日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ペリー提督、下田港の開港準備

ペリー提督と日本との間で結ばれた「日米和親条約」の第二ヶ条に、「 伊豆下田、松前地箱館の両港は、日本政府に於て亜墨利加舩薪水食料石炭欠乏の品を日本人にて調え候丈は給い候ため、渡来の儀差免し候。尤も下田港は約條書面調印の上即時に相開き、箱館は来年三月より相始候事。」と取り決められた如くに、即日に開く下田港の準備は直ちに必要な事項だった。ペリー艦隊が江戸湾から下田港に入った段階で、下田港への安全な入港に備え日本人の水先案内人を設け、そのサービスのための費用を決め、薪水供給の費用を決め、ミシシッピー号乗組みのモーリー大尉(Lieut. Maury)による下田港への航海方法が記述された。この航海方法の記述は『ペリー遠征記』の第2巻(33d Congress, 2d Session. Senate. Ex. Doc. No. 79)に報告書として収録されている。

 「下田港米船水先案内約定書」

浦賀から下田に派遣された下田奉行支配組頭・黒川嘉兵衛と旗艦付き大尉・サイラス・ベントとの交渉で、近い将来アメリカ船が下田港に入港する時の手続きが合意された。日本側の史料いわく、

日本下田港に来るアメリカ船に供給する所の必要品物、水先案内の者に付いての定。

一、相当の地場に遠見所を取建て、近寄る船々を見留め、是を地頭(=港長)に注進し、水先案内者の船は此の港に乗来るべき船々に差向かう事。
一、右に付いて、水先取締り役は相応の船を常々用意して置き、其の船はミコモト島(=神子元島、筆者注:下田港内の犬走島から南南西に10.5kmにある岩小島。現在は灯台がある)に出迎え、遠見に懸かった船が此の港に入来るや否やを見極め、若し入港する時は良好の停泊所に案内し、滞船中必要の品々を弁ずる事。
一、案内者の給料は、荷足(筆者注:喫水線下の深さ)がアメリアカの18フート以上の船は15ドル、18フート以下13フートまでは10ドル、13フート以下は5ドルとする。
一、右給料は金銀銭、或いは相当の品物をもって弁ずる事。但し出入りとも同断。
一、若し其船が港外に碇泊して港内に来ないものは、此の半高を弁ずる事。
一、下田港内碇泊の亜墨利加船は、傳馬船壱艘の水の価・壱貫四百文、薪は亜墨利加の5フート坪(筆者注:体積、5フィートx5フィートx5フィート)の価・七貫弐百文で得る事ができる。

と言うものであった。
筆者注:この合意書の英文は、『ペリー遠征記』の第2巻、33d Congress, 2d Session. Senate. Ex. Doc. No. 79.、 P. 385 に収録されている。)

また当初、港長として下田町船宿年寄り・九郎兵衛を任命し、3人の漁師が水先案内人に選ばれたが、彼等の名前は、与八(Yohatsi), 彦右衛門(Hikoyemon), 次郎兵衛(Dshirobe)であった。これらの4人は下田港の細部を熟知した信頼に足る人物として選ばれたわけだが、4人はペリー提督に引き合わされ、ペリーから港長には見張りに使われる望遠鏡1組、水先案内人へ夫々外套1枚、更に水先案内人の乗るボートに立てて合図として使うアメリカのボート旗2組が与えられた。当時アメリカ海軍のボート旗は青地に13個の星を入れた小型の星条旗がよく使われたと聞くが、実際はどんなデザインであったか、筆者には不明である。更にアメリカ側の測量により重要な岩礁には色付きブイを取り付け、見通して目印になる突端には幕府の中黒の小旗を立てて認識を容易にした。

上記の如く合意した内容は、ペリー側から、入港するアメリカ船舶に直ぐ提示出来る様に英語版の合意文章を銅板に刻んだ物を数十枚と、将官の署名入り合意文書1枚を証拠品として日本側に渡した。必要時に直ぐ提示できる様、細かい配慮があった訳である。

日本国内でもこれ以前から、廻船が入港する主要港には廻船問屋が雇った水先案内人が居たと聞く。下田にも古くから幕府の船改め番所があり、その機能が浦賀に移るまでは多くの廻船が入ったから、即日適任者が見付かった事に疑いはない。

 下田港への航海方法
(典拠:33d Congress, 2d Session. Senate. Ex. Doc. No. 79. Narrative of the expedition of an American squadron to the China Seas and Japan, Vol. 2.

