日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

八十八卿の列参、朝議改変の集団抗議 (安政5年3月12日)

老中・堀田正睦は、アメリカと修好通商条約を締結する勅許を得ようと自身で上洛し、安政5(1858)年2月5日本能寺に宿舎を定めると朝廷と直接交渉に入った。幕府はこれに先立ち朝廷へ、アメリカ総領事・タウンゼント・ハリスの上府や将軍・家定との謁見を報告し、アメリカの通商条約調印要求を報告し、ペリー提督と横浜で交渉した林大学頭を京都に送り、通商条約締結と神奈川・箱館開港の必要性を説明させていた。

一方の朝廷内では、関白を辞任し太閤と称されるようになっても引き続き内覧を許される実力者・鷹司政通は開国論者で、現関白・九条尚忠へ強い影響力を持っていた。こんな中で、幕府から通商条約調印と開港に向けた動きの報告を受ける孝明天皇は、異人達が「神国・日本」に入り込み、表面は親睦を装いながらついには日本を乗っ取る目的があると強い危機感を持ち、そんな事にでもなれば「神州を汚す事になり、神宮始め先祖代々に対し恐れ多い」と、幕府のやり方に大いに反対だった。そこに老中・堀田が自身で勅許申請にやってくれば、朝廷の首脳たちは賄賂で陥落され、太閤・鷹司の影響もあり、やすやすと条約締結勅許を出してしまうのではと大いに心配した。そして孝明天皇は、自分の考えに賛同する味方を固めこの動きに対抗する事になる。

♦ 孝明天皇の強い危機感と抵抗

対抗策を練る孝明天皇は2月16日、主要な味方の一人と頼む左大臣・近衛忠煕(ただひろ)に蜜勅を送り、

日々議奏等とも話をしているが、現状が非常に心配である。太閤・鷹司政道や(息子の)右大臣・鷹司輔煕(すけひろ)はなんとも見込み違いの様子だと内々聞くし、武伝も堀田の言う事に傾きかけているようだと云う。今のところ関白は大分気張っていると云うことで、先々それが頼みである。どうか関白の心得違いがないようにと、それだけを思っている。もっともこの気張るべき職分に心得違いがあり、自分の意思と違う返答振りになっては一大事だ。・・・今回の件は誠に重大事で、他事と違い少しでも見込みを外したら、後世になって天下の禍になると実に心配している。その上、関白への報告・相談にならず、太閤辺りだけで事を済ましてしまおうとの動きが、内々だがどうも武伝にあると云うことだ。・・・何分にも今回の返答について、今の模様では、私と勅答を定める方々の考え通りにチョッと成りかねるのではと心痛の至りである。
甚だ申し兼ねる事で、且つご心慮(=思慮)がどういうものか計り難くはあるが、押して申入れたい事は、他事とは違いこの一件だけは、必ず必ず鷹司一家の言う事にこだわり執着しないように、と云う事である。なにとぞの願いは、尊公も私の味方にお成り下されば、その厚恩は申し尽くせない程有り難い事である。その地位に在らせられずながらも、お気張りのご配慮を願い入るものである。

と、最終決定者ではないが朝議に預かる重臣として、この件だけはぜひ味方に付いてくれと頼んだ。また4日ほど後に今度は関白・九条尚忠に宛てた宸翰を出し、

条約の件は過日から申している通り、太閤の方はなんとも見込み違いとの事を聞いている。そのため実に心配しているが、これについては毎回言っているように、なんとか尊公は天下のためと思い、(太閤には)全く遠慮なくお気張りがなくては実に一大事であるから、くれぐれもそのようなご勘考を願い入る。昨日太閤より、だんだん体調も良くなり近々出仕しご機嫌伺いに参りたいと、大層敬意をこめて言ってきた。これに付き表裏の事を話せば、こんな時に入って来られては誠に難しい事になる。その訳は、太閤と向き合っての応対になれば私はなかなか存念を少しも言えず、万一言えても、なかなかこれまでの具合では十分な主張ができない。・・・私の所存を尊公はかねて知っているからその分安心ではあるが、(太閤に向かい)フッと言い間違えてしまえば実に心配だから、私の願いは、なんとか太閤の入来する日を考え、自然になったように同日尊公も入来し、ご両人に同時にお会いすればその辺りは非常に都合が良い。そうなれば(尊公は)太閤と私の対応も一緒にお聞き取りになれるから、具合の悪くなった時はご助言下されば、誠にかたじけなく思う。ご面倒をかけ恐縮ではあるが、どうか太閤入来の時は、向いの屋敷の事だからすぐ分かるだろうし、若し分からなければご家来を出して見張らせて、入来の様子なら是非とも同時に入来してくれるよう、幾重にも幾重にも願い入る。
 
