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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ティチングの『 蝦夷記−III 』

イサーク・ティチングの収集した蝦夷情報
『蝦夷志』の「蝦夷地圖説、蝦夷、北蝦夷、東北諸夷」

ヨーロッパでは18世紀前半から19世紀初頭にかけ、日本や蝦夷、奥蝦夷近辺の調査が各国の情報収集すべき主なる秘境の一つだった。 ちょうどこの頃、1779(安永8)年から1784(天明4)年まで3回にわたりオランダ出島商館長を務めたイサーク・ティチングも蝦夷地方に関する日本文献を入手して調べ、オランダ通詞の協力でオランダ語に翻訳し〔"JAPAN As It Was And Is" by Richard Hildreth. Boston. 1855. P.424〕、後にフランス語で記述し直した原稿をヨーロッパで出版したいと強く望んでいたが、生前にはその思いを実現できなかった。
このティチングの遺稿は、蝦夷通詞・勘右衛門から聞いた話を松宮観山が筆記し編纂した『蝦夷談筆記』(宝永7(1710)年)からの翻訳筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)と、新井白石の記述した『北嶋志』、一般に『蝦夷志』(享保5(1720)年1月)として知られるものの中の「蝦夷志序」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)と本ページの「蝦夷地圖説、蝦夷、北蝦夷、東北諸夷」の部分とに二分した翻訳で、合わせて3部構成である。

この遺稿で言ういわゆる「ティチングの蝦夷記」は、1812年2月にティチングが没した後、1814年に『Annales Des Voyages, De La Geographie Et De L'Histoire. Tome Vingt-Quatrieme. Paris, 1814』〔『地理と歴史の航海年代記』、第24巻、パリ、1814〕に収録され、『蝦夷談筆記』を 「I. Ieso-Ki〔P. 147-186〕 として、『蝦夷志』の中「蝦夷志序」を「II. Jeso-Ki〔P. 186-190〕、 及び「蝦夷地圖説」以降を「III. Jeso-Ki〔P. 190-213〕として収録し、出版された。

本ページでは、『地理と歴史の航海年代記』第24巻に掲載された、いわゆる「ティチングの蝦夷記」の中の、新井白石の『蝦夷志』中の「蝦夷地圖説」及びそれ以降の部分「III. Jeso-Ki〔P. 190-213〕のフランス語からの翻訳を載せる。

 『蝦夷志』中の「蝦夷地圖説」及びそれ以降の部分を収録した「III. Jeso-Ki」〔P. 190-213〕
(典拠:『Annales Des Voyages, De La Geographie Et De L'Histoire. Tome Vingt-Quatrieme. Paris, 1814』 
参照原本:『北嶋志』、従五位下筑後守源朝臣君美[著]、国立公文書館、[請求番号]178−0097)

『蝦夷志』中の「蝦夷地圖説、蝦夷、北蝦夷、東北諸夷」の部分を収録した「III. Jeso-Ki」〔P. 190-213〕部分のフランス語からの日本語訳は次の通りである。

〔「 ティチングの蝦夷記−III 」〕

♠  III. 蝦夷記(Jeso-ki)、すなわち蝦夷島(l’ île d’Iesso)の説明

〔地名、名前は基本的に新井白石のいわゆる『蝦夷志』に従った。
()内記述のティチングのフランス語綴りとの間に異同あり。〕
( 〔 〕内は本サイト筆者の註 )

