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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ラ・ペルーズ探検隊と洋式和船・三国丸の出会い
 (典拠:"A Voyage Round the World, in the years 1785, 1786, 1787, and 1788", by J. F. G. De La Perouse: edited by M. L. A. Milet-Mureau. (Translated from French), Vol. 1, 2, 3, London: Printed for J. Johnson, St. Paul’s Church Yard. 1799.
"Secret Memoirs of the Shoguns. Isaac Titsingh and Japan, 1779-1822". Annotated and introduced by Timon Screech. Published by Routledge, New York. 2006.

18世紀の後半、長崎で就航した洋式和船の三国丸(さんごくまる)が、偶然にもフランスの派遣したラ・ぺルーズ探検隊と日本海ですれ違った。この三国丸の建造にはオランダも深く関わっていたが、当時の史料を通じ、日本とオランダ、フランスの三ヵ国の邂逅を書いてみたい。


1、フランスが派遣したラ・ぺルーズ探検隊

 ラ・ぺルーズ海軍大佐

1776年7月4日に独立宣言を出しイギリスとの独立戦争を戦っているアメリカ合衆国とフランスの間に、1778年2月6日、防衛同盟「仏米同盟条約」が結ばれ、ルイ16世が正式にフランスの参戦を宣言した。こんな経緯でフランスからアメリカにとり必要だった武器、弾薬などの援助も得てイギリスとの独立戦争に勝利したアメリカ合衆国は、1783年9月3日、アメリカとイギリス間の「パリ条約」の締結で1775年4月以来続いた敵対関係を終えることになった。

1778年にこのフランスとイギリスの戦争が始まると、フランス海軍のラ・ペルーズ大尉(当時)は就航したばかりの大砲32門を装備し船底銅板張りで高速帆走ができるアマゾン号の艦長に任命された。そして1779年10月7日にイギリス軍艦エアリアル号をサウス・カロライナ州チャールストン沖で捕獲し、またカナダのノバスコシア州ケープ・ブレトン島沖でイギリス軍艦に護衛される18艘の輸送船隊を発見して攻撃し、イギリス護衛軍艦ジャック号と3艘の商船を捕獲し、更に1782年8月8日、イギリス領のハドソン湾に侵入し、イギリスの毛皮交易会社・ハドソン湾会社に所属しカナダのマニトバ州にあるプリンス・オブ・ウェールズ砦とヨーク交易所を攻撃したりと、数々の功績をあげた。
アメリカ独立戦争に決着がつき平和になると、イギリスのキャプテン・クックの世界探検と多くの新発見に触発され、常に対抗意識を燃やすフランスは独自に世界探検隊を派遣する決定をし、ラ・ぺルーズ海軍大佐を探検隊の司令官に任命した。

 フランス国王ルイ16世の探検航海命令書

司令官・ラ・ぺルーズ大佐に宛てた遠征に関する特別命令は、下記のごとく詳細に指示されている。  

《ブッソール号とアストロラブ号指揮のラ・ぺルーズ海軍大佐宛て特別命令(1785年6月26日)》

国王は、ラ・ペルーズ大佐指揮のフリゲート艦ブッソール号とド・ラングル大佐指揮のアストロラブ号に対し、ブレスト港に於て探検航海のための準備を命じてあり、国王が大佐の管理下に委託したこの重要な探検航海中に遂行すべき任務は、ここに、国王がこの2艘の軍艦の総司令官に任じたラ・ぺルース大佐に指示される。
国王がこの航海遂行に当たり考慮する幾つかの目的があるが、国王の個々に意図する点がラ・ペルーズ大佐の注意を必要とするため、夫々が明確に伝わるよう、幾つかの事項に分けて明示する事が不可避である。

第1点は、完全を期すことが意図されているこの探検命令に従った探検ルート、即ちこの探検航海計画である。更にそれに加え、地理学的かつ歴史的記述の幾つもの修正が必要となろうが、各種疑問に対しその解明に努力する事。
第2点は、政策と通商に関する目的を論じる。
第3点は、この探検中の天文学、地理学、航海術、物理学、各分野の博物学、等の運用が説明され、また天文学者、物理学者、博物学者、科学者、探検隊参加の地図製作・スケッチ画家、等の作業規則が説明される。
第4点は、ラ・ペルーズ大佐に、将来発見したり訪れたりする各地方の未開人や現地人に対し遂行すべき振舞いが説明される。
第5点は、最後に、隊員の健康保持に関し、用心深い取扱いが要求される。
以上の様に記述され、各項目の詳細が記述されている。

