日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ティチングの『 蝦夷記−II 』

イサーク・ティチングの収集した蝦夷情報
『蝦夷志』の「序」

ヨーロッパでは18世紀前半から19世紀初頭にかけ、日本や蝦夷、奥蝦夷近辺の調査が各国の情報収集すべき主なる秘境の一つだった。 ちょうどこの頃、1779(安永8)年から1784(天明4)年まで3回にわたりオランダ出島商館長を務めたイサーク・ティチングも蝦夷地方に関する日本文献を入手して調べ、オランダ通詞の協力でオランダ語に翻訳し〔"JAPAN As It Was And Is" by Richard Hildreth. Boston. 1855. P.424〕、後にフランス語で記述し直した原稿をヨーロッパで出版したいと強く望んでいたが、生前にはその思いを実現できなかった。
このティチングの遺稿は、蝦夷通詞・勘右衛門から聞いた話を松宮観山が筆記し編纂した『蝦夷談筆記』(宝永7(1710)年)からの翻訳筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)と、新井白石の記述した『北嶋志』、一般に『蝦夷志』(享保5(1720)年1月)として知られるものの中の本ページの「蝦夷志序」と「蝦夷地圖説、蝦夷、北蝦夷、東北諸夷」の部分筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)とに二分した翻訳で、合わせて3部構成である。

この遺稿で言ういわゆる「ティチングの蝦夷記」は、1812年2月にティチングが没した後、1814年に『Annales Des Voyages, De La Geographie Et De L'Histoire. Tome Vingt-Quatrieme. Paris, 1814』〔『地理と歴史の航海年代記』、第24巻、パリ、1814〕に収録され、『蝦夷談筆記』を 「I. Ieso-Ki〔P. 147-186〕 として、『蝦夷志』の中「蝦夷志序」を「II. Jeso-Ki〔P. 186-190〕、 及び「蝦夷地圖説」以降を「III. Jeso-Ki〔P. 190-213〕として収録し、出版された。

本ページでは、『地理と歴史の航海年代記』第24巻に掲載された、いわゆる「ティチングの蝦夷記」の中の、新井白石の『蝦夷志』中の「序」を収録した「II. Jeso-Ki〔P. 186-190〕のフランス語からの翻訳を載せる。

 『蝦夷志』の「序」を収録した「II. Jeso-Ki」〔P. 186-190〕
(典拠:『Annales Des Voyages, De La Geographie Et De L'Histoire. Tome Vingt-Quatrieme. Paris, 1814』 

『蝦夷志』の「序」を収録した「II. Jeso-Ki」〔P. 186-190〕部分のフランス語からの日本語訳は次の通りである。

〔「 ティチングの蝦夷記−II 」〕

♠  II. 蝦夷記、すなわち蝦夷の説明
新井筑後守著、 将軍綱吉の侍講

〔実際は6代将軍・家宣の侍講〕

前書き〔白石の序〕
( 〔〕 内は本サイト著者の註記 )