〔1、蝦夷地圖説〕

  蝦夷島(L’ILE d’Iesso)は日本の北東の海にある。 そのほとんどは山地で、実質は岩だけである。 そこの道は非常に狭く、歩く人にも分からない。 しかし、住民はそれを見つける方法を知っている。 彼らは優秀なダイバーである。 彼らは道の途中で急な岩山に遭遇しても、決して回り道をせず、それを乗り越える。 この国は自然のままに荒れていて、そこに行きたい日本人は経度も緯度も正確に知らないため船で旅をする。 日本北部の東端は蝦夷の南端からそれほど遠くはないが、非常に激しい海流が2点間を流れている。 蝦夷の東南の先端はシラカミ崎(Sirakami-Saki)と呼ばれ、日本の南部(Namboe)地方に最も近い。 舟は津軽(Tsoegar)地区の小泊(Kodomari)から北に向かって出発し、8マイル〔マイル=里、以下同様〕の水路を渡った後、松前(Matsmai)に到着する。 御厩(Mimaja)から西北に航行し、14マイル渡った後、松前に着く。 この海路は一年中航海可能で、松前は蝦夷の西側(du côté occidental)〔白石原文、南界〕にある。 国史(Nipon-ki)では渡島(Foto-Ieso)と呼ばれる。 松前を北に向けて出発し、まず東に、次に北に針路を取り、風がよければ5日以内に東の湾ノツサブ(Nossaboe)に停泊できる。 そこから東北〔ここで「ノツサブ=納沙布」なら、白石原文(の写本)の方角記述は西北の誤り。ティチングも同様。〕へ向かい、順風のもと6日かけ北の湾のソウヤ(Soeja)に到着する。 これら2つの場所の間には12の小さな入り江があり、嵐や逆風の場合に舟が避難できるようになる。 松前から南(vers le sud)〔白石原文、西路則乍西乍北。ティチングの「南」は「北」の誤り〕に向かって出発すると、風が吹けば5日以内に北の湾のソウヤに到着する。これら2つの場所の間には17の小さな入り江がある。ソウヤの北7マイルに別の島があり、また蝦夷人は住んでいない〔白石原文、皆夷種〕。 その東北(l’est-au-nord)〔白石原文、西北。ティチングの「東北」は誤り〕には韃靼海がある。 この島は奥蝦夷(Okoe-Ieso)、またはカラト島(Karato-Sima)という名前があり、半分はタタール人、半分は蝦夷人に属している〔白石原文、「タタール人、蝦夷人」の記述なし〕。さらに東北に13マイルのところに5つの島があり、最初の島の東北にはさらに32の島があり、すべて蝦夷やその他の人々(les gens d’Iesso, et d'autres)が住んでおり〔白石原文、皆夷種云〕クルミセ(Koerœmisi) と名付けられている。 これらの中にラッコ島(Rakko Sima)がある。 西北に向かい4つの島がある。 最も近い距離のものは7マイル、最も遠い距離のものは15マイルである。 西南にはテウレ(Féaroen)と呼ぶ2つの島があり、北はリイシリ(Risiri)であり、そのさらに北はレフンシリ(Réjoe-Siri)である。