 探検隊の出発と航路

ラ・ペルーズ大佐指揮の探検隊はブッソール号とアストロラブ号に乗り組み、フランス西部のブルターニュ半島西端にある港湾・ブレストを1785年8月1日に出港し、命令書に従い大西洋で数か所の調査をし、南アメリカ大陸南端のケープ・ホーンを回り太平洋に入った。指令書の通りチリのコンセプション湾に寄港して補給した後北西に航路をとった探検隊は、ハワイに向かい、マウイ島東南端のラ・ペルーズ湾に上陸し調査した。その後北上し大きな目印になるアラスカの5千メートル級のセント・イライアス山を目指し、そこからアメリカ大陸の西岸を南下しながら調査し、サン・フランシスコ湾の南のモントレー湾まで調査した。この地域はスペイン支配下のメキシコには古くから比較的よく知られた地域であったがキャプテン・クックの航海でも調査されていなかったから、ラ・ペルーズ大佐への指令書に調査が指示されていた。
ここまではほぼ指令書に従った航路をとったが、モントレー湾以降の指令書で指示された航路はアラスカのアリューシャン列島経由カムチャッカ半島に至り、日本の太平洋側の調査であった。しかし、探検隊は補給のためかそのまま太平洋を横断し、先ずマカオに至った。 マカオから出港後ルソン島のマニラに寄港して補給し、台湾南部を調査し、対馬海峡から日本海に入った。

 日本周辺とタターリ沿岸調査

特に日本周辺の探査に対するラ・ぺルーズ海軍大佐宛て特別命令は次のようなものである。  

注意深く朝鮮の西海岸を探査し、黄海の湾岸を南西風や南風から朝鮮の南海岸に避難できる範囲で調査すること。
その後、このタターリの半島〔筆者注:朝鮮半島〕で真珠貝の養殖が行われている東海岸を調査し、その反対側にある日本の沿岸も調査すること。これら全ての沿岸はヨーロッパにとって未知の地域である。
テッソイ海峡〔筆者注:strait of Tessoy = strait of Tartary = 間宮海峡〕に入り、蝦夷と呼ばれる島〔筆者注:Jesso、樺太を指す〕及びオランダが国家の島〔筆者注:Staten Land、エトロフ島を指す〕と命名した島とロシアがナジェズダ島〔筆者注:Nadezda Island、シムシル(新知)島か〕と命名した島とを調査すること。これらの島は現在、オランダ東インド会社がその昔解明探査に困難をきたし未解明であったため、情報が混乱している場所である。〔これに関しては、オランダ、フリース艦隊の蝦夷地探検と金銀島発見の航海筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)を参照。〕
そんな千島列島について、引き続く11月中に調査できなければ、アバチャ〔筆者注:ペトロパブロフスク〕からマカオに航海する時に調査できるであろう。
こんな命令書に従ってラ・ペルーズ探検隊は対馬海峡から日本海に入り、朝鮮半島の南東岸、能登半島の北部などを測量後ロシア沿海州沿岸を測量しながら北上し、タタール海峡〔筆者注:間宮海峡〕に入り最も幅の狭まった近辺まで測量した。この海峡の最峡部は水深が浅くそれ以北への通過が困難であったため、そこから樺太の西沿岸を測量しながら南下し、ラ・ペルーズ海峡〔筆者注:宗谷海峡〕を東へ抜けたが、この海峡の発見者として名が残ることになった。〔これに関しては、フリース艦隊、西方のタターリ海岸を目指す筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)を参照。〕更に東へ向かい、千島列島のウルップ島〔筆者注:その昔オランダのフリース探検隊が「会社の島・Compagnie Landt」と命名〕とその北のシムシル島付近を測量し、カムチャッカ半島のペテロパブロフスク(アバチャ)に入港し補給をした。

