オランダ、フリース艦隊の蝦夷地探検と金銀島発見の航海
(典拠:"Reize van Maarten Gerritsz. Vries in 1643 naar Japan, Volgens het Journaal gehouden door C. J. Coen." Uitgegeven door P. A. Leupe. Kapitein der Mariniers. Amsterdam, Frederik Muller. 1858.
"Voyage to Cathay, Tartary and the Gold- and Silver-Rich Islands East of Japan, 1643." by Willem C. H. Robert., Philo Press. Amsterdam. 1975)
♦ フリース艦隊派遣の背景
オランダ東インド会社の地理学者で航海士・探検家のマルチン・ゲルリッツエン・フリース〔Maarten Gerritsz. Vries〕は1643(寛永20)年、当時オランダ領東インド総督であったアントニオ・ヴァン・ディーメン〔Anthonio van Diemen〕から、
マーティン・ゲリッツェン・フリース司令官及びフルイト船・カストリクム号とヨット・ブレスケンス号の委員会宛ての指令。
未解明のタターリ東海岸、シナ領域、アメリカの西海岸及び日本東方近海の金銀島を発見すべし。
との命令をうけた。
これらの地域は当時地理上の未解明地域で、日本本土にはそれまでオランダ自身も毎年航海し、日本に居るポルトガルやスペイン宣教師からの情報もあったが、日本海に面したシナやタターリ沿岸、更に樺太や北海道から千島列島、カムチャッカ半島、また北アメリカ大陸西海岸の北部は全く不明な地域だった。
これは、4年前の1639年に行われ失敗に終わっていたマティス・ヘンドリックスゾーン・クアスト〔Matthijs Hendrikszoon Quast〕の同様な探検の後を受けるものでもあったが、この2回にわたるクワストとフリースへの探検命令の背景は以下の如きものである。
1611(慶長16)年に新スペイン答礼使節としてアカプルコからサンフランシスコ号に乗り徳川家康を訪ねたセバスチャン・ビスカイノが、その帰りの航海で日本近海にあると噂されている金銀島を発見せよとのスペイン王の密命(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)を帯びていた。1612(慶長17)年9月11日金銀島探検に浦賀を出港したビスカイノの乗るサンフランシスコ号は、成果が無く、遭難寸前の11月7日に浦賀に帰らざるを得なかった。その後乗って帰る船も無いビスカイノは、伊達政宗の援助を受け伊達政宗の造った船に乗り新スペインへ帰国したから、こんな新スペインの「金銀島探検」情報が当時オランダのリーフデ号で日本に漂着し徳川家康に取り立てられ領地を貰っていたイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)やオランダ人のヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(耶揚子)、メルヒオール・ファン・サントフォールト等日本にいたリーフデ号の生存者を通じ、1609(慶長14)年から日本と貿易を始めていた平戸のオランダ商館に察知されていたようだ。
1635(寛永12)年になって平戸のオランダ商館員ウィレム・フェルステーヘン〔Willem Verstegen〕が、当時のビスカイノの金銀島探検事件を知っている、ビスカイノの船・サンフランシスコ号の掌帆兵曹として新スペインから日本に来て長崎に住んでいたオランダ人マルクス・シモンセン〔Markus Symonsen〕や三浦按針と共にリーフデ号で日本に漂着し後に長崎で御朱印船の航海長に雇われまだ長崎に居たオランダ人ビンセント・ロメイン〔Vincent Romeyn〕等から当時の状況を聞き、オランダもやるべきだと、この金銀島探検案をオランダ領東インド総督に建議した。東インド総督のアントニオ・ヴァン・ディーメンは本社の重役に諮り、この建議を採用し、1639(寛永16)年マティス・ヘンドリックスゾーン・クアストに命じてエンゲル号〔Engel〕とフラフト号〔Graft〕の2艘の探検船を派遣したが目的を達せず、半年後に当時オランダが1624年ゼーランディア砦を築いて以来商業及び入植中国人農業基地を置いていた台湾に帰港した。この航海でマティス・クアスト隊は小笠原諸島の父島と母島を発見したと言われている。
