シュパンベルグの日本遠征
初めてロシア人の南下を認識した日本
幕臣の近藤重蔵はイギリスの測量船プロビデンス号が1796(寛政8)年に北海道の内浦湾に来て日本側を驚かせて以来、幕命により5回も蝦夷地を探索して蝦夷を良く知る人物であり、1799(寛政11)年に幕府の行った蝦夷上知を進言した人物でもある。
近藤正斎重蔵著『邊要分界圖考巻之七』の「魯西亜考」に、
我邦ニ於テ初テ 其國ノ事聞エシハ、元文四年己未 房州奥州ノ瀕海エ ムスコウビヤノ蠻舶往来シ、土民エ銀銭等ヲ與ヘシヲ以テ初トスベキ歟。蠻人ノ名 スハンベルゲ タムストロム。此時大舶ニ乗テ諸國ヲ廻シ由、詳ニ下ニ見エ、此事蠻書ノ説ト粗合ス。・・・蓋シ是ヨリ前 丁巳ノ年、其邦ニ於テ始テ 日本支那交通ノ事ヲ會議セシ由シ 其國史ニ見エタレバ、中一年ヲ隔テヽ 直ニ日本海エ來舶セシニ疑ナカルベシ。其事ロシヤ本紀ニ載ス。下ニ見ユ。
とある。
この「元文四年己未」は1739年であるが、以降に書くデンマーク出身のロシア海軍士官・マルティン・シュパンベルグの日本近海探索の事実を述べたものである。
シュパンベルグは、ロシアのピョートル大帝の命によって始まり、ベーリング海峡を発見しアラスカに到着したデンマーク出身のロシア海軍士官・ヴィトゥス・ベーリングの2回に渡るカムチャツカ探検隊に参加し、第2回目の1739(元文4)年に、日本や支那への航海ルート確立を目指し分遣されて日本近海に来たものである。近藤重蔵が書いた様に、ロシアがまさに日本を目指して南下を始めた最初の事例である。
以下にこのマルティン・シュパンベルグがどういう経緯で日本に来たのか、その背景を記述する。
ロシアは樺太経由ではなく、何故千島列島経由で日本に来たのか
〔以下の西暦記述は全てロシア、ユリウス暦〕
♦ ロシアのシベリア東進と、議論が分かれる1648年のベーリング海峡の発見
15世紀の後半に近隣の宿敵を排除しモスクワ大公国を創り独立を果たしたモスクワ国は、16世紀の中ごろまでには「ツァーリ」が戴冠し、国力を蓄えた。1721(享保6)年にはピョートル1世が「ツァーリ」として戴冠し、ヨーロッパの最も東北に位置する自他共に許すロシア帝国になった。
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サンクト・ペテルブルク、モスクワ、シビル・ハン国、
イルクーツク、ネルチンスク、アルバジン砦、アムール川河口、
ヤクーツク、オホーツク、チュクチ半島、カムチャツカ半島
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ロシア帝国東方のユーラシア大陸上にはそれ以上の国力と組織力を持つ国はなかったから、ピョートル1世戴冠以前の17世紀初めから東方への領域拡大は大きな抵抗を受けずに進展した。ロシア発展の中で有力貴族の地位を築いて行くストロガノフ家は、その農業、製塩、諸鉱業などの事業展開の中で1581(天正9)年、コサックの首領イェルマークを雇い東方に向け、シベリアの西の端の地方へ毛皮や資源を求め遠征を行わせた。イェルマークは東経60度近辺のウラル山脈を超え、ウラル山脈東方のオビ川とその南側からオビ川に合流するエルティシ川流域を支配していたシビル・ハン国を征服し、この両方の川以西をロシア領と宣言した。その後一時的に盛り返したハン国も最終的にはロシアに従属し、多くの毛皮交易業者や猟師や探検家がさらに東へ進んだ。1632年にはヤクーツクに砦を築き、その10年後にロシア政府のヤクーツク政庁が出来ると東部シベリア行政の中心になり、太平洋岸を目指した。主要商品はあらゆる種類の毛皮であった。
1648(正保5)年、ロシア探検家のセミョン・イワノヴィチ・デジニョフ(Simon Ivanovich Dezhnev)は北極海から帆船でチュクチ半島を回ってベーリング海峡に入り、アメリカ大陸とアジア大陸との間が海で、通航可能だということを発見したと言う。
これはヤクーツク地方公文書館に埋もれていたデジニョフの報告書を1736年にドイツ出身でロシアで活躍した歴史・民俗学者・ゲアハート・フリードリッヒ・ミュラー(Gerhard Friedrich Muller)が発掘し公表したものによる。ミュラーはデジニョフの報告書や手書きの地図、調査書類などを多く発見したのだがしかし、このミュラーの説に強い疑問を持つ歴史学者たちがいる。
現在のベーリング海峡発見者は次に書くように、ヴィトゥス・ベーリングとされている。
♦ ロシアと清朝との対立と、ネルチンスク条約
