ロシアのアラスカ進出と、クルーゼンシュテルンの世界周航 - 前編
♦ ベーリング島の珍獣・ラッコの発見
前項で記述の「シュパンベルグの日本遠征」の中に書いたように、第1次探検でベーリング海峡を発見したヴィトス・ベーリング(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)はアメリカ大陸の目視あるいは上陸、またそれに代わる物理的な確認がなされないままの帰国であったため、ロシアに帰った後、「アジア大陸とアメリカ大陸間の海峡発見」について厳しい異論や疑問が出た。本当に両大陸を隔てる海峡なのか、という疑問であった。そこでベーリングはアンナ・イヴァノヴナ皇帝に提案書を出し、その許可のもと、日本探検も含めたアメリカ大陸到達のために第2次探検隊を組織し、1741(寛保元)年6月4日、カムチャツカ半島のアヴァチャ湾〔Avacha Bay、後のペトロパブロフスク‐カムチャツキー〕から2艘の船で再度東に向かい、アメリカ大陸に向け出発した。
2艘の船は途中で分かれてしまったが、ベーリング船長の乗るセント・ピーター号はその後7月17日、北米大陸アラスカ南岸で高い山を確認しセント・エライアス山と命名し、また近くのカイアック島を発見して隊員が上陸した。そこから西に向かって帰還時の8月30日、アラスカからアリューシャン列島につながるアラスカ半島横のシュマギン諸島〔コディアック島の南西、500Km〕に停船した時に初めて島のアリュート人と出会った。しかしベーリング船長自身も病気になり、多くの隊員も壊血病で苦しみ船の操作もままならず、更に2週間も嵐に巻き込まれたあげく、11月4日にやっとカムチャッカ半島と思われる場所に緊急避難したが別の島であることが分かり、乗ってきた船も座礁してしまった。ベーリング船長はこの島で越冬中の1741年12月8日(ユリウス暦)、この避難先のベーリング島で死亡し現地に埋葬された。
この時ベーリング島で避難越冬した残りの探検隊員たちは食料不足に苦しみ、海岸近くに多く生息していたラッコや、現在は乱獲のために絶滅してしまったジュゴン科のステラーカイギュウ、更には浜に打ち上げられた鯨を食べ飢えをしのいだ。その後残りの隊員が座礁した船の材料からボートを造り無事にカムチャッカ半島に生還後に、このアリューシャン列島の最西端、ベーリング島のラッコの生息がロシアで広く知られるようになったのだ。
♦ キャフタ貿易により清に向けた毛皮需要が大幅に増加
また「シュパンベルグの日本遠征」の中のネルチンスク条約(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)に書いたように、露・清間の国境問題を解決しようとロシア代表団は1689(元禄2)年に清の康熙帝と和平条約 「ネルチンスク条約」を結んだ。この条約によりロシアは、それまで進出した全てのアムール川流域に対する権利要求を取り下げたがしかし、バイカル湖の東に接する地域の確保や、ネルチンスクを通じた北京との交易ルートの獲得に成功した。更に1727 年に、ネルチンスク条約で未確定だった外モンゴル地域の国境線確定のためロシアと清朝の間で締結された「キャフタ条約」により、交易ルートはその後バイカル湖西岸のイルクーツクを拠点に、イルクーツクに近く、南東へ260Km離れた要塞都市・キャフタを経由する毛皮貿易の大発展につながった。
こんな背景があり、ロシア勢力がシベリアを更に東進しカムチャッカ半島に至る間に清朝で高級毛皮として珍重される黒テンの他、キツネ、リス、オコジョその他のあらゆる種類の森林動物の毛皮を求める猟師や商人たちの東方進出が盛んになった。従来のロシアからヨーロッパ各国市場に向けての毛皮の人気は高かったが、更にキャフタ貿易により清に向けた需要が大幅に増えたのだ。この清朝とロシアとの毛皮貿易は、陸上経由のキャフタ貿易のみが許されていて、しばらく後にイギリスやアメリカの毛皮商人たちに許されたマカオ・広東経由の海上貿易ではなかった。
こんなロシアの毛皮商人や猟師の多くはコサックで、ロシア語で「プロミュシュレンニキ(Promyshlenniki)」と呼ばれた個人的な実業家集団であった。彼らは18世紀から19世紀にかけてのロシアの毛皮貿易業者であり、罠猟師であり、探検家でもあった。ロシアから清へ向けたキャフタ経由の毛皮貿易が拡大する途上で、アリューシャン列島の最西端、ベーリング島における、世界で最も珍重されるラッコの発見があったのだ。
♦ 「プロミュシュレンニキ」の殺到とロシア政府の地図作成
ベーリング島のラッコの毛皮情報が伝わると早速、ラッコやキツネ、アザラシなどの毛皮をも求める商人と猟師、すなわち「プロミュシュレンニキ」と呼ばれた人々の進出が始まった。そんな中でも初期にラッコの毛皮収集に大成功を収めたのは、カムチャッカ半島の海軍の医者であったエミリアン・バソフ(Emilian Bassof)がモスクワの商人アンドレイ・セレブレ二コフ(Andrei Serebrennikof)と組んだ1743年の探検や、1745年から1749年にかけたベーリング島とその東のメドニー島への数回に渡る探検であった〔Hubert Howe Bancroft’s "HISTORY OF ALASKA. 1730-1885." P.99-100〕。
