日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ティチングの『 蝦夷記−I 』

ティチングの収集した蝦夷情報
『蝦夷談筆記』と『蝦夷志』をフランス語訳にし、『ティチングの蝦夷記−I、II、III』を構成

ヨーロッパでは18世紀前半から19世紀初頭にかけ、日本や蝦夷、奥蝦夷近辺の調査が各国の情報収集すべき主なる秘境の一つだった。 ちょうどこの頃、1779(安永8)年から1784(天明4)年まで3回にわたりオランダ出島商館長を務めたイサーク・ティチングも蝦夷地方に関する日本文献を入手して調べ、オランダ通詞の協力でオランダ語に翻訳し〔"JAPAN As It Was And Is" by Richard Hildreth. Boston. 1855. P.424〕、後にフランス語で記述し直した原稿をヨーロッパで出版したいと強く望んでいたが、生前にはその思いを実現できなかった。
このティチングの遺稿は、蝦夷通詞・勘右衛門から聞いた話を松宮観山が筆記し編纂した『蝦夷談筆記』(宝永7(1710)年)からの翻訳と、新井白石の記述した『北嶋志』、一般に『蝦夷志』(享保5(1720)年1月)として知られるものの中の「蝦夷志序」と「蝦夷地圖説、蝦夷、北蝦夷、東北諸夷」の部分とに二分した翻訳で、合わせて3部構成である。

この遺稿で言ういわゆる「ティチングの蝦夷記」は、1812年2月にティチングが没した後、1814年に『Annales Des Voyages, De La Geographie Et De L'Histoire. Tome Vingt-Quatrieme. Paris, 1814』〔『地理と歴史の航海年代記』、第24巻、パリ、1814〕に収録され、『蝦夷談筆記』を 「I. Ieso-Ki〔P. 147-186〕 として、『蝦夷志』の中「蝦夷志序」を「II. Jeso-Ki〔P. 186-190〕、 及び「蝦夷地圖説」以降を「III. Jeso-Ki〔P. 190-213〕として収録し、出版された。

本ページでは『地理と歴史の航海年代記』第24巻に掲載された、いわゆる「ティチングの蝦夷記」の「解説」部分と『蝦夷談筆記』を収録した「I. Ieso-Ki〔P. 147-186〕のフランス語からの翻訳を載せる。

新井白石の「蝦夷志序」を翻訳した「II. Jeso-Ki」〔P. 186-190〕「II. 蝦夷記、すなわち蝦夷の説明。将軍綱吉の侍講・新井筑後守著」に、またそれに引き続く「蝦夷地圖説、蝦夷、北蝦夷、東北諸夷」を翻訳した「III. Jeso-Ki」は〔P. 190-213〕「III. 蝦夷記、すなわち蝦夷島の説明に載せた。


 「解説」と、『蝦夷談筆記』を収録した「I. Ieso-Ki」〔P. 147-186〕
(典拠:『Annales Des Voyages, De La Geographie Et De L'Histoire. Tome Vingt-Quatrieme. Paris, 1814』、
参照原本:『蝦夷談筆記』、菅 俊仍 [著]、筑波大学附属図書館,一般,ネ330‐7

ティチング遺稿に対する「解説」部分と、「蝦夷談筆記」を収録した「I. Ieso-Ki」〔P. 147-186〕 部分のフランス語からの日本語訳は次の通りである。尚、翻訳文中の「本サイト筆者のコメント」中の「原本」は、上記「参照原本」を指す。

〔ティチング遺稿に対する「解説」〕

♠  駐日オランダ大使・故ティチング氏による
日本語から翻訳された蝦夷地の解説

〔P.145〜P.147〕
(〔 〕内は本サイト筆者のコメント)

  蝦夷の地は長い間地理上の謎の一つであった。 今日でも、ラ・ペルーズ(Lapeyrouse)、クルーゼンシュテルン(Krusenstern)、ブロートン(Broughton)の航海はこの島の海岸近辺を明らかにしただけであり、単純な航海地理上のすべての疑問が解決されたわけではない。 したがって、現地に行った観察者によるこの国の内部や住民の習慣、政治状況の説明は本当の宝物である。 駐日オランダ大使ティチング氏〔ティチングはオランダ大使ではなく、出島のオランダ商館長〕は、教育を受けた日本人によって1652年と1720年に記述された二つの蝦夷(de l’Iesso)の記述を収集し翻訳したが、二人とも記述されている地域を訪れた人たちである〔新井白石の蝦夷行きは疑問〕。 両者とも常識と誠実さに満ちていながら、蝦夷の人々を国家的理念に従って判断しており、これら二つの内容を通して、自分がただの学識ある日本人旅行者であり、私たちとはまったく異なる文明の原則に従って半野蛮な部族を高く評価することを理解するのは、ヨーロッパの識者にとり興味深い光景である。もし勘右衛門(Kannemon)と新井筑後(Arai-Tsikogo)が経度と緯度を与えることができたら、 彼らはイブン・ハウカル(Ibn Haukal)〔10世紀のアラビアの地理学者〕やアブルフェダ(Abulféda)〔14世紀のアラブの地理・歴史学者〕のレベルに達することだろう。 彼らの記述のように、朝鮮、満州、チベット、インドのいくつかの地域についても同様の記述があることが望ましい。
  これら二冊の蝦夷記(Ieso-Ki)は、故ティチング氏が長崎と江戸に長期滞在した際に、オランダ公使のような役割で収集した、日本の書籍、写本、遺品の膨大で素晴らしいコレクションの一部である。 ラングル氏(M. Langlès)のアドバイスによれば、この旅行家(ce voyageur)〔ティチングを指す〕は、日本の新しい政治的、地理的、自然史の見本として、蝦夷記(Ieso-Ki)を旅行記に掲載してほしいと希望しており、死が彼の栄誉ある骨の折れるキャリアに終止符を打ったとき、すでにすべての資料を収集し各部分を準備していた。
  ティチング氏の希望に従い、フランス語の規則で絶対に必要な修正を除き、蝦夷記の翻訳はそのまま印刷された。 おそらく読者の中には、一部の詳細を短縮したり、一部の用語を削除したりすることもできたと気づく人もいるだろう。 しかし、私たちが賛同を求めている学者たちは、このように珍奇な文書を歪曲したと言って私たちを非難することになろう。