〔2、蝦夷〕

  松前城は山と海辺の間に建てられている。 その東側と西側には2つの大きな湾がある。最初の湾は黒岩(Koeroe-Jesi) と呼ばれ、もう1つは乙部(Ottobé) と呼ばれ、地上の往来は出来ない。 松前の西南の海には3つの島がある。最南端の島は小島(Ko-Sima)と呼ばれる。 もう1つはさらに北にあり、大島(O-Sima)と呼ばれ、最北のものは奥尻(Okoe-Siri)と呼ばれる。乙部からは18マイルである。
  北海岸は完全に蝦夷(原住民すなわちアイヌ)に属す。 彼らのほとんどは海沿いに住んでおり、そこには約50の村〔白石原文、五十四〕がある。すなわち、
   〔以下の村名は省略〕
  西側には39の村〔白石原文、四十一〕がある。すなわち、
   〔以下の村名は省略〕
  東北には次の7つの村がある〔白石原文、この区分無し〕
   〔以下の村名は省略〕
  北には4つの村がある。
   〔以下の村名は省略〕
  蝦夷島はほぼ全体が山と岩で占められているが、中央部はやや平坦になっている。 そこには北の山の南側と南の山の北側から非常に強い流れがあり、2つの湖を形成している。 最初のものは東にあり、西側(côté de l'ouest)から東の海に流れ込む〔白石原文、則南流入于東海。ティチングは「ここは不明確」と註付け〕。もう一方は西にあり、北に流れ、東北でいくつかの小さな川と合流し、最後に25マイルを経て西海に注ぐ。 海からの沿岸に住む住民〔白石原文、「夷人亦傍水成聚者十三」(川・湖の傍らの集落の意)。ティチングは「東海の意に違いない」と註を付けたが、西海が正しい〕には13の村がある。
  〔以下の村名は省略〕
  言及した村以外にも、蝦夷には他に多くの村がある。 それらは5つの勢力(administrations)に分かれている。
  最東端のもの(Celle)〔白石原文、東瀦(=湖、沼)。ティチングは瀦とは特記していない〕は周囲3マイルあり、ひょうたんの形をしており、名前はイブツ(Iboets)である。
  西側のものは周囲約12マイルで、イシカリ(Jési-kari)と呼ばれている。
  中央のものはハシキタ(Fihasi-kita)と呼ばる〔白石原文に無し。ティチングの註は「先に引用したポーランドの有名な冒険家のハッシである」とするが、この註は疑問〕。細部は分からない。
  4番目は北東に向かって伸びている〔白石原文に無し〕
  5番目は最も北にあり、キタ(Kita.)という名前が付いている〔白石原文に無し〕
  住民は常に自分たちの名前に自分たちが住んでいる部落の名前を付け加える。各部落にはそのリーダーがいて、そのリーダーはその部落全体に対応する。男性は短く縮れた髪をしている。彼らは髪を結ばない。あごひげと口ひげは非常に濃い。彼らの中で最も上位の人は金の耳輪を着けている。一般の人は銅か錫で作っている。彼らは、日本での死者の慣例と同じように、長くて簡単な衣服、または裏地のない衣服を右手から左手に向かって閉じて身を覆う。これらの衣服は袖が非常に短く、幅が狭い。彼らは細いベルトで自分の腹部を縛る。主な者(principaux)は数種類の貴重な生地を使用する。人々は麻や木の皮で作ったものを持っている。刺繍を施したものもある。上着は通常、厚布または動物の皮で作られている。