この成功がセント・ピーターズバーグのロシア政府に報告されると、元老院はシベリア総督に命じベーリング探検隊の航海日記や海図、その他の資料を集めさせ、海軍本部に命令し、カムチャッカ半島からベーリング島や当初カッパー島と呼ばれた東隣のメドニー島近海にかけての地図を作成させた〔同、P.101〕。この地図は、その後のプロミュシュレンニキの進出に大いに役立ったという。
♦ 自作の船での渡海
当時のロシア大陸岸のオホーツクやカムチャッカ半島は、ヨーロッパ・ロシアの東の端のフロンティア地域すなわち新天地の中の新天地であったから、十分な探検船もないカムチャッカ半島では、現地で「シティキ(Shitiki/Shitik)」と呼ばれる船底が広く、船体の主要部分が金具を使わず皮ベルトなどで「縫い付けられた」船が多く造られ探検に使われたという。カムチャッカ半島から出発する商人と猟師も併せ、目指す先はベーリング島とその東隣のメドニー島で、ラッコ、キツネ、アザラシの毛皮収集が中心であった。
こんな毛皮収集に挑む商人たちは、まず人員を集めなければならない。そして自己資本の中で船の材料を森から切り出し、船は伐採したばかりの生木で建造されたが、使う道具は通常斧だけであった。従ってよく切れる斧は、ロシアの労働者や狩猟民にとって常に携帯する必要品であった。船を艤装する索具用のロープや錨用のケーブルは、オホーツクから西方に直線距離でも2,600Kmも離れたイルクーツクから荷馬やソリに積んで運ばなければならなかったが、運送中の損傷は避けられず、長い錨用のケーブルはその重量のために何本にも切断しなければならなかった。また食料の小麦粉、肉、その他の食材は、オホーツクから西方に2,000Kmも離れたキレンスクや西方に800Kmも離れたヤクーツクで高価な値段で購入された。こんな毛皮収集に挑むプロミュシュレンニキたちは、オホーツク海の荒波に立ち向かい、カムチャッカ半島の海岸線に沿って航行し、島々を探す必要があった。こんな急造のシティキは荒海を航海するには貧弱で、嵐で緊急避難したり難破することも稀ではなかったようだが、緊急避難して船が座礁しても、数年後に船の残骸や流木で小型の船を造り、しぶとくカムチャッカに生還する幸運な例も多く記録されている〔同、P.109-113〕。
このように命を懸けてまで出船する多くのロシアの冒険的商人や猟師たち、すなわちプロミュシュレンニキたちは毛皮を求め、やがてアリューシャン列島の島伝いに東進し、アラスカ本土の西岸に到達することになる。これは当時、毛皮商売がそれほど儲かる商売であったという裏付けでもある。
♦ ロシアのアラスカに向けた足がかり、コディアック島の発見
コディアック島は1763年にロシア人により発見された。1762年にカムチャッカ半島のカムチャツカ川河口で建造された、ロシアの新しいアンドレイアン・イ・ナタリア号と名付けられた船が、ウラル山脈西側のテュリンスクの商人・ステパン・グロトフ (Stepan Glotov) の指揮のもとに1762年10月1日、カムチャッカ半島を出発し、途中で越冬し交易しながらアリューシャン列島沿いに東進したが、翌年1763年9月8日アラスカのコディアック島に着いた〔同、P.140-141〕。
しかしコディアック島の現地の島人・コニアグ(Koniag)人の言葉は、雇われて船に乗るアリューシャン列島出身ののアリュート語通訳も知らない言葉であった。また現地人・コニアグ族はアリュート族より非常に攻撃的で、ロシア人の撃つ鉄炮にも木とツルで編んだ盾に隠れながら向かってくるほどであった〔同、P.142〕がしかし、最終的にはロシア側の鉄炮にはかなわず、キツネの毛皮やラッコの毛皮とロシア人の持ってきた青色のガラス玉との交易が成立した。更にまた現地人はシカ皮の服を着ていたことから、グロトフは独立した小さい島ではなく本土に近いことを悟っている。
♦ コディアック島への入植
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オホーツク、ペトロパブロフスク-カムチャッキー(アバチャ湾)、ベーリング島、コディアック島
Image credit: ©Google Earth
このような東進の最中には殺到する多くのプロミュシュレンニキによるラッコやその他の毛皮獣乱獲があり、獲物が取れず東行を余儀なくされてきたことも背景にあるが〔同、P.P.186〕、長期航海を行い島伝いにアラスカにまで到達するにはそれなりの資本と教育された知識を持ち、食料や資材を準備できる有力商人が多くの成功を収めた。従って長期遠征ができるグループの淘汰も進んだのだ。
また船でアリューシャン列島伝いに東進する毛皮収集は、異なった組織力と労働力が不可欠で、狩猟そのものはほとんど島民に依存せねばならず、ロシア商人あるいはロシア船主の指示のもとに行われた。そんな遠征隊の労働力として雇われるのは、教育も低く知識も少ない下層階級出身のプロミシュレンニキであり、体力と労力の提供者であるがしかし、寒さと貧困を生き抜く十分な術は持っていた〔Stephen Haycox’s " ALASKA, An American Colony". P.55〕。従って現地島民に対して強制的で暴力的になり、時にアリューシャン列島のあまり強く抵抗もしない現地アリュート人の犠牲者が出ることもあった。窃盗、略奪、殺人など罪を恐れぬプロミシュレンニキの言葉に、「神は空のはるか高くにおわし、ロシア皇帝ははるか彼方にいるだけさ」と言う表現があったと言う〔Hubert Howe Bancroft 同 P.375-376〕。
