ブロートン中佐の蝦夷、千島、樺太、ロシア沿海地方、朝鮮半島の探検-1
〔以下、ウィリアム・ロバート・ブロートンは途中で昇格し、大尉と中佐の2階級が出てくる〕
《日本行の理由》《噴火湾》《虻田・あぶた》《ホロナイ川》《藩医・加藤肩吾》《絵鞆・エトモ》
コロンブスがアメリカ大陸を発見していらい3世紀も経過する間に、多くの船が世界中の海を航海し、航海技術が向上し、地球上の地形が判明してきた。そんな中でも日本北方の蝦夷地、千島、樺太、ロシアの沿海地方、朝鮮半島周辺は、ヨーロッパで造られた世界地図上における地理不明な秘境として最後まで残った地域である。
こんな中で世界中の海図と水路誌を整備して有名になる英国海軍本部の水路部は、1795年にスペンサー伯爵の勅令により設立され、その目的は水路部内の海図と情報を整理し、国家の船舶に提供することであった。水路部は1800年に最初の印刷機を導入して海図の印刷を開始したが当初、海図は海軍専用に製作された。しかし、1808年に水路部主任測量士となったトーマス・ハード〔Thomas H. Hurd〕が1821年に海軍本部を説得し、一般への販売を許可することになったと言う。以降自国の調査船からの情報のみならず、積極的に各国からも信頼できる情報を収集し、世界一信頼に値する航海情報源になっていった。
イギリス海軍はジェームズ・クックを始めジョージ・バンクーバーや、ここに収録するウィリアム・ブロートンなど多くの探検隊を組織し、世界の海を探検し航海情報を集めたが、英国海軍本部の水路部はその中心になって海図と水路誌を整備し充実させた。特に日本にはその後の1849(嘉永2)年、イギリスのマリナー号が浦賀や下田を調査(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)に来たから、更なる詳細情報が英国海軍本部の水路部に蓄積されたと思われる。
1853年と54年に日本に来航したペリー提督も、自国を出港した直後の1852年12月13日に北大西洋、ポルトガル領のマデイラ島からアメリカ海軍長官あてに、「拝啓、イギリスのジョージ・シーモア中将の意向により、英国海軍省の諸氏から賜った厚意を本省に報告することは本官の義務と存じますので、同封の書簡のコピーをここに送付いたします。箱の中には、最新の出版物である4冊の本と80枚の海図が入っており、すべて私が管轄する世界地域について記載されているものです」と報告している〔33d Congress, 2d Session. SENATE. Ex. Doc. No. 34. P.11〕。このように、イギリス海軍省からも信頼できる海図が提供されていたのだ。従ってペリー艦隊の1853(嘉永6)年の初回来航時にも、浦賀港入り口を過ぎ、更に北側の鴨居村まで躊躇なく深く侵入できたのだろう。
ここに記述するウィリアム・ロバート・ブロートンの航海記録は、こんな英国海軍本部水路部の航海情報を補充する探検調査の記録であり、北海道の噴火湾近辺、ロシア沿海地方、間宮海峡、樺太島、千島列島、などの貴重な航海資料であった。
これらの日本北方近海は、先回記述したフランス海軍のラ・ぺルーズ探検隊(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)と重複する測量・探検地域も多いが、ラ・ぺルーズ探検隊の不幸な遭難事故のため、1785年から1788年の探検をまとめた『Atlas de Voyage de La Pérouse(
ラ・ペルーズ航海地図帳)』がフランスのパリ共和国印刷所で発行されたのは1797年だったから、ブロートン探検隊は勿論知らなかったわけである。また当時のフランス革命下の敵対関係から、フランスのイギリスとの航海情報交換がどのようなものであったか、筆者には不明である。
♦ バンクーバー島・ヌートカ湾の紛争
この章で述べるウィリアム・ロバート・ブロートンはイギリス海軍士官で、バンクーバー探検隊として北アメリカの太平洋沿岸を細かく調査したジョージ・バンクーバー艦長に所属し、伴走船・チャタム号を指揮した。
またバンクーバー艦長は、当時ジェームズ・クック船長の世界探検航海に少尉候補生として加わり、レゾリューション号とディスカバリー号を指揮した司令官・クック船長が1779年2月14日、ハワイ島で落命し探検隊が帰国した後もその技術を継いで探検隊を組織し、1789年に建造された同名のディスカバリー号を指揮し、新世界のオーストラリアやニュージーランドを調査の後、北米大陸の太平洋岸を詳しく調査したイギリス人である。
特に、1789年から1790年に「ヌートカ危機」として知られる、イギリスとスペインとの間における、北米大陸の太平洋岸バンクーバー島ヌートカ水道近辺の領有権主張の紛争が起った。この紛争は、当時イギリス毛皮貿易商人の土地や財産がヌートカ湾の領有を主張するメキシコ海軍司令官・マルチネスにより没収されたと主張するものだったが、両国間で政治的に合意された「ヌートカ条約 〔Nootka Sound Convention〕」で、本格的な戦争行為の一歩手前で落ち着いた。
そこで、条約第1条にある「1789年4月頃、英国国王陛下の臣民がスペインの役人によって没収された北アメリカ大陸の北西海岸、またはその大陸に隣接する島々にある建物と土地は、当該英国臣民に返還されることが合意される。」と言う条項を実行するため、1792年の夏から現地で、条約規定内容の確認と合意実行のため、イギリス代表としてバンクーバー艦長が現地に派遣され、スペイン側からはボデガ・イ・クアドラ司令官が派遣された。