ペリー提督の日本遠征報告書の原本は3部構成で、良く知られる第1巻はフランシス・ホークスが編纂した全行程に関する物語風報告書である。第2巻は地誌や博物誌を中心にした報告書で、第3巻はミシシッピー号乗組・艦隊付き牧師・ジョージ・ジョーンズの黄道光観測報告書である。このうちの第2巻の報告書に、ミシシッピー号に乗組むウィリアム・L・モーリー大尉による下田への航海方法の説明があるが、以下の様な物である。いわく、


伊豆半島下田沖の6月の潮流(白矢印)と場所名
Image credit: 海天気.JP( https://www.umitenki.jp/ )
の6月の海流図に、筆者が場所名を追加

南方や西方から下田港へ向かう船舶は、石廊崎(Cape Idzu)を見出し、そこから距離およそ5マイル東南東・1/4東に向かい 神子元島(みこもとしま、Rock island)に至る。そして若し天候が快晴なら、同時に江戸湾に続く島々がはっきり見える。
神子元島(Rock island)と本土の間には、水を被ったり突き出たりする多くの岩礁があり、その間を日本の船は自由に行き来するが、緊急の必要性以外には神子元島(Rock island)の内側の航行はしない事。特にこの沿岸を北東方向に向かう潮流があり、この時点では方向と流速が不安定である。
神子元島(Rock island)の廻り1マイルを錨地とすると、5マイル北・1/2西方向に下田港を完全に見通す。
港口の東側にあるバンダリア崖岬(Vandalia bluff)は崖の頂上が松林に覆われている事で認識でき、須崎(Susaki)村はそれとダイヤモンド岬(Cape Diamond)の間の3分の1位の位置にある。ダイヤモンド岬(Cape Diamond)は港入り口の東側に出るポイントの横にある岩小島である(筆者注:上空から見るとダイヤの形をしている)。
神子元島(Rock island)錨地から、恐らく潮流による逆巻く波を横切るが、港口近くに至るまでは14から27尋の深さがあるため、手用測鉛の使用は不要である。
若し風向きがかなり強い北風なら、よく突風になりじゃまになるので、それが鎮まったり方向が変わるまで、あるいは船がうまく引き込まれるまで港口に碇泊する事。
北方から入港する船舶は大島(Oho-shima)のどちら側を回っても良いが、島の中心からダイヤモンド岬(Cape Diamond)は西南方向にほゞ7マイルである(筆者注:実際には25マイル程)。 大島(Oho-shima)と下田(Shimoda)間には知られている危険は存在しない。しかし特に夜間に濃霧がかかった天候下では、北東に向かう海流を常に心にとめて居なければならない。その通常の流速は2から3マイル/時であるがしかし、この潮流とその方向は、その地点の風向き、岬や小島の位置等々により影響されるから常に信頼に値しない。
若しダイヤモンド岬(Cape Diamond)に着く前に大島(Oho-shima)が濃霧により覆い隠されていれば 、本土側には案内不足の人が遠方の港を認識する為の目印に出来る様な良く目立つ物がなく、海岸は切れ目のない連続した線に見えるため、神子元島(Rock island)を見付ける様に努力する事。
港の西側には幾つかの砂浜と3、4か所の砂州がある。これは6、7マイル以内であればはっきり認識できるので、良い目標となる。
南方や東方からの船舶は、島の西側に著しく白い崖(筆者注:実際は島の南東側)がありそれと知れる神津島(Kozu-sima)の西側を通る事。更に北側の崖の上に白い斑点がある。この神津島から港は、北西・3/4西の約26マイルにある。
東側からの進入は、ダイヤモンド岬(Cape Diamond)の充分内側に入らないと港は見えない。
ダイヤモンド岬(Cape Diamond)の北側に、かなり深く入込んでいて幾つかの砂浜がある白浜(Shirahama)入江があるが、これは下田(Shimoda)と間違えやすい。しかしこの入江に近付くとダイヤモンド岬(Cape Diamond)が南側のウコナ岩(Ukona rocks)と神子元島(Rock island)とを見えなくするが、下田(Shimoda)停泊地のあらゆる場所からはウコナ岩(Ukona rocks)と神子元島(Rock island)はよく見える。
しかし港内に2ヵ所の隠れた危険な場所がある。まず第一は、