しかしオランダはその後も金銀島発見を諦めず、1643(寛永20)年に司令官・マルチン・ゲルリッツエン・フリース〔Maarten Gerritsz. Vries〕の乗るカストリクム号〔Castricum〕と船長・ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープ〔Hendrick Cornelisz Schaep〕の乗るブレスケンス号〔Breskens〕の再度の派遣を決定したのだ。
♦ フリース艦隊の出発と千島列島到着
1643(寛永20)年2月3日、2艘はバタビアを出港しセレベス島北部、テルナテ島を経由し、金銀島を探すべく日本近海に向かい北上した。
その後1643(寛永20)年5月20日の八丈島発見後、26日の日本近海の暴風の中で2艘は離散し、フリース司令官の乗るカストリクム号は単独で日本の東の沿岸を北上した。途中津軽海峡に迷い込まないように注意深く北東に進み、6月12日、濃霧や霧雨で場所も分からなかったが波も静まったので錨を入れた。翌朝少し霧が晴れると人の頭部のように見える岬に「Caep de Manshooft、人頭岬〔納沙布岬西部の落石岬か〕」と命名した岬の近くだった。こうして蝦夷〔現在の北海道〕を認め千島列島に近付いた。
〔以下、カストリクム号一等航海士・コーネリス・ヤンツェン・クーンの航海日誌による〕
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千島列島東から:シムシル島、ウルップ島、エトロフ島、国後島、
北海道東端の厚岸湾、樺太のアニワ湾、その北のタライカ湾
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6月18日から19日にかけ、周りが見えない濃い霧の中を北東方向に進んだが、時に北方に陸地や雪をかぶり日に暉く高い山が一瞬見え、すぐまた霧の中に消えた。水面に昆布類や小枝等の漂流物が増え、多くのカモメが飛んできた。5時間も進むと北方に雪をかぶった非常に高い山が一瞬見えてすぐ雲に隠れてしまったので、危険を避けるためそれ以上の北進をやめ、西に向きを変え船の浮遊に任せた。夜間に船の両側で激しい水音を聞き急に海面が静かになったので、安全のために少し帆を上げ、錨を3分の2まで降ろし、船首を南西に向けて船の漂いにまかせた。
6月20日夜が明け始めると錨を完全に入れ停船し船尾にも錨を入れたが、南南東に一瞬高い山が見えたが〔ウルップ島の岩尾山か〕すぐ霧で見えなくなった。しばらくして霧が少し晴れると南南東の高い山は見えてきたが岸までは見えなかった。食事後2、3時間で霧が晴れると停船地は岸から5qもない程の近場で、停船地から東北東へ35−40q程の先にこの島の最北部が見え、停船地から20q 程離れた南西にも陸地が見えた。こうして南西にエトロフ島〔択捉島〕を発見し、ごく近くにウルップ島〔得撫島〕のオホーツク海側の岸を発見したのだ。