この様に17世紀半ばまでに、ロシア人はアムール川流域東方の清朝が支配を始めた地帯にまで到達し、1651年にコサックの首領エロフェイ・ハバロフがネルチンスク東方530Kmのアムール川支流にアルバジン砦を築いた。こんなロシアによる満州北部のアムール川流域進出で、清朝政府とロシア政府との国境紛争が起こった。当時ピョートル1世の摂政を務めていたソフィア・アレクセーエヴナの指示により、ロシアから派遣された代表団は1689(元禄2)年に清の康熙帝と和平条約 「ネルチンスク条約」を結んだ。しかしこの領土的に清朝有利な条約締結により、ピョートル1世の摂政・ソフィアは急速に国内の支持を失い、ピョートル1世が帝国運営の中心になって行く。
このネルチンスク条約によりロシアは、アルバジン砦を含む全てのアムール川流域に対する権利要求を取り下げたがしかし、バイカル湖の東に接する地域およびネルチンスクにおける北京との交易ルートの獲得には成功した。このロシアと清との和平構築と交易ルートの確立は、その後バイカル湖西岸のイルクーツクを拠点に、南に位置するモンゴル国境の確定とキャフタを経由する毛皮貿易の大発展にもつながって行く。
日本にとって更に重要な事は、この平和条約によりアムール川流域をあきらめたロシアは、ヤクーツクを経由し、アムール川河口から730Kmほども北にあり、オホーツク海に流れ込むオホータ川河口のオホーツクに足場を築いた。
ロシアは更にオホーツクから、1697(元禄10)年に北方から陸路で調査探検を行ったコサック隊長・アトラソフ(Atlasof)により確認されたカムチャツカ半島への海路を確立したことである。カムチャツカ半島の存在は既にこの45年も前からロシアに知られていたが、北方から半島に入る陸路にはコリアク族など好戦的な原住民が住んで居たから、その対応に困難があり、半島往来は簡単ではなかった。
このオホーツクからカムチャツカ半島への海上ルートがこの後、ロシアの日本へ向けた南下やアラスカに向けた事業の拡大の安定的な基礎となった。
また、このカムチャツカ半島探検の途中アトラソフは、半島西岸のイチャ川(Icha river)付近で現地人に捕らえられていた日本人漂流民・伝兵衛を救出してロシアに連れ帰り、伝兵衛は1702年1月8日、元禄14年12月22日、モスクワ郊外でピョートル1世に謁見している。1705(宝永2)年にはピョートル1世により初めての日本語学校がサンクト・ペテルブルクに設立され、伝兵衛はロシアにおける最初の日本語教師になった。また伝兵衛はロシア正教に入信してロシアに帰化したが、帰国はかなわなかった。
この頃からロシアは既に国費で日本語学校を造り、日本語を話す人材を育成し、近々の日本進出を意図していたのだ。ピョートル1世は若いころ身分を隠しドイツ、オランダ、イギリス、オーストリアなどに行き先進文化を学んだと言うが、オランダからは日本情報を吸収した可能性もあり、日本進出を考えたとしても不思議ではない。
このロシアの日本語学校については、後になってオランダ商館長・ティチングの提出した天明元(1781)年7月の阿蘭陀風説書に、「蝦夷近国より漂流仕り候もの、リュス国〔Rusland:ロシアの意〕に留置き、日本の言葉稽古仕り候風説、本国より申越し候」と日本側に伝えられているが〔『日露交渉史話』、平岡雅英著、筑摩書房、昭和19年1月20日、P.142〕、その活動はヨーロッパでも良く知られていた様である。
さて、18世紀に入るとロシアは更に西欧化が進み、ピョートル1世が大きな支持を集めロシア発展の基盤が出来て行くが、日本にとっては国力を付けたロシアの千島列島経由の南下により、北方からの脅威が増して行くのである。
♦ ヴィトゥス・ベーリングの第1次探検と海峡発見
モスクワ国ロシアのツァーリであったピョートル1世は、大北方戦争と呼ばれるスウェーデンと反スウェーデン同盟が戦うヨーロッパの一大戦争で国内の行政改革や海軍の創設強化を行い、外国から優秀な人材を集めて活用し、1721年に勝利すると「ピョートル大帝」と称されるようになった。こうしてロシアをヨーロッパの大国にしたピョートル大帝は晩年になり、東方のシベリア以東、特に「アジアとアメリカは陸続きかどうか」の詳細調査を命じた。死期を悟ったピョートル大帝が自ら出した指示であり、中心になるデンマーク出身のロシア海軍士官で探検家のヴィトゥス・ベーリング、同じデンマーク出身のロシア海軍士官マルティン・シュパンベルグ、ロシア出身のロシア海軍士官アレクセイ・チリコフを自ら指名した探検である。
1725(享保9)年1月にピョートル大帝の署名した命令書は次の如くである。
1.カムチャツカか他の適切な場所で1艘あるいは2艘の甲板のある船舶を建造の事。
2.北方に向かう海岸線で、かつ(その限界が不明のため)アメリカらしき沿岸に沿って操船する事。