コディアック島への入植は1784年に、ロシアの西部、ウクライナ国境に近いルィリスク出身の有力商人であるグリゴリー・イワノヴィチ・シェリホフ (Grigory Ivanovich Shelikhov) が島の南西にあり、船の名前から取って名付けた「スリー・セインツ湾 (Three Saints Bay)」に入植基地を作ったことからはじまった。これはロシアの、初めてのアラスカへの入植である〔Stephen Haycox 同 P.71-73〕。
前年の1783年にロシアの商人・シェリホフとゴリコフ (Ivan Golikov) が主力となる会社〔Shelikhov-Golikov Company〕の自己資金でオホーツクで準備を進め、3艘の船、「スリー・セインツ (Three Saints)号」、「スヴ・シメオン (Sv. Simeong) 号」、「スヴ・ミハイル (Sv. Mikhail) 号」を造り人員を集めたシェリホフとゴリコフは、総勢192人が乗り組む3艘の船で主にラッコやアザラシの毛皮収集と入植地を探しながらの航海に出た。カムチャッカ半島の南端を過ぎ、水の補充に立ち寄った千島列島の二番目の島〔幌筵島(ぱらむしるとう)か?〕で嵐に会いスヴ・ミハイル号1艘を失ったが〔Hubert Howe Bancroft 同 P.223〕、カムチャッカ半島の東岸を北上しベーリング島で越冬した。その後アリューシャン列島沿いを東進し1784年4月、コディアック島に至り基地を作った〔Hubert Howe Bancroft 同 P.223-224〕。この時シェリホフは過去に、1780年の狩猟・交易遠征で島人からの強力な抵抗に遭った経験から、榴弾砲を含めた多くの鉄炮と人員を準備していた〔Hubert Howe Bancroft 同 P.185〕。
スリー・セインツ湾に基地を定めた後近辺を探検中の8月、多数のコディアック島のコニアグ(Koniag)人の抵抗を受け、この武器使用を余儀なくされた。特に榴弾砲は多くの現地人を殺害し、恐れて逃げ出した女や子供を含む多くの島人がパニックになり崖から飛び降りて死人も出た〔Hubert Howe Bancroft 同 P.226〕。シェリホフは更に、多くの子供を含めた人質も取っている。シェリホフのこの行為は後の歴史家により、「アワウクの虐殺(Awa'uq Massacre)」と呼ばれている。
この後シェリホフはコディアック島のスリー・セインツ湾の基地から、その北にあるアラスカ本土の、現在アンカレッジのあるクック湾やその湾の東にあるプリンス・ウィリアム湾を中心にラッコの毛皮を集め、事業を軌道に乗せた。この成功により、シェリホフ・ゴリコフ会社が後のロシア・アメリカ会社の活動につながることになる。
♦ シェリホフのロシア政府への要請と、アリュート族の酷使
2年後の1786年に補給品の調達にオホーツクに戻ったシェリホフは、イルクーツクに行きシベリア総督に、シェリホフ・ゴリコフ会社の実績を報告しながら貿易拡大のための本格的な入植構想を述べた。アラスカから日本や支那、北アメリカ西海岸との貿易構想を述べ、アラスカ領土保全のためロシア政府海軍の派遣や資金提供など援助を要請し、独占権を申請し、原住民の教育のための学校設立や宗教布教のための宣教師派遣を求めた〔Stephen Haycox 同、P. 73〕。資金援助要請の背景の一つには、当時ロシアと清朝の間に起った課税や国境住民の帰属などの紛争のため、清が1785年から1792年まで7年にもわたりキャフタ貿易を停止したことの影響もあり、毛皮在庫が増えたり販売が低下したりしたため、運転資金の補充が必要だったのであろう。シェリホフは自身の考えるこんな貿易拡大の大構想についてシベリア総督の賛同は得たがしかし、セント・ピーターズバーグまで行ってロシア政府の説得を試みたが、成果を評価され表彰はされた〔「18世紀後半の北太平洋地域におけるロシア政府の探検隊派遣」、遠藤コラー スサンネ、P.48〕が、1787年から始まったロシアとトルコとの露土戦争や1788年からのスウェーデンとの戦争など、南下政策を推し進める戦争中の女帝・エカチェリーナ2世の許可を得るには至らなかった。
引き返してイルクーツクまで戻ったシェリホフは、1789年から1790年にかけて越冬したイルクーツクでアレクサンドル・バラノフ(Aleksandr Baranov)という10年の経験があるセントピーターズバーグ近郊出身のシベリア毛皮商人と出会い、コディアック島入植地の管理人に採用した〔Stephen Haycox 同、P. 81〕。その後のバラノフは30年近くもロシアのアラスカ地区の管理人であり続けた。
ロシアの毛皮収集者・プロミシュレンニキ集団や有力商人が東進するにつれ、アリューシャン列島に住む多くのアリュート族はラッコ狩りのためにコディアック島へ連れて行かれ、後にシェリホフが採用した管理人・バラノフがコディアック島の入植地を率いていた時代には、ロシア勢が プリンス・ウィリアム湾、ヤクタット、シトカへ進軍する行動にも参加させられた。 彼らは主に狩猟者として働かせられたが、 時にはプリンス・ウィリアム湾のエスキモー族やトーテムポールの風習で知られるトリンギット族に対抗するロシアの武力同盟者、すなわち兵力としても参加させられたのだ〔"The Aleuts" Encyclopedia Arctica 8_0108, https://collections.dartmouth.edu/arctica-beta/html/EA08-10.html〕。