バンクーバー艦長はこのため1791年、ディスカバリー号を旗艦にブロートン大尉にゆだねられたチャタム号を従えイギリスの軍港・ファルマスを出港し、オーストラリア経由で北米大陸の北太平洋沿岸に着いた。バンクーバー艦隊は夏の現地交渉に先立ち、1792年4月29日にフアン・デ・フカ海峡に入り、バンクーバー島周辺を詳細に探検・調査し独立の島であることを確認した。更にボストンから来たアメリカ商船・コロンビア号が数ヵ月前に発見したコロンビア河も詳細に調査し地図を作製した。
現地で両国代表者の会談が始まり、バンクーバー艦長とスペイン代表のボデガ・イ・クアドラ司令官とは個人的に非常に親密な良い関係になり、双方で行った近辺の調査資料の交換をした。しかしイギリスの毛皮商人が購入したといわれる土地や建物に対する確認や合意ができず、両者はその決断を双方の政府に委ねることで合意した。またバンクーバー自身の調査で独立した島だと確認した現在バンクーバー島と呼ばれる島を「クアドラ・バンクーバー島」と呼ぶことに決めた。
更にバンクーバー艦長は1792年10月、アメリカのコロンビア号が5ヵ月ほど前に発見し命名した「コロンビア河」(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)の確認調査を、チャタム号に乗るブロートンに命じている。ブロートン隊はコロンビア川を160Km余りも遡って調査し、河口から210q南東にある火山を「マウント・フード」と命名もした。
♦ ブロートン大尉の新スペイン経由の帰国
(典拠:"A Voyage of Discovery to the North Pacific Ocean, and Round the World, 1790-1795, under the command of Captain George Vancouver." by George Vancouver. Vol. III. London: Printed for John Stckdale, Piccadelly. 1801,)
バンクーバー艦長とスペイン海軍のボデガ・イ・クアドラ司令官はヌートカ以来、個人的に深い信頼関係を構築し、相互の便宜を図りあった。バンクーバーはヌートカの状況を早急に本国に報告するため、当初ブロートン大尉指揮のチャタム号を帰国させる予定であった。しかしこれは次の探検に向かう調査能力の分割になり、更に南北アメリカ両大陸沿いに南下し、ホーン岬を回り大西洋に出て、また北上する2万8千qもの航海をせねばならず、非常に時間を要する。躊躇していたバンクーバーに救いの手を差し伸べたのがスペイン海軍のボデガ・イ・クアドラ司令官だった。バンクーバーは航海日誌に以下のように記述している。
有名なモントレー港(スペイン人によって特別にそう呼ばれている)に1792年11月26日の火曜日に到着したが、要塞の知事公舎に住み始めたクアドラ氏を正式訪問した。通常の挨拶を交換し、繰り返しの友情と歓迎の言葉を受けた後に船に帰り、翌27日水曜日の朝の日の出とともに要塞に向け13発の祝砲で挨拶し、それに対する同等の礼砲を受け、トップスル〔中檣帆〕を揚げ、クアドラ氏の司令長官旗に向け同等の祝砲を撃った。カーマノ氏や数人のスペイン士官を連れた代理知事を務めるアルグエヨ氏をともなったクアドラ氏がこの返礼としてやってきて、ディスカバリー号とチャタム号の船上でその地位と状況に応じた敬礼と歓待礼を受けた。こんな儀礼交換が終わった後でクアドラ氏と共に上陸し、歓待の会食の席に着いた。
一連の会話の中でクアドラ氏は私に、ヌートカからこの港に帰着すると、この海岸の要塞から北方にかけ一般交通が行われる範囲で、商業活動に従事しているすべての船舶を拿捕するようにという命令を受けたと言った。ただし、英国民の船舶は、一切の妨害や混乱なく航行出来なければならないとされていた。スペイン宮廷からのこの命令により我々両名は、イギリスとスペインの君主がヌートカの領土に関するあらゆる取り決めを調整し、最終的に條約を締結したと信じるに至った。
この情報は私にとって非常に重要な性質のものであると思われ、もし我が士官が新スペイン〔現メキシコ〕を通ってイギリスへの渡航手段を確保できた場合、私が今伝達できる情報を伝える目的でチャタム号を今シーズン中に帰国させる計画を撤回できることになるだろう。これは、航海の更なる続行中に私たちの小さな同行者〔チャタム号〕が不在であることは私にとって物質的に不便であるが、この時点で私が陛下のご命令をどの程度遂行できたかを政府に報告することは私にとって絶対に不可欠と思われたので、私は職務のこの重要な部分を省略するよりは、どんな不便も受け入れる覚悟を決めていた。特に、前年の夏の我々自身の努力に加えて、我々の調査地の北方にあるスペインの発見地の海図をすべて入手していたからだった。・・・ 私は、チャタム号の船長であるブロートン大尉にこの件を託すことを提案した。彼はヌートカでクアドラ氏と私が交わしたやり取りをすべて知っている。彼の能力と観察力は、イギリスに到着した暁には、私が報告書で説明しきれなかった多くの質問について海軍本部を納得させる力となるだろう。この機会に私はクアドラ氏に対し、もし彼の意向とスペイン宮廷の意向が合致するならば、ブロートン氏が新スペインを経由しイギリスへ渡航することを許可してくれるよう要請した。これに対し、クアドラ氏は少しもためらうことなく、非常に友好的な態度で、ブロートン氏がサン・ブラス〔アカプルコの770Km北、当時スペインの太平洋岸の海軍基地〕までクアドラ氏に同行し、そこでクアドラ氏が金銭その他、〔新スペイン国内の〕アメリカ大陸を横断する彼の骨の折れる旅をできる限り楽しいものにするために、クアドラ氏の力で可能な限りのあらゆる必要物資を提供すると答えた。非常に親切で寛大な申し出に、私は表現できるすべての気持ちを伝え、ブロートン氏の出発の準備に時間を無駄にしないように最大限の努力をした。それは、我々の出航だけでなく、クアドラ氏と彼の指揮下にある船舶の出発がかかっていたからである。