停船した場所はフリース海峡と名付けたエトロフ島とウルップ島間の海峡を南から北に抜けた、ウルップ島のオホーツク海側の岸の近くである。激しい水音は雪解け水が濁流となり崖から海に落ち込む音だった。これは全くの幸運で、夜間に2島間の海峡に入り込み、夜明けに錨を入れて停船した場所は少しオホーツク海側に抜けた地点で、座礁することなくエトロフ島とウルップ島を発見したのだ。一等航海士・クーンはこの停船地を「北緯46度6分」と測定し記録しているが、「停船地は南南東に高い山が見え・・・岸から5qもない程の近場」と言う記述から、「高い山」を「岩尾山」として「Google Earth」で推定すると実際には「45度49分」ほどに見えるから、たかだか「17分」ほどの測定誤差しかない。すなわち南北へほぼ31q ほどのズレしかない事になる。六分儀が発明される百年以上も前で測定器具は不明ながら、予想以上の驚くべき測定精度である。当然ながら緯度の測定原理は昔から知られていたのだが、それなりの努力と工夫があったはずである。クーンは同時に経度も記録しているが、その測定方法や基準点は全く不明であり、ここでは採用しない。
ウルップ島西端の北西岸に停泊し水取りに上陸したが、無人島で、花が咲き乱れヒバリが歌っていた。更に探検すると古い無人の小屋と骸骨を発見し、山に登り鉱物のサンプルを収集した。このウルップ島〔得撫島〕にはフリース司令官も上陸し、「V.O.C. anno 1643. 〔V.O.C.(連合東インド会社)1643年〕」と刻んだ木製の十字架を立て、3発の銃を斉射し、コンパニース・ラント〔Companys lant、オランダ東インド会社の土地〕と名付けた。
6月24日ー7月2日はウルップ島の北西の海上を調査したがエトロフ島をはっきり確認し、フリース司令官は2つの山があり北側に突き出した半島を「Caep de Trou 〔トロー岬〕」と名付けた。
7月3日、認めていたエトロフ島に上陸しようと川付近〔丹根萌湾、たんねもえ湾か〕に近づくと多くの人や獣の足跡を見つけ、浜辺に船に乗った人影があり近づくと、長い髭を生やした男1人女2人若い男3人がいて船の近くに数人の子供がいた。翌4日金銀の情報を聞くため上陸してアイヌに再会し、浜辺に座りタバコや布切れ、ビーズなどを贈り、アイヌからは新鮮なヒラメを貰い、互いにアラック酒を飲みあった。5、6軒の家があったが2軒だけに人が住んでいて、造りは粗末なものだった。クーンはここでアイヌの家の構造や食材を記述している。長老がラッコの毛皮との交換をしたかったようだが、上陸時に商売の命令は受けていなかったのでそのままにしてきた。彼らの刀の飾りにしてあった銀の入手方法を聞くと、年長の女が、砂を掘り手に取って吹き払い器に入れて火にかけるジェスチャーをした。
8日ほどエトロフ島とその近辺に船掛りし、網を入れるとサケやヒラメやカレイが大量に獲れた。贈り物に米を持って行ったがアイヌは非常に喜んだ。再度アイヌが持っているラッコの毛皮との交換を持ちかけられたので船にあった古い斧と交換した。フリース司令官も上陸して長老に小型のオランダ国旗を与えたが、長老は喜んで自分の家の屋根に掲げた。水を補充し、周りに生えているモミやシラカバの木材を補充し、西側の国後水道を調査した。しかし残念ながら濃い霧や霧雨、また荒れる海のため、近くの根室海峡は発見できなかったのだ。フリース司令官とカストリクム号の首脳たちは、乗組員も健康であるから指令書通り西側のタターリ沿岸を目指す決定をした。新たに西からカヌーでやって来たアイヌが、若い男や2人の女と下女や幼い4人の子供を含めた9人で空いている家に入った。皆同じような毛皮のコートを着ていたが、持ち物は少なかった。少し大きいエトロフ島〔択捉島〕はスターテン・ラント〔Staten Lant、オランダ国の土地〕と命名した。
♦ 西方のタターリ海岸を目指す
7月11日にエトロフ島を出発し、北西に針路を取り、指令書にある西側のタターリ海岸を目指した。霧が深く国後島が島であるという発見は出来なかったが、蝦夷地・北海道の山と認識した国後島北端のルルイ岳〔Tepel berch of Eso〕を南西15q ほど先に見て出来るだけ西または北西に針路を取り航海を続けた。