サザンプトン岩(Southampton rock)、

これはバンダリア崖岬(Vandalia bluff)から北・1/2西にあたり、岬から港内の犬走島(Center island)に至る4分の3の場所にある。この岩は直径25フィートあり2尋の水で覆われている。白い円柱ブイを付けてある。第二は、

サプライ岩(Supply rock)、

毘沙小島(みさごじま、Buisako islet)の少し南西にあり、鋭くとがり11フィートの水で覆われている。その位置は赤色の円柱ブイで示されている。
この両方のブイはしっかり係留してあるが、下田の管理者は、このブイが如何なる理由によりはずれても交換する事を約束している。
条約上の限界を計測する中心点である事から名付けられた中心島(Center island、=犬走島)は、高く円錐形で樹木に覆われている。横穴が貫いている。
外側の停泊地、即ち港の入り口付近で時々不快な匂いがした。しかしサザンプトン岩(Southampton rock)より内側や犬走島(Center island)では船舶は充分に保護され、水面は比較的穏やかである。南向きと西向きの双錨泊(open hawse筆者注:碇2組を投入する碇泊方法)で係留する事。
下田川と柿崎村にはボートで上陸する良い場所がある。
港長と3人の水先案内が任命されている。薪、水、魚、鶏や卵、またサツマイモや他の野菜類は役人から購入できる。水を持って来る樽は用意する必要がある。


下田港内・犬走島位置。当時の位置観測情報と現在位置情報。
当時の観測値は約730m 程南東にずれた値になっている。

Image credit: Basic map: Google Earth. 位置は筆者が追加。
  犬走島(Center island)の緯度 ・・・・・・・・・・・ 北緯 34度39分49秒
  犬走島(Center island)の経度 ・・・・・・・・・・・ 東経138度57分30秒
  偏差(筆者注:真子午線と磁気子午線のなす水平角) ・・ 2度55分の西偏
  満潮時の F と C ・・・・・・・・・・・・・・・・・・    V. hr.
  最高潮位 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5フィート7インチ
  平均潮位 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3フィート

筆者注:上記の犬走島子午線の観測値は、現在の数値と比べ、右図の如く、約730m 程南東にずれた値になっている。)