1793年1月14日、モントレー港に到着以来ほぼ2カ月後、準備が整ったジョージ・バンクーバー艦長のディスカバリー号と新しくプジェット大尉が指揮するチャタム号、更にスペイン海軍のクワドラ司令官と共にブロートン大尉が乗りサン・ブラスを目指す船がモントレーを出航した。
ブロートンは太平洋岸のサン・ブラス海軍基地から新スペイン国内の陸路を進んでメキシコ湾岸のベラクルス港まで行き、更に海路でイギリスに行く旅である。この経路により、南北アメリカ両大陸沿いに南下し、ホーン岬を回り大西洋に出てまた北上する経路に比べ、1万数千Kmもの行程短縮になった。
この様な経緯でブロートン大尉は新スペイン経由イギリス本国に帰国し、ヌートカ湾の状況を直接イギリス政府に説明することになったのである。
♦ ブロートン中佐のバンクーバー探検隊への復帰航海と独自調査の決定
(典拠:"A Voyage of Discovery to the North Pacific Ocean: performed in His Majesty's Sloop Providence, and her Tender, in the years 1795, 1796, 1797, 1798". by William Robert Broughton. London:Printed for T. Cadell and W. Davies in the Strand, 1804,)
新スペイン経由イギリスに帰国し政府に報告を済ませたブロートン大尉〔Lieutenant〕は、1793年10月3日に中佐〔Commander〕に昇進し、プロヴィデンス号の船長になったが、その後1794年10月2日、オーストラリア経由でバンクーバー探検隊に復帰し南アメリカ大陸沿岸の調査にあたるべく新しい命令を受けた。
この間に世界情勢は大きく変わり、イギリスとスペインはフランス革命の拡大に対抗するため、「第一次対仏大同盟」に参加し同盟国となった。これは、フランス国内の革命思想が自国へ波及することを恐れたヨーロッパの諸王国は、互いに同盟を組んでフランスの革命政権を打倒することを目指したのだ。そのため、ヌートカ危機の問題は重要性を失い、イギリス政府はスペインの無用な警戒心を招かないようヌートカ湾の領有権主張を放棄した。1794年1月11日、マドリードで「第三次ヌートカ条約」が調印され、両国はヌートカ湾を放棄し、フレンドリー・コーブの拠点をイギリスに正式に移譲することに合意し、両国はヌートカ湾に恒久的な基地を設置しないことにも合意した。両国の船舶の寄港は認められたが、両国は他国による主権の確立を阻止することでも合意している。
さて本国で新しい命令を受けたブロートン中佐の指揮するプロヴィデンス号は、1795年2月15日、前年10月以来風向きが悪くイギリスのプリモス港に足止めされていた400艘以上にも上る商船隊を護衛する軍艦の一員としてプリモス港を出港し、大西洋を南下し始めた。この商船隊の護衛は革命後のフランス海軍の動きを警戒する行動だったが、途中大西洋で夫々に行き先の異なる商船隊と次々に別れ、オーストラリアに向かう他の2艘と共に1795年5月24日リオ・デ・ジャネイロで新鮮な食料、ワイン、ラム酒、砂糖などの品物の調達を終えた。ブロートン中佐の指揮するプロヴィデンス号は、ここでニュー・サウス・ウェールズ州知事として赴任するハンター大佐の命令書を携帯し、先行し単独でオーストラリアのシドニー市街地のあるポート・ジャクソンに向って出航したが、途中でシドニーからボートで脱走した囚人の投降者を乗せ、1795年8月26日の午後ポート・ジャクソンに入港した。
シドニーではすぐに船の修理を始め、船の内外に水漏れ防止の詰め物をし、索具などを点検し、天文観測隊が上陸しクロノメーターを確認した。
全ての航海準備を整えたプロヴィデンス号は1795年10月6日、ハワイ経由でバンクーバー島に向かう航海を再開した。1796年3月15日の午前8時、ヌートカ付近の陸地を確認して士官を湾内に派遣したが、そこに停泊する船舶はなく、かつてスペイン人入植地のあった場所にはインディアンの村が建っていることが判明した。 スペイン海軍のアラバ准将からの手紙があり、1795年3月にスペイン艦隊も出航したことを知った。 また2日後に顔見知りのヌートカの酋長マッキーナが、1795年3月付けのバンクーバー艦長からの手紙を手渡しに来たが、バンクーバー艦長はすでに、1794年12月2日にモントレーを出発したという内容であった。バンクーバー探検隊は北米大陸探検を終了した時期であったのだ。
3、ブロートン中佐の探検方針の変更、日本と千島行き
♦ 今後の方針を考え、日本・千島列島・樺太行きを決断
ブロートン中佐は1793年1月14日にバンクーバー艦長と別れて以来3年半ぶりに寄港したモントレー停泊中に、次のように日誌に記述している。