〔「 ティチングの蝦夷記−I 」〕

♠  I. 蝦夷記(Ieso-Ki)、すなわち蝦夷記録の説明と
通事勘右衛門
l'interprèle KANNEMON)の構成による
シャクシャイン
(Samsay-in)の反乱に関する紹介、
宝暦
(Forekki)2年8月、1652年発行。
〔P.147〜P.164〕
〔1652年は1752年の間違いであるが、この日付けが何を指すのか不明。ティチング使用写本の日付か。
『蝦夷談筆記』原本の奥書によれば、「右松前之通詞勘右衛門口上之通少茂無相違書留候、寶永七年寅七月記于」
とあり、1710年の筆記である。〕

( 〔〕 内は本サイト著者の註記 )

   蝦夷(Iesso)は一般に非常に山が多い土地であり、平地はほとんどない。 住民の大部分は海沿いに定住しており、漁業と狩猟のみで暮らしている。 彼らは土地を耕作することはなく、種を蒔くことや刈り取ることが何なのかを知らない。松前もあり日本人が支配する南側では、彼等はいかなる境界線によっても隔てられていない。 西側では、田澤(Tasaiva)〔原本に従った〕と乙部(Orobi)〔原本に従った〕の2つの村で日本人と蝦夷人(les indigènes)は混在して暮らしている。東側のチコナイ(Tzigonai)〔原本に従った。木古内〕、シヤリカリ(Sioekari)〔原本に従った。札苅〕、茂辺地(Modorigawa,)〔原本に従った〕、冨川(Formgawa)〔原本に従った〕、ヘケレチ(Figeritzi)〔原本に従った。戸切地〕の5つの村でも同様である。他の蝦夷の住民は、シャモ(Samo)と呼ばれる日本人との共同生活を好まない。 上記の村の住民の数は年々減少している。 西側の村では天然痘や麻疹で多くの人が亡くなり、住民のほとんどが村を捨てた。
   この地に王〔総大将〕はいない。各村には、最も強く最も勇敢な人々の中から選ばれた首長がいる。 数年前、すべての蝦夷の長(chef de tout l’Iesso)である松前藩主(prince de Matsmai)の命令により、トビタケ(Tobi-Tuki)が任命された。 彼は200人の従者を従えていた。 領民の一人が背いた場合、彼は松前藩主に知らせ、藩主は問題を解決するか犯人を罰するため数名の役人や通訳をただちに派遣した。松前藩主の臣下となった人々は、大変おとなしい性格である。 彼らは貿易に船を使う。 そこの土地は非常に肥沃で、すべての植物や木々、主にフキ(foeki)( tussilago petasita)が日本のどの国よりはるかに良く成長するほどである。 葦は竹ほども太さがある。 また、各住居は簀子〔すのこ〕(haie)ではなく葦で囲まれている。 アワ、味噌豆、あずき(l'asocki)(赤みの濃い一種)、そして大角豆〔ササゲ〕(fokke fokke)が耕作されている。 しかし、他のすべての種類の穀物にとって、ここの地勢は好ましくない。 数年前、日本の最東端にある津軽(Tsoegar)地方の農民たちが、土地を耕すために定住する許可を申請し、許可された。彼らは3年間そこを世話した。 種子は成長こそしたが、我々の種子に比べて非常に貧弱であったため、彼らはこの試みを断念した。
   蝦夷の住民が松前藩主に支払う年貢はさまざまである。海沿いに住む人は魚を納める。 内陸部に住む人々は獲物を納める。 藩主からの贈り物も同様にさまざまである。 彼らに宗教はない。 このため、各村の住民の数は不明である。 それどころかこの帝国では、ある場所に住んでいる各宗派の人々の数に注目するのが通例である。 しばらくの間、蝦夷地に日本人は住んでいなかった。
   以前は、山師(les mineurs)や鷹匠(les fauconniers)がそこに定着していた。 しかしこの時、蝦夷の指導者の二人、シャクシャイン(Samsayn)とセンタイン(Zyodayn)〔仏語原文 "Zyodayn" から、カモクタインの父センタインの意と推定。原本、鬼ビシ〕が抗争を起こし、その命令に服従したくない日本人は撤退した。 これら二人の酋長の住居は松前から約20日間の距離にあった。 しかし、2ヵ所に馬が通れない道があった。 海路の順風下では、わずか4日の距離である。 ここはエビチャリ(Sibi-kajoe)〔原本に従った〕と呼ばれる場所である。抗争の詳細は後述する。
   松前の西側、54日本マイル以上離れたところに、クスリアツケシ(Koesoeri Atsoekesi)村がある。 海路なら、順風が吹けば8日で到着する。 住民はラッコを取りにラッコ島に年に1回だけ行く。ラッコの皮は松前で売るために持ち込まれる。 この島の住民に対する恐怖から、そのような旅には常に最も強く最も勇敢な者が選ばれる。アツケシ(Atsoekesi)が彼等の家からどれくらい離れているかは不明だ。 そこに3年間住んだ人は、とても遠いところだと断言した。 日本人はラッコ島に行ったことがなく、ラッコ島の住民も蝦夷(à Iesso)に来ることはない。 松前の人々がこんな蝦夷の地に行ったときは、鉄は使わず繩だけで支えられている舟〔原本、繩とじ舩〕を保護するため、彼らは海岸にわら小屋を建てる。 そうしないと、舟は水の中ですぐに腐ってしまう。
   蝦夷では、兄は妹と結婚する。 他人との関わりを避けるために、両親は通常、身内の間で結婚する。 男性は自分の資力に応じて4人から8人の妻を持つ。 すべての女性は自分の家を持っている。 男性は仕事でどこに行っても、たいてい妻がいる。 たまたま同じ場所に二人の妻がいたとしても、それぞれが家を持っている。 男性の不倫が見つかると髪の毛が抜かれる。 女性が姦通をそそのかしたとき、男性は彼女の耳輪を要求し、発見された場合、彼女を誘惑したのが自分ではないことの証拠として夫にそれを渡す。 その場合、彼女だけがこの罰〔髪の毛を抜く〕を受けることになる。
   もう誰も使えなくなった古い家具で大きな箱を作り、また熊の皮、ラックン(rakkn)、カズノコ(kasaenoko)など、たくさんのものを引き換えにくれる〔この表現は原本に見えない〕。 彼らは何かを気に入れば、その価値をはるかに超える物で支払う。 彼らは古い刀の鍔(de vieilles gardes de sabres)や、祖先から伝わる同様の古い物を非常に欲しがる。 彼らは〔貴重品を〕常に山のふもとなどへ置き、他人の目から隠している。 彼らは自分の息子たちの目からさえ隠す。もし誰かにそのことを知られたら、喧嘩を仕掛けられ、罰金(une amende)として取り上げられるのではないかと恐れるのだ。これが彼らが注意深く隠す理由である。