上記の航海方法は容易に利用できる様、出来るだけ簡潔に記述されている。下田港に向かい或いは通過する航海士に更なる情報を提供する為、追加観察事項を加える。
下田港は伊豆半島の南東端近くにあり、半島はその名前(=伊豆)の付いた岬で終わっている(筆者注:日本名は石廊崎)。港の北方は高い山が半島を横切り、この山の南側は岬に至るまで無数の低い山々が連なる。
この港は江戸湾の入り口にありほゞ45マイル離れた相模岬(Cape Sagami、=城ヶ島・松輪崎)から南西・西に当たる。
神子元島(Rock island)はおよそ120フィートの高さで長さは3分の1マイルあり、切り立った海岸で外周は不揃いである。岩の上は厚い芝や雑草やコケで覆われている。
この島の頂上から北・1/2西方向に、距離1マイル又は1マイル半離れて急潮(筆者注:暖水の進入等による、沿岸域に生じる突発的な速い流れ)が観測された。これは岩や岩礁により起こった可能性が有る。それを調べ様としたが、強い流れと強風で十分な調査が出来なかった。しかしながら日本の漁師たちは、岩や岩礁などの危険は無いと言っている。
神子元島(Rock island)から北西2マイルの所にウコナ岩(Ukona rocks)がある。通常一つに見えるが、二つの岩から成る。大きい方は70フィートの高さである。この岩と神子元島(Rock island)の間の潮の流れは東北東に向かい、充分に時速4マイルの流速である。
犬走島(Center island)は神子元島(Rock island)から北1/2東に5.5マイル離れ、ウコナ岩(Ukona rocks)から北東・1/2東に3.5マイル離れている。
毘沙小島(Buisako islet)は犬走島(Center island)の北北東にある。凡そ40フィートの高さで木々や藪で覆われている。
若しサザンプトン岩(Southampton rock)のブイが無くなっていれば、この岩は、犬走島(Center island)の東端と毘沙小島(Buisako islet)の西端を結んだ線の西側に位置する。
須崎村の外れの岸から3分の1マイルの場所に岩棚があり常に波に洗われているが、通過時には2ケーブル(=366m)の操船余地を取る事。
石廊崎(Cape Idzu)、緯度34度36分00秒、東経138度50分35秒。神子元島(Rock island)、緯度34度34分20秒、東経138度57分10秒
神津島(Kozu-Sima)の南西20マイル、石廊崎(Cape Idzu)の少し西寄り南方ほゞ40マイルの所に2個の危険な岩礁があり、15から20フィートの高さで、レッドフィールド岩礁(Redfield rocks)と名付けてある(筆者注:夫々2.7Km 離れているが、西側は銭洲と呼ぶ)。それは北緯33度56分13秒、東経138度48分31秒と、北緯33度57分31秒、東経138度49分13秒にある。
この位置は正確とはいえないが、そんなに外れても居ないと信じられる。

      アメリカ海軍、M・C・ペリー提督の命による。       
旗艦大尉・サイラス・ベント      

 早速入港したアメリカ商船

日米和親条約を結んだペリー艦隊の全艦が下田を離れ帰途に着いた15日後、早速アメリカの小型帆走商船が浦賀にやって来た。安政1(1854)年6月17日の事である。強い南風を受けた小型帆船は浦賀には止まらず内海に入って行った。そこで与力や通詞を乗せた浦賀の応接船は必死に後を追い、走水村の沖合でやっと乗り留めて糺したところ、アメリカの商船・レディー・ピアース号で、日本人の漂流者を1人乗せて送り届けに来た船だった。

このレディー・ピアース号の船主・バロースは、まだペリー提督と結んだ日米和親条約により下田と箱館が開港された事は知らなかったが、浦賀奉行から下田に行く様に伝えられた。下田に向かったレディー・ピアース号は風と強い潮の流れに遮られ、下田に入港できずまた浦賀に戻った。船主・バロースの要請で浦賀からは同心2人や船路案内者ら5人が付き添い下田に向かったが、またまた潮流と風にはばまれ困難を極めた。船主・バロースの要請で下田から曳き舟を出し、下田の水先案内も乗り込み、漸く下田港内に引き入れる事が出来た。この商船と漂流人・勇之助に付いては レディー・ピアース号 筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)を参照して下さい。

この後下田は急に忙しくなった。安政1(1854)年10月15日に大阪からロシア提督・プチャーチンの乗る軍艦・ディアナ号が入港し、19日後の11月4日に安政の大地震の津波で被害を受けた。また安政1(1855)年12月9日に日米和親条約の批准書を携えたアメリカ使節・アダムス中佐(元ペリー艦隊参謀長)が蒸気軍艦・ポーハタン号で来航し、日本側と日米和親条約の 批准書を交換 筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)をした。更にアメリカ商船・カロライン・E・フート号が安政2(1855)年1月27日下田に入港し、地震の津波で大破したロシア軍艦・ディアナ号の一部の乗組員をカムチャッカのペトロパブロフスクまで送ったりした。このロシア船員送還に付いては、下田に入港したアメリカ商船・ヤング・アメリカ号も拘ったが、これ等に付いては カロライン・E・フート号 筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)を参照して下さい。

この様にしてまずアメリカに開港された下田と箱館は、その後次々とオランダ、イギリス、フランスに開港され、アメリカのハリス総領事が下田に来て日米通商条約を結び、下田に代わり新しい開港地を横浜と定めるまで開港地として存続する事になる。

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07/17/2021, (Original since 07/17/2021)