 ラ・ペルーズ探検隊の唯一の生存者・レセップス

ここペテロパブロフスクでラ・ペルーズ大佐は、ロシア語通訳として乗り組んでいたジャン・レセップスにそれまでの航海日記や航海記録を託し、直接本国に送ることにした。常に危険と向き合う海洋探検で、陸続きでフランスに帰国できる最後の地のカムチャッカ半島・ペテロパブロフスクから、危険分散のため、それまで蓄積した探検・観測データを本国に届けようとする意図である。ラ・ペルーズの航海日記には 

オホーツク州知事・カスロフ氏に、隠すことなく我々の航海につき少々話し、ホーン岬を回り、アメリカ北西海岸に行き、支那やフィリピンに立ち寄り、そこからカムチャッカに来たのだと伝えた。それ以上の詳細については触れなかったが、若し我々の発見が政府により発表される事になれば、その最初のコピーは必ず手元に送ると約束した。既に私は、我が若手の翻訳官・レセップス氏に私の航海日記を託し、フランスまで届けるべく派遣する許可をカスロフ氏から得ていた。カスロフ氏とロシア政府に関する私の信頼感は高く、ロシアの郵便局に私の小包を託す場合のいかなる不安も抱かなかったが、レセップス氏に、おそらく近い将来セント・ピーターズバーグ の総領事として彼の父親の跡を継ぐであろうから、彼にロシア帝国の各地方の個人的な観察の機会を与え、我が国に尽くそうと思った。カスロフ氏は親切にも、レセップスを彼の助手としてオホーツクまで同伴し、それ以遠のセント・ピーターズバーグ まで行く旅の手はずを整えてやるが、今からレセップスを自分の身内同様に扱おうと言ってくれた。
と書いている。この様にロシアのオホーツク州知事・カスロフの親切な協力があったのだ。


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カムチャッカ半島のペテロパブロフスクからオホーツクに出て、ロシア西部
のセント・ピーターズバーグ 経由フランスのパリまでのレセップス旅行経路

Image credit: © Google Earth
カムチャッカ半島のペテロパブロフスクでラ・ペルーズ大佐指揮のフリゲート艦ブッソール号とド・ラングル大佐指揮のアストロラブ号で構成する探検隊と別れ下船したレセップスは、パリに向けカスロフと行動を共にしてオホーツクまで行き、ここで別れたレセップスは、ロシア大陸の東端から西端に向け横断し更にパリまで行く、全行程1万3千km以上もの旅をすることになった。

この背景には、ラ・ペルーズ隊がカムチャッカ半島のペテロパブロフスクに入港した時、ラ・ペルーズ大佐に宛てフランス本国から、
イギリスがオーストラリアのボタニー湾〔筆者注:現在のシドニー国際空港のある湾〕に入植地を築いているようだから急行し調査せよ。
という命令書が届いていた。そこでラ・ペルーズ探検隊はカムチャッカ半島のペテロパブロフスクから一挙に南下して赤道を超え、ポリネシアのクック諸島、トンガ、ノーフォーク島近辺を経由し、オーストラリアのボタニー湾に向うことになる。
探検隊は9月30日にオーストラリアに向けペテロパブロフスクを出港したが、これはレセップスにとり涙の別れであり、かつ永遠の別れになった。それは、オーストラリアのボタニー湾で調査を済ませたラ・ペルーズ探検隊はその後忽然と消息を絶ち、ブッソール号とアストロラブ号はサンタクルーズ諸島のヴァニコロ島のサンゴ礁で座礁したとみられ、その後の調査で難破船の残骸が発見されている。

