日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ラナルド・マクドナルド

♦ 日本初の英語教師、ラナルド・マクドナルド
(参照典拠:Ranald MacDonald, The Narrative of His Life, 1824-1894, Annotated and Edited by William S. Lewis & Naojiro Murakami. Oregon Historical Society Press. 1990)

ラナルド・マクドナルドは1824年、現在のオレゴン州アストリア生まれのアメリカ人だが、土地のチヌーク・インディアンを母に持ち、スコットランド生まれのイギリス人を父に持つ混血児だった。父親のアーチボルト・マクドナルドは、古くから毛皮取引で有名な「ハドソンズ・ベイ・カンパニー」で働き、後に現地取引主任になり支配人になった人物だ。若いころは、ハドソンズ・ベイ・カンパニーの各地の出先基地を回っては、現地のインディアンや白人の毛皮猟師たちと取引をしていた。

チヌーク・インディアンはおとなしい種族で、太平洋岸の海や川での漁業や森の狩猟で生活をしていた。主としてアメリカのワシントン州とオレゴン州の境のコロンビア河の下流近辺に住んでいた。ラナルドは生まれて間もなく母親を亡くし、10才頃迄は白人女性と再婚した父親の家族と母方のインディアン家族の間を行き来していたようだ。 10才になると父親の意思で各地のミッション・スクールで家族から離れて教育を受け、カナダのオンタリオ州セント・トーマスで見習い銀行員になった。ラナルドの父親とこれら教育者との間の書簡から想像すると、ラナルドの教育は父親の期待通りにはならなかったようだ。そしてある日、ラナルドは自分が完全な白人ではなく、インディアンとの混血である事を知って船乗りになった。

ラナルドの言葉によると、そのころ読んだり聞いたりした日本が、自分の体に半分流れる血の、アメリカ・インディアン発祥の地であると信じ、日本こそが「我が先祖の地」であると固く心に決めた。そして何とか我が先祖の地に行き、その言葉を習い、そこに来る白人達の通訳として仕事が出来る事を考え始めた。24才のことだ。

これに関し、ラナルドの幼少時の一体験がこの意思決定に影響を与えたと述べる記述が、オレゴン歴史協会の季刊誌に「古いアストリアの英雄」(「A Hero of Old Astoria」 by Eva Emery Dye, The Quarterly of the Oregon Historical Society, Vol. 12, No. 3 (Sep., 1911) )と題し載っている。ラナルドがバンクーバー砦に居る時、本サイトのハドソンズ・ベイ・カンパニー筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) の最後に書いた様に、マクローリン博士に救助された「音吉、岩吉、久吉」の3人の日本人遭難者がバンクーバー砦に来たのだ。この季刊誌いわく、

マクローリンがその本部を新しいバンクーバー砦に移した時、幼少のラナルドも一緒に行ったが、8才の子供の時に、1832年に難破漂流した船から3人の日本人がバンクーバー砦に連れて来られた。この出来事がマクドナルドの未来の物語を決めたのだ。彼はこの遭難者たちと知り合いになり、彼等の幾つかの言葉を学び、彼等の素晴らしい国に行き たいと熱意を燃え立たせられたのだ。

この著者のエバ・エメリー・ダイ( Eva Emery Dye )は、以前ラナルドに直接会い、ラナルドの冒険話を聞いて感激し、「オレゴンンのマクドナルド」(「McDonald of Oregon, A Tale of Two Shores」, Chicago, A. C. McClung & Co., 1906)と題するマクドナルドのノンフィクションを書いた人である。その著書「オレゴンンのマクドナルド」の中で、救出された3人がバンクーバー砦に来てマクローリン博士の世話になると、砦に住んでいたマクドナルドが15才の音吉と意思の疎通が出来るようになった。岩吉とその息子の音吉(筆者注:"その息子" は誤解)、航海士の久吉という3人の名前や、船の積荷は綿布、陶器、コメなどを積んでいたが嵐で舵を折り、漂流した事などが分かったと表現している。