数日後7月14日の午後4時ころ急に海底が42尋〔77m程〕と深くなり、南西に高い陸地が見え、それにつながって北北西から北北東にかけて連続する高地とその下につながる低い陸地を確認したが、近い所はおよそ30qほど離れていた。しばらくしてまた直ぐ海底が35尋〔64m程〕になり、70q程北西に2つの山が島のように見えてきた。この時すでに夕闇が迫っていたからか、宗谷丘陵線は明確に確認しながら、残念ながら宗谷丘陵線から北に続く幅40q位しかない宗谷海峡を発見できなかった様だ。この海峡は後の1787(天明7)年に、フランスのラ・ペローズ探検隊により発見された。
又翌7月15日朝から霧雨であったが、10時ころ西南西から北西にかけて陸地を認め、16尋の海上で錨を入れて観察すると、漂流物から湾内に居る可能性があった。夜に北側の水平線に火の光を見た。7月16日の朝、大きな湾内に居る事を確認した。北岸に向かって水深測量をし、カストリクム号も更に海岸に向け接近した。ここは樺太のアニワ湾のタマリ〔Tamary、泊=港〕であり、ここに碇泊した。
このカストリクム号は蝦夷地の一部であると考えた国後島のルルイ岳を見て以来、およそ北海道の北東海岸に沿って北上しアニワ湾に来るまでに、西方の幅40q足らずのラ・ペルーズ海峡〔宗谷海峡〕を発見できなかった。この時から130年〜140年後のイギリスのクック探検隊やフランスのラ・ペルーズ探検隊は地理的解明が最優先事項だったが、このオランダのフリース探検隊は地理的解明も重要だったが金銀資源の探索も地理に劣らず重要であった。従って地理解明のためには、クック探検隊やラ・ペルーズ探検隊に比べその航路の取り方にかなり問題があった。
アニワ湾のタマリでは11人の原住民が3艘の船で乗船して来たが、続いて多くのサケやニシンを持った住民がやって来て、米や鉄製の輪と交換した。続いて非常に年をとった老人が青地に金糸で日本文字を刺繍し、色とりどりの布を縫い合わせ背中に大きな四角形を描いた木綿のコートを着て乗り込んできた。船にある酒を出して歓待したが、一行は夕方陽気に歌を歌いながら帰って行った。
翌日7月17日にカストリクム号航海日記記述者の一等航海士・コーネリス・ヤンツェン・クーン〔Cornelis Janszoon Coen〕は司令官・フリースの命で上陸し、アイヌと会い、大きな銀製のイヤリングを付けている酋長とおぼしき夫婦の家に行き、何処でその銀を手に入れたか話を聞くために派遣された。クーンが持っている日本製のキセルとジャワ製のタバコを出し、酒を飲みながら銀の入手先を聞くと相手は、「ミニアシアマ〔Miniasiama〕」と言ったが、質問が分からないと言ったようだった。その家の全員に贈り物をしたが大いに喜ばれた。その後も他の家に呼ばれ贈り物の交換をし、オランダ側は酒やタバコを出し、アイヌ側は日本流に箸を添えた食べ物を出した。一緒に上陸した船員の中には箸を使えない人もいて、大笑いになった。この様に部落の人々と友好を確立し、大量の魚も船に持ち帰った。
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フリース探検隊の推定概略航路
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霧も晴れた7月19日の朝停泊地を出発し、人家もかなり見える沖を通り、20日霧も晴れた午後アニワ岬を東南東に確認して南下し、岬を東にまわった。この時霧も晴れていたから、アニワ岬から100qほど西側のラ・ペルーズ海峡
〔宗谷海峡〕を発見できなかったことは残念であるが、西側も陸地で塞がれた大きな湾内にいると思い続け、西航の努力をしなかったのだろうか。
その後北東に向かい、24日には陸地や湾を確認し、26日にはクーンの測量記録によれば樺太の東海岸のタライカ湾の北緯48度53分、東経163度1分に至り、この航海の中での最北端付近にまで達した。