翻訳官・レセップスはカスロフ知事とともにオホーツクに向け1787年10月7日ペテロパブロフスクを出発した。途中当時カムチャッカ半島の中心の村・ニジニ〔筆者注:Nijenei-Kamtschatka、現在のウスチ・カムチャツクと思われる、この河口は、1728年のロシアのヴィトゥス・ベーリング探検隊の造船基地にもなった〕でアリューシャン列島に漂着し、ロシア人に救助され、この村に滞在していた大黒屋光太夫他9人に会った。レセップスは自身の旅行記に、
ニジニ村で最も興味があり沈黙してやり過ごせないことは、そこで9人の日本人を見つけたことである。彼らは去年の夏ここにアリューシャン列島から、ラッコの毛皮を集めていたロシアの船で連れてこられたのだ。1人の日本人が私に言うには、彼と仲間たちが自国の船に乗り、千島列島の南側の島に島民たちと商売をしようとやってきて、・・・暴風に吹き流され漂流し、アリューシャン列島に漂着した。
と書いている。日本側の記録である桂川甫周の『北槎聞略』によれば、神昌丸が漂流を始めたのは駿河沖であるが、レセップスは千島列島と理解したのだ。しかし細部はとにかく、このカムチャッカ半島における大黒屋光太夫とレセップスの邂逅は歴史的な出来事であるが、漂流・救助の後4年程も経った頃の大黒屋光太夫は、フランス人のレセップスとロシア語で会話ができるほどになっていたわけである。
その後もレセップスは旅を続け、様々な困難の後に翌年9月22日にやっとロシアのセント・ピーターズバーグ 〔筆者注:当時、ロシア帝国の首都〕に入った。更に進んで10月17日パリのベルサイユ宮殿に到着したが、丸1年をかけたロシア大陸横断の旅であった。レセップスに託されたカムチャッカ半島までのラ・ペルーズ゙の航海日記や測量データ、スケッチ画、重要地点での船からの目測画などの資料は無事にフランス政府の手に入ったのである。レセップスはラ・ペルーズ探検隊唯一の生き残り隊員である。

 ラ・ペルーズ探検隊が来た後でも北海道の西半分は不明だった


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1797年でも点線表示の北海道西海岸

Image credit: © "La Perouse's Voyage Around the World /
Published in accordance with the decree of April 22, 1791,
and written by L.A. Milet Mureau." Paris: Printing House of
the Republic.

前述したごとく、ラ・ペルーズ探検隊への日本周辺の探査に対する特別命令の中で、日本沿岸に関する指示は次のようなものである。

その後、このタターリの半島〔筆者注:朝鮮半島〕で真珠貝の養殖が行われている東海岸を調査し、その反対側にある日本の沿岸も調査すること。これら全ての沿岸はヨーロッパにとって未知の地域である。
ここでしかしラ・ペルーズ探検隊は、日本海に入り日本の船とすれちがった後に能登半島に接近して測量したが、そこから急遽北上し、ロシアの沿海州沿いの東海岸を細かく測量しながら北上して間宮海峡に入り、樺太西岸を測量しながら南下し、宗谷海峡を東に抜けているから、北海道の松前近辺や渡島半島の西岸から宗谷岬までは測量が完全にぬけてしまったわけである。
右の図は1797年にフランスで発行されたラ・ペルーズ探検隊の航路を示す地図であるが、北海道の西半分が地形や位置不明で点線表示されている。

日本ではこの3年後の1800(寛政12)年6月、伊能忠敬が江戸を出発し6か月以上もかけて蝦夷地実測を行い、その往復の関東北部と東北地方の測量で念願の子午線上の緯度1度に相当する距離、すなわち子午線弧長も算出できた。その後も意欲的に日本全国を測量し作図を続けたが、いまだ日本国全図が未完成だった1818(文政元)年の伊能忠敬の死後は、書物奉行兼天文方筆頭・高橋景保が中心になり1821(文政4)年に伊能図すなわち「大日本沿海輿地全図」が完成した。この完成図は幕府に提出されたが、幕府の方針で広く公開されることはなかった。しかし歴史的に「シーボルト事件」として知られる1828(文政11)年の事件でシーボルトは、天文方筆頭・高橋景保から伊能図の写しを入手し、「このときシーボルトは、これを密かに写しとって持ち帰り、・・・ 1840年にオランダのライデンで刊行」したのである。〔筆者注:「シーボルトが手に入れた日本図と日本の地理情報」、青山宏夫、「地図」VoL.56 No.1 2018、P. 24〕
以降のヨーロッパでは、北海道も含めたこの日本のより正確な地図が広く知られることになった。 後にペリー提督が日本に来た時もこのシーボルトが写した日本地図を持ってきたが、第2回目の来航の1854(安政元)年にマセドニアン号が江戸湾に入る直前に城ヶ島の手前で座礁した。『ペリー提督遠征記』には、
マセドニアン号は岸に近づきすぎたので、この日本帝国の地図には勿論載っていない水中の岩角に座礁した。その地図はシーボルトの地図の写しで、シーボルトが日本の地図から写したものであるが、艦隊が最初に江戸湾に入ったとき幾つかの注意書きが記載されたものである。
この様に伊能図はそれまでになかった正確な日本地図であり、ペリー艦隊も参考にしたものである。しかし海中の隠れ岩礁までは勿論記載があるはずはないから、ペリー提督もそれは良く分かっていたのである。