その後にマクドナルドは、下記に載せるハワイの「フレンド紙」が伝える様に捕鯨船に乗り組み、蝦夷地の利尻島に遭難者を装って上陸した。そこで日本の役人に保護され、宗谷、松前を経由して長崎に送られた。取り調べが済むと長崎の蘭語通詞たちに英語を教えたが、その中にはペリー提督来航時に蘭語通詞として活躍した森山栄之助がいた。この様な細部について、ラナルド・マクドナルド自身の書いた冒険記、即ち上記の「 Ranald MacDonald 」は日本語の翻訳が出版されている。

♦ ハワイ、「フレンド紙」の報道
(典拠:The Friend, Honolulu, December 1, 1848, Vol. 6 No. 12.)

1848年12月1日発行の、ホノルル「フレンド紙」の第3面から4面に渡って掲載された「一船員の日本侵入の試み」と題された記事は、ラナルド・マクドナルド自身が書いた冒険記である上記の「 Ranald MacDonald 」第6章にある日本上陸部分と表裏一体をなす、誠に興味深い記事である。いわく、

一船員の日本侵入の試み
 支那とオランダを除く日本の鎖国体制は終わりを告げ、地球上の諸国と日本との通商が開かれる時期が急速に近づきつつあるという、ますます高まる確信が文明世界にはある。時としてイギリス東インド艦隊が日本沿岸を遊弋(ゆうよく)しているという噂が聞こえ我々がそれを信用するや否や、それは単なる噂だと分かった。アメリカの提督が砲艦を率いて日本に向かっているという報道が世界を駆け回っている。―――今こそ何かが起こる時だ!威厳ある船が江戸近辺に停泊している。日本の役人達と話をしている。皇帝が、「大船」に必要な物を供給し、錨を揚げさせ、出帆させ再び近づかせるなという命令を出した!こんな全ての事は最も礼儀正しくしかも民間のやり方でなされたが、勇ましい提督には何が出来るかだ。提督はイギリスと戦ったが日本とは戦ってはならないのだ。

 世界の偉大な商業と海軍を持つ国家が、ある偉大な遠征を塾考している間に、おびただしい我が捕鯨船は日本との通商を開く為にいろいろな事を成している。「マンハッタン号」の日本行きは、「コロンバス号」より遥かに成功している(フレンド紙の1847年2月2日と9月2日版を参照)。昨シーズン中に日本海に航海した船の数は、二十隻などという数ではなく数百隻の船が日本の海岸を見渡せる近海を帆走している。何隻もの捕鯨船は日本船に出合い、彼らと礼儀を交換し、ある場合には難破した船を救助している。


1842年当時、多くの捕鯨船が停泊するラハイナの町
Image credit: © Courtesy of the Old Lahaina Courthouse, Lahaina,
Maui, Hawaii. (http://lahainarestoration.org/old-lahaina-courthouse/)

 あとしばらくの間読者の皆さんは、イギリス海軍やフランス海軍、更には合衆国海軍によって日本が征服され或いは開国されるという話の恩恵を受けそうもないが、船と陸に関心を寄せる我が読者は、次に載せるエドワーズ船長のサグ・ハーバーのアメリカ捕鯨船「プリマス号」に乗組むある船員の冒険に関する事実と文書に興味を抱かないという事もないであろう。若し彼の計画が、「イギリス海軍本部委員会」或いは「アメリカ海軍省」から発せられるほど壮大なスケールではなく、さしあたって彼の目的をかなえるだけのものであるのなら、確かに「頭で考えた」だけものである。「プリマス号」が合衆国から出帆した時にラナルド・マクドナルドという名の男が乗り組んでいたようである。2年間の乗り組みの後、1847年の秋にラハイナで彼は、若しエドワーズ船長が次の季節に日本の海岸の何処かで彼を下船させることに同意しなければ、解雇放免してくれる様に要請した。若いマクドナルドは、コロンビアのコルビル砦の前ハドソン・ベイ会社の社員であったアーチボルド・マクドナルドの息子である。ホノルルのハドソン・ベイ会社の代理人に問い合わせたところ、この若者は良い教育を受けたが、陸上で商人として生活するよりは海上生活に身を投じたのだった。「プリモス号」がラハイナを出帆した後すぐに、密封 された日本帝国へ侵入するための手はずを整え準備を始めた。―――エドワーズ船長は彼に船の中でも最良のボートを選ばせた。船大工はボートを部分的にデッキで覆った。彼の持ち物全てを載せ終わると、彼はその危険で大胆な企てに乗り出した。一人の船乗り仲間が、マクドナルドの企ての成り行きについて彼の日誌からの抜粋を我々に提供してくれた。即ち、