3.どこでアメリカと交差するか明白にする事。ヨーロッパの支配下にある入植地に航海し、若しヨーロッパの船舶に遭遇の場合はその沿岸の地名を聞き、記録し、上陸し、詳細な情報を集め、地図を作り持ち帰る事。
この1ヵ月後にピョートル大帝は亡くなったが、直前にヴィトゥス・ベーリングを総責任者に指名し、マルティン・シュパンベルグとアレクセイ・チリコフを補佐に付けたのだ。
こうしてベーリングはオホーツク、カムチャツカへ向けた探険隊を率い、1725年1月に先発隊を発し、次々とサンクト・ペテルブルクを出発した。陸路や水路を通りシベリアを横断した後、食料欠乏に悩まされながら1727年1月にオホーツクに到着した。そこで冬を越しながらフォーチュン号の造船に成功した後、カムチャツカ半島の西岸のボルシャヤ川河口に入り、40Km程北に前進基地・ボルシェレツク砦を造った。困難の末に更に陸路をソリを引き東岸のカムチャツカ川河口まで進み、1728年7月にセント・ガヴリエール号の建造が出来た。
こんな探検に使うフォーチュン号やセント・ガヴリエール号の造船は、「シティキ(Shitiki/Shitik)」と呼ばれる1本あるいは2本マストの船で、構造材や側板類の固定には金具を使わず、皮ひもを使って「縫い合わされた」船でる。
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オホーツク、ボルシャヤ川河口、カムチャツカ川河口、
チュクチ岬、転回地点、ダイオミード諸島、セント・ローレンス島
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1728(享保13)年7月13日、カムチャツカ半島東岸のカムチャツカ川河口の造船基地からセント・ガブリエール号に乗り組み、陸沿いに測量しながら東北に向けて出発した。その途上、チュクチ岬を確認し、8月11日にセント・ローレンス島を認めて命名し、船はそのまま北上した。北緯65度30分に達した時ベーリング船長は、「途中の海上で出会ったチュクチ族の言葉や自分の意見では、我々は今、ほゞユーラシア大陸の東端を通過中である。更に北上すべきか、どのくらい先に行くべきか、国家のために最善を尽くす観点からどうすべきか、乗組員と船の安全を図り越冬地を探すべきか」と士官のシュパンベルグとチリコフの意見を求めた。シュパンベルグは、「このまま北上し、今月16日までに北緯66度に達しなければ引き返すべし」という意見であり、チリコフは、「海氷に妨げられるまでは航海を続けるか、あるいはよく知られているコリマ川河口
〔ユーラシア大陸東端のオホーツク海北部から北流し、東経162度近辺で北極海に流入する〕に向け沿岸沿いを西航すべし。更に陸地が北まで続くのなら、今月25日からは越冬地を探すべし」という意見だった。ベーリングはシュパンベルグの意見を採用した。
この意思決定により更に北上し、1728年8月16日の午後3時頃、北緯67度18分、東経193度7分、即ち西経166度53分に達したところでベーリング船長は、「カムチャツカに向けて進路を取れ」と命じた。引き返すことにしたのだ。翌日17日、帰りの航海の途中ダイオミード諸島を発見し命名したが、これはベーリング海峡の中間にある諸島で、現在はアメリカ・ロシアの国境線が通る。更に18日にはその南側の、既に発見したセント・ローレンス島を再確認した。
現在の地図で見ればこれで十分海峡を確認している様に見えるが、アメリカ大陸の目視あるいは上陸、またそれに代わる物理的な確認がなされないままであったため、ロシアに帰った後に厳しい異論が出る事になる。特にダイオミード諸島発見時には、気候の関係か、70〜80Kmほど東に見える筈のアラスカの陸地や山を確認できなかったのだ。引き続き南下を続け、9月2日にやっと出発地のカムチャツカ川の河口に入る事が出来た。
1729(享保14)年7月3日、探検隊はカムチャツカ半島の南部を回って半島西岸のボルシャヤ川河口の前進基地に残した探検隊員を収容し、7月24日にオホーツクに帰港した。その後1730(享保15)年3月1日、ベーリングはサンクト・ペテルブルクに帰還できた。
♦ ベーリングの第2次探検とシュパンベルグの日本分遣
帰国してすぐベーリングは、探検調査報告書をピョートル大帝の兄の娘で皇位を継いでいたアンナ・イワノブナ皇帝に提出し、元老院への報告書も提出した。最終的には2年後の1732年6月にベーリング、シュパンベルグ、チリコフの昇給、昇格が認められたがしかし、はじめはその探検航海結果を「成功」と認める意見は少なかったあげく、元老院での報奨金や昇給・昇格の決定が大幅に遅延した。