2、徳川幕府の西洋式和船建造の試み

  ラ・ペルーズ探検隊が出会った特別仕立の日本船


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能登半島の沖で出会ったユニークな日本船

Image credit: © "La Perouse's Voyage Around the World /
Published in accordance with the decree of April 22, 1791,
and written by L.A. Milet Mureau." Paris: Printing House of
the Republic.

時間が少し戻ることになるが、1787(天明7)年、ラ・ペルーズ探検隊が対馬海峡から日本海に入ると日本船に出会った。ラ・ペルーズの航海日誌には次のように記録されている。

6月2日、船の航海記録によれば北緯37度38分、東経132度10分〔筆者注:この経度はパリ子午線の数値。輪島市の西210q。現在のグリニッジ子午線で東経134度34分。パリ子午線はセーヌ川北岸のかつての王宮・盛り場・パレロワイヤルを通る。〕の位置で2艘の日本船を発見したが、その内の1艘は声を掛けられるくらいの近くを通過した。その船にはフランスの僧が着るような作りの青いハッピを着た20人が乗り組んでいた。この船はおよそ100トン程の船で、中央に1本だけ高い帆柱を立てていたが、銅輪や索具でまとめて小さい帆柱の役目もしているように見えた。その帆は布製で横の縫い目はなく、縦にひもが通っている。この帆は見た目には非常に大きく、他に2枚の三角帆と斜桁帆が付き、一揃いになっていた。幅3フィートの小さい中二階が船の両側に突き出し、船べりに沿って船尾から前方へ船の長さの約3分の2位まで舷縁がせり上がっていた。船首に木材が置かれ、前方に伸び、緑色に塗られていた〔筆者注:斜檣・バウスプリットを指す〕。船首にボートが船腹から7、8フィートせり出して斜めに置かれ、その他には、船体に通常の舷弧のある、すなわち反った甲板があり、2つの小さい窓がある平らな船尾楼があり、飾りは少なく、どこから見てもロープで編んだハシゴの形以外に支那のジャンクを思わせるようなものは何もなかった。船の舷側船尾楼は水面上2、3フィートの高さがあるだけで、積んでいるボートのはみ出した先端は船体がロールすると水に接触する。こんな状況から考えると、この日本船は岸から遠く離れて航行するものではなく、突風の中の荒れる海を航海するには安全ではない。従って嵐の中を突っ切るように造られた冬用の船を持っているのだろう。我々はこの船の個々の乗組員の表情さえ分かるほどすぐ近くを通ったが、彼らが恐れる様子は全くなく、驚きの表情を表すわけでもなく、多分衝突しないようにその進路をアストロラブ号からピストルの弾が届くほどの所に変えたのみだった。船には小型の日本の白い旗を掲げていたが、縦に文字が書かれていた。船の名前は旗の横にある樽のようなものに書かれていた。すれ違いにアストロラブ号から声をかけたが、彼らの答えは私たちには理解できず、彼らも私たちの質問を理解しなかった。そして疑いもなく、ヨーロッパの船など見たこともなかった海上で2艘の外国船とすれちがったことを注進するため、懸命に南に向かって進んで行った。
と、この和船・三国丸の構造の細部まで細かく記録している。