1796年6月17日、今後の行動について、今や何らかの決断を下す必要があった。海軍本部から私宛の命令は、南アメリカ南西部の南岸を調査することだった。同様の命令を受けていたバンクーバー艦長は、〔スペインとの交渉など多忙で〕その任務を遂行できないだろうと考えられたからである。しかし、彼が18ヶ月前〔1794年12月2日〕にこの港を出港したこと、そして彼の指揮下にあるディスカバリー号とチャタム号の両船が良好な状態にあることを私は確信していたので、バンクーバー艦長が本国の指示に従う能力があることに少しも疑いはなかった。これは特に、彼がその目的のために南緯33度のヴァル・パライソから出航したという情報をも持っていたからだ〔1796年1月、ハワイ島ケアラケクア湾でレディー・ワシントン号から聞いていた〕。この通りであるから、今後の私の行動は私自身の判断に委ねられていた。そして、私が指揮する陛下のスループ船を、地理と航海の改良に最も適しているとみなされる方法で活用したいと考えた。そこで私は、私に与えられた裁量権を最も効果的に行使する方法について、士官たちに書面で意見を求めた。彼らの意見は嬉しいことに、私の考えと一致していた。それは、オホーツク海南部の北緯52度に位置するサハリン島〔樺太島〕から始まり、北緯30度の南京河〔長江・揚子江〕に至るアジア沿岸の調査である。また私の考えは、キャプテン・クックの最後の航海で未完了であった隣接する島々、すなわち千島列島、そして蝦夷と日本の調査を完了させることでもあった。
この様にバンクーバー艦長との重複作業を避け、独自に今後の行動目的を決断した。ブロートン中佐は、補給と修理のため再度一旦ハワイに寄港し、千島列島、蝦夷や日本の調査、樺太島からアジア沿岸を調査することに決め、行動を開始した。
♦ ハワイから日本への航海と噴火湾への到着
1796年7月31日にハワイのニイハウ島を出発したプロヴィデンス号は、途中で大嵐に巻き込まれたが、とにかく日本列島の北部を目指した。
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1797年再来航時の南部岬のスケッチ。Image credit: ©
"A Voyage of Discovery to the North Pacific Ocean" by Broughton,
London, 1804. P.140とP.141間の折込図
1779年にクック船長がハワイで殺害された後も、レゾリューション号とディスカバリー号は再度ベーリング海峡に戻り、カムチャッカ半島、千島列島、日本列島の太平洋側を通過しながら測量し、海図を制作していた。クック探検隊の帰国後、クック船長亡き後の航海で副指揮官を務め天文学班の責任者だったキング大佐
〔当初、レゾリューション号の大尉〕が、本国でクック探検隊の資料発行を監修し、その集大成に貢献した。ブロートン隊も保持しているこのキング大佐監修の海図には、当時の南部藩の宮古湾への入り口の閉伊崎
〔へいざき〕を含み崖が続く重茂半島
〔おもえはんとう〕が「Cape Nambu
〔南部岬〕」として記録されていた。嵐から抜け出した1796年9月7日にブロートン中佐はこの景色を認識し、日本での自船の位置を確認したのだ
〔左図を参照〕。そこでここから北北東に進路を取り、9月11日の早朝襟裳岬を確認し、陸沿いに北西に向かった。
ブロートンの航海日誌には次のような記述がある。現在のえりも町近辺であろうか。
1796年9月12日午後、3艘のボートが船にやって来た。ボートの人たちは薄い赤銅色の肌で、黒髪で、量の多い髪の毛は後ろで短く切られていた。皆が長い髭を生やし、非常に性質のよさそうな顔つきだった。彼らは中背で、木の皮の繊維で織られた着物を着て、袖口や襟元は青いリネンで出来ていた。銀製イヤリングを付け、鞘に収めたナイフを首からかけていた。彼らは納得できる東洋風な慇懃なあいさつを終えるまで船に乗り込まなかった。彼らにこの土地は松前〔Matsumai〕と呼ばれる場所かと聞いたところ、全員が西の方を指さした。そしてその発音を理解できた限り、この土地をインス〔Insu〕と呼んでいた。1時間ほど船内にいたが、帰るときは前のように、ある距離を離れるまで慇懃に挨拶をし続けていた。
ブロートンは、ここで初めて北海道のアイヌの人たちと接触したのだ。さらに翌日の昼間、浦河町と思われる近辺から西南西に非常に目立つ崖岬
〔恵山岬〕が見えたが、現在いる地点からの連続した陸地のようには見えなかった。さらに苫小牧市南方50Kmほど沖の太平洋を更に西方に進んだ。
ブロートンの航海日誌はさらに続けて、
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噴火湾の周りの目標物と、ブロートンの記述に基づく船の位置。
(筆者の予想図であり、ブロートン図ではない)
Image credit: ©Google Earth