  女性は髪を頭の上で一つに結び、小さな鎖、男性よりも大きい2つまたは3つの銀の輪で耳を飾る。彼らは口の植物を意味する植物コジェグサ(kœdje-gœsa)の青汁を唇に塗る〔白石原文、未審是何〕。女性の額、顔、手、足には花模様が美しく描かれ、黒っぽい色素がすり込まれたものである。これは母親が、子供が小さい時に行ったものである。女性の服は男性の服に似ているが、刺繍や花はない。体の中央には非常に幅広のベルトがあり、胸には装飾品として、花が刻まれている直径1インチの小さな銀のプレートを付ける。両側には首に掛ける紐を通す小さな穴がある。彼らは首にさまざまな色のネックレスを着けている。一種の玉類(grains)、美しい石、そして銀や銅銭(sepikkes)が喉元に垂れ下がる。庶民は白い蝋に浸した直径3〜6インチのシトギ(si-togi)と呼ばれる小さな銅板をかける。
  彼らは帽子をかぶらず、裸足で歩く。彼らの家は部屋に分かれておらず、窓のある丸い壁で構成されている。屋根は干し草で覆われ、絡み合った葦で地を覆う。家族全員が一緒に住んでいる。女性も食べて乱雑に寝る。彼らは妻とほとんど取引をしない〔白石原文に無し〕。主従の区別はない。
  彼らは著名な人物に近づくと、祈るように両手を合わせ、指を伸ばす。彼らは医学についてほとんど知らない。病気のとき、彼らは祈りを捧げる。しかし誰に向かってなのかは誰も知らない。天然痘、はしか、その他の伝染病の場合、彼らは病人を高い山や非常に遠い場所に送る。死者を穴に埋め、その上にヤナギ(janagi)の木を植える。彼らは両親のことを決して嘆かない。息子は いとこや家族の誰かに向けて刀を抜く。彼らは血が流れるまで額の両側を打ち合い、それが故人の死の原因であり、故人に対する義務を適切に果たさなかったことを非難し合う。これをメツカウチ(mitjautji)という。
  彼らは、金、玉(grains)、宝石にはほとんど興味がないが、古く光沢のある品や、もう処分もできないほどの品物、古い刀など、骨董品の多くは役に立つ。 彼らには文字も四季の名前もない 。 しかし、彼らは寒い天候と寒い天候を一年として数える。 松前の支配下にある月のように、彼らは固有名詞で月を区別しない 。しかし、彼らは何らかの厳粛な約束をするときは月を数える。 これは書面では行われないが、双方が最も貴重なものの一部を誓約する。この厳粛な約束に違反した者は、罰として、自分にとって最も貴重なものを引き渡すことを強制される。 最も価値が高く評価されるものは、金の花で飾られた、長さ15インチのツバメの尾の形をした鉄片で、クワサキ(kowasaki)と呼ばれ、両端から小さな鈴がぶら下がっている。 彼らはそれを地中に隠し、祈りのときに使う。 それらはすべて同じ礼拝ではあるが、寺院やそれを行う特別な場所はない。 今までその品物を発見することは不可能であった〔白石原文に無し〕。 彼らは飲食する前に、初代将軍(Zjogoen)頼朝(Jori-Tomo)の弟である義経(Josi-Tsocné)に祈りを捧げる。
  蝦夷の東部には、今でもその城の遺跡が残っている。 そこの人々はとても強く勇気があり、この国の他の人々から非常に恐れられている。 彼が住んでいた場所はハイ(Fay)と呼ばれている。 彼ら〔白石原文、夷俗〕の言葉での名前はオキクルミ(Oki-Goeroemi)で、飲食する前にオキ(Oki.)という言葉だけを発音する〔白石原文、夷俗凡飲食及祝之曰オキクルミ〕。 私(Je)〔白石原文には「私」という語はなく、ティチングを指すのか新井白石を指すのか不明〕は義経が年号・文治(Nengo-Boenzi)5年(1189年)の閏4月にそこからオエロシエナツ(Oéro-Sienats)に逃亡したことは真実だと考えているが、それは彼の城の遺跡のためであると同時に、次の事実のためである〔この文は白石原文に無し〕。 西部の海沿いの地点には、弁慶崎(Binké-Saki)という名前が残っている。サキ(Saki)とは、彼らの言語で点を意味する。 弁慶(Binké)は司祭で、非常に強くて勇敢な男で、義経と長い間戦争をした後、服従して彼の従者となり、兄の恨みから逃れるために彼と一緒に蝦夷へ行った〔この文は白石原文に無し〕。 頼朝(Jori Fomo)は、敵の一族の一人である平清盛(Fayra-no-Kijo Hori)の娘と結婚したためである〔この文も白石原文に無し〕