そこでベーリングは皇帝に、カムチャツカ東方近辺に交易可能なアメリカ存在の可能性が大きい、カムチャツカ東岸で造船木材と食料調達が可能である、カムチャツカやオホーツクからアムール川や日本ルート開拓は有利である、人件費や入手不可能資材を除いた費用は1万から1万2千ルーブルである、北方やシベリヤ沿岸地図作製は良策であるなど、5項目に渡る提案書を提出した。
特に第3項目の日本については、
カムチャツカかオホーツク川から、人が住むという事実が知られているアムール川または日本に至る海路の発見は、有利でない事もありません。こんな人々との交易開始は、特に日本に関しては大きな利益が有るでしょう。オホーツク海には我が船舶がありませんので、日本からの交易船が半ばまで出て来ることを了解して貰えると思います。この遠征のために上述の通りの、あるいは少し小型の船1艘が必要です。
と言うものである。
この献策は了承され、ヴィトゥス・ベーリングにオホーツクに本格的な港湾基地を作る事から始める探検再開の許可が出た。そして日本行き海路の開拓責任者にマルティン・シュパンベルグが任命されたのだ。
こうしてロシアは以下に書く通り、オホーツクを起点にカムチャツカ半島西岸のボルシャヤ川河口を経由し、千島列島伝いに南下し日本に至る航路を開拓する事になる。
一方のベーリングはその後1741(寛保元)年6月4日、カムチャツカから第2次探検に出発した後7月17日、アラスカ南岸を発見したが、帰還時に嵐に巻き込まれ、1741年12月6日ベーリング島で死亡し現地に埋葬された。
シュパンベルグ隊の日本探検航海
典拠:"Russian Expansion on the Pacific, 1641-1850" by F. A. Golder, The Arthur H. Clark Company, Cleveland: 1914. P.220-231
〔以下の西暦記述は全てロシア、ユリウス暦〕
♦ シュパンベルグへの命令書
日本に分遣されるシュパンベルグへ与えられた命令は、
1、オホーツクかカムチャツカで3艘の船を造り、日本行き航路を確立する事。
2、カムチャツカ岬と日本の間にある島々を調査する事。その幾つかはロシア領であるが、若し日本領があればそれを記録し、島民との友好を確立する事。
3、そこから日本に向かい、日本政府、港湾、住民との友好確立の可能性を調査する事。
4、若しカムチャツカで日本人漂流者を発見したら、日本への友好の印に送還する事。この日本人送還は寄港の良い理由になり、送還願望の表示である。
5、万一日本政府が送還者の受取りを拒否したら適地に上陸させ、自由帰還に任せよ。如何なる場合も友好を掲げ、常習的なアジア的交際嫌いの克服に勤めよ。
6、日本においては注意深く、日本人を立腹させる如何なる行為をも避けよ。
7、彼らに伝えたことを信じなかった場合に対処し、彼らからの計略や攻撃を受けない様にし、不必要な滞在をしない事。
以上であったが、カムチャツカ半島から南下し、千島列島を調査しながら日本に至る海路を開発せよ、と言う指令書である。
この日本人漂流者については上述の如く、1697年にカムチャツカ半島西岸のイチャ川で救出された伝兵衛やその後の漂着者の件が知られていたから、更なる漂流者の可能性についての言及である。
♦ シュパンベルグ隊、第1回目の日本行きの試み
シュパンベルグは1735(享保20)年にオホーツクに到着し、3年かけて造船し、遠征の準備を整えた。1738年6月18日(G暦、6月29日、元文3年5月13日)、シュパンベルグは旗艦のミハイル号に乗り、ウォルトン船長のナデジダ号、シェルティング船長のセント・ガブリエル号を従えた3艘の船団に151人が乗り組み、オホーツクから出港したが海氷に出合い、カムチャツカ半島西岸のボルシャヤ川河口に避難し、7月15日まで足止めを余儀なくされた。再出発の後、霧の中で3艘は互いの位置を見失った。シュパンベルグの乗る旗艦・ミハイル号は千島列島の西海岸沿いを南下し、途中29あまりの島々を発見して命名したが海岸が険しく上陸は出来なかった。しかし得撫島(Urup island)を発見したところで未知領域の航海の危険を認識し、南下継続を中止して帰還に転じ、8月17日に再びボルシャヤ川河口に帰り着いた。セント・ガブリエル号は既に帰還していたが、1週間後にナデジダ号も帰還して北緯43度30分までの南下を報告したが、これはほゞ根室の緯度である。
シュパンベルグはこのボルシャヤ川河口の越冬中に、千島列島の険しい島々の海岸に上陸しやすい、喫水が浅くオール付きの小型帆船・ボルシェレツク号を造った。
♦ シュパンベルグ隊、第2回目の日本行きの試み
< シュパンベルグ自身の行動 >