1796年9月15日、朝になって我々の船は広い湾内〔噴火湾・内浦湾〕にいることが分かった。火山〔北海道駒ケ岳〕が磁南から10°東に見え、明らかに島に見えるもの〔室蘭のエトモ半島の高み〕が5リーグ・24qほど離れた磁北から64°東に見え、崖になっている岬の端〔恵山岬〕が磁南から48°東に見えた。火山の北側からは煙がモクモクと噴き出していたが、その距離は我々のいる場所から3、4マイル〔おそらく「リーグ」の間違いで約17Km。〕 離れていた。西方の岸には数軒の家が散見できた。昼前に数人の現地の人たちが船を訪れた。彼らは前に〔襟裳で〕会った人たちと同じだったが、その中の何人かは支那人に似ていて、ただ頭の横の髪の毛は長く生やして後ろで結び、鬢付け油で固め、頭の上や額の毛は剃っていた〔日本人か〕。皆が煙管とタバコ入れを持っていて船の中での一服が楽しみなようだった。しかし風が出てくると彼らはすぐ退散したが、船は海の微風で湾の北岸に向って動いた。正午に 、島に見えるもの〔エトモ半島〕は磁北から87°東で、崖岬〔恵山岬〕は磁南から50°東、火山〔北海道駒ケ岳〕からほぼ4リーグ・19qほどである。・・・・北東に14マイル・22q移動して集落の向かい〔北海道伊達市向有珠町(むかいうすちょう)〕に来たが、小さい入り江〔有珠湾〕の入口には船がつながれていた。北西に岩礁が伸びていたため、10ヒロ・18mほど回り込んで避けた。
ボートを出して見たが、湾〔有珠湾〕の西側に良い停泊場所がある。4時ころ泥の溜まった7ヒロ・13mの水深のある、岸まで4分の3マイル・1200mで、広い部落〔虻田・あぶた〕のある対岸に来た。
部落から何人もの人が乗り込んで来たが、そのすぐ後から日本人が乗り込んで来て、すぐインスの友人たち〔アイヌの人たち〕を追い払った。この新しい知り合いと話をしようと思ったが、何の成果もなく、夕方彼は帰っていった。
この時乗り込んできた日本人は、「虻田場所を知行地として持つ松前藩士酒井栄である。・・・直ちに早船を仕立てて・・・松前藩家老の松前左膳広政に夷国船の漂着を知らせた。左膳が立てた早飛脚によって、この一報は旧暦八月十八日には松前城下に届いた。・・・
〔第八代松前藩主であり隠居していたが実権を持ち隠侯と呼ばれた〕松前道広は、先年ラクスマン使節に応対した経験のある藩医加藤肩吾と工藤平右衛門、米田右衛門七の3名を通弁見届としてその日のうちに送り出した。」と言う
〔「プロヴィデンス号来航異聞―蝦夷地,松前,ロシア―」、吉田俊則、富山大学人文科学研究第80号抜刷、2024年 2月、P.79〕。
ブロートンの航海日誌はさらに続けて、
1796年9月16日 、夜が明けると水汲み場所を探しにボートを送ったが、停泊場所の向かい側にあった〔板谷川(いたやがわ)〕。それを見張っていた日本人はそこは良い場所だと言った。何人かのアイヌの人たちがついてきたが、見張っている日本人はある距離以内には入れさせなかった。彼らは我々が水を汲んでいる間浜辺に敷物を敷き、我々と話をし同時に小さいパイプを出してタバコを吸った。彼らの質問は我々がいつ出発するかを知りたいようで、早く立ち退いてもらいたい様子だった。彼らは我々が村に近づこうとすると強くさえぎったが、争いを避けるため我々は村に行くことをあきらめた。
浜辺に沿って〔板谷川の〕西側に2マイル・3.2Kmほどボートを漕いだが、景色は徐々に草に覆われ、所々に木々が散在する丘になった。我々は何軒かの家があり、良い流れの川〔ホロナイ川〕に着いた。我々が上陸すると愛想の良いアイヌの人たちが座るために敷物を持ってきたが、幸運にも彼らの親切をさえぎる日本人はいなかった。この辺りの海岸は水汲みや薪取りには最適で、私は船をここに停泊しようと決め、子午線上の太陽高度を測定〔緯度を測定〕した後船に戻った。私のいない間に馬に乗り商品を持った何人もの日本人が村〔あぶた村〕に着いていたが、午後に彼らは挨拶をしながら船にやって来た。彼らは黒っぽい色合いの木綿を着て、腰の周りには絹の帯を締め、金銀で豪華に飾った2本の刀を差し、その鞘は豪華な漆塗りであった。履物はワラと木で出来ていた。彼らはまたパイプと扇子も持っていた。彼らは特に我々がどこの国から来たのか、ここには何をしに来たのかということを聞きに来たが、我々の返答を聞いて理解したように見えるや否や、支那人のように、持っている墨で直ちに書き付けた。パイプでタバコを吸い、飲み物を飲んだ後で彼らは岸に帰っていった〔これは東蝦夷地の巡視中だったと言われる松前藩家老・松前左膳広政の一行のように見えるが、筆者には未だ確証が不明である〕。
夕方に我々の近くに船が停泊したが、船にはコンブ〔fucus saccharinus〕を積んでいて、夜には出航した。
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向有珠町、虻田、豊浦町近辺のブロートンの記述に基づく船の位置
(筆者の予想図であり、ブロートン図ではない)
Image credit: ©Google Earth
9月17日 、今朝は引き網を入れたが成果はあまりなく、薪取りと水汲みをした。私は入ってくるときに見た入り江〔有珠湾〕を調べたが、内部は3ヒロ程の深さの小さい港で、入り口は水から出た岩と岩の間にあった。小型の船には便利な港で、家々に囲まれていた。大きい家には日本人が住んでいて豆や大根を作る庭畑があった。帰りに大きな村〔あぶた村〕に上陸したが、顔見知りの日本人〔松前藩士酒井栄〕に会った。彼は生活圏の近くにまで入ってきた我々を見て全く不安そうで、船に帰るように我々を強く押し返した。しかし我々は水汲み場〔板谷川〕まで歩き船に乗り込んだが、やっと安心したようだった。
9月18日、朝方水汲みに便利な場所〔ホロナイ川〕に船を移動して停泊したが、初めて数人の女性を目撃した。彼らは男性と漁をしていたが、船を漕いで助けをしていた。頭の周りで髪の毛を短く切り、口の周りに青い刺青をし、着ているものは男性とほぼ同じであった。