このような時代の中で、次に書くロシア皇帝の命じた政府探検隊が、コディアック島も含めたアラスカ地方の探検に来た。この探検隊の調査により、プロミシュレンニキの現地人に対する酷使や非行も解明され報告されることになる。
♦ ジョセフ・ビリングス探検隊の派遣
ロシアの女帝・エカチェリーナ2世は1785年、ベーリングにより発見されたベーリング海峡を北上し北極海を通りヨーロッパ・ロシアに抜ける「北東航路」の確立を目指し、ビリングス探検隊を派遣した。これはフランスの派遣するラ・ペルーズ探検隊が近々、フランス西部の港湾・ブレストから1785年8月1日にアジアの日本近海北部や北米大陸西海岸の探検航海に 出発する予定だという報告に刺激され、女帝・エカチェリーナ2世が1785年8月8日に発した「勅令(Ukase)」によるものであった〔Hubert Howe Bancroft 同、P.282〕。その目的は、コリマ川河口調査、チュクチ半島の北極海沿岸調査、チュクチ半島調査、アリューシャン列島調査、地図の作製、等々だったと言われる。またアリューシャン列島の、税徴収のための人口調査も命ぜられていたと言う〔遠藤コラー スサンネ、同、P.44〕。
この勅令は前述したアラスカのコディアック島にロシアのシェリホフ隊が基地を築き、毛皮収集を始めた翌年の事であるが、ビリングス探検隊には科学者も乗り込み、1786年から1794年にかけて「北東航路」に関連するシベリア東部沿岸からアラスカにかけ多くの実地測量調査を行った。
詳細は省略するが、ビリングス探検隊はシベリア東部の概略調査を終え、オホーツクからカムチャッカ半島のペトロパブロフスク経由でアリューシャン列島を東進し、1790年6月にアラスカのコディアック島に上陸した。更にアラスカ本土のプリンス・ウィリアム湾の島々やアラスカ南海岸を北緯50度まで南下し、すなわち現在のカナダのバンクーバー島の北部まで調査した。 さらに、探検隊はアリューシャン列島の先住民の人口調査を実施し、1794年3月10日にセント・ピーターズバーグに帰着したが、ロシアの毛皮商人・プロミュシュレンニキによる現地住民への虐待の実態もロシア皇帝に報告している。これはまだエカチェリーナ2世の存命中だったが、その後を継ぎ1797年4月5日皇帝に即位したパーヴェル1世は、断固とした原住民虐待禁止処置を取ろうとした。後に航海記を書いたクルーゼンシュテルンによればその前書きの中で、
ロシア商人がアリューシャン諸島の先住民に対して行った不当でしばしば残虐な行為(これは当時広く知られていた事実である)が、会社〔シェリホフ・ゴリコフ会社やその他の会社〕に多くの強力な敵を作り出したため、当時帝位にあったパーヴェル1世は、会社と貿易を同時に廃止することを決定した。この決定は、後に日本大使に任命されるレザノフの介入がなければ、間違いなく実行されていたであろう。
と書いている
〔“Voyage around the World”, P. xxi-xxii〕。
前述のシェリホフによる「アワウクの虐殺」だけでなく、その後もアリュート族の強制労働が常態化して続いていたが、この虐待につながる記述が、以下に記述されるようにビリングス艦長の書記官マーティン・サウアーの探検記の中の数ページに出てくる
〔”An Account of a Geographical and Astronomical Expedition to the Northern Parts of Russia, Performed, By Commodore Joseph Billings, in the Year 1785, Etc. to 1794.”, Lomdon: 1802〕。
例えば、P.166に、
1790年6月21日、夕方7時半、船の近くに三人乗りのバイダール〔アリューシャン列島で使われたカヤック〕一隻と小型のバイダール五隻が見えた。彼らが船の横に来ると、漕ぎ手たちと共にバイダールを船上に引き上げた。彼らはアシカやアザラシを追っていること、三人乗りのバイダールに乗ったロシア人の指揮下にいる百人以上のアリュート族の仲間であること、そして現在アラクサ沖に停泊中のパノフスキーの船のために猟をしていることを知った。私たちはメイン・トップスルをマストに引き下げ、約3時間停船し、22日の夜明けに彼らを送り出した。アリュート族の猟師は渋々私たちのもとを去り、自分たちが受けた仕打ちと、何の報酬も受けずに何年も働かされていることを激しく訴えた。しかし、私たちはアリュート語の通訳を船に乗せていたので、彼らを留めておくことはできなかった。
また、P.168に、
午後2時、風向きが変わりやすく、曇り空。3隻のバイダールが、カディアック島のシェリホフ基地から来たロシア人ハンターとともに、約200人の現地人を連れて、アシカ、ラッコ、その他アザラシ、鳥などを獲りながら、船の横に来た。
この様にロシア人はアリューシャン列島の住人であるアリュート族を強制し、多人数でラッコやアザラシを獲っていたことがわかる。
また非常に興味深いことは、1806年発行のビリングス探検隊の航海図「Map of the northeastern part of Siberia, of the Arctic Sea, of the Pacific Ocean, and of the northwestern coast of America with the route of the ships under Captain Billings' command.」には、実際には行かなかった地域、すなわち筆者記述の「ブロートン中佐を困惑させた、加藤肩吾の「松前地図」の樺太図部分」に載せた