  その後、義経はさらに北に進んだが、それは蝦夷である。年号・寛永(Nengo-Quanjé)に越前(Jetjézen)のある住民たちが韃靼(Keltan)またはタタ−リ(Tartarie)の海岸に漂流し、年号・元禄(Nengo-Genrok)16年(1703年) に日本に帰国したと言われている。中国の皇帝康熙(Ko-ki)は彼らを朝鮮に送り、そこから戻ってきたという。彼らの話によれば、北京に数年間住んでおり、そこの出入り口広間に、この帝国に代表される義経の肖像画に非常によく似ているものを見た。 日本と同様に中国でも、玄関広間に何らかの神の名前や肖像画を貼るのが通例である。 このことから、彼〔義経〕も韃靼にいたと結論付けられる〔白石原本、亦可以為異聞〕
  他の点では、男性は通常釣りと狩猟で暮らしており、さまざまな地方で不足しているものを相互に持ち帰ってくる。 女性たちは木の皮やあらゆる植物の繊維を準備し、織機で作業したり縫製したりするための糸を作る。 彼らは刺繍が得意で、素晴らしい形を作る技術を持っている。 彼らは音楽を理解していないので、私たちもそのような楽器は見ていない。 北部の住民の中で、複数弦の楽器を持っている者はただ1人だけで、彼はそれで演奏していた。 しかし、私たちはそれが韃靼から彼に伝わったと信じている。
  楽しい集まりでは、彼らは極端に陽気だ。 しかし、彼らが歌うときは、牛の鳴き声に似た音を出す〔白石原本、如牛鳴盎中者〕。 干潮時には鳴きながら流れを待つ。 彼らは食事のときに同じように歌うが、いつも同じ歌を歌う。 彼らの小さなカヌーは木をくりぬいて作られている。 最大のものは繊維状で分枝した植物によって支持されている〔白石原本、謂桴也〕。 彼らは好戦的で、皮の胸当て、木製の弓矢、刀、槍など、さまざまな種類の武器を持っている。 弓の長さは 37インチ〔寸〕で、弦は草を加工して作られている。 矢の長さは12インチで、先端には鹿の骨が付いている。 竹の先端を作ると、傷から抜けないようにカギ(crocs)〔白石原本、逆鬚〕があり、毒が塗られる。 彼らの槍の穂先はノミの形をしている。 柄は木製で、長さは約55インチである。 落下時にはより効果を発揮するため、刃は重くなっている。〔白石原本の、「有棍長二尺五寸頭有鉄刺如菱角又有細管吹之以為號令者」部分の訳文は欠落〕。胸当てはアシカ(chevaux marins)の皮〔白石原本、海驢皮〕でできており、三重になっている。 周囲は約60インチ、高さは23インチで、ハヨクヘ(Jazo-koebé)と呼ばれる。 弓幹〔ゆがら〕はモミの一種であるオツォエスコ(Otsoesco)〔白石原本、所用之木松身栢葉〕で作られ、別の木の樹皮が巻かれ(entourés)ている。 矢の名前はアイ(azi)である。 矢柄はモミの緑の枝から作られ、矢羽根は鷹またはロジ(plongeurs)〔白石原本、鸕飼(飼=茲鳥で一字)〕の羽が付いている。 槍はシヨチキネ(sjotjikine)と呼ばれる。
  蝦夷には幾種類もの植物があるが、その中に春菊(sangiek)やクロユリの花もある。 しかし、それらは両方とも非常にまれである。 前者は白い花を咲かせるが、我々の場合は黄色の花を咲かせる〔白石原本に無し〕。我々はユリの根を食べる〔白石原本、百合根夷中亦啖之〕
