船はそれ以上何も受け入れられなかった。そして何よりも嬉しかったのは、彼らが最後に、少なくとも甲板に積み込めるだけの5ガロン・19Lの水が入った壺をくれたことであった。
この後スクーナー船に思いもかけない帆柱や側板の腐食が見つかり、かろうじて修理ができたが、ブロートンは本当に親切な宮古島の人々との最後の別れを次のように締めくくっている。
〔1797/5/23〕スクーナー船の出航準備が整ったので、士官たちに付き添われ、手元にある中で最も喜ばしいささやかな贈り物を携えて最後の訪問をした。彼らの親切な心遣いにどれほど感謝しているかを理解してもらえるよう努め、それが伝わったと信じている。彼らは私たちの贈り物、特に船〔プロヴィデンス号か〕の図面と望遠鏡を大変喜んで受け取ってくれた。飲み物を飲んだ後、この老人たちは私たちを海岸まで案内してくれた。そこには、帆などが設置されて艤装も終えた大型ボートが停泊しており、彼らの受け取りを待っていた。彼らは大喜びでボートに乗り、すぐに受け取ってくれた。こうして、私たちはこの人情深く文明的な人々と、苦境の中で受けた恩恵に心を動かされながらも、非常に友好的な別れを告げた。
ブロートンは心からのお礼の意味で、それまで使用してきて、しっかり帆を張った大型ボートも村人たちに贈ったのだ。
ここでしかし、宮古島の平良から外海に出ることにも非常な注意が必要だった。小型のスクーナー船であっても112名も乗り組んでいるから、また座礁などはできない。ブロートンは次のように書いている。
タイピンサン〔宮古島〕の北西にはコルマ〔来間島〕という小さな島があり、この島と (私たちが最初に錨泊した島の)エラブー〔伊良部島〕の間には海への通路がある。しかし、航海長の説明では非常に入り組んでいると言うことで、我々は以前通ってきた〔伊良部島と池間島の間の〕水路を選び、2艘のボートを先行させ危険を警告させた。こうした用心深さで、我々は午前中に出航した。
宮古島を出発したスクーナー船に乗るブロートン隊は、破船になったプロヴィデンス号の近辺を再渡観察し、石垣島の北側を通り、1797年5月26日の正午過ぎに西表島の北西の小さな湾を調べにボートを派遣すると、島民がじゃがいもと水を持ってきてくれた。
宮古島や伊良部島の島民からこれほど手厚い支援を受け、途中で調査に立ち寄った西表島でも親切な差し入れを受けたブロートン隊は、小型のスクーナー帆船に百十ニ人が乗り組み、台湾の東側を通り南下し、6月4日、夕方遅くマカオに到着した。
しかしこれほどの大事故に遭ったブロートン中佐は、そのマカオへの避難の途中でも西表島を調査するなど、普通ではやらないようなプロ精神を発揮している。それほど調査・探検にあらゆる機会を逃さないプロフェッショナルな人物であった。
♦ 補給物資の調達と余剰人員の帰国
マカオに着くとブロートンはまず最初に、マカオ総督と顔見知りの士官をボートで総督府に派遣し、スクーナー船での入港報告と、補給物資調達の手配の依頼をさせた。更に、プロヴィデンス号に乗っていた多くの士官や船員を適切に帰国させる準備に入った。1797年6月11日から6月15日の間にブロートンは次のように記述している。
・・・英国軍艦・スイフト号がすぐ近くに停船した。・・・私はレイニアー提督〔当時英国海軍東インド艦隊総司令官〕の指示に従って、スウィフト号に下士官4名、熟練水兵24名、海兵隊員15名〔合計43名〕を乗船させ、スクーナー船の定員を満たすために士官を含め35名を残した。残りの士官と乗組員30名は、東インド会社の船で帰国した。・・・私はこの艦隊〔英国海軍東インド艦隊〕の指揮官達が親切にも、何人もの我が隊の士官にイギリス行きの船旅を提供し、その他あらゆる点で彼らの権限の及ぶ限り、我々の必要性を快く満たしてくれるという親切な心遣いを受けた事実を述べることに大きな喜びを感じた。
以上の記述から、ブロートンは英国東インド艦隊総司令官・レイニアー提督の協力により、軍艦・スイフト号や東インド会社の大型貿易帆船で73名を帰国させ、35名を自身のスクーナー帆船要員として残したので、自身も含め合計109名になる。しかし1797年5月21日から22日の記述で、宮古島を出発する直前に、「・・・乗組員が非常に多い(すなわち112名)」と記述した事実がある。従って3名の矛盾があるが、おそらくスクーナー船の購入時の記録やプロヴィデンス号の突然の座礁と破船で、記録が混乱したのであろう。
