日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

開国論者の関白・鷹司政通
(典拠:三條實萬(さねつむ)手記  「異賊私記」、東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース)

ペリー提督が幕府に手渡したフィルモア大統領からの国書は直ちに和訳され、幕府の要職者はじめ、嘉永6(1853)年7月12日には、京都所司代・脇坂淡路路守から武家伝奏を通じ、朝廷にも届けられた。これは久里浜で国書を受け取ってから、ほぼ1ヵ月後の事だ。これを見た朝廷関係者は、驚きと共にその意見は分かれた。当時の武家伝奏・三条実万はその7月14日付けの手記にいわく、

東坊城(聡長・ときなが、この後に武家伝奏)の真意は、博陸(はくりく、関白の意)の意見に従うようだ。いささか自分の意見とは異なる。関白殿下の所存は、この国書は大変に平穏で仁慈があり、憎むべくもない。近年は他国との通商を硬く禁止しているが、古くは諸蛮の来信があった。従って交易は何も問題は無い。但しそのやって来る港は長崎と定め、他の港に来る事は禁止し、(若し来たら)打ち払い等が在ってしかるべしと言う事だ。但し、これでは寛に過ぎると言う衆説がある。どうだろう。この(関白の)論が良いかどうか自分では決められないが、こだわり過ぎて、今後、害にならないかと恐れるのだ。

この様に、関白・鷹司政通は 「この国書は大変に平穏で仁慈があり、憎むべくもない」 と理解したわけだ。穏やかで思いやりもあり、悪意は無いと思ったのだ。ペリーからは、英文の国書と共にオランダ語と漢文に翻訳したものも合わせ提出されたから、日本側では、オランダ語からの和訳と漢文からの和訳も作られた。朝廷にはこんな和訳と一緒に、漢文の写しも提出された様だから、おそらく教養のあった関白はどちらも目を通し、こんな理解に至ったのだろう。また、義弟に当る前水戸藩主・徳川斉昭から外交関係の情報が頻繁にもたらされていたとも聞くから、新しく始まった別段風説書などから、世界の動きなどもかなり把握出来ていたのかも知れない。

とにかくこの様に、関白・鷹司政通は開国論者であったのだ。その後太閤になってもこの意見を変えず、影響力を行使した。しかしその後、日米修好通商条約勅許を廻る安政5(1858)年3月12日の「八十八卿の列参」事件後、孝明天皇とそれを支える新興公家の勢力が強くなると、その意見を見事に変え、攘夷の側に立った。

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07/04/2015, (Original since 09/13/2014)