27日朝上陸し、海岸に多くの人の足跡を確認し、いくつかの淡水湖もあり、10基の墓もあり、無人の家もあった。この「淡水湖もあった」という記述から、タライカ湾東岸であろうか。付近の浜辺で大きな流木に腰を掛け弓矢や刀を持った4人のがっしりした現地人と会い、7月16日にアニワ湾のタマリで会ったアイヌと同じように友好の挨拶をしたが、長老と思しき大きな髭を生やした2人は毛皮の服を着て2人の後ろで守るように立っている2人は絹製の花柄のついた着物を着、頭は半分剃り上げていた。これは満州民族の弁髪姿で、大陸から間宮海峡を越え渡ってきた人たちであろうか。酒を飲みあった後彼らの船に行くと、2人の子供を連れた色白な女性と老人に会った。老人は日本風な花柄の綿の着物を着、敷物に日本風に座っていた。クーンは日本語で挨拶し、老人も喜んでいろいろ聞いてきたがそれ以上話が通じなかった。やがて上陸していた仲間全員で部落の長老の大きな家に行き、家族と会い贈り物をし友好を深めたが、刀の飾りにつけた銀以外の貴金属は誰も持っていなかった。長老の家には交易に使うアザラシとクマの皮が箱に入れ大切に保管されていた。このようにタターリ海岸を探しながら、常に金銀島の情報も探していたのだ。
ここからは強い西風に阻まれてタターリ方面には行けず、この後27日の夕方から航海を再開し、翌28日の夕方小さい島を確認し、「ロビン島
〔Robben eylant〕」と命名したが、この「Robben eylant」と名付けた小島は樺太のタライカ湾の東岸にある岬の外れにある。
毎朝霧雨だったので8月2日までこの島付近を漂い、3日に司令官・マルチン・ゲルリッツエン・フリースは命令書にある探検隊の行動期限の時期が来たので、タターリ行きはあきらめ、フリース海峡
〔Canael de Vries〕に戻るべく決断した。
♦ 南下し厚岸で現地のアイヌと交流
8月5日未明、東南東にすでに発見してあったスターテン・ラント〔エトロフ島〕の高い崖が見え、スターテン・ラントのフリース岬〔Caep de Vries〕も見え、フリース海峡を通過し西南西に向かった。8月14日朝には島が見え、昼頃には蝦夷地〔現在の北海道〕の海岸線が西南西に見えてきた。
その後1643年8月15日朝、陸に近く早い潮が西南西に流れる場所であったが錨を入れて付近を探索すると「Lyns eylant〔リンス島、現在の厚岸湾入り口の大黒島か〕」と名付けた小島の後ろにきれいな湾を発見し、すぐ本船を入れ停泊した。
16日朝から湾内を探索したが数軒の家があり、村人数人が漕ぎ出してきたので共に上陸したが、「Ackys〔厚岸、あっけし〕」と呼ぶ村であり、現在の厚岸湾に入ったのだ。皆でノイアサック〔Noiasack〕と呼ぶ長老の家に行き、サーモン料理をふるまわれたが、部落の人たちも集まってきた。その間に本船から上陸した者たちが網を引くとヒラメが大量に獲れた。本船も厚岸湖の入り口近辺に停泊した。ここは蝦夷地〔現在の北海道〕の東端の厚岸であるが、周りを探索すると2、3の砦があり、さらに無人の村もあった。時に住民は大量の牡蠣やリンゴを持ってきたので米と交換した。長老は衣類との交換を条件に彼らが銀を掘ったという、湾を出て南西に行った場所に案内してくれたが何も発見できなかった。住民の話では西のシラルカ〔Cirarca、白糠=釧路の西〕で銀が採れタカプシ〔Tacapsy、十勝〕では金が採れるが、そこは敵地であり絶対行かないと言った。ここではマストの手入れや索具類の修理を行い、船を傾け船体をきれいにし、水漏れ防止の詰め物もした。
♦ 厚岸で日本の交易船と交流
8月26日の昼頃日本の大型の荷船が厚岸湾に入ってきた。日本船には若く活発な船長・オリ〔Ory〕が乗っていて、6人の船員と共に本船・カストリクム号に乗り込んできた。その日本人船長の話によると日本船はここから西方にある松前〔Matsimay〕から来た交易船で、松前には藩主〔Japanese governor〕がいて日本領土である。この大型船は米、衣類、酒、タバコ、耳飾りなどを積んでいて、毛皮、鯨油、鯨脂等の交易に来た。オリ船長自身は日本人の父親とアイヌの母親との間の子供で、日本語とアイヌ語ができる。さらに彼はシラルカ〔Cirarca、白糠〕とタカプシ〔Tacapsy、十勝〕で金が採れると言い、金の小片を見せてくれた。またこの蝦夷地は島であると言い、簡単な日本と蝦夷の図を描いて見せてくれ、松前の藩主は松前に住み、近くに良港・Camenda〔亀田〕があるとも話した。藩主は毎年江戸に行き将軍〔Emperor〕に会うが、南部〔Nabu〕まで船で行き、陸路で江戸に行くとも話した。27日の夕方潮の流れに乗ってゆっくり厚岸湾を出た日本船はそのまま別れの言葉もなく帰っていった。