またこの時、ブロートン隊から43名を預かった英国軍艦・スイフト号はまだ比較的新しく、1793年に進水した16門砲搭載のスループ型戦艦である。しかし不幸にもこの時、マカオから英国のへ航行中に乗組員全員とともに消息を絶ったと言う。1797年7月2日に最後に目撃された後、南シナ海で台風に遭遇し沈没したと推定されている〔HMS Swift : Wekipedia〕。
♦ 2度目の探検に出発
スクーナー帆船に食料の積み込みが終わり、タイパ港で積めるだけの薪や水を補充したが、5カ月分を積むのが精いっぱいであった。いよいよ出港準備を整えた1797年6月26日、ブロートンは次のように書いている。
航海目的を達成するため、我々は二度目の航海に出た。季節はすでにかなり進んでおり、船も多くの点で目的に十分ではなかったため、全てが成功する見込みは薄かった。しかし、それでもタタール沿岸と朝鮮海岸の地理的知識を得られる見込みはあったので、私はこんな不十分な状況下にあっても、未知の地域を探検することで科学の進歩に貢献するあらゆる努力を全力で行わないわけにはいかなかった。士官たちも船員たちも私と同様に、それぞれの任務を遂行する意欲に満ちており、我々は健康にも恵まれて出発した。
この記述を読む筆者は、座礁と破船という殆どそのプロジェクトが中止に追い込まれたような悪条件下であっても決してあきらめない、ブロートン中佐の崇高な動機づけとその不屈なる実行力に、心からの賞賛を送ってやまない。
♦ 再度のエトモ港や松前を訪問
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1797年再来航時の、エトモ港内の停泊場所。
Image credit: © Google Earth
この後小型のスクーナー船に乗るブロートン隊は測量をしながら台湾や沖縄・那覇、日本列島の太平洋岸沖を北上し、良く見知っている南部岬を通過し、津軽海峡を西に横断する前にほぼ1年前に噴火湾の探索時に訪れたエトモ港に立ち寄った。その時に噴火湾内のアブタの北側のホロナイ川近くでブロートン中佐一行は、松前から通弁見届けとして派遣された松前藩医・加藤肩吾の一行に出会い友好裡に情報交換をしていたが、エトモで再会することになる。ブロートンの1797年8月12日からの記述には、
風が味方してくれたので、エトモ港〔Endormo harbour〕の入り口に向けて舵を切った。午前3時、9ヒロの泥底で、ハンス・オルソン島が磁南より77°西、2マイル・3.2Kmにある場所に停泊した。・・・午前中に港内を遡上し、薪を取ったり、水を汲んだり、観測をしたりするのに最も都合の良い場所を探した。天気は快晴で気持ちがよかった。海岸で緯度を観測した。午後、出発して港を遡上し、水深3ヒロの場所に停泊した。そこはあらゆる風から完全に守られ、岸から2ケーブル・400m程離れていて、流れのよい川〔本輪西川(もとわにしがわ)〕のすぐそばだった。岸沿いには数軒の家が点在し、島の無邪気な原住民が住んでいて、彼らはすぐに私たちを訪ねて来た。
ここで上述の「流れのよい川」を当初、湾の東岸に流れ込む「知利別川(ちりべつがわ)」かとも推測したが、水を汲むときに潮の干満により汽水域にならないという必要性や、「岸から2ケーブル・400m程離れていて」かつ「水深3ヒロの場所に停泊した」という記述から、「1797年のブロートン水深測量図〔 P.96 と P.97 の間の折り込み図〕」を参考に、湾の北岸に流れ込む「本輪西川(もとわにしかわ)」と判断した。なおまた、ウィキペディア「本輪西町(もとわにしちょう)」によればこの川を、「町域の北東部から南西流する本輪西川(もとわにしかわ)が、北西部から南東流する奥輪西川と合流し、南流して室蘭港に注ぐ。」と記述している。更に現在の地図を見れば、奥輪西川と合流した本輪西川は更なる下流でコイカクシ川とも合流しているので、鷲別岳の南山麓の谷々から流れ出て、水量もかなりあったと想像する。ブロートンは更に続けて、