ラ・ペルーズ探検隊が記録したこの船は明らかに甲板を持ち、船首に三角のジブ帆と斜桁帆まで備えた日本の船で、当時こんな構造の船はかってなかった。しかし当時、江戸や大阪から長崎へ運ばれる輸出用の棹銅や米を積んだ伝統的な和船が頻繁に沈没する事故が多く、もっと安全な洋式帆船を造ろうとした試みがあったのである。

  商館長・ティチングが秘密に報告した幕府の洋式船造船計画

イサーク・ティチングの第2回目の出島商館長時代〔筆者注:1781年11月24日 - 1783年10月26日〕にティチングが書いた、オランダ東インド会社総督、ウィレム・アーノルド・アルティング(Willem A. Alting)に宛てた秘密日誌書翰がある。この秘密書翰の1782(天明2)年12月17日の項に、

この同じ時期〔筆者注:12月10日〜17日〕に、勘定奉行の意向だと言って大通詞の吉雄幸作が来て、日本人にオランダ船の造船技術や航海術を教えるため、私〔筆者注:ティチング〕が船大工、操舵手、甲板長などを派遣する様に提案して来た。私は彼に、オランダ船が入港して来ないのは我が国が大戦に巻き込まれた証拠であり、従ってオランダや東インド中の船大工全員が軍艦の建造に動員されているのでこの要求に応ずることは出来ない。しかし将軍のご要望は有難く思う。若し将軍がお望みなら、私は次の交易船入港時に、必要な能力があり造船を教える事が出来る日本人100人をバタビヤに送り、東インド政府首脳が彼らをそこの我が造船所に配置し、造船に関するあらゆることを教え、彼らが熟練した時に日本に送り返せるようにすることを約束できる、と伝えた。私は1635年の将軍・吉宗の禁令〔筆者注:吉宗は家光の誤り。寛永12年外国渡航禁止令を指す〕は良く知っているが、当時の諸問題とカトリック拡散の恐れがこの原因であり、以降日本人の文化は開け、この帝国は長く平和が続いているので今は外国渡航を恐れるのではなく、法を維持する時は常にその利益と不利益を考えるべきである。吉雄幸作は退出に当たり、私の提案をこの通り報告すると約束した。
また1783(天明3)年10月12日の項に、
交代で帰京する奉行〔筆者注:久世廣民〕が日本人が造ったトロンペンバーグ号(Trompenburg)型の船の雛形を送って来て、帆装やその他の艤装で欠けている点を追加して貰いたいと要望して来た。そして更に、来年には水密型の上部構造がある船の雛形と、出来れば有能な船大工を是非送る様に、と言って来た。私は奉行に、2つの要望を東インド政府首脳に伝えることを約束した。
この理由は、日本人はその船を造るのに木材で軽装に仕上げ、鉄の部分が少なく、そのため強風下では多くが分解しやすい。その上、大阪から銅を運搬して来る船は大きい積荷を積んでいるから、軽装の船体は海の荒波に堪えられず、少しの嵐でも破壊する。昨年は、夫々700ピコル〔筆者注:42t〕の銅を積んだ6艘の船が浸水沈没した。これを無くすため、日本人は水密上部構造型の船を求めているが、(トロンペンバーグ号よりは)もっと小型の船が適当であろう。
この様に長崎奉行・久世廣民が熱心に洋式新造船の計画を進めていたようであるが、当時1780年から1784年まで戦われていたオランダとイギリスの第4次英蘭戦争の影響で、日本側の要求する船大工などの派遣はなかった。
その後ティチングは3回目〔筆者注:1784年8月−1784年11月30日〕の商館長として長崎に来た時、「水密型の上部構造がある船の雛形」を日本側に提供している。

  商館長・ロンバーグの見た甲板のある水密構造の和船

商館長・ヘンドリック・カスペル・ロンバーグ(Romberg)の3回目の来日時〔筆者注:1786年11月21日 -1787年11月30日〕、1787(天明6)年1月、商館長・ロンバーグは長崎港に入った見かけない形の日本船を発見し、その船について以下の如く日誌に記述した。この時ロンバーグは日本側から、この船はティチングが持って来た雛形に基づいて造られたと聞いている。
1787(天明6)年1月の「出島日記〔筆者注:Deshima Dagregisters〕」の記述には、