   銅貨や銀貨は使用しない。 すべての売買は交換によって行われる。 彼らは魚、家禽、木の葉を食べる。 米があれば水に浸すが、決して炊かない。 彼らの服装は異なるが、常に袖がなく、皮や古い布地などで作られている。 彼らには医者がいない。 病気のときは、自分たちで用意した植物を使う。 男性も女性も酒(de zakki)(日本の飲み物)が大好きで、自分の持っている最高のものと交換する。 これを手に入れることができない貧しい人々は、ある種の酒を作り、それを使って日本人をもてなすこともあり、彼らはそれを甘酒(ama-zakki)と呼んでいる。
   彼らには文字がないので、読み書きができない。 そこには寺院はない。彼らの神の名前はカムイ(Kamo-i)である。 彼らは山の頂上や海辺でその栄誉を讃え、火を燃やす。 それが彼らの崇拝のすべてである。
   死者のために大きな棺を作り、その中に故人が飲食する際に使った器やその他の物を納める。 もっと豪華に埋葬したいときは、墓の上に長さ5〜6フィートの柱を立て、そこに剣を取り付ける。 天然痘や麻疹で亡くなった人は埋葬されず、屋外にさらされたままになる。
   松前藩主は、周辺地域に住む人々にそれぞれ小さな耕地を与え、彼らはそれを耕作したが、税は支払わない。 しかし、彼らは雑務の対象となる。 たとえば、必要に応じて、ニシン(nising)や昆布(lentille marine)を獲ったり、船を造ったり、暖房のために山で木を切ったりする。 このため彼らの給料はなく、好きな場所で木を切る。
   蝦夷には豚、猿、牛はいないが、馬と熊はたくさんいる。 子熊を見つけると彼らは家に持ち帰る。 女は子熊に乳を飲ませる。 大きくなると、彼らは魚や家禽を与え、冬に肝臓を取るために殺す。肝臓は毒気、虫、疝痛、腹痛に効果があると信じられている。 非常に苦い味であるが、夏にこの熊を殺してしまっては役に立たない。
   この賭殺は(日本の)最初の月から始まる〔原本では十月〕。 このために、彼らは非常に長い2本の棒の間に熊の首を置き、男女合わせて50〜60人の人数で圧迫する。 クマは死んで、肉は食用にされ、肝臓は薬として保存され、皮は売られるが、通常長さ6フィート、最大のものでは12フィートにもなり、色は黒である。 熊の皮が剥がされるとすぐに、熊に食事を与えた人々は熊を悼み始める。 そして彼らは、手助けしてくれた人たちをもてなすため小さなケーキを作る。
   日本の熊は同様に黒いが、両肩にかけ白い半月がある。 我が帝国(notre empire)でも同様にこの肉を食べるが、体の弱い人々にとって冬には非常に体が温まると信じられている。 肉はマトンのような味であるが、もっとかたい。
   男たちは狩猟や釣りをする。 女たちは薪を切り、家事をすべて行う。 彼らの服は厚い帆布でできていても、糸で刺繍をしている。 時々松前の商人が交換品として一部を持って行くこともある。〔原本のこれ以降にある食事時間については記述なし〕
   蝦夷の住民は全員、とても健康に見える。 これは、彼らが昆布(lentilles marines)を求めて常に海に潜っているためである。 彼らは赤みがかった縮れた髪をしているが、私たちの習慣のように頭のてっぺんで髪を切ることはしない。 ほとんどすべての男性は非常に濃いひげを生やしている。 長さは約2フィート。 目と鼻を除いた顔全体がそれで覆われている。 女性は髪を頭の上で結び、布で鉢巻きにする。 彼らの唇の周りには、花、雲、その他の模様が黒っぽい形で描かれている。 彼らは自分の手にも同じことをする。 首の周りには青みがかった玉のネックレスを懸け、そこからシトキ(zi-logi)〔原本から推定〕と呼ばれる小さな丸くてうねりのある銀のプレートがぶら下がっている。 男性も女性もイヤリング〔原本は耳カネ〕を着けている。
   武器は、半弓(le fankin)、すなわち短い弓、矢、矢筒、スズエグシ(le jèkoesi)、シリタンネ(le jèritannè)などがある。 矢は日本人のものより短く、矢筈には2枚の羽しかない。 矢尻は硬い木でできており、クモと鉛白(cèruse)〔原本はトウガラシ〕からなる毒が同じ割合で塗られている。 矢で負傷した場合、最良の治療法はニンニクと鉛白である。 まず傷の周囲の肉を少しえぐり取り、その後この混合物で満たす。 これらの矢は決して 1インチ以上刺さることはない。 しかし、肉はどこもすぐに腐るので、周りを切っても痛みはない。
   半弓(Le fankin)(短い弓)はオンコ(onko)と呼ばれる木で作られる。 エグシ(Le jèkoesi)は、彼らが背負い、ソーショ(zoesoe)と呼ばれるベルトで吊るされた長い剣である。 彼らは剣を日本から調達しており、蝦夷には刀鍛冶はいない。
   シリタンネ(Le jèritanne)は戦争の道具でもある。 それは丸い結び目のあるボールで、敵を攻撃する棒に取り付けられる〔この文は、原本のシリタンネ説明とは異なる〕
   弓の弦は、藤(foesi)またはアイ(l'aji)という二つの枝分かれした植物の樹皮から作られるが、後者は私たちには知られていない。
   彼らが松前に来て日本人と一緒に酒を飲むとき、彼らは小さすぎる盃ではなく、丼(jattes dè riz)〔原本は”かさ”、傘型丼の意か〕を使う。 酒を満たした後、彼らは箸を丼の端に乗せ、胸の上で手を組んで祈りを唱える。 それから彼らは箸の1本を丼に入れ、一滴を地面に滴らし、同時に左肩の後ろにも滴らす。 それから再び丼の端を軽くスリまわし、1本の箸で上唇の上のヒゲを持ち上げ、丼を飲み干す。 彼らはいつも3杯飲む。 酒を飲む誰にでも、〔不調法があれば〕すづ゙打ち(le zoesoe-oelji)を申付けることもある。 彼らは酒の量のせいで酔っていると言い、その厳しさを許してくれと懇願する。
   すづ(Le zoesoe)はダンスに使用できるビーティング・ベルト(ceinture à frapper)である。 最初の人は頭に布を乗せており、それを腕の両側に広げる。 彼は20間(ikies)の距離を飛び跳ねながら進み、大声で叫ぶ。 同じように飛び跳ねて叫ぶもう一人が彼の後を追い、すづ(zoesoe)の端で彼を殴る。 次に最初の人は足を踏み違いの形に置く。 別のもう一人も彼の隣に立ち、同じく足を組んで彼をしっかりと抱き締め、激しく殴られる。
   二人が戦うと、負けた方が相手にすづ(zoesoe)を差し出し、相手は適当に締め付ける。妻がいれば、妻は彼が殴られて弱ってしまうのを防ぐため、駆け寄って大声で叫び、時々彼の顔に水をかける。 時々背中がむき出しになることがあるが、これは非常に弱っていると考えられる。 従って彼らは、打撃に対処し回避する方法を子供の頃から学ぶ。
   彼らに的に向かって弓を射させた。 そのうちの5人は11本の矢を放ったが、そのうち命中したのは1本だけだった。 彼らは常に獲物で練習し的を狙うことはなく、2本の指で矢をつかむ。 最も優れた矢の1つが的を外し、垣根の支柱に到達し、2インチも食い込んだ。