ここで、若く活発な船長・オリの乗った日本船は松前藩の交易船で、当時の厚岸は南千島や蝦夷東部のアイヌがやってくる交易地であったが、松前藩士・小山五兵衛が上乗役〔監督〕として乗船していたのだ。小山五兵衛は松前に帰着し藩主に報告をすると、藩では早速蛎崎采女を付けて江戸に送り登城させ、幕府に直接報告をさせている。当時の松前藩の記録『松前年々記』の寛永二十年の項に、
東蝦夷地アッケシへ阿蘭陀船漂着す。船の長さ三十尋程〔約54m〕、幅四間程〔約7.2m〕、船中に石火矢十五六挺仕掛け置く。二十目玉程の鉄炮二三挺、船底にも石火矢二三挺有。七月十二日〔1643年8月26日〕アッケシ上乗小山五兵衛、船頭弥兵衛、右の黒船へ乗移り見届け、松前へ注進の為クスリ〔釧路〕へ戻り日和待つ内、右黒船アッケシを出船、辰巳〔東南〕を指て走行く。其れ以後見えず。江戸表へ小山五兵衛に蛎崎采女相添え着登し、阿部豊後守、阿部対馬守、井上筑後守、三様へ申達し、其以後中根壱岐守宅へ五兵衛蛎崎采女御呼出し御尋の上、九月二十八日長崎屋傳〔源?〕右衛門家にて井上筑後守内松田権兵衛立会い、阿蘭陀人を出於き五兵衛に見させ、阿蘭陀人口書の所、皆申口符号致す。南部にて捕えたる阿蘭陀の流船の者也。
と記録されている。当時の江戸幕府では鎖国体制が完全に出来上がり各藩へ厳しく通達がなされ、特にポルトガル人の密入国を警戒していたから、松前藩では厚岸に来たオランダ船の件を直ちに直接報告をした訳である。監督として乗り組んでいた藩士・小山五兵衛は、松前藩の治める蝦夷地の見回り役でもあったようだ。
また非常に面白いことに、次に書くカストリクム号のはぐれた僚船・ブレスケンス号の南部浦で捕獲された船長以下10人が、長崎から呼び寄せているカピタンが到着するまで江戸に留め置かれていた。彼らを2年前からオランダ定宿になっていた長崎屋で松前から来た小山五兵衛と直接対面のうえ尋問したところ、その口述内容が皆符合したと言う。
さてカストリクム号では30日の朝は村の前の浜辺にテントを張り、武装訓練を行い、厚岸湾を「Goede Hoop、希望湾」と命名した。こうして厚岸湾に18日間滞在し、アイヌと交流し、日本の交易船とも交流した。後方マストの木材などを調達し、水や薪の積み込みも終わり、9月2日の夜明け前に厚岸湾を出港した。
その後南下し北西にCaep Eroen〔エロン岬=襟裳岬〕を見た。9月10日から10月1日に渡って北緯37度半近辺〔現福島県郡山市近辺にあたる緯度〕の太平洋側を広く探索したが金銀島は発見できず、11月18日台湾に帰着した。
♦ 日本沿岸ではぐれたブレスケンス号の消息
さて、一方のブレスケンス号も日本近海での離散後に単独で北上し、千島に至り、南下して金銀島を探したが発見に至らなかった。ここで7月末、薪水の欠乏により船長のスハープ以下10人が盛岡藩の南部浦に上陸し、藩士に捕獲された。この一行にも思いがけない日本との交流があるが、経緯は日本で捕縛されたオランダ金銀島探検船・ブレスケンス号(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)を参照のこと。
フリース司令官の乗るカストリクム号は後にブレスケンス号の動静を台湾で知ったが、スハーブ船長と一部の乗組員は日本に上陸したまま帰還していなかった。彼らは、当時入国禁止になっていたポルトガル人を密入国させた疑いで日本側に捕縛されたのであるが、オランダ人であり漂流したことが判明し、12月に長崎の商館長・エルセラックに引き渡された。
♦ フリース探検隊の功績とその後の地理の解明