日本海、ティーシー島(筆者注:北海道の礼文島)、1848年6月28日
 木曜日の今朝早朝4時に全員が集められ、主檣のトップスル(上檣帆)と上檣のトガラン(上檣帆)の縮帆部が解かれ、帆が張られた。適当な微風が右舷側から吹き、ティーシー島(筆者注:北海道の礼文島)へ舵を向けた。素晴らしい朝で、島の周辺には軽い霧がかかっていたが、我々が島に近づくと緑に覆われた丘陵がはっきり見えた。―――午前9時まで停船し、全員が集められ、主帆桁が後方へ持ち上げられた。我々はボートを降し、水や各種の食料を載せた。ボートは垂下竜骨構造で部分デッキがあり、同種のボートに比べれば非常に強靭だった。我々の乗組員の1人が唯一の航海士として乗組むのだ。―――

 全ての彼の持ち物が積み込まれたあと、彼は牽引綱のある後方へ行き、2人の男がボートの中でボート操作の調整を手伝った。ボートの操作調整が済むと本船に戻った。彼は牽引綱を解き放ち、永久に我々の船から切り離された!彼の小さい船は矢のように波を突っ切った。勇敢な冒険者の最後の姿を見るため全員が後部に集まった。彼は帽子を取り無言で打ち振った。船の仲間達も同様のしぐさで返答した。直ちに主帆桁を固定する命令が出され、堂々たる船は反対の方角に進んだ。我々の船のマストからは彼が姿を消すまで裸眼でも確認できたが、次いで望遠鏡が交互に手渡され、小船の最後の行方を確認した。彼が我々の視界から永久に消え去るまでマストの上から見守られた。

 乗船者全員が、そんな状況下で仲間が船を離れるのを悲しく思った。彼は良い船員で、充分に教育を受け、堅固な心を持ち、彼が乗り出した探検は充分に計算されていた。彼の意図は、この島に滞在し日本語を学び、そこから日本の主都である江戸に行き、そして若しイギリスやアメリカが日本人と取引を始めれば彼は通訳としての職につけるだろうという事だった。彼は決して口では言わず秘密のやり方であったが、他の意図も持っていた。最後にこの小さい船を見た時、それは島の北側の小さい入り江に向かって停船していた。

 彼はおよそ5フィート7インチの背丈があり、ずんぐりした姿勢で、まっすぐな髪の毛を持つ色黒の男だった。ここを去る時それは彼の希望であり、1年前に我々が港を出る時も同様な希望だった。彼のボートと、四分儀、「概略として」、2挺のピストル、小さい水入りの2樽、肉を入れた小樽、パンを入れた樽、錨、35尋(ひろ)の綱2本、そしてオール1組といった彼の積荷を封印した捕鯨船での航海は快適だった。彼個人用の蓋つきの大箱は各種の書籍でほぼ満杯だった。エドワーズ船長はマクドナルドに、彼が捕鯨船の傍らから離れるまでそんな危険な航海はするなと忠告していたので、誰も船長にこの男とそんなやり方で分れたことに文句は言えない。しかしもう彼の決心は不変だった。
E.P.F