   男性が踊るとき、笑いながらあらゆる種類の体の動きをする。 女性たちは歌いながら手で拍子をとる。 女性一人がうたった歌をもう一人が繰り返し始めたら、彼女には罰が科せられる。 彼らの厳粛な踊りは、男性21人、女性5人の26人のグループで行われる。 日本人の前で披露した。 (人物の固有名詞は以下に続く。)
   家に入ると、彼らはあなたに向かって座り、足を十字の形に組んで前に出し〔胡坐をかき〕、手をこすり、頭の髪を後ろにとかし、体を傾ける。最初は皆が同じことをする。 彼らの妻たちは背が高く、非常に太っていて、日本の女性よりもがっしりとした体格をしている。
   義経(Josi Tsoene)は、兄の頼朝(Jori Tomo)に敗れた後、蝦夷(a Iesso)に逃亡し、彼らによってウキグル(Oki-Goer)と名付けられた。 彼に同行した家来は弁慶(Bincki)という名前をそのまま残した。 前者は一人の蝦夷の大将(chefs)の娘と結婚し、密かにこの国の地図を支配する者となった。 蝦夷の住民が喜劇、すなわち正しくはダンスで表現するとき、この出来事は彼らの中で最も熟練した者によって歌われる。ウキグル〔義経〕の記憶は最大の敬意を持ってそこに保存されている。 その城壁の遺跡は今も残っている。 彼への敬意から、彼らは決してこの地に足を踏み入れなかった。 彼の家の壁はシリカシ(ziri-kasi)という魚の角(de cornes)で作られた。 そのような角は長さ約8フィートで、鉄のように硬く、決して腐ることはない。 現時点でもそれはしっかりしている。
   日本の習慣のように、男性も女性も恥ずべき部分(parties honteuses)の前に帯(ceintures)を締める。 三角形に折りたたまれた小さな正方形の布を追加するだけであり、女性であっても、これらの部分が露出していることを恥じることはないが、慎重に布で胸を覆い、その下で子供に授乳する。
   蝦夷の住人は自分の年齢を知らない。 子どもは生まれるとすぐ海に入れ、洗う。 我々の国では女性は子供を胸に抱くが、ここでは、彼らは子供をカゴに入れて吊るし、泣くとそれを前後にゆする。 5、6歳になると、火を起こして子供の腹部を温める。 10歳になれば、すでに海に潜ってアワビ(sangsues)や貝殻を探す。 彼が十分な年齢になると、強いロープを張り、それを飛び越えることを学ぶ。 これに習熟した人は6フィートから7フィートの高さまでジャンプする。
   蝦夷人の話によると、彼らの中には数種類の違った種族がいることがわかる。 耳に指輪〔原本は、釻(つく)〕を着けている人もいる。 他の種族は小鼻に着けている。 非常に高齢者でもひげのない人もいる。 家ではなく洞窟に住んでいる人もいる。 蝦夷通事・金十郎(Kensjero)は、ひげのない高齢者たちに会っている。
   将軍(zjogoen) からの許可がなければ、蝦夷での貿易は許可されていない〔騒乱防止と松前藩独占のため〕。 彼らの鎧はアシカ(cheval marin)の三重の皮で作られている。 彼らの兜は、タカラカリカシ(takara-kari-kasi)〔原本は、タカラカウジ〕の木で作られている。 日本に最も近い者はコチ・エソ(Koetji-Ieso)、または蝦夷の口(la bouche d’Iesso)と呼ばれる。 遠く離れたところに住んでいる人たちは、オク・エソ(Okoe-Ieso)、または内陸部の名前を持っている。 最後に我々が見つけた甲冑の中には、日本人のものと一致する甲冑があった。それらは、こちらから来たのではないかと思われる。というのは、今よりも前の松前の五代藩主である伊豆守(Isoe-Nakari)の時代〔五代藩主は松前矩広で志摩守〕に、彼らは日本の胸当てを与えられていたが、量は百六十か百七十を超えなかった。 それ以降、それは禁止された。
   昔、彼らは刀の鞘や喫煙のためのタバコ入れを、最終的には枯渇してしまった自国産のさまざまな金属で作っていた。 私たちは日本に保存されていたそんな製品を彼らに見せが、 そこで彼らは非常に高い価格を設定し、その交換に多くの物品をくれた。
   将軍・秀忠(Zjogoen Fide Fada)の治世中、松前の第七代藩主である志摩守〔秀忠時代の志摩守は、第2代・松前公広。原本、古志摩守〕はこの国の調査のため、宗谷地方(la contrèe Soeja)の珊内〔サンナイ〕(Sannai)からクラト地方(la contrèe Krato)〔原本、カウト。カラフトの意か〕のウツシアム(Oessiam)に数名を派遣していた。 彼らはこれ以上侵入するのは不可能だと判断し、すぐに引き返した。 翌年、彼は船で数人を送ったが、彼らはウツシアム(Oessiam)で越冬し、春になるとナリタライ(Naritarai)に進んだ。 しかし、これ以上進むのは不可能と判断して、彼らは戻ってきた。珊内はウツシアムから海上約10マイル〔里〕である。そこから順風時には20日でタライカ(Taraika)に到着する。 順風時に松前は、サンナイから7日の距離にある。 クラト〔原本、カラフト島〕、あるいはウツシアムは松前の西北にある。
   蝦夷の住人が隣人に会いに行くとき、彼は常に弓、矢、刀を持ち歩き、頭には矢筒を載せる。 彼らは何も背中に背負うことはないが、事故の場合に簡単に取り除くことができるように、常に頭の上にある。 誰かを夕食に招待した場合、または外食している場合は、その横に矢筒を置く。
   著名な人々の衣服は、金のドラゴンが加工された貴重な生地で作られた半袖コートである。
   この時まで、彼らは交換や贈り物として、みそのそ(misoe-no-zoe)あるいは虫の巣(nids de vers)と呼ばれる青みがかった玉をくれた。 私はそれらを注意深く調べ、彼らが作ったものではなく、韓国の北の国から来たものであると確信した。 私たちはそれを溶かそうとしたが、それは簡単に行うことができた。 それでも色は変わらないので、ガラスでできているのではないかと思われる。 綱吉(Tsonè Josi)の治世中、彼は虫やあらゆる昆虫を生来嫌悪しており、これらの玉は使用されなかった。 これらは虫の巣ではないことが明らかになったので、松前城主が将軍に贈る贈り物の一つとして使われている。 私たちの帝国には、松前の反対側にある津軽(Tsoegar)で、松前でも蝦夷でも決して見られない美しい色の石がある。
   チサコ・シマ島(Tji-sako-Sima)で長さ3インチ、幅2インチの木片〔原本は、板〕が発見された。 私は住民たちにこれは何をするものなのか尋ねた。彼らは、コビト・シマ(Kobeto-Sima)、すなわち小人島の小人たちが土から葦を引き抜くためにやって来て、それを取り上げるために20本あったと言った。 小人たちはこの木片をアバ(aba)と呼び、それをブロックのように網に取り付けたそうである。 それが何の木なのか分からない。
〔これ以降、P.164〜P.170 の「蝦夷地産物」、「蝦夷言葉」の内容は省略する。〕