当時ヨーロッパでは誰も知らなかった千島列島の一部や樺太の東海岸の一部を発見し、地理的空白地帯に一筋の光をともした。また知られていなかった現地のアイヌとの交流を通じ、17世紀半ばの蝦夷地アイヌの生活様式の一部をも記述している。当時すでに松前から交易船が厚岸あたりにまで来ていた事実は非常に興味深い。また蝦夷〔現在の北海道〕は島であるとの情報も得たのだ。
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フリース探検隊の情報が採用されている、フランスの地理学者
フィリップ・ビュアシュの1750年発行の地図。
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オランダのフリース探検隊の情報はその後フランスの地理学者フィリップ・ビュアシュ
〔Philippe Buache, 1700-1773〕が1750(寛延3)年4月8日付けで発行した地図に反映されているが、ブレスケンス号司令官・フリースの綴りの「Vries
〔フリース〕」を誤って「Uries
〔ユリース〕」にしたため、以降の各国の地図には「Detroit du Uriez、Uries海峡、Uries Strait」のようになってしまい、後の1787(天明7)年7月にこの地を探検したフランスのラ・ぺローズ探検隊もこの地図を使ったと言う
〔左図の A 参照〕。又左の図にはウルップ島に「Companys lant、オランダ東インド会社の土地」のフランス語「Terre de la Compagnie」
〔左図の @ 参照〕、エトロフ島に「Staten Lant、オランダ国の土地」のフランス語「I. des Etats」
〔左図の B 参照〕、「Tocapsy、十勝」のフランス語「Tocapsi」
〔左図の C 参照〕、「Caep Eroen、襟裳岬」のフランス語「Eroen」
〔左図の ⑤ 参照〕、「Matsimay、松前」のフランス語「Matsmei」
〔左図の E 参照〕等、明らかにフリース探検隊の情報が採用されている。更にフリース探検隊が濃霧の中で確認できなかった国後島は蝦夷
〔現在の北海道〕の一部になってしまっている。1750(寛延3)年にフィリップ・ビュアシュがこの地図を発行した時点でも、北海道の西側の大部分や樺太の西海岸などはいまだに不明の地であった。
フリース司令官の乗るカストリクム号は、オランダでは「フルイト船
〔fluijt /fluit〕」と呼ばれた平底船で、広く使われた貨物専用船として進化を遂げた商船であり、船底に比して甲板部分が狭いのが特徴である。おそらく堅牢な造りで喫水も浅かったから、こんなオホーツク海での探検航海には適していたであろうと想像されるが、船底にはバラスト石を巧みに積んでいたはずである。当時からイギリスでもこのように優れた形式の造船が取り入れられたというが、今から380年以上も前の、霧も深く強風が吹き、晴れ間も少ないオホーツク海の航海は非常に困難だったことは容易に想像できる。そんな条件下で緯度や経度を測定しながらバタビアから片道 8,000q以上もある行程を乗り切った努力と航海術に驚かざるを得ない。
その後ロシアのオホーツクから、オホーツク海、カムチャッカ半島、ベーリング海峡、またアラスカの一部がかなり細かく明らかになるのは2回にわたるロシア派遣の
ヴィトス・ベーリング隊の探検(
筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)による。
また千島列島や樺太北部はロシアのヴィトゥス・ベーリング隊から分遣された
シュパンベルグ隊の探検(
筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)が全容を明らかにすることになる。
さらに日本海のロシア沿海地方のタターリ東海岸や樺太西海岸の多くはフランスのラ・ペルーズ探検隊の測量により詳細が解明される。
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