9月20日、朝方、湾の北西岸を調査のために出発した。3マイル・4.8Kmもボートを進めると川口にある小さな村に着いたのでしばらく岸辺を漕ぎまわった。この川〔豊浦町貫気別川(ぬきべつがわ)。ホロナイ川から3マイル・4.8Km北西。〕は北から流れてくるようで、水深や流れの速さから推し量ると、その源はかなり遠方のようである。川が曲がりくねって流れる景観はきれいな秋の様相を呈し、丘は緑の草木で覆われ、所々に小さい森もあり、ちょうどイギリスの公園のように見え、あたかも造園師の手が入ったようであった。この小さな村のアイヌの人たちは我々を愛想よく迎えてくれたが、耕作をやっている様子は全くなかった。
午後には強くなった南東の風に逆らって船に帰り着いたが、時としてうねりも強くなり、夜はさらに強くなった。
♦ 松前藩医・加藤肩吾一行の訪問
ここに思いがけない日本人の一行がやって来た。隠侯・松前道弘が派遣した通弁見届けの松前藩医・加藤肩吾の一行である。ブロートンは続けて記述している。
9月25日、
航海長が、船と明らかに島と思われる場所〔エトモ半島〕の間を調査するため送り出された。
朝方、他日会った日本人より良い服装で態度も上品な日本人〔松前藩医・加藤肩吾〕一行が船を訪れてきた〔前述の松前藩士酒井栄が早舟で松前藩家老・松前左膳広政に夷国船の漂着を知らせてから10日後になる〕。彼らの社会を知る楽しみだけでなく良い情報も手に入った。明らかにロシアで造られたと思える世界地図を見せてくれ、各国の武器を描いた本も見せてくれたが、すぐ彼らが我々の出身国だと思う英国の武器をも指さした。彼らはロシアのアルファベットも持っていて、私の理解では、中の一人〔松前藩医・加藤肩吾〕がピータースバーグに行ったことがあると思えた。この船にロシア出身の船乗りがいるが、彼がロシア語で話をした。日本人は日本北部の島の大きな地図〔加藤肩吾の作成した北海道・樺太図か〕を見せ、私がコピーすることを許してくれ、明日には自分たちで写した地図を持ってくると約束した。お互いに話したのち、彼らは岸に帰っていった。
航海長が返ってきたが湾内の北東の入り口の角に良い港を発見していて、その明らかに島と思われていた場所は、半島だったと報告してくれた〔白鳥湾・室蘭港内の室蘭製鉄所から東側の鷲別漁港辺りにかけて土地が低いから、噴火湾に入る海側からはエトモ半島は島のように見えたのであろう〕。
9月26日、良い天気が続いたので岸から必要なもの全てを入手でき、出航の準備が整った。夕食には日本の友人たち〔加藤肩吾一行〕も加わり、私に彼らが複写した地図をくれた。そのお返しに私はキャプテン・クックの世界地図を贈ったが、非常に喜ばれた。日本人は見るもの全てに意見を述べ、よく分からないものは直ちに墨で図を描いた。彼らは我々が近々出発する意向であることを知り、非常に安心したようであった。
今日、天測担当者は時間計測の調節用の観測を行い、船の出航が全て整った。
松前藩の派遣した加藤肩吾をはじめとする通弁見届の3名は、プロヴィデンス号の上で松前藩医・加藤肩吾の作った北海道の地図とキャプテン・クックの世界地図を交換した。ブロートンの記述から見ると、秘密裏の交換ではなかった印象を受ける。すでにロシア製の世界地図を入手していた加藤肩吾ではあったが、外国人をより警戒しだした幕府方針に対する加藤肩吾の気持ちを知りたいものである。
♦ エトモ・室蘭港へ移動
あぶた村やホロナイ川の近辺で補充を済ませたプロヴィデンス号は、エトモの調査に向かった。ブロートンの記述は更に続く。
9月28日、夜が明け出航したが、海風に乗り南東方向に船を進めた。正午の緯度は北緯42°18’20”で、目印の港〔室蘭港〕の南方側〔エトモ岬〕が磁北から89°東、4リーグ・19.3qにあり、南方火山〔北海道駒ケ岳〕は磁南から2°西、北方火山〔徳舜瞥山(とくしゅんべつやま)、標高1.3km。登山者によれば、コルからでも有珠山の左に噴火湾の水面が広くよく見える。〕は磁北から50°東である〔”北方火山”を有珠山と推定すれば、磁北から25°東になり北により過ぎる。従って、徳舜瞥山と推定した〕。暗くなる前に港の入り口からほぼ2マイル・3.2Km離れた11ヒロの泥底の場所に停泊した。この海〔の入り口〕は磁南から22°東から磁南から27°東まで開いており、南の火山は磁南から25°西、磁南から37°東には村がある小さな島〔大黒島〕があり、港の先端は北岸から1マイル・1.6Kmの東南東にある。一晩中強風が南東から吹いていた。
9月29日、私は港を調査した。ここはあらゆる方向の風から良い避難場所になり、地峡の端の部分(入港時の右舷にあたる)の断崖を北西に向けている。ここで我々は4、5ヒロの水深を見つけたが、更に北側の左舷の入港地点は断崖の上にあたる。港に向かって進む際には、右舷の入口を小島の半マイル以内(半潮のときのみ)程度に開けておき、その後は水が浅くなる南西に舵を取り、希望する場所に停泊すること。測深は10ヒロから2ヒロへと徐々に浅くなり、底は軟らかくなる。港の南側は数軒の家が点在し、入り口の水際に向かって岸は低く平坦になり、100ヤード・91m以内にボートを着岸させることはできない。それ以外の場所では、木と水は極めて容易に入手できる。
1796年9月30日 、今朝、船員のハンス・オルソンが死亡した。彼はデンマーク生まれで、不幸にも倒木の下敷きになっての死亡である。数日間苦しみに耐えた後、深い悲しみになり、私たちは非常に勤勉で素行の良い男を失うという不幸に見舞われた。彼は小さな島に埋葬された。このため、私はその島〔大黒島〕に彼の名前をつけた。