1739(元文4)年5月21日、4艘の船団は再び日本探検に出発した。千島列島の最初の島・占守島(Shumushu island)で通訳を雇い入れ、ウォルトン船長にセント・ガブリエル号を預け、シェルティング船長にナデジダ号を預けた。ここから昨夏に探検した千島列島の位置を参考に、東南方向に北緯42度のほぼ、えりも岬の緯度まで南下したがその他の島を発見できず、西南方向に転じた。
途中ウォルトンの乗るセント・ガブリエル号とははぐれたが、6月16日(G暦、6月27日、元文4年5月22日)、緯度39°でシュパンベルグの乗る旗艦・ミハイル号は日本を認め、そのまま陸沿いに2日間南下し、6月18日(
G暦、6月29日、元文4年5月24日)緯度38°41′に3艘で錨を入れた。
日本側の記録では、ここは「宮城県石巻市網地島(あじしま)の沖」である。デッキからは村々や耕作地、森や、海上の小舟が見えた。シュパンベルグは近くまで来た2艘の小舟にもっと近寄る様に合図したが小舟の方はロシア側が上陸する様に合図をして来た。そこで警戒したシュパンベルグは錨を揚げ現場を離れ、暫らく近辺を移動した。
この時の日本側の記録は次の様なものである。
「奥州仙台異国船之沙汰」〔元文世説雑録巻之二十、『近世風俗見聞集第二』、国書刊行会、大正二年三月三十日〕
一、元文四年未五月二十五日。牡鹿郡の崎 離島 網島〔以下網地島・あじしま。宮城県石巻市網地島〕と申す所御座候。所の者 当所肴町へ参り候て申し候は、網地島沖 異国船二艘見え候由。漁船を乗出し見物致し候處に、船形四角にて、三千程も積申すべき程に御座候。一艘の船印は黒地に筋違に十文字、又一艘は八丈敷程の猩々緋の様なる大船印、船は黒塗の様に見え候。鉄をのべたるごとく丈夫に御座候。船の両脇は例のごとく大石火矢号を仕懸けこれ有り、一艘七十人程も乗組申し候かと見え申し候。右の者共も近附き難く、乗戻し候と申し候由。追々村中寄合、早速御上へも相達し候て、若彼の御用意左の通。(以下略)
一、一昨日南坂本 荒浜両所より、沖に異国船三艘見え候由 相達候。右荒浜へ鈴木牧太郎殿、今日急に相下され候。
「網島沖へ見え申候船御座候由」〔元文世説雑録巻之二十、同上〕
亘理荒浜〔宮城県亘理郡亘理町〕より同船に見付候て、申し候事も御座候哉、別船にて御座候哉、魚船にても御座有るべき候かと存ざれ候。唐船に御座候はば、文通にても済申すべく候得共、近寄申し候へば、惣髪 長髪の男両人出候て、二尺五寸程の黒塗の箱を出し、見せ候由に御座候。然共 阿蘭陀船の類にも御座有べく候哉と存ざれ候。何等にも今日迄も方便にて、島の沙汰 相知申さず候。珍敷事に候間、下され見物仕るべく心懸 罷在り候。今日迄の唱 急に相認申し候間、早々乍ら申し上げ候。(以下略)
この日本側の記録から見て、シュパンベルグは水を入れる箱とおぼしきものを見せて水を汲みたいと言う意思表示した様だが良く通じず、双方警戒する内に錨を揚げ現場を離れたわけである。
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石巻市網地島、宮城県亘理郡亘理町荒浜、
鴨川市天津小湊町天津、下田町
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その後シュパンベルグは陸沿いに移動し、6月22日(G暦1739年7月3日、元文4年5月28日)に緯度37°30′でまた錨を入れた。日本側の記録では、ここは「宮城県亘理郡山元町坂元あるいは、宮城県亘理郡亘理町荒浜」である。
浜からいぶかしげに見ていた人々は2艘の舟で近付き、金銭、米、たばこ魚などを持って来て、ロシア船の出した品と交換した。1日か2日後に4人の役人が乗り込んで来たので、ブランデーとロシア料理を出しもてなした。シュパンベルグが地図
〔日本側の記録からは地球儀。下記の「地球の様なる物」〕を出して見せると各地を認識して「ここは日本だ」と言ったので、目的を達したと思い、それ以上の長居をせずに引き返すことにした。
この時の日本側の記録は次の様なものであるが、日本側の「二十一日」と言う日付以外は、以上のロシア側の記述と良く合致する。
「網地島沖へ見え申候船御座候由」〔元文世説雑録巻之二十、同上、の続き〕
一、昨二十九日の朝、網地島の者 肴町へ参り候。此者共の内 八之丞と申す者、一昨二十八日漁船に出候節、五 六人にて唐船の側 通候得ば、唐船より手招き致候故、近寄申し候処に、手を取船中へ引入る。先達て委しく見申し候。持合の鯛一枚唐人に遣申し候へば、殊の外悦申し候て、マメイタ〔銀銭〕の様の物 五つ貰い申し候。又一人は平目一枚遣し申し候へば、虎の皮の様なる頭巾、替りにくれ申し候。長崎にて給候様に十人計打寄、シッポコ〔江戸時代の支那料理〕の様に寄合い居り候処へ参り候て、右の喰物手を出し乞望申し候へば、又四斗桶ほどの物より取出し、串柿の様なる物貰い申し候。右三人共に肴町へ持参仕候て見せ申し候。持参の刻 御上へ申上げ候故、マメイタ計と申し候。五リン程これ有るべく候。去り乍ら薄く唐桐の葉の様にて、裏の方へ石畳の模様御座り候。鯛一枚、銀五ッ積にくれ申し候。中々しわき唐人と見え申し候。先書申し上候二艘は、三艘に相違無く御座候。船丈夫にて、言語及ばず結構の由に御座候。沖に浮びたるに乗候にも、少もゆれ申さず候。何れも六尺づヽの人、器量に見え申し候由。右の内 六歳計の者と見え申し候者御座候処に、子供かと存候へば髭 はへ申し候。