加藤肩吾の「北海道と樺太図」(
筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) に酷似した地図部分が採用されている。この事実から筆者の推定では、1797年11月にマカオに帰り着き測量結果を英国海軍本部に送ったブロートン中佐の報告書に基づき英国で作成された当時の海図を基に、ビリングス隊が実際に測量した地域を挿入、製図したもののように見える。
2、新領土アラスカを経営する「ロシア・アメリカ会社」
♦ レザノフと、ロシア勅許会社「ロシア・アメリカ会社」
ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ (Nikolai Petrovich Rezanov) は日本が鎖国中の江戸時代後期、1804(文化元)年に若宮丸の漂流者の津太夫、左平、儀兵衛、太十郎を送りながら長崎に来て、通商を要請したロシアの全権大使として良く知られている。
当時日本と貿易関係を築きたいロシアが、エカチェリーナ2世の使節としてアダム・ラクスマンを日本に派遣し、その交渉の糸口を開くため神昌丸で漂流した幸太夫らを送って根室に来たのだが、レザノフは、日本側が1793(寛政5)年に長崎に行くようにと諭してアダム・ラクスマンに与えた信牌を持って長崎に来たのである。
さてそれまでにニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフはロシア国内で、エカチェリーナ2世、パーヴェル1世、アレクサンドル1世の下で宮廷の要職を務めたロシア貴族で、有能な行政官であった。ロシア帝国への功績を認められ、宮廷の称号である「侍従」を授与され、1803年には枢密顧問官に任じられ、聖アンナ勲章を授与されている〔1911 Encyclopadia Britannica, Volume 23 ー Rezanov, Nicolai Petrovich de〕。
1793年の冬レザノフは、新しく立ち上がったばかりの事業を統括するエカチェリーナ2世の最晩年の寵臣だったプラトン・ズーボフの個人代理人に任命された。1794年8月、その役命によりレザノフは毛皮交易のシェリホフ・ゴリコフ会社の拠点であるイルクーツクに到着し、新規にアラスカへ向かい毛皮取引を発展させているシェリホフに会い、親しくなったようである。1795年1月、彼はシェリホフの14歳になる娘アンナと結婚したが、アンナは持参金としてシェリホフ会社の株式を持って嫁いできた。そのためレザノフは同社の共同経営者となり、鋭い才覚と不屈の精神で優秀な実業家の仲間入りをしたが、1795年にシェリホフが死去すると、多くの株式を持つレザノフはこの業績の良いシェリホフ会社の中心人物になった。そしてレザノフは、イギリスが東インド会社に付与した特権にならい、自分たち共同経営者がロシア帝国から開発と統治の独占権を伴う勅許を獲得することで、勅許会社として安定的に発展させようと決意したのである。
こうして、レザノフがロシア宮廷で女帝エカチェリーナ2世に要請し勅許状への署名を承諾させることに成功した矢先、女帝が突然に脳梗塞で崩御したため、今度は跡を継いだ気難しい皇帝パーヴェル1世を相手に一から交渉をやり直さざるを得なくなった。一時は困難が続いたが、レザノフの巧みな手腕や機微をわきまえた対応、そして如才のない振る舞いがうまく功を奏した。そして、パーヴェル1世が暗殺される1年半前の1799年7月8日、この重大な勅許文書への署名を取り付けることに成功したのである。
その勅許文書「勅許・1799 (Ukase of 1799)」には、「茲に、本会社に対し、二十年の期間にわたり、次の権利及特権を付与することを、朕の至高なる帝旨として宣明す。」と書かれ、パーヴェル1世の署名があるが〔”Behring Sea Arbitration. United States. No.1 (1893). Printed to both Houses of Parliament by Command of Her Majesty. March 1893. London.”, P.25-27〕、ロシア・アメリカ会社に対し20年間にわたり、北緯55度以北のアラスカへ連なる北西アメリカ沿岸地域、およびカムチャッカから東北のアラスカへ連なるアリューシャン列島へ、さらにはカムチャッカから南西の日本方面へと連なる千島列島に対する統治権を付与するものであった。これは、いかなるロシアの毛皮商人もロシア・アメリカ会社に所属していない限り、ロシア領アメリカでの営業を禁じられたが、外国の毛皮商人の立ち入りは認められていた。また、ロシア・アメリカ会社は、理事が適切と判断した場合には、植民地を設立する権限も与えられたのである。北緯55度線は現在のプリンス・オブ・ウェールズ島〔アメリカ合衆国領〕の南端近辺を通り、アラスカ州の州都・ジュノーの南370Kmにあたる。
当初このロシア・アメリカ会社は19世紀初頭に至るまで順調に利益を上げていたが、その後は経営の杜撰さや栄養価の高い食糧の不足により、深刻な損失を被る危機に直面することとなり、アラスカの内陸部までは進出できなかった。従って、現在のカナダとの国境を定めるアラスカ東端の境界線すなわち西経141°線は、後の1825年2月28日のロシアとイギリスとの條約で決められている。こんな食糧危機を解決しようとしていたレザノフに、日本に遠征できそうな好機会が訪れたのだ。日本から食料調達ができないか、交渉するまたとない機会であった。