この港は地元の人々からエンデルモ〔Endermo、エトモ〕と呼ばれている。噴火湾の北東端に位置し、島のように見える広大な円形の半島によって形成されている。・・・
この広大な湾〔噴火湾〕への入り口は陸地で、原住民がエンデルモ〔Endermo、エトモ〕と呼ぶ港と、エサルミ〔Esarmi〕と呼ぶ南側の入り口で形成されている。両者は磁北より西17°と磁南より東17度で11リーグ・53Km離れている。湾内には少なくとも3つの火山〔北海道駒ケ岳、有珠山、徳舜瞥山、あるいは恵山〕があり、それが私がこの〔噴火湾と言う〕名前で呼ぶ理由である。・・・
原住民は北緯43度50分の島〔エトロフ島を指す〕を探検したロシア人のシュパンバーグの記述の通りだった。男は総じて背が低く、脚は外側に曲がり、腕は体に比べてかなり短かった。あごひげは濃く大きく、顔の大部分を覆い、カールしていた。頭髪は非常にふさふさしており、額と耳の下は短く刈り込まれていた。耳の後ろは真っ直ぐに刈り込まれていた。彼らの体はほとんど例外なく長く黒い毛で覆われており、幼い子供たちの中にも同じような容貌の者が見られた。女たちは頭の周りの髪を短く刈り込んでいたが、男たちよりずっと長く、手の甲と額、そして口の周りに入れ墨が入っていた。首にはひも状につないだガラスのビーズをかけ、その他の装飾品も身につけていた。男たちの服装はシナノキの樹皮から作られたゆったりとしたガウンで、膝まであり、腰のあたりでベルトで締められていた。ベルトにはタバコ入れ、パイプ、ナイフを付けていた。彼らの中には銀の耳輪をはめ、ビーズを下げている者もいた。彼らは寒い季節にのみ衣服を着用し、都合に合わせて脱いだり着たりしている。暑い季節には、腰に麻布を一枚巻くだけである。女性の衣服は男性のものとほとんど変わらないが、ガウンが脚の中ほどまである。中にはアザラシや鹿の皮で作られ、青い布切れで飾られたものもあった。女性たちの顔立ちは魅力的だったが、髪の切り方によってかなり醜く見えた。彼女たちの振る舞いは慎ましく、控えめで、女性らしくみえた。子供たちは完全に裸だった。男性たちは非常に慎ましい態度で私たちに挨拶し、足を組んで座り、手を伸ばして髭を撫で、地面につくほどのお辞儀をした。
ブロートンは さらに続けて、アイヌの家や食物、子熊やタカを飼っている様子、漁業は取引するほどはなく、山ブドウやエゾネギはたくさんあり、またボートやカイや網について記述し、釣り針やモリは日本人から買っていること。海藻は干して日本人に売っているとも記述している。さらに、アイヌの人たちは最も無害で平和な人種であり、残念ながら欲しいと思った彼らの習慣や作法に関する情報は、常に日本人の見張りが妨害し、得ることができなかった。アイヌの人たちはゆっくりと内気に話し、言葉の中には多くの日本語が混じっていた。日本人の家の畑には十分な野菜が育っていたが、アイヌの人たちの食糧事情は貧しいのにほとんど耕作をしないことは不可解だった。その他野生動物や鳥、魚などにも言及している。
ここでブロートン隊はデンマーク生まれの船員、ハンス・オルソンを亡くした。不幸にも倒木の下敷きになるという事故だったが、非常に勤勉で素行の良い船員であった。ブロートンは港の入り口にある大黒島に埋葬し、島にはオルソンの名前を付けた。今は大黒島にその慰霊碑があると言う。
♦ 千島列島を目指す
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ブロートンの調査した千島の島々
Image credit: ©Google Earth
ブロートンは、噴火湾の入り口の南側、エサルメ地点〔Point Esarme〕を目指したが暗くなりエサルメの目標物が見えなくなったので目的を変え、蝦夷地〔Insu〕の北部を目指すことにした。この地域から北の千島列島は、古くは1643(寛永20)年のオランダのフリース探検隊に始まり、ロシアが派遣したシュパンベルグ隊による1738(元文3)年、1739(元文4)年、1742(寛保2)年の調査・探検があったが、霧が深く天候の安定しない千島は依然として不明瞭な地域が多かった。北東に進路を取り、色丹島と思しき島に寄り、国後島とエトロフ島の間を北上し、千島列島の西側を北上しながら探索し、昔1643年、オランダのデ・フリース探検隊(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)が思っていたような大きな島は千島列島の西側にはないことを確認した。途中、丸い小さな特徴のある島〔計吐夷(ケトイ)島〕に達し、更にマリキャン島〔Marikan=新知島(シムシル)〕と思しき島を見た。ブロートンは次のように記している。
10月16日-17日 1時30分、マリキャン島〔Marikan=新知島(シムシル)〕の南南西2マイルに小さな開口部が現れ、水深は55ヒロだった。これはキャプテン・クックがマリキャン島の北東側にあると記した入り江の港で、ロシア人が北緯47.5度に居住地があるとされる場所だと推測したので私たちは停船し、ボートを岸に送った。・・・翌朝7時30分にボートが戻ってくるのを見ることができ、皆で喜んだ。