♠  承伝(SIOZIN)とも呼ばれるシャクシャイン(SAMSAY-IN)の反乱。
〔P. 170-186〕
〔原本は「シャムシャイン」であるが、現在良く使われる「シャクシャイン」に統一した〕

   蝦夷の起源は、老人と老婆が空腹を満たすためこの海辺にやって来たことだと言われているが、 そこでは食べるものが何も見つからず、彼らは地面に身を投げて眠ってしまった。 そして、夢の中で神を崇めると、もし食べたければ、夢の中に現れた道具で海の中をかき混ぜるだけでよい。白い泡が立ち上るだろう、とお告げがあった。目が覚めると彼らはすぐ近くで見つけた艪で水をかき混ぜると、泡の下で、ニシンと呼ばれる大量の魚が見えた。ニシンは今でもこれらの地域で豊富に見られる。現在ではこの老人たちの住んだ場所は、松前の領土内にある江差(jesasi)〔原本は、江刺〕と呼ばれている。この老人は死後、夷の宮(JbisまたはJebis)という名前で呼ばれ、その老婦人は姥神(Omba-kami)という名前で呼ばれた。 オンバ(Omba)とは老婦人を意味し、 カミ(kami)は神格をあらわす。 彼らの墓の上に2つの社が建てられた。蝦夷の約半分を征服した武田太郎信廣(Fakéda Noboe Fîro)がやって来るまで、彼らの子孫は並外れて増加した。 当時の人々は野蛮であったが、徐々に日本人のやり方に慣れ始めた。 残りの半分も同様に服従はしたが、言語、服装、風習において最初の半分の人達とは本質的に違った。 父親は娘と結婚し、兄は妹と結婚し、両親は全員互いに結婚する。 米や他の穀物が手に入らないから、鳥や他の動物を狩って暮らしている。 日本人は彼らを暴れ者や乱暴者〔原本は、禽獣の類〕に例える。
   年号文禄(nengo-boenrok)3年 (1594年) に、信廣(Noboe Fîro)の4代目の後継者である慶廣(Josi Firo)は太閤(Fayko)〔原本は、秀吉公〕から、松前という名前を名のる許可を得た。 彼はそこに定住し、何人もの日本人が彼の例に従った。
   年号寛文(nengo quanboen)10年(1670年)に11歳〔原本は、十歳計〕で松前の藩主となった矩廣(Non Firo)の時代、シャクシャイン(Samsay-ln)と呼ぶ者が蝦夷東部のシビシオ(Sibisio)〔原本は、シビシヤリ〕に住んでいた。 彼は非常に背が高く、非常に力が強く、住民全員から非常に恐れられていた。 彼は藩主の同意なしに自らを首長に任命し、サリ川(Sari-Gaiva)〔原本は、シビチャリ川〕の対岸に広大な砦を建てた。当時、シビシオ(Sibisio)には金鉱山があった。 多くの日本人が金を掘るためそこに行ったが、その中に出羽地方(province Dewa)出身の庄太夫(Zjodajn)と呼ぶ者がいた。 彼はソマギタ(Somagita)に定住し、シャクシャインの娘と結婚し、彼とともに松前藩主と戦争を始め、これらの地域で密売していた多くの日本船の親分になり、将来彼らが頻繁に船に行きたがらないようにした。
   鬼ビシ(Oni-Fisi)あるいはオニベ(Oni-Bé)は非常に強い男で、大変な勇気を持っていたが、ファギ(Fagi)〔原本は、ハイト〕に住んでいた。 跳んだり走ったりすることで有名で、松前藩主にとても懐いていた。シャクシャインがどのように人々を抑圧しているかに気づくとすぐに、もしこのまま罰を受けずに続ければ、その結果は大規模な暴動が起こるであろう。そして自分の最も近い隣人として〔松前藩主は〕恐れるべきことがたくさんあるだろうと考え、彼はそれを元に戻そうと決意した。もう一人〔シャクシャイン〕の方はそれを察知した。 双方はしばしば戦いをはじめたが、どちら側も勝利を宣言することができなかった。これは非常に長い間続いた。
   鉱山の鉱夫は約200人いて、文四郎(Boensiro)という名前の者が率いていたが、彼は600フィート四方の石の壁を築き、その中に仲間とともに立てこもっていた。 それは川幅100イキ(ikies)〔原本は、百間〕の、つまり日本で六百フィートあるサリ川(Sarigaiva)〔原本は、シビチャリ川〕のこちら側で、シャクシャイン砦のちょうど向かい側にあった。 シビシオ(Sibisio)に来るために、住民はいつも船でこの川を渡った。
   松前城主は20歳の通事勘右衛門(Kansajemon)を文四郎(Boensiro)の元に送ったが、3マイル〔原本は、三里〕離れたところにいた鬼ビシ(Oni-Fisi)も、たった一人の部下を連れてそこへ行った。 シャクシャインは川の反対側からこれに気づき、大いに喜んだ。 すぐに彼は約200人の部下を川の向こう側に送り、城壁を取り囲み、彼らは中の者たちに鬼ビシ(Oni-Fisi)だけが出て行け、さもなければ住居に火をつけるぞと叫んだ。
   文四郎と勘右衛門の側には十四、五人の部下しかいなかったが、それ以外はすべて鉱山の中に居た。鬼ビシは彼らに、自分のせいでこれほど多くの人が死ぬのは不公平だ。たとえ彼らの数が千人であっても、自分は彼らと戦うのに槍だけが必要だと言った。 そこで彼らは長さ約12フィートの槍を与えた。 彼は8フィートの部分を切り取り、綿で裏打ちされた衣服で頭を包んだ。 出発の準備ができたとき敵は彼に向かい、武器を持たずに入ってきたこと、日本側が槍を与えたのだから彼らも焼かれるだろうと叫んだ。 鬼ビシは勘右衛門に向かい、確かに、入って来たとき私は武器を何も持っていなかった。 〔槍の代わりに〕重い棍棒をくれ、そして部下をここに留めおいて貰いたいと言った。 彼は棍棒を壁に強くに打ちつけると、 敵は鬼ビシが道の突破を計っていると思いその場に急行した。 〔敵がその場に〕待っている間、鬼ビシは反対側に出たがしかし、シャクシャインはそこに5、6人の見張りを配置していた。鬼ビシは彼らと戦ったが、そのとき他の数人も突入してきて、彼は勇敢に身を守った。かろうじて通りを進んだが、鬼ビシは傷と疲労で疲れ果てて倒れた。敵は彼に近づく勇気がなかったが、遠くから1時間にわたって矢で彼を射殺した。彼がもはや生きている兆候を示さなくなったとき、彼らは彼のところに行き、彼の頭を切り落とした。