  牛、馬、キジなどはいないが、森にはタカやワシがたくさん巣を作っている。 山には鹿や熊がいる。 水の中には、シードッグ(chiens marins)やビーバー、即ちオーロセス(olloses)。 上で話したアシカはロバの顔をしており、アモミツベ(amo-isoebé)という名前が付いている。 シードッグ、即ちアザラシ(azoerasi)は見事な斑点がある(marquetés)。
  蝦夷の原住民(indigenes d’Iesso)は非常に頑丈である。 彼らは驚くべきスピードで走り、弓を上から撃つ。 何か獲物を発見すると彼らは山や岩を越え、さらには水の上でもそれを追いかけるので、獲物を決して逃がさない。 水が半分甘く、半分塩辛い川の入り口では、数種類のサケがいる。7ヵ月目と8ヵ月目に非常に多くの数が遡上して、流れをせき止めてしまうことがよくあり、手で簡単に捕獲できる。 住民はそれらを家の上に吊るす。 その名前は蝦夷言葉でカラファキ(karafaki.)である。 ニシンは東の海で見られる。それは群れで泳ぐイワシ(sardine)の一種で、海は泡で覆われているように見える。 我々はそれらを切り身で食べるが、常に量が膨大である。 このイワシは特に卵が美味しく、中に卵がたっぷり入っており、これを乾燥させたものを数の子(koesonoko)という〔白石原本、乾之為脠。脠=塩漬け〕
  海では、東南側に昆布(lentille marine)とあわび(sang-sues de rochers)がたくさんあって、潜水して獲る。 最も広い昆布は1フート、長さは約10フィートあり、中央は黄色、両端は緑色で、非常に柔らかく、食べるのに適している。 逆に、長さ方向に対しては硬くて食べられない場所もある。
  北海にはクジラがたくさんいる。 しかし原住民たちは、海岸でニシン漁(nising)を続け、信じられないほどの量があるので、クジラを捕獲する価値を自らに与えず、それを天からの贈り物であると考えている。 この黒く、マグロによく似た長いヒレを持つ魚〔天敵のシャチ〕もいる。 これがクジラに遭遇すると、これらは死ぬまで戦う。 クジラはいつも屈してしまう。黒魚との戦いの後、このクジラが海岸に打ち上げられ〔寄鯨(よりくじら)〕、油とひげを簡単に手に入れることができるため、今でも彼らが決して海に出てクジラを捕まえようとしない理由である。
  私(Je)〔白石原文には「私」という語はなく、ティチングを指すのか新井白石を指すのか不明〕は蝦夷の住民の状況を、神武天皇(Zin-moe-ken-O)(紀元前660年)の時代以前の日本人の状況と比較する〔白石原本にこの文は無し〕。 彼らは儀式や社会的なつながりを知らず、野獣とほとんど変わらない。 彼らは生の肉を食べ、動物の血を飲むが、食べ物や調理された肉が生のものより美味なことをまだ知らなかった。 しかし彼らはここ最近になって、中でもノタエ(Nolabé)ウス(Oesoœ)エントモ(Jédomo)オシヤマンベ(OstjamaSibi)の東側、〔これ以降の地名は原本と同定できず〕そして(Palam)、(Fockoro)、(Fima-komaki)、(Foet-soet-sos)、(Oda-soet-soet-sœ)、(Usoja)、(Swanai)、(Sjakokan)、(Fîkohem)、(Sikoel-Son)、(Foero-rFîra)で、日本人から土地を耕し、トウモロコシを蒔くことを学んだ。西部では収穫に適当な場所がまだいくつかある。 しかし、収穫物を台無しにする寒さのため、住民はそこを無視している。 彼らはまだ田植えの第一期と第二期を知らない。
  彼らは酒(zakki)とタバコが大好物であるが、一方を造ることも他方を栽培することもできない。 したがって、東南の側に残っている人々は、これら2つの品物を積んだ日本の船が到着すると互いに祝福する。