・・・到着から二日後、何人かの日本人が訪ねてきた。彼らは松前〔Matzmai〕という町から来たと私たちは理解していたが、私たちがどこの国の出身で、ここに来た目的が何なのかを確かめるためであった〔虻田勤番の松前藩士が松前へ緊急通報を出した後、エトモにやって来たという〕。そして18日には私たちの旧友が到着した。昨年、その親切さで感銘を受けた人たちである。彼らは私たちがこんなに小さな船に乗っているのを見て大変驚いたようで、なぜまたここに来るのかよく分からなかった。彼らは明らかに私たちを監視し、現地人との接触を防ぐためにわざわざ来たので、私たちはいつも船上か、彼らが滞在する船の向かいの陸上で彼らといっしょに過ごした。彼らは私たちの出発を望んでいて、毎日強く求めて来たが、とても丁寧な口調ではあった。この人物〔松前藩医・加藤肩吾〕も同様に理解力があり、話が上手だったので、もっとよく理解し合えなかったのが残念であった。私は彼から日本列島の非常に詳細な地図を手に入れたが、誰から入手したかを明かすなと強く要求された。彼らが言ったように、もし知られたら、それを手放すことは彼らに恥辱と罰をもたらすと。・・・これらの人々によると、この広大な島の正式名称はインスまたはインスーであり、現地の人々も皆そう呼んでいるとのことである。松前は、〔津軽〕海峡内の日本の海岸の対岸に位置し、日本人が居住する町と地域のみを指しているとのことである。また、ロシア人が松前の北東に位置するアゴダディ〔Ago-dad-dy=Hakodate、箱館〕という港と交易を行っており、そこはエトモよりはるかに優れた良港だと説明していた。海峡内には日本人が所有する別の町もあるが、私はその名前を聞かなかった。・・・月曜日には、スクーナー船を航海出来るように完全に改修し、薪と水をたっぷりと補給した。また、岸の砂浜にあげて、船底の銅板の損傷も修理した。翌朝、日本の友人たちに別れを告げ、彼らの大満足の中、港を出航した。
ブロートン隊はエトモで再度松前藩医・加藤肩吾一行に再会し、ブロートンの言う「日本列島の非常に詳細な地図」を手に入れたのだ。おそらく加藤肩吾はブロートン隊の目的が不明地域の探検と測量であることを十分理解し、詳しい日本地図を渡せばすぐ退去するであろうと考えたのではなかろうか。筆者にはどんな地図であったか不明であるが、当時長久保赤水の地図「改正日本輿地路程全図」の初版本は既に20年前の安永8(1779)年に刊行されていて、以降も寛政3(1791)年にも改定されている。現代の定義とは異なっても、緯線や経線の概念を入れ交差する線間距離を定義した画期的なものだったから、地点間の方角や距離がかなり正確である。従って日本国内で人気が高く一般に入手可能な地図だったと聞くが、これを与えた可能性が高いと推測する。この地図には松前近辺の海岸線以外には蝦夷・北海道は記載されていないが、おそらく前回与えた加藤肩吾自作の蝦夷・北海道の「松前地図」と組み合わせれば、その正確さは別にして、日本の大部分を表示していることになる。若し加藤肩吾がこの「改正日本輿地路程全図」を与えたのでは、という推測が正しければ、当時としては素晴らしく正確なこの日本図はブロートン帰国後の英国海軍本部・水路部で大いに参照されたはずであるが、筆者の推測範囲を出ない。
この後ブロートン隊は苦労しながら津軽海峡を西に向かい、松前に向かったが、ブロートンは次のように記述している。
1797年8月31日 爽やかな風と霞がかった天気。私たちは海岸沿いに松前の町へと近づいた。町に近づく前に、豪華な衣装をまとった数人の騎手が町に駆け込んでくるのが見えた。その人数から判断すると、住民全員が集まって私たちを注視しているようだった。
町の中心部近くの上陸地点には、まるで私たちの上陸を待っているかのように、旗をはためかせた整然とした隊列を組んだ兵士たちがいた。
町はかなりの規模で海岸沿いに広がり、木々や庭園が点在する丘陵地帯が徐々に高くなり、かなりの距離まで続いていた。
家々は木造で、屋根は同じようなもので、ほとんどが石で覆われていた。上流階級の住居は、様々な模様の長い色布を縦に広げて飾られており、とても明るい雰囲気を醸し出していた。地面は主に白かった。寺院や公共の建物も同様に飾り付けられ、まるで私たちを楽しませるために飾り付けたかのように、街のいたるところに色とりどりの旗が掲げられていた。背後の丘陵はかなり高いが、樹木は生えておらず、庭園となっている部分を除いて耕作もされていなかった。・・・朝、明るくなると、水深測定なしで海岸から4〜5マイル・7Kmのところにいた。松前の南西端は、磁南より36°東で、ニポン〔本州〕の陸地はかろうじて見えている。インスーの端は北方に見え、北北西に島〔奥尻島〕が一つ。磁南より4°西にもう一つの島〔小島〕。その西に小さな岩〔大ヒヤク島〕があり、さらに磁南より70°西に3つ目の島〔大島〕がある。この二つの島〔小島と大島〕は高いが、広くはない。