   その間、文四郎と通事は召使いを箱の中に隠していた。 シャクシャインの一隊が住居内に入り、鬼ビシが来たときは召使いも一緒だったと言い、彼らはその者を探していると言った。 屋根裏部屋や歩道まで探したが見つからなかった。 立ち去ろうとしたとき、そのうちの一人が箱に気づき蓋を開けて連れ出した。 彼らは召使いをシャクシャインの所まで引きずっていった。 日本人は皆、彼が殺されるのではないかと恐れた。 しかしシャクシャインは、たとえその数が千人であっても、そんな忠実な者に危害を加える必要はないと言い、家に戻れと追い払った。寛文9年(nengo-quan-boen)9月(1669年)のことである。
   今年の8月に、松前の住民はいつものように60隻の船を率いて蝦夷に向け出発した。 そのうち30艘が目的地に前進した。 彼らが停泊するとすぐに、シャクシャインはそこに行き、魚、昆布、その他の産物を大量に持っているので、積荷が十分でない場合でも交換に応じると伝えた。 彼はその積荷をすべて受けたが、夜に船を急に襲い、約400人いた日本人全員を虐殺した。 かろうじて陸路で逃げ延びた者はわずか4人で、翌年の5月10日に松前に着いた。 藩主はその領内に住む人々からすでにこのことについて警告を受けていた。 彼はまだ11歳で当時は江戸にいたが、藩政の世話を担当していた彼の家老、佐藤権左衛門(Sato Gonsajemon)はすぐに通訳を江戸に送り、将軍(Zjogoen)に反乱のことを知らせ、将軍は藩主のもとに居た第二家老の松前八左衛門(Matsmaje - Futsisajemon)に帰国を命じた。この家老が松前に到着する前に、藩主の別の役人である蠣崎作左衛門(Kakisaki Sasajemon)はすでに300人を率いて蝦夷に向けて出航していたが、逆風のため長い間足止めされていた。
   シャクシャインの家来の一人、シチリチヤマエン(Sitjiritja Majing)は4000人〔原本は、2000人〕の兵とともに松前に向かい行進した。 一方、作左衛門(Sasajemon)は銀山のある郡縫〔くんぬい〕(Koenoi)の海岸に非常に強力な砦を築き、鉱夫ら500名とともに反撃していた。行軍中であることを松前で知らされるとすぐに、佐藤権左衛門(Sato Gonsajemon)が120人〔原本は、130人〕を率いて派遣され、松前儀左衛門(Matsmaje - Gisajemon)が150人、仁井田瀬兵衛(Nita Zéjé)が130人、そして指揮官〔原本、後備〕として松前八左衛門(Matsmai Fatsisajemon)が派遣された。 このようにして作左衛門(Sasajemon)の人々と協力し、要塞に滞在する1000人以上の兵力を形成した。
   シャクシャインは要塞に火をつけようとしたが無駄だった。 要塞と〔シャクシャインの〕野営地の間には、幅約6〜7イキ(ikies)(36〜42フィート)〔原本は、六、七間〕 の小さなクンヌイ川(Koenoi-Guiva)が流れていた。 こちら岸から松前軍の人々が蝦夷の人々のうち約100名を鉄砲で殺害したが、そのことが蝦夷側の勇気を少し鈍らせた。 彼らは弓を射たが、日本側の強固な鎧を貫くことはできなかった。 彼らは朝から晩まで戦った。 損失はすべて蝦夷側にあり、死者と共に山に向かって後退した。
   日本側は要塞に戻り食事と休憩をとった後、彼らは川を渡った。作左衛門(Sasajemon)とその兵が先陣を務めた。 彼の後に儀左衛門(Gisajenmon)が続き、瀬兵衛(Zéjé)が続いた。八左衛門(Fatsisajernon)は後衛〔しんがり〕を指揮した。 彼らは敵の退却場所を探して8〜9マイル行進した後、モラベ川(Morabé-Gaiva)〔原本は、ここに川の表示なし〕近くのシツカリ山(Sisoekani-Jama)に到着した。 彼らは合図の陣貝を吹き鳴らし、全員が一斉に山に登った。
   この山の背後には、非常に急流で深いシツカリ川(Sisoekani-Gaiva)が流れていた。 日本側の全員が山の頂上に集まり、それ以上逃げることができないように見えるとすぐに、蝦夷の人々は全員が水に身を投げ、潜り、逃げ道を見つけたので、誰も山に登った日本人の手に落ちることが無かった。
   山の麓で警備していた八左衛門(Fatsi-Sajemon)は16人を捕らえたところ、権左衛門(Gonsajemon)は、彼らを自分に引き渡して貰いたいと頼み、縄を解き、条件として案内役を務めるなら命を助ける言ったところ、その約束をしたので、約束通り護衛を付けて前方に送った。 そこで彼らはさらに奥のモウベツ村(village Mobits)にある小さな場所オシャマンベ(Osamambé)まで侵入した。 彼らはそこで、非常に広い川があり、対岸に蝦夷の船が待っていることを見付けた。 そのため彼らはそれ以上進むことができなくなった。 対岸では彼らと戦うため、敵の頭たち40人が多くの者とともに、その渡河を待っていた。
