日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ハドソンズ・ベイ・カンパニー、ハドソン湾会社
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♦ ハドソンズ・ベイ・カンパニー、ハドソン湾会社の設立と活動

ハドソン・ベイとヨーク・ファクトリー
Image credit: © 筆者

ハドソンズ・ベイ・カンパニーは、1670(寛文10)年5月2日、ロンドンで設立され、ハドソン湾南岸のヨーク・ファクトリーに拠点を持つ、イギリスの毛皮交易会社であった。当時イギリスのビーバーは捕りつくされ、北米に良質の資源を求め進出したのだ。この会社は驚くことに、1957年まで毛皮交易も行い、現在も本社のあるカナダのオンタリオ州トロントで大規模に小売流通業を営む、北米で最古の会社である。ちなみに2005年の財務諸表を見ると、年間売り上げが約70億カナダ・ドルあり、今日の換算レートで約7千億円である。

当時は遠隔地のインディアンなど毛皮猟師と交易をするため、方々に拠点を構え、自給自足に近い体制を持っていた。そして土地の猟師が持ち込む毛皮をナイフや鍋釜、ビーズや針や毛布などイギリス工業製品や生活必需品、食料などと交換した。交易相手は土地のインディアンや白人猟師である。交換した毛皮は陸路や海路で運ばれ、ロンドンや時には支那までも輸送された。支配領域はハドソン湾からどんどん西に広がり、同様に西海岸を目指し毛皮交易を広げていたノースウエスト・カンパニーと権益が衝突し、小競り合いで血を流す事もしばしばあった。1821年にはイギリス政府の仲介命令で2社は合併した。(ハドソンズ・ベイ・カンパニー自身が書いている歴史については、www.hbc.com/hbcheritage/history/overview.asp を見てください。)

♦ バンクーバー砦

現在のワシントン州バンクーバー市のコロンビア河北岸にあるバンクーバー砦(Fort Vancouver)は、1824(文政7)年にハドソンズ・ベイ・カンパニーの西海岸コロンビア地区本部として建造された中心的な毛皮交易所である。交易品は年に1回ロンドンから太平洋を渡る船便か、ハドソン湾のヨーク・ファクトリーから4,200Kmにも渡る内陸を、主要な交易所を経由し、河川や湖を渡る船や陸路のソリなどでバンクーバー砦に運ばれた。

特に北米西海岸での毛皮交易は、ロッキー山脈の西側で、現在のアメリカ合衆国オレゴン州、ワシントン州から北へ向かいカナダのバンクーバー島やブリティッシュ・コロンビア州で盛んだったが、当時アラスカに進出していた北からのロシア勢力、当時イギリス領・現カナダの東からのイギリス勢力、南からのメキシコ勢力、そしてアメリカ勢力が入り乱れ、利害を争う諍いも多い地域だった。後にこの辺りの国境決定に最終的に関わるのは、イギリスとアメリカである。

バンクーバー砦が出来て20年も経つ頃にはその規模も拡大し、コロンビア河岸から300mほど離れて、しっかり地面に埋め込まれた6mもの高さのある隙間のない丸木の柵璧で囲まれた230m  x 140mほどの敷地があり、木柵の四隅の稜堡には夫々2門の大砲が設置されていた。その柵璧の内部には、倉庫、住居、学校、病院、教会、鍛冶場など各種目的に使われる24棟もの建物があり、2階建ての交易所長の住宅もあり、300人から350人程が働いていたと言うから自給自足も出来る一大設備だった訳だ。砦、即ち交易所の所長は、1824年から1845年まで医者のマクローリン博士であったが、ここで日本人の漂流者との出会いがある。

♦ マクローリン博士の音(乙)吉、岩吉、久吉の救助と送還

1832(天保3)年10月に遭難し漂流した宝順丸の17人の内生き残った3人、音吉、岩吉、久吉は、14ヵ月後の1833年12月ワシントン州フラッタリー 岬に漂着し、土地のマカー・インディアンに救助されたが奴隷にされ労働を強いられていた。このニュースが西海岸のハドソンズ・ベイ・カンパニーのバンクーバー砦の交易所に伝わった。交易所に届いたニュースは、3人の遭難者、岩に座礁した難破船、船の中をあさるインディアン等が描かれた一枚の支那製の紙だったと言う(「Ranald MacDonald, The Narrative of His Life」, Annotated and Edited by William S. Lewis & Naojiro Murakami, Oregon Historical Society Press, 1990. P-121)。

交易所長・マクローリン博士の命令で、1834年に陸路をほぼ330q北北西のフラッタリー岬へ向け救援隊が組織されたが、現地にうまく到着できなかった。次に海路で、ハドソンズ・ベイ・カンパニー所有の帆船・ラマ号に乗ったマクニール船長が派遣され、現地インディアンを虜にし、これとの交換条件で1834年5月、日本人遭難者の3人を救出する事が出来た(同上、「Ranald MacDonald」)。交渉時には2人しか部落に居ず他の1人は内陸部に行っていたので連れ帰れず、次に行った時に連れ帰ったと言う(The Washington Historical Quarterly, Vol. VII No.1. P-62)。

その後マクローリン博士の計らいで救出された3人はハドソンズ・ベイ・カンパニー所有の船でロンドンに送られ、次いでマカオに送られた。しかしその後、アメリカのモリソン号で浦賀に送られて来たが大砲を打ちかけられ帰国が叶わなかった経緯は良く知られているから、ここでは省略する。

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