一、唐犬六尺計もこれ有るべく候由。
一、石火矢二挺仕懸置き候由。
「所の者船に乗入見届候品々覚書」〔元文世説雑録巻之二十、同上〕
一、食物 麦粉餅 干堅候物、雞豚の類の血にて丸め、但し是は阿蘭陀人給候パンと申す物に相見え申し候。
一、右の食物 鬢付〔びんつけ〕の様成物を付け給候。但し、是は阿蘭陀人の給候、ぼうとる〔バター〕と申す物に御座候。
一、酒赤色、又は焼酒の様成る味のもの〔ウォッカ〕を相用、入物は硝子鈴子。
一、日本たばこ、殊の外好物 仕り候。
一、此外 食物色々相見え申し候。
一、太鼓、三味線これ有候。
一、船の内 積物は、皮類多く相見え申し候。
一、地球の様なる物〔地球儀〕を皮にて作り、諸国の図 黒漆にて書付申し候。但し文字は漢字には見え申さず物 所持致し候。尤目通り 表立候道具相見え申さず候。
一、二人鑓を持居申し候。
一、三艘の内、大船へは人参候節 入れ申し候。残り二艘へは此方の人を入れ申さず候。尤も諸事共に大船にて相構 申し候様に相見え申し候。
右の通り、此度 拙僧 見届仕り候。以上。
元文四年未五月晦日、大年寺 役僧 龍門
覚
一、田代浜御役人 千葉勘七、二十一日〔誤転記か〕猟師引連、寄候船へ乗移り、内の様子とくと見届候。右外に別條 御座無く候。たばこを殊外望申し候。きせるも取かへし申さず候。鉄ばりのきせるは、見候て其儘返し申し候由。文金〔元文金〕一歩 所持、勘七に見せ申し候。勘七不審に存、特と見申し候処に、文金に紛れ無く御座候。船の底 覗き申し候処に、見せ申さず候。以上。五月晦日。
〔「田代浜」は、宮城県石巻市田代島内の地名。「大年寺」は宮城県仙台市内にあるが、現在の寺と同じかは不明〕
< ウォルトンの行動 >
一方、千島列島の最初の島・占守島(Shumushu island)を出発後旗艦からはぐれたウォルトンの乗るセント・ガブリエル号は同様に西南の進路を取り、1739年6月16日(G暦27日)北緯37度42分(ほぼ福島の緯度)で日本を認識し、翌日1739年6月17日(G暦28日、元文4年5月23日)に日本舟に出合い後について行くと、北緯34度16分にある大きな町に来た。(日本側記録によると北緯35度7分の千葉県安房郡天津小湊町天津)。現地の人の案内でウォルトンは船のボートを降し、8人の船員を水くみに派遣した。途中多くの小舟に会い、浜には大勢が見物していた。日本人が2つの水桶に水を入れてくれた。船員は一軒の家に招待され酒と食べ物が出された。船員達は近所を歩き回り、やがて本船に戻った。多くの日本舟も後について来たが、中に役人もいて、セント・ガブリエル号に乗船し、酒と食べ物でウォルトンの歓迎を受けた。この間にロシア船の中ではロシア人と日本人との品物の交換が行われた。ロシア船の中にはすでに多くの日本人が乗り込んでいたので、突発事故を心配したウォルトンは錨を揚げ、日本人の役人が下船すると直ぐにその場を離れた。
この時の日本側の記録は次の如くである。
「原新六郎様御代官所、房州天津村浦方府入」〔元文世説雑録巻之二十一、同上。原新六郎は房州代官)〕
原新六郎様御代官所、房州天津村浦方府入と申す所へ、異国人と相見え候者、先月二十五日、長さ四間 横一間餘、深さ五尺程の黒色の傳馬船に乗、陸へ水取に上り候に付、見懸の者共 名主杯御呼、新六郎様にて様子御聞遊され候由、左の通。
一、右浦方の納屋に住居り仕候 猟師太郎兵衛、満右衛門と申す者、納屋に居合せ候。異国人と相見え申し候者、八人船より上り、春慶色〔赤黄色〕の高さ五尺餘、廻り五尺程の桶を持来り、右両人井戸際に汲置候水を桶に入れ、猶更 釣り瓶にて汲入れ仕廻り候て、頭立候者 前に貴き候球十七連、外に玉七つ指置き、中音にて物申し目礼いたし候へ共、言葉通じ申さず候由。井戸際に 太郎兵衛家 上り口に一人腰掛け、側にこれ有り多葉粉盆引寄せ、盆にこれ有り多葉粉を呑み候由。家続き 市右衛門と申す者の戸口に差置き候大根四 五本取候て、銀の様なる物差置き候。右両人地主五郎助儀、早速に本村名主組頭へ知せに罷越し候内、船乗出し候に付き、猟船にて追懸け候へ共追付きがたく、其内に元船に乗移り候。船の大さ二里餘隔て、遠目に見候処に、長さ十八間 横四 五間程、腰廻り黒く少し赤色見請け候由。人数二 三十人も乗り候體にて、出船の節鉄砲を放ち、南洋へ遠行候由。