♦ クルーゼンシュテルンの提案した世界一周航海
アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン(Adam Johann von Krusenstern)はエストニア出身のロシア海軍提督であり、探検家で、ロシアで最初に世界周航〔1803 - 1806年〕を行った人である。帰国後クルーゼンシュテルンはドイツ語の航海記を書き、1810年にサンクトペテルブルクで出版した。また1813年には英訳版がロンドンで出版されている〔"Voyage around the World in the Years 1803, 1804, 1805, and 1806 at the Command of his Imperial Majesty Alexander I in the ships Nadezhda and Neva, under the command of Captain A. J. Von Krusenstern, of the Imperial Navy." Vol. I and II. Translated from the original German by Richard Belgrave Hoppner, Esq. London: Printed by C. Roworth, Bell-yard, Temple-bar. 1813〕。
クルーゼンシュテルンはこの航海記の「序論(Introduction)」の中で、自身が提案したこのプロジェクトについて、
一般の読者にとって、この航海を最初に提案したのが誰であったかはどうでもよいことであろう。しかしながら、この探検隊が編成されるに至るまでの経緯について、いくつか簡単に述べることをお許しいただきたい。
と書き、引き続き次のように述べている。18世紀、19世紀のロシア海軍は有能な士官をイギリスに派遣し訓練を受けさせていたが、クルーゼンシュテルンも6年間イギリス海軍に勤務していた時期である。
1793年から1799年にかけて、フランス革命戦争中のイギリス海軍に勤務していた頃、私はイギリスの東インドおよび中国との貿易の重要性に特に注目していた。・・・1798年と1799年に広州に滞在していた時、イギリス人船長が指揮する約100トンの小型船が北米北西海岸から到着した。この船はマカオで艤装され、航海期間はわずか5ヶ月ほどで、積荷はすべて毛皮で、6万ピアストル〔ほぼ6万ドル〕で売却された。私の同胞・ロシア人が東洋の島々〔アリューシャン列島の意〕やアメリカ沿岸〔アラスカの意〕から毛皮を中国に輸出し、かなりの貿易を行っていることは知っていた。しかし、彼らはまず毛皮をオホーツクまで運び、そこからキャフタに送らなければならないため、2年、場合によってはそれ以上の時間を要していた。毎年、多くの船が貴重な積荷を積んで東洋の海を横断する航海中に遭難していることもよく知っていた。そのため、ロシア人が島々〔アリューシャン列島〕やアメリカ沿岸から直接広州に商品を運べば、はるかに大きな利益が得られるだろうと考えた。この考えは目新しいものではなかったが、ロシアの毛皮貿易業者は思いつかなかったようで、私には明確で説得力のあるものに思えた。そこで、帰国後すぐにこの計画を実行に移すための必要な提案をすることにし、〔イギリス海軍に勤務中に〕中国からの航海中、私は覚書を作成した。・・・ そして、もし政府がこの貿易を何らかの形で支援すれば、ロシアにとってどれほど大きな利益となるかを説明した。この目的のために、私はクロンシュタット軍港〔サンクトペテルブルク中心から北西に約32km、フィンランド湾に浮かぶコトリン島に位置する都市。バルチック艦隊の基地がある。〕からアリューシャン列島とアメリカに2隻の船を派遣することを提案した。これらの船には、船舶の建造と装備に必要なあらゆる資材を積み込み、熟練した造船技師、あらゆる種類の職人、航海術の教師、そして海図、書籍、航海計器、天文観測機器なども備えるべきだと提案覚書に記述したのだ。要するに、これらの商人が植民地アラスカで良質な船を建造し、その指揮を熟練した人物に委ねることができるようにすべきだということである〔“Voyage around the World”, P.xxv-P.xxix〕。
この様に自身の目で見た広州の毛皮貿易に触発され、ヨーロッパ・ロシアのクロンシュタット軍港から直接、北アメリカ西海岸とアリューシャン列島に向けた調査と造船のための船の派遣を提案する覚書を作成したのだ。しかし帰国後すぐに提案書を提出したいと頼りにしていたソイモノフ商務大臣は亡くなり、海軍大臣を頼ったが覚書の提案は却下された。その間にアレクサンドル1世
〔在位:1801年3月23日 - 1825年12月1日〕が即位し新しい皇帝になったため、提案書を書き改め、1802年1月にモルドヴィノフ提督に提出した。その結果についてクルーゼンシュテルンは次のように書いている
〔“Voyage around the World”, P.xxix-P.xxxi〕。