 次に載せるものは、エドワーズ船長発行の解雇パス或いは証明書の写しである。いわく、

日本海、プリモス号、1848年6月20日
 関係者各位、――ラナルド・マクドナルドは日本列島に向けた冒険に向かうため、まさにプリモス号より解雇され、ボートや諸道具一式は公明正大にまた正当に彼に所属する事を証明するものである。
(サイン)L.B.エドワーズ、プリモス号船主

 エドワーズ船長は我々に、マクドナルドが知り合いに宛てて書いた手紙で、1通は彼の父親宛、もう1通は彼が同居していた親戚宛の2通の封をしていないものを読む許可をくれた。それは非常に良く書けた書簡で、この若者の優れた知識と教育とを証明するものである。我々は無礼を鑑みず、彼の父親に宛てた手紙から幾つかの文章を転載する。いわく、 「私は再び、適当な島或いはスペイン本土で解雇されようという意図でホーン岬を回る航海に出ました。この意図は変え、エドワーズ船長が支那に向かいそこから日本海へ行くので、船長と同行し、彼が日本海を去る前に私を解雇してくれるだろうとの思いで、私の意図を成就すには絶好の機会だと思いました。彼は親切に私に航海方法を教えてくれ、――彼は私に7艘のボートの内から好きなものを選ばせてくれ――更に彼は私に帆と錨、四分儀とコンパス、パン、肉と水、実際私が岸に到着するに必要な全てを揃えてくれました。彼は私が冒険を止める様に納得させようとしましたが、しかし私は行きます―――。」

 マクドナルドの冒険話を読めば誰もが彼に降りかかる運命を是非知りたくなることは疑いない。彼の父親に宛てた手紙は強調された―――で終わっている。我々はその空白を埋める為、唯一の情報を伝える事が出来る。彼が別れてから何日か後、捕鯨船「ユンカス号」がその方面を航海したが、我々があえて「ヤング・プリモス号」と名付けるマクドナルドの小さい船の舵を拾い上げた。その船が岸に着いたか波に飲み込まれたか、深い謎である。次の日本シーズンが終わって捕鯨船が帰港すれば、必要な全ての問い合わせをせねばならない。そしてそれ故に、日本沿岸を航海する如何なる船も若いマクドナルドの幸運か悲痛かの情報を少しでも集めるべきであり、そんな船は我々の願いを聞き、待ち焦がれる両親と知り合いの心を和らげねばならない。ああ、「メイ・フラワー号」をプリマスの岩まで導いたと同じ見えざる手が「ヤング・プリマス号」を導き、その冒険心に満ちた司令官の命を保護せんことを。日本海の冒険家、ラナルド・マクドナルドの大胆で勇敢で危険極まりない企てを、成功という結果で最後を飾る事を熱心に願わない人が誰かいるのか。

この様に、フレンド紙はラナルド・マクドナルドのハワイのマウイ島ラハイナ港出航から、蝦夷地の礼文島へ向かう海上でプリマス号を離れる時までの経緯を伝えている。これは1923年にマクドナルド自身の冒険記が発行される75年前の記事である。

♦ ラナルド・マクドナルドを一旦江戸に送りたいと云う松前藩の現地要望と、阿部伊勢守の指示

日本側の記録によれば、嘉永元(1848)年6月2日、西蝦夷の利尻島へ漂流を装って着岸したラナルド・マクドナルドは島内のノツカ(=野塚)で救助され、宗谷勤番所に送られ警護下に置かれた。その後6月22日付けで藩主・松前昌廣から幕閣へ宛てたこの状況報告と、その処置についての伺い書が出された。いわく、