一、右八人の内一人 頭立候と見え、鐃鉢〔にょうはち、仏教で用いる銅製で丸い皿のような体鳴楽器〕の様なる縁のそり返り候黒き笠をかぶり、腰にきせる筒の様なる物を下げ候。外七人は、水龍の形いたし候黒色柿色の毛織と見え候頭巾をかぶり候。右頭立候者の指図を請け候體に相見え候由。
一、着いたし候物は、何も羅紗毛織の類にて、小手袖に仕、黒立付〔たっつけ、短い袴に脚絆を縫い付けた形〕の様なるを着し、黒履〔くつ〕をはき、其上に黒き羽織の様なる物、裾 四ヶ所程明け 膝まで懸り候を覆〔おおい〕にいたし、胸腹等ぼたんとめに仕候。八人共に長け六尺餘にて、頭巾取り候の髪毛、薄赤く短く 髭少々相見え、顔の色日本人に替わり候儀これ無く、目色薄赤く猿眼にて、見馴ざる人體 畏敷く存、捕へ候心付もこれ無く、本村名主宿 五六町程隔て候所へ、告に参り候内に出船仕り候由。右は名主 組頭併て所々の者共申す趣、書面の通りに御座候。尤も玉銀の様なる物の外に、指置き候品御座無く候。此方より遣し候品もこれ無き由申し候。外に疑敷き儀も承ず候段、新六郎様 仰せ達され候。阿蘭陀人にて御座有るべく候哉、則 指置き候品々の袋、併て見懸け候船圖一枚、異国人の絵一枚 指上申し候。以上。未六月。
ウォルトンはここ房州天津村から更に陸地に沿って南下したが、日本側記録では、伊豆の下田町でこのロシア船を見かけた記録がある。
この時の日本側の記録は次の如くである。
「又一節」〔元文世説雑録巻之二十一、同上〕
元文四年己未の五月二十四日(1739年6月18日、G暦29日)、伊豆国賀茂郡下田町沖の方を通り候異国船、(〔源註〕右房州天津村船に同じき故に略す)、船中も異国人三十人程に相見え申し候。奉行一色宮内 組与力、併て下田町名主年寄等、船にて追懸け見付申し候。
こうしてウォルトンの乗るセント・ガブリエル号は、北緯33度28分まで到達した所から北上を開始し、1739年7月23日(G暦8月3日、元文4年6月29日)、カムチャツカ半島西岸のボルシャヤ川河口に帰着した。その3日後には小型帆船・ボルシェレツク号も無事帰還した。
< 上陸したのはロシア人だった、という日本側の確認 >
〔『近藤正斎全集 第1』、「邊要分界圖考・巻之七」、
国書刊行会、明治三十八年十一月二十五日〕
ここで、上記「網地島沖へ見え申候船御座候由」の文中の「持合の鯛一枚唐人に遣申し候へば、殊の外悦申し候て、マメイタの様の物 五つ貰い申し候」とある銀銭や「原新六郎様御代官所、房州天津村浦方府入」の文中の「市右衛門と申す者の戸口に差置き候大根四 五本取候て、銀の様なる物差置き候」とある銀銭は、後日夫々奥州の役人や房州代官・原新六郎からその他の残留物と共に幕閣に提出、報告され、幕府はこれを長崎のオランダ商館に送り鑑定を求めた。
商館長は入港していたオランダ船の船長に銀貨を示して確認した所、それはロシアの「コペック銀貨」であると断言した〔"The Deshima Diaries. Marginaria 1700-1740". The Japan-Netherlands Institute, Tokyo, 1992. P.492〕。その結果この船はロシア船であることが判明したが、この時日本側は更に商館長から、初めて知るロシアについて、国の大きさ、バタビアからの距離、日本からの距離、ロシアのある方角、ロシア船の構造等々、より詳しい情報を聞き出している。
しかし三艘もの黒船が来て水汲みに上陸されても、まだそれ程外国船に対する危機意識もない幕閣は、元文4(1739)年6月付けで幕閣・松平乗邑が勘定奉行宛てに「当五月下旬より奥州辺り、房州筋海上へ異国船相見え申し候由。陸へ揚り候はば、おさえ置き注意これ有るべき旨申し渡し置き候。捕え候刻、逃げ去り候はば、その分にいたし、一両人留め置き候ても苦しからず間、その趣致すべく候」と言う通達を出しただけである。捕縛しても、逃げられてもかまわないと言う曖昧さであった。
♦ シュパンベルグ隊、第3回目の日本行きの試み
第2回目の探検結果をベーリングに報告したシュパンベルグは、船団の離散で十分に調査が出来なかった千島列島も含め、再調査を申請し、結果的に本国政府や海軍本部も含め、第3回目の調査が決定された。
この間には日々の記録の不備や、士官同士や士官と船員間の不和など、必要な資材や食料も不足する程の困難を含む測量航海中のストレスから、信頼できる航海記録が欠如していた。ロシア本国の海軍本部でさえも1746(延享3)年になって「航海記録の精査の後、ウォルトンは明らかに日本の東海岸に到達したが、シュパンベルグは日本に到達した様だが、航海記録からはそうは見えない」、と言う報告書まで出している〔"Russian Expansion on the Pacific". P. 227, note #448〕。