〔3、北蝦夷〕

  北蝦夷(Kita-Jeso)、または奥蝦夷(Oki-Jeso)は、彼らによってクラト(Krato)またはカラト(Karato)と名付けられた。 住民は全体的に、私たちが今話した人々に似ている。 彼らは海沿いに住んでおり、22の村がある。その中で最も有名なものは次のとおりである。
  〔以下の村名は省略〕
  東側は外海である。 西北には韃靼(Tartary)がある。 しかし、距離を正確に特定することはできない。ここでは、青と緑の玉類(grains)、ワシの尾羽(des queues d’aigles)、蝦夷の布がある。 しかし使用目的は中国人のそれと似ており、それらは韃靼に中国から移送されたものと思われる。
  広大な蝦夷は昔から、非常に強い流れによってのみ隔てられてきたわけではなく、たとえ距離が短くても、通過が非常に危険であるためである。

〔4、東北諸夷〕

  蝦夷の東北には37の島がある。 しかし、ここで様子が分かるのは1つだけである。 主なものは、
  〔以下の島名は省略〕
これらの島々はすべてクルミセ(Koerœ-misi)という名前に含まれてる。
  蝦夷の住民はキイタツプ島(Kitat-Soeb)のみを頻繁に訪れる。 そこに上陸すると、彼らは商品を陸に運び、見てもらうために1マイルほど内陸に運び、それから岸に戻る。 住民は山からやって来て、すべてを調べ、他の物を向かいに置き、自ら立ち去る。 帰って来て調べる。彼らは、私たちが彼らの商品を天秤にかけたものでは十分でないと感じているのだろうか? これらの品物が適切であると判断されるまで、それらは減少される。これが、最終的に取引が締結される方法である。 これらの島民の商品は、数種類の皮、布地、厚布である。 蝦夷の商品は、米、塩、酒、タバコ(tabae)、日本産の布地数種類などである。
  年号・寛文(Nengo-Quanboen)の間、日本の船が嵐に襲われたという報告がある。 帆柱を失った後、7ヵ月以上にわたって東北へ流された。 この間ずっと、海は濃い霧に覆われていた。私たち〔漂流船の乗組員を指す〕は太陽も月も見たことがなく、こんな状態で私たちは暗い夜を百日間漂っていた。 私たちは巨大な水柱を吐き出す大きなクジラに遭遇した。ついに彼ら〔漂流船の乗組員を指す〕は、吹き寄せられる先に大きな島を目にした。 さらに12日間吹き流された後、舟は更に8日間南西の風に漂った。 それから彼らは再び外海を見て、彼らの計算によるとさらに13マイル運ばれた後、別の島が見え、それに沿って9日間漂った。 そこから彼らは、蝦夷の北にある東岬まで15マイル行ったことになると計算した。それは米を積んだ船で、あらゆる種類の食糧が十分に積まれていた〔白石原本にこの文無し〕
  私(J’ai)〔白石かティチングか、誰を指すのか不明〕はこの報告書を細心の注意を払って検討した〔白石原本にこの文無し〕。 年号・寛文(Nengo-Quanboen)12年(1672年)の12月23日、米を積んだ船が伊勢(Izé)から、伊勢の背後にある小さな島〔「島」ではない〕である志摩(Sima)に向けて出発した。 舩はそこから東へ航海したが、翌日の昼から驚くような激しい北風が吹き、9日間連続で東南へ流された。 それから風は東北に変わり、帆柱を失いながら、舩は最大の困難の中を進んだ。 翌年の7月5日、私たちはエトロフ(Jetorof)と呼ぶ人もいればクナシリ(Fana-Siri;)と呼ぶ人もいる島を発見した。 そこから私たちは気付かずに奥蝦夷(Okoe-Jeso)の北の東端に沿って漂っていた。 それから彼らは東に向かって200マイルほど流され、日本から180マイル離れたトカチ(Fokak)と呼ばれる蝦夷の東部に到着した。東洋あるいは中国マイルは1マイルあたり8ブロックである〔白石原本にこの文無し〕。 そこで私〔白石かティチングか、誰を指すのか不明〕は、この船は太陽も月も見ずに暗闇の中を長時間漂い、北極に向かって押し進められたこと、そしてこれらの場所がヨーロッパ人に完全に知られていることが理解できた〔白石原本に、この近似文意「然も一隅を挙げて以て之れを反りみるに、則ち其れ概ね得て而て見る可矣」はある〕。 日本の船乗りは、経度と緯度を正確に計算する技術を持っていないので〔白石原本、この文無し〕、彼らが記録したマイル数に頼ることはできないと思う。