ブロートン隊はこの様に、エトモ港でも以前よりはるかに警戒され、松前でも大勢の軍隊が待機する戒厳状態の中の上陸はやめ、松前から25Km西に離れた小島との間を北上しながら付近を観察するのみに止めた。翌日の9月1日は奥尻島と渡島半島の間を通過したが、しばらく日本の帆船と並走し、9月5日に焼尻島と天売島の西を通過した。
9月6日の正午過ぎには、高く尖った島〔利尻島〕からカヌーが一隻来て原住民が船に乗り込んで来たが、噴火湾の人々と全く同じだった。現地の人は高く尖った島をティモシー、もう一つ〔礼文島〕をティーシーと呼んでいた。ティモシー〔利尻島〕は不規則な形で、麓から徐々に高くなっており、珍しいほど高くそびえる丘陵には、明らかに火山の噴火口が見られた。
♦ ブロートン中佐を困惑させた、加藤肩吾の「松前地図」の樺太図部分
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「松前地図」、加藤寿。北海道大学、北方資料データベース
Image credit: courtesy of:
https://www.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/record.cgi?
id=0D000900000000000 (高精細画像)
ブロートン隊はこうして北海道西海岸を北上し、利尻島、礼文島、宗谷海峡を確認し、樺太島の西海岸にかかったが天候が不安定になり、モヤやキリが立ち込め、突風が吹き荒れ、暗く陰鬱な天気で視界不良になった。この樺太島の西海岸は人の住みそうな入り江もなく、現地の住民には全く巡り合えず、必要な情報入手に困難をきたし始めた。そこでブロートンは、1年前に松前藩医・加藤肩吾からもらった地図(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)を出して目の前の樺太島と比較してみたり、クック船長の航海記録や、1643(寛永20)年のオランダの探検家、デ・フリースの記録も調べてみた。ブロートンは1797年9月11日から16日にかけ次のように記述している。
・・・海岸線は傾斜が急で、航行を妨げるような危険な場所はなかった。陸地には入り江のような場所は見当たらず、海岸に人が住んでいるような痕跡も全く見られなかった。
私は、この土地の広がりを〔加藤肩吾のくれた〕日本の地図に載っているインスー島〔北海道〕の北にある島〔樺太島〕と照らし合わせてみたが、一致しなかった。またその土地は、〔地図にあるように〕東向きの方向にも続いていなかった。しかし、この問題を解決するには、陸地沿いに航路を進み続けるしかない。
西に見える陸地はタタール地方の海岸だとしか考えられなかったが、私たちがこれまで緯度4度半〔ほぼ500Km〕にわたって辿ってきた陸地の大きさは、到底理解できなかった。私たちの疑問を解消してくれるような書籍や海図は、クックの第三回航海記以外には何もなかったが、その航海記も私たちを混乱させるばかりだった。私が言っているのは、カストリクム号とブレスケンス号の航海に関する記述のことである。クックは、カストリクム号がタタール地方の東海岸に到達したと推測しているが、〔船長の〕デ・フリースは、彼らが北緯49度まで〔樺太島東岸のタライカ湾近辺までの意〕エゾ地の探検をしていたと考えていたのだった。
確かに右上に載せた加藤肩吾の作った「松前地図」で、北海道の北の樺太島は南北ではなく東西に長い島になっていて、北海道よりはるかに小さい。しかしブロートン隊の目の前で南北に続く樺太島西岸の陸地は、宗谷海峡を確認して以来500Kmも北上してもまだ続いているのだ。
またここで、1643(寛永20)に行われたオランダ探検隊船長のデ・フリースの記録では、ブロートンの指摘の通り、宗谷海峡〔ラ・ペルーズ海峡〕の発見に至らずに北海道のオホーツク海岸を北進し、「エゾ地」すなわち樺太島の東海岸南方のアニワ湾と北方のタライカ湾まで行き、引き返している。「デ・フリースの探検」については、フリース艦隊、西方のタターリ海岸を目指す(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)を参照。