さて、1742年5月23日(G暦6月3日、寛保2年5月1日)、改めて日本への探検を主目的とした第三次航海が行われることになり、1隻を新造追加して合計4艘、164人乗り組みの船団でボルシャヤ川河口のボリシェレツクを出航した。
今回はサンクト・ぺテルブルクの日本語学校で伝兵衛や三右衛門〔サニマ〕の後を継いでいた同じ漂流民出身の権蔵と宗蔵から日本語を学んだ2人の学生も加わっていた〔"Russian Expansion on the Pacific". P. 228, note #450〕が、日本との更なる接触を目論んでいたのだ。ロシアの日本語学校は1705年に伝兵衛によりサンクト・ペテルブルクで開かれて以来、その他の日本人遭難者も加わり、37年以上も続いている事になる。
船団はカムチャツカから南へ進路を取り、千島列島の最初の島・占守島(Shumushu island)で現地語の通訳を雇い、5月30日に南西に向かい航海を継続するが、又濃霧に突入し船団は離散してしまった。そしてシュパンベルグの乗る新造した旗艦・セント・ジョーン号は岩手県中部に当たる緯度まで南下した様だが浸水が発見され、帰還を余儀なくされた。
細部を省略する事になるが、この第3次の探検航海では、シュパンベルグがカムチャツカ半島を出発する前にナデジダ号に命じた、オホーツク海の西岸をオホーツクからアムール川の河口までの測量が唯一の成果だった。シュパンベルグの日本行きの第3回目の遠征は失敗の連続で、全船がオホーツクに帰り、ほとんど成果がない遠征が終わった。
足の速いロシアのシベリア東進と、日本に向けた南下
こうしてロシア帝国は、1581(天正9)年にコサックの首領・イェルマークが東方のシベリアに向け遠征に出発した後、1697(元禄10)年にコサック隊長・アトラソフが北方から陸路でカムチャツカ半島の調査探検を行った時まで、およそ1世紀の間に、あの広大な大陸を東方へ占拠、横断して太平洋岸にまで達したのだ。これはサンクト・ペテルブルクから東に向かいユーラシア大陸の東端まで、ほゞ9,000Kmにも上る距離であるが、またこれは、サンクト・ペテルブルクの位置する北緯60度線を東に向かいほゞ地球を半周しようとする程の距離でもある。
上記の如くシュパンベルグ隊の探検で、ロシアはオホーツク川河口のオホーツクを足場に海路カムチャッカ半島に渡り、千島列島沿いを南下する日本行きの海路を明確に確立した。その後多くの猟師や毛皮商人たちが徐々にラッコを追って千島列島を南下していたが、ついに安永7(1778)年6月、得撫島まで大船で来ていたイルクーツクのロシア商人・シャバリンが小船3艘に乗った30人を根室の霧多布に送って来た。彼らは松前藩の現地請負商人の出張所である運上屋に居た上乗り役人に書翰と贈り物を提出し、貿易の開始を要請してきた事件である。この時の商船にはサンクト・ペテルブルクからイルクーツクに移った日本語学校の卒業生で、同じく日本人漂流者の勝左衛門や利八郎から日本語を学び、日本語が出来る「ビヨトロ」が乗っていた〔『蝦夷拾遺』、著者:青島俊蔵・他、「蝦夷拾遺別巻・赤人之説」、国立国会図書館、請求記号:831-58。また「ビヨトロ」は「オチェレジン」とも〕。松前藩では長崎に行く様に諭して引き取らせそれ以上の事件にはならなかったが、いよいよここに、日本とロシアの直接の接触が始まったのである。
この様に日本の北方ではロシアの活動と南下の噂が増え、この実態は天明五(1785)年と翌六年に老中・田沼意次が派遣した蝦夷地探検隊によって明らかになったが、その後松平定信との幕閣交代による方針変更で日本の北方脅威に対する対応が混乱する事になり、現地に行って苦労して調査した記録まで封印されてしまう。
その後も1792(寛政4)年10月、大黒屋光太夫たち漂流者を伴った使節・アダム・ラクスマンがオホーツクとカムチャッカ経由で根室に来て通商を求めたり、ロシア皇帝の勅令により、1799年7月8日(G暦7月19日、寛政11年6月17日)に創立された交易会社の「ロシア・アメリカ会社〔露米会社〕」がベーリングにより発見されたアラスカ経営に乗り出し、その責任者のニコライ・レザノフがアラスカでの食料供給問題を解決しようと日本に通商を求めて来る事になる。
しかしロシアによる、このシベリアの更に東の海を隔てた新開拓地・アラスカの経営は、陸続きのシベリアの征服とは異なる問題の山積で困難を極め、ついに1867(慶応3)年3月30日の調印と共に720万ドルの小切手が切られ、新興国アメリカ合衆国に売却される事になって行く。