私領分、西蝦夷地リイシリ島の内字ノツカと申すところに去る2日申刻(筆者注:午後4時前後)頃、異国人1人橋船(=端船)に乗り漂着し、濡れた衣類を着て余程疲れた様子に見受けましたので、直ぐにノツカ番小屋に連れて来て食物などの手当てをした旨、番人共より宗谷勤番所へ訴え出ましたので、同所詰め家来がノツカに行き始末を尋ねたところ、言語が通じないので手真似で尋ねると異国人も同じく手真似で答えるので正確には分かりませんが、沖合で母船に分かれ1人橋船に乗り漂ったが、風波が強くなり橋船は2回転覆し、磁石を海中に失い、当ても無く漂って居る内に高い山を見つけたので漕ぎ寄せて上陸したと聞きましたが、乗って来た橋船には破損もないので帰帆する様に手真似で諭しましたが、こんな小船では大洋を帰帆する事も出来ず当惑する様に見えたので、留置の旨を手真似で諭したところ頷いたので宗谷勤番所に引き取り、番人を付けてあると言う報告が当番家来共よりありました。
異国人が乗って来た橋船の長さは4間位、幅6尺位の由ですが、この船と船具等は役場に引き上げてあります。その外所持の品、送って来た取り調べ報告書を添付しお届け申上げます。この異国人は今後どの様に処置すべきか、お伺い申上げます。
   6月22日、在所日附
松前志摩守
こんな伺い書提出後の7月11日にまた松前志摩守の家来から、蝦夷地の秋は二百十日頃、即ち9月1日頃から以降は海上が荒れて船も通わなくなり、190里程もある宗谷からは役人も松前に引き上げる事になるので、異国人をイシカに引き取っておけば秋冬は過ごせる。しかし、これは幕閣からの通達事項待ちの件ではあるが、万一長崎に移送する事になれば時間がかかる。しかし一旦江戸に送って置けば、「明早春には船便があると思われるので、出来ることなら江戸表へ引き取り申したく存じます」と希望が提出されたが、その記録には「書面漂着の異人一旦江戸表へ引取り候上、都合次第長崎へ差送り候様仕り候事」とこれを許可する「御附札」が載っている。しかし7月19日になると阿部伊勢守から直接の指示が出された。いわく、
上陸した異国人は長崎表で尋問すべき者であるから、先般漂着の異国人と同様に心得て、彼の地に送り遣わす様にする事。且つまた異国人所有の書籍類は、役人立会いの下に封印し、みだりに他見が無い様に取り計らう事。
この様な阿部伊勢守の指示に基づき、松前藩は早速行動を起こしている。そして松前志摩守は9月6日、「リイシリ島のノツカに上陸した異国人1人は昨5日、順風のため江良町村を出帆し、長崎表に護送すると言う報告が出役の家来から来ましたのでお届けいたします」という届を老中宛てに出した。これでマクドナルドは、嘉永元(1848)年6月2日から9月5日まで、ほぼ3ヵ月を蝦夷地で過ごした事になる。

これら日本側の記録で示唆されるように、マクドナルドには一瞬江戸を見る機会が訪れたかに見えたが、伊勢守からの指示で、残念ながら直接長崎行きになってしまった様である。

♦ ラナルド・マクドナルドは「最初の英語教師」という認識

ラナルド・マクドナルドには、稀代の冒険家であり日本における最初の英語教師であった、という認識が日本にもアメリカにもある。しかしこれは、アメリカでの認識が最初であったように見える。

それは、マクドナルドが長崎からラゴダ号船員たちと一緒にプレブル号のグリン中佐に救出され、1849年4月30日、グリン中佐の前で取り調べに応じた調書がアメリカの公式上院文書「32d Congress, 1st Session, SENATE., Ex. Doc. No. 59.   (April 12, 1852)」に載っている。更にこの上院文書発行より早く、この調書内容が「チャイニーズ・レポジトリー(Chinese Repository, Vol. 18, 1849)」の中に「プレブル号の航海(June No. 6, Article 4、Cruse of the U. S. sloop-of-war Preble, commander James Glynn, to Napa and Nagasaki.)」と題し収録された。従ってこの記事は、アジアを中心に世界各地に散らばるアメリカ人や、アメリカ国内の知識階級層の目に留まったはずである。精読した人達は、長崎でマクドナルドが英語を教えた事実を知ったに違いない。