♦ 間宮海峡から引き返す
ブロートンは1797年9月13日から更に続けて、
北へ航行するにつれて海岸線は次第に低くなり、常に低い岬で終わっていた。内陸部は木々がほとんど生えていない。二重に重なった陸地は見当たらなかったので、我々は陸地の端に近づいているのではないかと推測した。実際、この陸地〔樺太島〕の大きさは、日本の図〔加藤肩吾の松前地図〕に描かれている日本の島〔樺太島〕の大きさよりもはるかに広大である。水深は徐々に浅くなり、11ヒロになった。そこで我々はは西側の陸地に向かって針路を変えた。正午には、低い砂地の岬が磁北より15°東の方角に見え、タタール海岸の最北端は磁北より30°西、丸い丘は真西、そして最西端は西南西の方角に見えた。海岸までの距離は2、3リーグ・ほぼ12Kmであった。
・・・ (1797/9/15) 夜明けとともに航海を開始し、北へ向かった。水深が3ヒロになったところで方向転換し、間もなく水深4ヒロの硬い砂地の海底に錨を下ろした。丸い丘は磁南より58°西、円錐形の丘は磁北より50°西の方向に見えた。磁北より15°東から磁北より53°東の間には陸地は見えなかったが、そこから先は水面すれすれに低地が続いていた。・・・(1797/9/16)測深が2ヒロ以下にまで浅くなってきた時、帆を上げて転舵するのが得策と判断した。この時、航海長が海に通じる水路かもしれないと考えていた北東側に、非常に低い陸地が広がっているのがはっきりと分かった。最も近い部分は私たちから北東に3、4マイル・5.6Kmのところで、そこから北にはチャップマン湾(航海長がそう呼んだ)の南端まで、部分的に乾いた砂州が続いており、その一部は水面にさざ波を立てて姿を現しているだけだった。私たちは今や、この方向には海への出口はなく、全体が低地で覆われていると確信した。低地は間隔を置いてはっきりと見分けることができ、その低地のかなり向こう、北東の方向に高地が見えた。この湾に川が流れ込んでいるとしても、潮の満ち引きも海岸に川があるという兆候も見当たらない以上、取るに足らないものだろう。航海長もこの湾は不吉だと言っていたが、仮にそこに辿り着けるとしても、浅瀬から船を危険にさらさずに辿り着けるとは考えられなかった。また、この土地に関する情報を得られる住民に会える見込みもなかったため、秋分点が近づいていたので、これ以上時間を無駄にせず、悪天候が深刻な影響を与える前に、現在完全に入り込んでいる湾を南下することにした。
この様にブロートンは、周囲の景観と水深測定や海水の流れがほとんどない状況から、湾であろうと考えたタタール海峡〔間宮海峡〕の最峡部の入り口と思われる辺りから反転に舵を切り、タタール沿岸〔ロシア沿海州沿岸〕を南下することになる。現在の資料〔"Strait of Tartary", Wikipedia〕による最峡部の幅はほぼ7.3Km、航路筋の最浅水深はほぼ7.2mであるが、当時の状況から安全策で引き返すのが賢明な判断であったのだろう。
この経路はブロートン探検の10年前に、フランスの派遣したラ・ペルーズ探検隊(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)が゙1787年7月1日から8月12日にかけ、ほぼ同じ経路を逆にたどり宗谷海峡を東に抜けたが、ブロートン隊と同じ判断で最峡部には侵入せず引き返している。しかしその記録は、ラ・ペルーズ探検隊が南太平洋のサンタクルーズ諸島ヴァニコロ島で遭難し1人しか生還しなかった事故のめに、1797/1798年になって初めて発行されたから、この時点でのブロートンは知らなかったわけである。
この後ブロートン隊は更にロシア沿海州の海岸沿いを南下し、朝鮮半島を回り、対馬海峡から台湾西部を通り、1797年11月26日、マカオ港の東側に到着した。
翌朝には全員が船上で礼拝をおこない、1797年6月26日のマカオ出発から5ヵ月をかけた小型スクーナー船による北方探検・調査行の完結を感謝した。その後各士官から夫々の航海中の記録も提出され、全ての探検・調査が無事終了したのだ。
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