  しかし私〔白石を指す〕はオランダ人から、クルンラント(Groenlande)は北極の下方〔南側〕にあり〔白石原本、在天地極北界〕、半年の間は夜が続き、半年の間は昼〔白石原本、この語は無し〕であるが、常に非常に寒くて曇っていることを知った。 そこにはたくさんの鯨や他の大きな魚がいて、彼の同胞のおかげで毎年そこにクジラ漁に行っていたということである。
  80年前、オランダ船が蝦夷の東海岸と西海岸〔白石原本、東南海口〕に行ったが、蝦夷を周航することはなかった〔オランダ人指揮官・デ・フリースによる1643(寛永20)年の千島列島や樺太沿岸の探検を指す〕。 したがって、その範囲も、本当の長さと幅も知ることができなかった。 奥蝦夷(Okoe-Jeso)の住民は、東の海に二つの島があり、一つは大きく、もう一つは小さいと報告している。 どちらもゴエロエ・ミゼ(Goeroe-Mize)と名付けられた。 この言葉の意味について何度か調べたところ、通訳からゴエロエ(Goeroe)は蝦夷の言語ではなく、国を意味するミゼ(Mizé)であることが分かった。 ゴエロエ(Goeroe)グロクン(Grocn)には何らかのつながりがあることが分かった〔白石原本、この文無し〕
  韃靼の東北にも島がある。フィ・アス・コタン(Fi-as-kottan)は夷語のアシカ(Assi-ka)によって名付けられた。 アシ(Assi)は夜を意味する。 コタン(Kottan)は国である。 中国の地図を見ると、フィ島(l’île Fi)の北東に、ジャ・ココフ(Ja-Kokof)、即ち夜の国と呼ばれる別の島があることがわかる。 蝦夷の人々はたった一度だけフィ・アスコタン(Fi-askottan)に滞在し、戻ってきたときに、そこの住民、植物、樹木、その他多くの物は蝦夷のものに似ているが、そこにいる人々はより大きく、ヤギや鹿はいなかったと報告した。 そこでは多くの牛や馬がいて、彼らはクジラを捕まえるために弓、矢、槍で武装して海に出ていたことがわかった。私たちはそこで、流れに乗って群れを成して川を遡り、互いに押し合っているたくさんのサケを見つけた。 そのため、引き潮の間、住民は網を必要とせずに手で捕らえた。 驚いたことに彼らは、彼らが炊いたご飯を食べているのを見た。〔白石原本の「其國山皆高峻・・・其衣團領餘皆如男子制」までの翻訳無し〕。彼らはお互いに話すことができなかったが、手話によってお互いを理解することを余儀なくされた。 彼らの住居は内陸に3日も離れたところにあった。 蝦夷の人々はそこに同行することを望んでいたが、彼らはそれを許したくなかったし、力ずくでそれを試みようとしたとき、彼らは矢で彼らを脅した。 したがって、彼らは家の建築について詳細を話すことができなかった。
  この島の近くでは、中国でカイガン(kaygan)または海牛(bœuf marin)と呼ばれるラッコ(rakko)〔現在のラッコ属ラッコ(海獺)を指していない〕が大量に捕獲される。 最大のものは約10フィートある。 色は紫で角はない。 足のつま先は亀のつま先に似ており、薄い膜でつながっている。 尾は魚の尾に似てる。たくさんの油がとれる。 皮膚はとても柔らかく、矢筒(carquois)に適している。 これらの動物の数が多いため、周囲の島はすべてラッコ島(Rakko-Sima)と呼ばれている。

以上である。この長い記述は、原則的に忠実に翻訳しようとする意図を強く感ずるが、中に文章が省略されたり、ティチングの説明とも取れる文章が挿入されたりする箇所が散見される。現在のようにPCや電子ファイルが利用できない220年以上も前に、世界の秘境・日本の情報をヨーロッパに紹介しようとしたオランダ商館長・ティチングの熱意と強い意図を感ずる。

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05/20/2024, (Original since 05/20/2024)