   権左衛門(Gonsajemon)は私〔蝦夷通詞の勘右衛門〕に、鉄砲を持って高いところに行き、そして彼らに伝えよと命じた。 私は次のような言葉でそれを伝えた。 「蝦夷のキツネやシカに似ている者ども。 こんな野蛮な集団がどうやって松前の藩主に抵抗する勇気があるのか? 将軍(Le zjogoen)は蝦夷の者共を皆殺しにするように、松前八左衛門(Matsmajé Fatsisajemon)に命じた。 私はお前たちを哀れに思っている。お前たちは誰も生き残れないだろうが、私の話を聞け。 若しお前たちが松前藩主に服従する気があれば、命を助けるために嘆願してみる。 我々はここに16人の捕虜を捕らえている。 もし彼らが私の嘆願で命を助けられていなかったら、彼らの命はなかった。粗野で野蛮な者共、それでも抵抗を続ける気か。そしてお前たちの矢が私を傷つけられるなら抵抗してみよ」。そう言いながら、私は体をはだけた。
   蝦夷側の者はもう援軍も到着しないのではないかと心配した。 彼らの40人の頭たちは武器を置き、20隻の船で川を渡った。 権左衛門は、彼らの自発的な投降を考慮し、彼らの命が助かるようにできる限りのことを行うと約束した。 彼は投降者を拘束して郡縫(Koenoi)に戻った。 道中、敵が彼を取り囲み、すぐに雄叫びをあげた。 これに憤慨した権左衛門は、高台から再び彼らに、民の多くを捕虜として郡縫に連れて行くこの権左衛門を知らないのか、そして日本側に抵抗する気なのかと言った。 これにより彼らは攻撃を中止した。 全員が服従の証としてひざまずき、郡縫まで同行した。 この時に彼は、蝦夷のうち誰でも十分な夕食を食べた後、5〜6日間は空腹に耐えることができることを学んだ。
   八左衛門(Fatsisajemon)は二十四隻の船でオシャマンベ川(rivière Osamambé)を下り、服従しない者たちを追跡した。 彼は蝦夷の指導者のうち15人を捕獲し、他の者たちを怖がらせるため全員の首を切り落とした。 その中には大将のシチリチヤマエン(Sitjiritja Majing)も含まれていて、その首を郡縫に持ち帰った。
   日本側は再びそこに集まり、権左衛門(Gonsajemon)が百二十人の部下とともに二日間前進すべく命令を受けた。 彼は服従した者たちを案内人として連れ、その地の奥深くまで侵入した。 彼の勇気ある名声を知った住民は皆、風にたわむ草の葉のように、彼が通るところはどこでも服従した。 シャクシャインの住居からわずか1日しか離れておらず、多くの指導者が置かれていたサロエ(Sarroé)〔原本は、サルあるいはサルト〕でも、人々は同じように服従した。 そこから彼はシビシオ(Sibisio)〔原本は、シビチャリ〕からわずか1マイル〔原本は、一里〕しか離れていないフノック(Fnok)〔原本は、ビヲク〕まで歩き、そこで日本人山師たちの4、5軒の家を見つけた。 彼はそこに立ち寄り、そこからシビシオに急使を派遣し、蝦夷の住民全員が小屋を建てるために直ちにそこに行くように、もし拒否すれば全員死刑にすると警告した。彼らは木の枝やその他の資材を持って四方八方から直接駆け付けた。 それから彼はシャクシャインに使者を送り、佐藤権左衛門(Sato Gonsajemon)がそこに到着したこと、彼は蝦夷に対する手柄を立て確実に学んだこと、 彼〔シャクシャイン〕の命を救うためには、彼が来て服従する必要があり、そうすれば彼のために取りなすことも出来るだろうと伝えた。
   シャクシャインは自分が松前藩主を倒すのに十分強いと信じていたが、住民の敗北と服従、そして日本側が彼に向かって行進しているという知らせを聞いてろうばいし、恐怖に襲われた。 彼は出頭するという知らせを送った。
   彼は胸当てを付け、刀を手に取り、サリ川(rivière Sarigaiva)の岸辺に座り、権左衛門に使者を送り、そこにいることを知らせた。 日本人全員が彼を見たが、彼は80歳ほどで、胴回りは普通の男3人分ほどもあった。 権左衛門は、二人目の通詞作兵衛(Sakoébé)〔原本は、泊村通詞作兵衛〕を通して彼に、服従するつもりなら鎧を脱いで弓矢を捨てなければならない。 完全武装しているように見えるのは非常に無作法だ。 もし彼がそれを拒否したら、最後の1人に至るまで彼の民全員が刀で成敗されるだろう。そして彼は1人で砦に戻り、日本刀が首を貫くまでそこで待つだけだ、と言わせた。 彼の民はそれを聞くとすぐに彼の武装を解除し、刀、弓、矢を投げ捨てた。 それから彼は権左衛門のところに来たが、権左衛門は武器を持たずに彼を迎え、頭格の16名とともに彼を中央の部屋に招待し、日本料理と飲み物で接待した。 そこで彼はシャクシャインに対し、シャクシャインの反乱は最大限の処罰に当たり、シャクシャインとその民全員はこの世から抹殺されるに値する。 しかし、自発的な服従のおかげで、千の異なる種類の財産で罰金を支払うという条件で、シャクシャインたちの命の保証を得るために努力するつもりだと表明した。シャクシャインはすぐに、この地で見つかった最も貴重なものを多くを持ってくるように命じた。800種にものぼる各種の財産が彼の砦から持ち込まれた。 その間、権左衛門は八左衛門に急使を派遣し、全軍を率いて急いですぐ来るように要請した。 そして彼はシャクシャインに、私は800種類にものぼる財産を受けとった。これは我々の間の平和を保証するものである。おまえに賛辞を贈りたい。もっと酒(zakki)をご馳走したいと言った。 同様に彼は、清酒2樽、濁り酒(zakki troublée)2樽を山師たちに送り、頭分25人は残し、残りは眠って酔いを醒ますために砦に送り返した。 砦への輸送中にシャクシャインから多くのものを盗んだ頭分の中のファシカ(Fasika)〔原本は、ハシカカあるいはハシカイ〕、テンゴエ(Tengoe)〔原本は、カテンゴ〕、マカノスキー(Makanoski)〔原本は、マカノ助〕という名前の3人〔原本は、夷三人〕は、シャクシャインと一緒にいることを望まず、権左衛門の家に泊まった。