10月18日 午前9時、私は船の揺れで後甲板に転落し、不運な事に右腕の肘の上を骨折した。・・・冬が始まったので、私たちは可能であれば千島列島の東側を探検するつもりで南へ向かった。・・・ボートで探検した士官は、マリキャン島の港は入り口に水深 2ヒロ以下の砂州があり、小型船にしか適していないが、砂州の内側には通常計測で5ヒロから7ヒロの深さがある広々とした海盆が形成されていると報告してきた。
ロシア人の居住地は放棄されていたが、あちこちに十字架が立てられ、ロシアの紋章が彫刻され、彩色されていた。原住民は噴火湾の住民と似ていたが、明らかに異なる言語を話していた。彼らは熊皮をまとい、ロシア製の靴を履き、頭には木綿のハンカチを巻いていた。これらの人々は、以前インス〔Insu=蝦夷地・北海道〕で観察した人々と同様に、物腰は穏やかで、外見上は生活様式や住居の造りにおいて、極めて貧しい様相を呈していた。・・・
明確にしておきたいことは、我々は噴火湾からインス島あるいは蝦夷島〔Jesso=北海道〕の北東端まで辿り、北緯41度49分から44度30分まで、また東経140度30分から東経146度22分にまでわたる、南東海岸100リーグ・480Kmの範囲にも及ぶ、昔は一つの島と考えられていた地点までたどったということである。これは、デ・フリース〔1643(寛永20)年に来たオランダの探検家〕が我々と同じ状況で南東端付近で上陸したと仮定すれば、彼の航海の記録と非常によく一致する。キング船長は、クックの第三次航海377ページの注釈で、〔1738年のロシアの〕シュパンベルグ船長(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)の発見により、この部分には松前島、国後島、ゼラニー島が存在すると述べており、デ・フリースがそれを一つの島と考えた誤りは、おそらく霧の多い天候によるものだと述べている。私は違う意見である。なぜなら、北緯 43° 50'、東経 146° 50' の島にたどり着くまで、私たちはそれなりの大きさの島を目にしなかったからである。その島は、シュパンベルグが水を補給した島と同じ島であると思われ、クックの航海ではナディーグスダ島〔Nadeegsda〕と呼ばれている。
10月12日、我々は北緯46度1分、東経148度45分の地点にいた。これはほぼデ・フリース海峡の位置である。我々は北の島はデ・フリースが「会社の領土〔the Company's land〕」と呼ぶ場所で、南の島をスターテン島〔Staten Island、国家の領土〕と推測した。スターテン島は上記の航海記と海図ではナディーグスダ島〔Nadeegsda〕と名付けられている。キング大佐は会社の領土をウーループ〔Ooroop、ウルップ島〕とロシア語のナディーグスダ島と推測している。この島の周りを航行したところ、ウーループ〔Ooroop〕である可能性が高く、そこには良港があると言われている。そしてスターテン島は、ロシアのナディーグスダではないかと私は想像する。マルカン島〔Marukan=Marikan〕を出港後、我々は猛烈な暴風に遭遇したため、これらの島の東側を調査し、私が予定していたインス島〔Insu、蝦夷=北海道〕と日本を隔てる海峡を通過することができなかった。
このようにブロートン中佐は、10月18日に船の揺れで後甲板に転落し右腕の肘の上を骨折してしまった。更に天候が許せばここから津軽海峡を越えて西に向かい、日本海や間宮海峡に進みたかったようである。
♦ 残りの予定を断念し、日本列島沿いを南下する
10月31日、11時。西と北西から再び強風が吹き始め、日本と松前を隔てる海峡を抜けられる望みはなくなった。また、季節が経過しているため、これ以上粘り強く航海しても成功しない可能性が非常に高かった。加えて、腕を骨折しているための制約があり、たとえ成功したとしても満足のいく結果は得られないだろう。そこで、私は今年の計画を断念した。日本沿岸を目指す進路を取り、ホワイト・ポイント付近〔屛風ヶ浦の崖:千葉県銚子市犬吠埼から西に約10km続く高さ40mの崖。上土層や関東ローム層の下の所々に白い地層が露出する。〕で陸に近づき、天候が許す限り南の海岸線に沿って航路を進むことにした。
1796年11月11日、穏やかなそよ風と非常に良い天気。南から西の間にいくつかの島〔三宅島、神津島、新島、利島、大島など〕が見え、午後5時には磁北から30°西、6マイル・10Kmにある南端〔野島崎〕に並んだ。この地点は江戸湾の東側の入り口となっている。外側の島〔三宅島〕は磁南から20°西で10〜12リーグ・58Km離れていた〔野島崎からは御蔵島や八丈島も見えると聞くが、ブロートンの目測距離と方角から三宅島と推定〕。午後には多くの漁船が私たちのところにやってきた。それらは長さ36フィート・11m、幅5フィート・1.5m、深さ2フィート・60cmで、樫、ニレ、モミ材で非常に丁寧に造られており、船首は非常に尖っていて、船尾は船体側面の延長となり、実際の船尾よりも突き出ていた。魚を入れるための別の底があり、あらゆる点で非常に巧妙に造られていた。操舵は支那方式で、各船には正方形の木綿製の帆を掲げたマストが1本ずつ付いていた。彼らは私たちに魚を惜しみなく分けてくれたが、見返りを期待している様子はなかった。好奇心を満たした後、私たちは互いに楽しませ合いながら別れた。それぞれのボートには12人の男が乗っていて、オールの代わりに櫓を使っていた。
この様に、ブロートン中佐の指揮するプロヴィデンス号は日本の南岸を通過し、1796年12月にマカオに着いた。
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