   『山海経(Singai-kjo)』という著作の中に、蝦夷(Iesso)または毛人(Mosin)が日本の北に居るとある。漢(Kan)(Han)王朝の中国皇帝の下、鮮畀〔せんぴ〕(Sinpi)出身の檀石槐(Dansikiquay)は年号・光和(Koiva)(178年から184年)の時、日本人は海に潜り、網で漁をすることに非常に熟練していると知らされた。 このため、彼は東部の日本人を攻撃し、千人以上の家族を強制的に拉致し、秦水(Sinzui )に定住させ、そこで漁業をしながら暮らさせた。 上記の鮮畀(Sinpi)は東韃靼(Tartarie orientale)に属し、東北に位置する。 北日本は蝦夷と呼ばれる。 住民は東日本とのつながりを通じ、海に潜って網で漁をすることを学んできた。 その中にはいくつかの種族がいる。渡島蝦夷(Foto-Ieso)の人々は、東北の島に住んでる。 北の蝦夷は東洋(l'oriental)の北蝦夷(Kita-Ieso)と呼ばれる。また東蝦夷(Figasi-Ieso)もいる。 以前は、陸奥(Moets)越前(Jetjezen)越後(Jetjego)越(Jetjn)の各地方の住民も蝦夷に属すると考えられていたが、彼らは日本人である。 最初の種族は東に住んでおり、他の3種族は北に住んでる。
   『宋書(Zo-sjo)』、つまり王朝の皇帝の歴史(Suy、581年から618年)と呼ぶ著作では、毛人は55の地域で構成されていたと言われる。『唐書(Fo-sjo's)』の著作には、倭国(Wakolif)、つまり日本が北に向かって大山(O-jama)まで広がり、反対側のすべてに毛人という名前が付いていると書かれている。 このことから当時、日本と蝦夷の人々の違いはそれほど顕著ではなく、これらの人々は内部の人と外部の人に区別されていただけではないかと推測される。 こんな人々の歴史はあまりにも深い闇に覆い隠されていて掘り下げることはできないがしかし、第12代景行天皇(dayri Kei-koe-ten-o)(我が西暦71年から130年の在位)の征東の詔の中に、東方の種族がその境界を超え、天皇の臣民に害を与えた事を述べており、そのようなことは太古の昔から例がなかった。 こんな表現を見ると、これらの東洋人(ce peuple oriental)は非常に古い民族であったと信じられる。 しばしば彼らは日本臣民と戦争をした。 年号・齊明(zannee)の4年(658年)、内裏は阿倍臣(Abe-no-Omi)〔阿倍比羅夫〕に、艦隊を率いて蝦夷に向かい蝦夷を討てと命じた。 彼は齶田〔あぎた〕(Akita)の知事、その他や渡島蝦夷の住民の援軍の助けも受けた。 彼は津軽(Tsoegar)を日本の統治下におき、その後、都(Mijako)に戻った。 翌年、内裏はまた齶田の知事や津軽その他からの支援を受け再び蝦夷を攻撃するよう命じた。 彼は彼らを打ち負かし、国の統治に関する非常に細部に渡る命令を発し、後方羊蹄〔シリベシ〕(Sin-rebetsi)に知事を任命した。 同年の秋に彼(内裏(dayri))は、年号・永徽〔えいき〕の、唐(To)王朝((Tang) dynasty)の皇帝の歴史書『唐書(To-sjo)』でも語られているように、陸奥蝦夷(Moetsoe-Ieso)の住民数人を伴って中国に大使一行を派遣した。この大使一行は蝦夷の人々とともに無事に到着した。唐の高宗(To-no-Kozo)(Tang Kao-tsong)は大使の一人に、蝦夷は幾つの種族で構成されているかと尋ねた。 彼は、「三種族です。一番遠いのは都加留(Tsoegar)です。 二番目は麤蝦夷〔あらえみし〕(Ara-Jeso)、すなわち未開の蝦夷。 三番目は、熟蝦夷〔にきえみし〕(Tjika-Jeso)、または最も近い種族です」と答えた。
  年号・天平寶字〔てんぴょうほうじ〕(tempe-fozi)6年 (762年)、淳仁天皇(Faity-ten-o)〔白石記述に天皇名は無し。淳仁は推定〕は、各地域に必要な命令と罰則を確立するため家臣の一人〔東海東山節度使〕をそこに派遣した。 彼の名は藤原恵美朝臣朝獦〔あさかり〕(Foesiwara-no-Jemi-no-Asson Asakase)である。 彼は鎮守府の門の近くに石を建てさせ、そこにこの場所からの距離を刻んだ。 この石は現存しており、壷碑〔つぼのいしぶみ〕(tsoebo-no-jesi boemi)と呼ばれている。 この石には、蝦夷の境界は百二十マイル〔マイルは里。白石註記に、今法二十里とあり〕、各マイルは六町(de six rues)の距離にあると記されている。 このことから、古代鎮守府が置かれた場所は同じであり、現在は宮城郡(Magi Nogoen)と呼ばれているが、当時の北限から数百マイル〔マイルは里〕離れていたことがわかる。 それはおそらく、この地方がそれまで、引き続き蝦夷の人々により征服されていたという事実に由来していると思われる。
  征東将軍(zjogoen)・坂上田村麻呂(Saxa-no - Woeje -no- Tamoera Maro)は、この帝国の奥深くまで侵入していた蝦夷の人々を、彼らの限界と定めた海の端まで追い出した。それから646年〔白石記述・656年〕後、嘉吉3年(1443年)、若狭守信廣(Wakassa-no-kami Noboe Firo)が海を渡り、当時蝦夷と呼ばれていた島の南(l’ile du midi)を平定した。その子孫は今に至るまでその拠点を守り、統治している。 こうして我々は東蝦夷(l'est d’Iesso)の人々をもはや恐れなくなり、この国の現状について希望通りの調査を行うことが容易になった。
  年号・享保〔白石記述は、庚子正月庚寅〕5年1月(1720年)

新井筑後守(Arai Tzikoego-no-kami.)署名

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04/01/2024, (Original since 04/01/2024)