このアメリカの公式上院文書は既に各所で引用したので、ここでは「チャイニーズ・レポジトリー」中に収録された調書内容中のマクドナルドが英語を教えた記述を見てみたい。いわく、

彼(筆者注:マクドナルド)の時間は主に幾人かの土地の人たちに英語を教えるために使われたが、その中でも森山は最も優秀な学習者であった。しかし彼は彼の生徒が英語を知っているよりもっと多くの日本語を知っていると思った。彼は、学習者たちは勉強家で知識欲があったから、彼への比較的親切な扱いはこんな教える努力によるものだと認めた。
またマクドナルド達がオランダ商館に釈放される直前に、救出に来たプレブル号艦長・グリン中佐のアメリカにおける地位を聞かれた。マクドナルドはこれに答えているが、いわく、
彼(筆者注:マクドナルド)の釈放の前日、彼はプレブル号の海軍中佐の相対的な階級を看守から聞かれたが、その答えとして、合衆国の最高位の人から順番に数え上げた。「まず第一に、と彼は言って、私は人民を上げた(日本人はこれを理解できなかった)。次いで大統領、海軍長官、提督、大佐、そして中佐であったが、この階級は非常に高い位で、明らかに彼等の驚きを生んだ」。彼の与えた情報は多分にこの役人・萩原又作(筆者注:字は筆者の想定)の態度を変え、プレブル号が出航する日、この役人はプレブル号を訪れた。
この様に英語を教え、アメリカの民主主義にもとづく考え方を、中佐の階級説明で教えようとしたのだ。

また、ラナルド・マクドナルド自身の書いた1923年発行の冒険記の第16章に、マクドナルドの冒険記の原稿を読んだカナダのモントリオールに住む日本人の長老派教会聖職者・高橋牧師の書簡が引用されている。この1888年の書簡いわく、「マクドナルドは長崎で、愛し尊敬された英語教師として、西洋情報を知りたがった14人の生徒を指導し、生徒たちはそれを良く理解した。マクドナルドは日本における最初の英語の指導者で伝道者であった」と評価された事を載せている。

更に、このプレブル号の救出劇の20年ほどの後、1870(明治3)年12月29日に来日し、福井の藩校で英語や化学を教え、廃藩置県の後は東京に戻り、大学南校(筆者注:東京大学の前身)で正式に化学、生理学、比較言語学を教えたウィリアム・E・グリフィスがいる。このグリフィスが1900年に出版した「東洋のアメリカ(America in the East by William Elliot Griffis, New York, A. S. Barns and Company, 1900)」の中で捕鯨船の日本近海での遭難に触れ、特にマクドナルドについて、
日本の最初の英語教師がこんな遭難した船乗りの中から出て来た。ラナルド・マクドナルドは、我々の支那との貿易の真の果実である――オレゴンのアストリアの定住地の生まれである。・・・

監禁されて釈放された人たちの中に、1825年ころオレゴンのアストリア生まれのロナルド・マクドナルドが居た。彼は捕鯨船「プリモス号」で日本に来て、興味のため自発的に上陸したがしかし強制的に収監された。この聡明な若者は日本における最初の英語の教師で、――東洋の人たちを変化させたアメリカ人の教師による近代英語教育の先駆者である。彼は、今や成文憲法を享受し民主主義に向かっている国家への清教徒教義の持参人であった。何故なら、合衆国の全権力の源を日本役人から問われると、権威の最高から最低まで述べる中で、彼は第一に「人民」――当時の日本人には不可解な言い回しだったが、と答えた。彼の生徒の中には、ペリーの交渉時の通詞を務めた森山が居た。
この様にグリフィスは、当時の日本の最高学府で英語その他の学問を教授した自身の栄光ある経歴に基づき、「日本における最初の英語教師、近代英語教育の先駆者」とラナルド・マクドナルドを認識したのである。

元のページに戻る


コメントは 筆者 までお願いします。
(このサイトの記述及びイメージの全てに著作権が適用されます。)
02/02/2020, (Original since 12/20/2019)