   8月23日の夜〔原本は、閏10月23日〕、八左衛門が到着し、月明かりの下、多人数で山師たちの住居を取り囲んだ。 権左衛門の所に滞在していた三人の頭分は、権左衛門が120人しか同行していないにもかかわらず、200人〔原本は、500人〕分以上の米が用意されているのを見た。 そのような量の米を何に使うのかと尋ねると、料理人は、彼らと和解したのでパーティーを開きたいと答え、彼らを安心させた。 馬の足音や馬具の音、そして人々が歩く音を聞いて彼らは非常に狼狽した。 ファシカは窓から逃走し、マカノスキーは逮捕された。 私〔通詞勘右衛門〕はテンゴエの首を切り、褒美として権左衛門から刀〔原本は、脇差〕を受け取った。 翌朝、マカノスキーの首が切り落とされた。
   シャクシャインには、ティンテカイ(Tjintekai)〔原本は、チンデカイ〕とシラキス(Sirakis)〔原本は、シラケシ〕という名前の二人の兄弟がいた。 後者は愚か者のようで、陰謀があることを疑い、以前に逃亡していた。八左衛門は山師たちの家を五重に囲んだ後、雄叫びを上げた。ティンテカイ(Tjintekai)は目を覚まして走り回ったが、武器は見つからなかった。シャクシャインも目を覚まして四方八方に目を向け、自分が囲まれているのを見て絶望して叫んだ。「権左衛門、嘘をついたな。恥を知れ!」。それから彼は部屋の真ん中に座り、胸の上で腕を組み、誰かが彼の命を奪いに来るまで、動かずに静かに待っていたがそれはすぐに起こった。 残りの部下も同様に処刑され、山師たちの家は焼かれた。 私〔通詞勘右衛門〕と同様に日本人全員が刀でサムセインの体に切りつけたが、彼と他の者の間には大きなな違いがあり、彼の肉は牛肉と同じくらい硬いと断言した。
   シャクシャインの死後、彼の砦は占領された。 彼のほとんどすべての部下たちは裏口から逃げた。 他の人たちはその後死刑に処されるか、炎の中で死亡した。 その後、八左衛門は松前に戻ったが、彼は途中で約1000人の男たちに襲われた。八左衛門は非常に長い大砲で彼らに向かって発砲し、その最大のものは約100タイル、つまり8ポンドの重さの弾丸が込められていた。庄太夫(Sjodajn)は仙北(Somagita)に住んでいたが、捕らえられて火あぶりにされた。 この時八左衛門はサルシコツ(Sarbosikots)の住民16人を捕らえて松前に連れて行き、そこで監禁した。蠣崎作左衛門(Kakisaki-Sasajemon)と蠣崎采女(Kakisaki-Oenémé)は500人の兵を率いて蝦夷の西部に向かって行進したが、住民にそれに対抗するよう促すことはできず、彼らは投降したのだった。 それからこれらの家老たち一行は松前に戻った。
   八左衛門は将軍からの江戸行きの許可を待ちながら、3年間城に滞在した。 この戦では日本人にはいなかったが、蝦夷出身者の多くが命を落とした。 蝦夷政権は鬼ビシの子孫に与えられた。 彼は約2000人の住民を指揮下に置いた。 彼ら〔日本側〕はまた、松前から将校と600人の兵士を彼〔鬼ビシ子孫〕に送った。
   最も近い藩(territoire)である津軽藩主(Le prince de Tsoegar)は、松前の人々が敗北した場合に備え海岸に大軍を集めていた。 しかし、彼らは他人の支援なしに勝利した。 松前から江戸まで、1マイル〔原本は、一里〕毎にテント〔原本は、飛脚小屋〕が張られ、そこからの知らせが急いで届くようにした。
   松前は奥蝦夷(Okoe-Jeso)から約3000マイル〔原本より推定、3000里〕の距離にあり、各マイルは6つの通り〔原本より推定、6町〕、各通りは6イキ〔原本より推定、6間〕に相当する。 しかし、行ったことがないので事実を保証することはできない。〔原本にこの文章はない。1里を6町とする「小道」は、南部(陸奥国の北部)で、天明5、6年頃は普通に使われていたと言う。(『東遊記』、橘南谿著)〕
(松前藩主の名前のリストに続くが、記述しない。)

以上が「ティチングの蝦夷記−I」のフランス語からの翻訳である。この内容は明らかに松宮観山の『蝦夷談筆記』の逐語訳ではなく、ティチングが日本滞在中にオランダ通詞の助けを借りて内容を理解し、大筋を違えない様に翻訳しようと努力したものの様である。ティチングが自身の理解に基づいて表現を変えたと思える部分や、出版者がパリでフランス語原稿から活字に落とし込む段階で手書き原稿の解読を間違えたと思えるような、例えば「川」の日本語発音を「Kawa/Cawa/Gawa」ではなく「Gaiva」となっているものや、「T」を「F」にしたものも多くみられるが、ヨーロッパ言語とは全く異なる日本語を表現しようとした苦心も垣間見える。

元のページに戻る


コメントは 筆者 までお願いします。
(このサイトの記述及びイメージの全てに著作権が適用されます。)
04/22/2024, (Original since 04/22/2024)