1月に返答があり、私の提案書は提督の全面的な賛同を得ており、提案された計画をできるだけ早く実行に移すつもりだとのことであった。提督はそれを、当時ガガーリン公爵の後任として商務大臣に就任したばかりの、現在の帝国宰相であるロマンツォフ伯爵に伝え、伯爵もまた賛同してくれた。そして、アメリカ貿易の改善のために提案された計画は、伯爵の熱烈な関心を呼び起こした。実際、ロマンツォフ伯爵とモルドヴィノフ提督が示したような熱意がなければ、このような事業はこれほど早く実行に移されることはなかったはずである。・・・ 私の計画がロマンツォフ伯爵とモルドヴィノフ提督という二人の高官によって承認された後、その内容が皇帝陛下に報告され、陛下は私をサンクトペテルブルクに召喚するよう命じられた。これは1802年7月のことで、私が到着するとすぐにモルドヴィノフ提督は、皇帝陛下が私の計画を実行に移すために私を選ばれたと告げた。この知らせを聞いた時、私は少なからず驚いた。なぜなら、自分の提案が採用されるという希望はほとんど諦めており、ましてや自分がその任に選ばれるなどとは全く予想もしていなかったからである。・・・ 常に私の願いであった祖国に貢献できるという意識が、私の決意を揺るぎないものにしてくれた。航海を成功裏に終えることができるという希望が私を励まし、私は必要な準備を始めた。
♦ クルーゼンシュテルンの航海準備と、レザノフの参加
1802年8月7日、アメリカ北西海岸への探検隊の指揮官に任命されたクルーゼンシュテルンは、国内には適当な船がないため船の購入から始めなければならなかった。クルーゼンシュテルンに委任された伴走2番艦の船長をユーリー・フョードロヴィチ・リシャンスキー大尉(Yuri Fyodorovich Lisyansky)にする人選を終わり、適当な船を購入するため、造船技師と若い下士官を付け、リシャンスキー大尉をハンブルクに派遣した。ところがハンブルクでは適当な船は見つからず、リシャンスキー大尉はロンドンまで行き、1803年2月になってようやく450トン級で建造後3年の船と、370トン級で建造後15ヶ月の船の2隻が1万7千ポンドで購入できた。大型の1隻はナデジダ号(希望号)、もう1隻はネワ号と名付けられた〔“Voyage around the World”, P.1-2〕。
1803年1月首都のセント・ピーターズバーグへ向かったクルーゼンシュテルンは、自身が提案した航海計画に全く新しい計画が加わったことを知った。それは日本への使節団派遣である。上述のごとく、ロシア皇帝の「勅許・1799」により勅許会社になったロシア・アメリカ会社の食糧危機や必需品の入手問題を解決しようとしていたレザノフが、日本との交易により食料や必要品の調達ができないかを交渉しようとするロシア使節としての派遣であった。
このアラスカから日本やアジアとの交易は前述のごとく、1786年に補給品の調達にオホーツクに戻ったシェリホフもロシア政府に直接提案していたものであり、その後を継いでロシア・アメリカ会社の責任者になったレザノフも同様に計画し、当時の商務大臣であったロマンツォフ伯爵を通じて政府の許可を申請していたのだ。そんなタイミングで1802年1月、クルーゼンシュテルンがモルドヴィノフ提督に遠征計画書を提出し、一挙に話が進んだように見える。
レザノフは日本への特命全権大使に任命され、間もなく聖アンナ勲章と枢密顧問官の称号を授与された重量級全権大使としての派遣であり、更に日本人漂流民の津太夫一行を送還するために乗船させることも決まった。
1793(寛政4)年にラックスマンが日本から得ていた長崎入港の信牌が許可する船は一隻だけだったため、ナデジダ号とネワ号はサンドイッチ諸島〔ハワイ諸島〕で分かれることになった。ナデジダ号は大使一行を乗せて日本へ向かい、おそらく数ヶ月で到着する予定だった。その後、カムチャッカ半島かコディアック島で越冬する予定だった。一方、ネワ号は直ちに北米北西海岸へ向かい、同じ場所で越冬することになっていた。翌年の夏、両船は当初の計画通り、積荷を積み込んだ後、広州に寄港し、そこからロシアへ帰国する予定だった。
♦ クロンシュタット軍港からの出港と、日本側も知ったロシア艦隊の日本来航予定
ロンドンで購入し改造を加えていた探検船が1803年6月5日、クロンシュタット軍港に到着したのでクルーゼンシュテルンは現地に行き、レザノフ使節一行はナデジダ号に乗ることに決まった。ロシア最初の世界一周探検航海に出発する艦隊を視察するためにやって来たアレクサンドル大帝にも謁見したが、大いに喜んでいる大帝は、クルーゼンシュテルンの留守中家族が安心して過ごせるようにと、妻に12年間、年間1500ルーブルの地代収入を下賜するという決定をしてくれた〔“Voyage around the World”, P.6-7〕。
ロシアのこの世界一周航海は当時、ヨーロッパでも注目された探検航海で、オランダのアムステルダム市の西側のハールレム市で1803年9月6日付けで発行された『ハールレムス・クーラント紙』にも報道されたほどであった。この記事には、
ペートルスブルグ8月11日。皇帝より世界廻航の命を受けたるニ艦は一時クロンスタット港に停泊し、・・・いよいよ解䌫したり。其航路は大略下の如き予定なり。・・・ブラジルを経て南太平洋に出て、ハワイ島に至る。同地より日本に赴き、1805年をもってカムチャッカに至り、・・・。露国の使節として日本に向かえる侍従レザノフはこの遠征隊の司令官たり。・・・
と報道されている
〔『ヅーフと日本』、斎藤阿具著。P.46-47〕。この新聞を見たバタビアのオランダ総督は早速この新聞をバタビアからの交易船マリア・スザンナ号とヘシーナ・アントワネット号に託して長崎に送り、当時の商館長ヅーフはこのニュースを長崎奉行に報告している。ヅーフの『日本回想録』には、