この船には平らな甲板があり、通常の帆柱から離れた〔筆者注:後方に〕旗棹の様な小さい帆柱と、船首には帆桁と同じくらいの太さの一種の斜檣〔筆者注:バウスプリット〕があり、それには小型の前帆と船首三角帆〔筆者注:ジブ帆〕の様な前帆が付いていた。船尾楼甲板は閉じて反り返り、舵は大型艇のそれである。日本人は三国丸と呼び、その名は三国すなわちオランダ、シナ、日本のことで、外見からは多くの荷物を積載できるようには見えないが、日本人はよく大げさに言う事がある。
この様に、出島商館長・ロンバーグの観察からも、三国丸の甲板は総矢倉の水密構造で、ジブ帆や斜桁帆まで付いていた。 この「出島日記」の日付と前述の「ラ・ペルーズ探検隊の航海日誌」の日付から見ると、三国丸は日本海で、この時からほぼ半年後にラ・ペルーズ探検隊と出会ったことになる。

  「三國丸繪図」


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石川県立図書館所蔵、森田文庫の「三國丸繪図」

Image credit: ©石川県立図書館、
(https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/)

更に左に載せた、石川県立図書館所蔵の森田文庫にある「三國丸繪図」を見ると、船首の斜檣〔筆者注:バウスプリット。絵図ではヤリダシと呼ぶ〕に三角帆のジブと角帆の斜桁帆を付け、主檣には横帆が上下に2枚張られ、典型的な和船の帆ではない。また、船尾には小さいトモ帆柱があり、小型の縦帆を付けている。

しかし上述の様に、ラ・ペルーズ探検隊がこの三国丸と日本海ですれ違った時に探検隊の絵師ギャスパー・デュシェ・デ・バンシー 又は ジャン・ルイ・ロベー・プレボー・ジュニアにより描かれたと思われるスケッチ画には、主檣には1枚の大型の横帆が掛けられているのみである。
帆柱や帆桁に上って操作する必要もある横帆2枚の帆型は日本人には操作が不便で、甲板から操作できる大型の横帆1枚に変更したのであろう〔筆者注:上図「能登半島の沖で出会ったユニークな日本船」図を参照〕

この「三國丸繪図」の表題に、

此三國丸 名之給りたるハ 支那 日本 紅毛の三ヶ国に習いたるに因ベシ。
とあり、長崎遠見番・原才右衛門という者の申立てにより造られたと書いてあり、船の長さは15間(27.3m)、船底の長さは12間半(22.7m)、幅は4間(7.3m)と書いてある。遠見番・原才右衛門は長崎の地侍で、長く遠見番を務める熟練者で、代々の長崎奉行の信頼が厚かったと言う。

三国丸は天明6(1786)年11月に大阪で造られ長崎で就航したと言うが、天明8(1788)年9月18日に箱館を出港後に暴風に遭遇し、10月2日に佐渡ヶ島沖まで流された際に舵を破損し帆柱も切り倒し、乗組員は艀で近くの、佐渡ヶ島北端から北西130kmにある飛島へ避難した。三国丸はそのまま飛島から30km程東の出羽国赤石浜〔筆者注:秋田県にかほ市金浦赤石〕に漂着して破船になったと言う。

幕府のこの様な一種の新しい造船の試みは、10年ほども経た1799(寛政11)年の東蝦夷地の幕府直轄に関連し、冬でも運航できる御用船の必要性から総矢倉すなわち水密機能を持つ甲板付きの船を中心に種々の試みが出てきたようであるが、1853(嘉永6)年にペリー提督が浦賀に来て、幕府により「大船建造の禁」が解かれるまでは基本的に大きな発展はなかった。更に蝦夷地・北海道全域の測量については、1800(寛政12)年6月、伊能忠敬が江戸を出発し6か月以上もかけて蝦夷地実測を行った年であるが、海洋をものともせず多くのアメリカ捕鯨船が太平洋に進出し、鯨を追って情報も少なく地図も定かでない日本海やオホーツク海にまで入り込み、その他の外国船も日本に向かい始める時代が始まったのである。

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07/01/2025, (Original since 07/01/2025)