これら二隻の船はまた、ロシアの対日使節団がいつ到着してもおかしくないという、政府高官からの通達をも私にもたらした。新聞もまた、その報を伝えていた。私は直ちに、日本政府にその旨を通知した。
と書いている
〔”Hendrik Doeff, Recollections of Japan”, Translation and Annotation by Annick M. Doeff, 2003, Printed in Victoria, Canada. P. 50〕。
この報道だけではレザノフの日本訪問の意図は明確ではなかったが、少なくとも長崎奉行の成瀬因幡守は、ロシア艦隊に乗った使節・レザノフが来ることだけは事前に知ることになったわけである。
探検船を購入したリシャンスキー大尉はロンドンで、航海に不可欠なクロノメーター6台や壊血病予防のために有効とされている保存食料を多く購入し、科学観測用機器一式も揃えていた。クロノメーターは8月下旬から天文台で最終調整をし、9月4日に探検隊に届けられ出発準備が完成したたので、火薬の最終積み込みを終えた9月8日、ナジェジダ号とネワ号はいよいよクロンシュタット港を出港しバルト海を南下しはじめた。
出港から2週間ほどたった9月23日の午後、オランダのテッセル島を過ぎたころ一隻のイギリス軍のフリゲート艦が見えたが、その戦艦はナジェジダ号とネワ号を敵船と誤認したかのように全帆を張り、猛然と追跡してきた。フランス国旗のデザインは旗棹側から外側へ青、白、赤の三色の縦縞でありロシアの国旗は上から下へ白、青、赤の三色の横縞であるが、遠方から風にはためくロシア国旗はフランス国旗に見えなくもない。風にはためくロシアの国旗を、当時始まったナポレオン戦争を戦う敵国・フランスの国旗を掲げた船と見誤ったのであろう。
しかし実際にイギリス軍のフリゲート艦がロシア探検隊に追いついてきたのは、夜の9時を過ぎてからという遅さであった。イギリスのフリゲート艦と出会ってみると、クルーゼンシュテルン艦長はその艦の指揮官であるベレスフォード大佐が、9年前、北大西洋方面の英国フリゲート艦隊に所属していた時にアメリカで共に過ごした旧知の仲であることを知り、直ちにイギリス軍艦へと乗り込んだ。その艦は、先の暴風雨によってマストの一本に損傷を負っており、その修理のためにテムズ川河口に近いシアネス港へ向かう途中であることを知ったクルーゼンシュテルン艦長は、探検隊の天文学者が、まだ不足している観測機器を調達するためにロンドンへ赴く必要がある旨を伝えた。するとベレスフォード大佐は即座に、自分の艦に同乗させてテムズ川沿いのロンドン入り口のシアネスまで送り届けようと申し出た。シアネスには翌日には到着する見込みだという。クルーゼンシュテルン艦長は感謝し、その厚意を受け入れ、夜明けまでロシア探検隊の2艘はイギリス軍艦に伴走したが、オーフォード・ネス一帯
〔ロンドン北東130Km〕のイギリス沿岸が目の前に広がったころベレスフォード大佐がロシア探検隊の船へと乗り込んできて、ロンドンに行くことにしていたレザノフ使節、ホルナー博士、フリーデリチ少佐を同道しロンドンに向かった。
♦ 乗せていた日本人漂流者の身勝手
こんなハプニングもあったが大西洋を南下し、船体修理のためにブラジルに着き、更に大西洋を南下しながら航海を続け、1804年2月7日ブラジルのサンタ・カタリナ島を過ぎ更に南下する辺りから、クルーゼンシュテルン艦長は南アメリカ大陸の南端を回り南太平洋の赤道に近いマルケサス諸島を目指す長距離航海を念頭に、乗組員に水の定量配布を始めた。こんな制限のある航海中に同乗させている日本人について、以下のごとくその身勝手さを嘆いている。
航海中、私はたびたび、我々の連れていた日本人たちに対して強い不満を抱くこととなったが、彼ら以上にたちが悪い人間を想像することなど、およそ不可能と言ってよいほどであった。私は彼らに対し、格別の親切と配慮をもって接し、彼らの身勝手な振る舞いに対しても、自分自身が驚くほどの忍耐をもって耐え忍んだ。しかし、彼らには受けるに値しないはずのこうした厚遇も、彼らの荒々しい気質に対しては、微塵の効果ももたらさなかったのである。怠惰で、身なりは不潔極まりなく、常に不機嫌で、その上、極めて短気で感情的――これらが、彼らを特徴づける主な性質であった。唯一の例外は、60歳になる一人の老人だけであった。彼はあらゆる点において同胞たちとは異なっており、皇帝が彼らを本国へ送還するという恩恵を施したとしても、その恩を受けるに値するのは、彼一人だけであったと言える。彼らは決して仕事をしようとはしなかった。たとえ、その手助けが彼ら自身の利益につながるような場合であっても、頑として働こうとはしなかったのである。彼らは日本人の通訳(もっとも、この通訳もまた、他の者たちと同様にたちが悪かったのだが)と絶えず争い続け、幾度となく大声で彼への復讐を誓っていた。その理由はただ一つ、通訳が他の者たちよりも大使から多少なりとも目をかけられていた、ということに尽きるのである〔“Voyage around the World”, P.85-86〕。
この様な問題も抱えながら、探検隊はマルケサス諸島を経由し、ハワイ島に寄りアラスカに直行するネワ号と別れ、レザノフ使節を乗せたナジェジダ号は大きな事故もなく、1804年7月17日にカムチャッカ半島のペテロパブロフスクに入港した。ここでほぼ2ヵ月ほどかけた船体修理、補給の後、長崎に向け出港することになる。
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