この現京都御苑の南端にある鷹司邸跡と九条邸跡は、通りを挟んで向かい合っている。
Image credit:筆者撮影

と、太閤は大の苦手だが、偶然だったように入ってきて私を助けてくれと頼んでいる。この辺は、人間・孝明天皇の姿が率直に語られて、笑いさえも誘うほどの雰囲気だが、関白は自分を理解していると信じ、何としても開国主義者の太閤を説き伏せたいと必死の姿である。

♦ 老中・堀田正睦の攻勢

こんな間にも堀田は方々の攻め口から朝廷の勅許獲得に努めるが、2月23日、武家伝奏と議奏が朝廷から堀田のもとへ派遣され、「この度の一條は、神宮始め先祖代々に対し不容易で叡慮を深く悩まされている。ここに至っては人心の居合いが国家の重大事だから、三家以下諸大名の赤心を聞こし召されたく思っている」と勅答の回答延期策を出してきた。これは、朝廷としては、「三家以下諸大名の赤心を聞いて出直せ」と、何とか堀田にいったん江戸に帰ってもらい先延ばしにしたかったわけだ。これに対し直ちに江戸の幕閣と堀田から3月5日、「人心の居合いは幕府で責任を持つ。調印日時が伸びると不測の事態が起きかねない」と回答し、再び勅許を強く求めてきた。

こんな中で朝議は行きつ戻りつ、陰で堀田からの攻勢もあり種々の駆け引きも行われたようだが、3月11日には関白・九条尚忠が朝議に掛ける勅答最終案が固まり始めたようだ。いわく、

この度の一條は不容易。神宮始め御代々に対されてもいかがあるべきか、深く叡慮を悩まされておられる。・・・人心の居合いはどの様にも関東でお引受け遊ばされべくとの事を言上に及んだところ、(天皇は)まずご安心遊ばされたが、神宮始め御代々に対されてはなんとも恐れ多く、東照宮以来のご制度をご変革される事の天下の人望は如何と思し召され、再び叡慮を悩まされておられるので、何とも返答の仕方もなく、この上は関東においてご勘考あるべくようお頼みあそばされたき事。

という言い方で、間接的に条約勅許を認めるものだった。これでは孝明天皇の考えに真っ向から冷や水を浴びせるもので、勅答案の最後にある「関東で考えよ」とは絶対に言えるものではない。孝明天皇はこれまで関白・九条尚忠を自分の方に向かせようと色々話し、左大臣・近衛忠煕を味方に引き込み、青蓮院門跡・中川宮などとも話し影響力を行使しようとしてきた。しかし、なかなか太閤・鷹司政道や息子の右大臣・鷹司輔煕など鷹司一家の影響力が強く、金力を使ったと言われる老中・堀田正睦の巻き返しも強力だった。ついにはこんな危機的な勅答に決まりそうだが、これは絶対に容認できない孝明天皇は、更なる対抗策を狙う秘密行動に出た。

♦ 孝明天皇の秘密行動と八十八卿の列参


現京都御苑の南端にある関白・九条邸跡、拾翠亭
Image credit: © 筆者撮影

後の明治32年12月になって久我建通(たけみち)が明かしたこの孝明天皇の秘密行動とは、当時、安政5年3月11日の午後10時か11時頃、孝明天皇から突然、左馬権頭(さめごんのかみ)を使いにした蜜勅が久我に届けられた。いわく、この度の勅答の事は国家の安危にもかかわり非常に心配だが、何とか策を練り書き改める事はできないか、と云うお沙汰だった。久我は体調が悪く自宅に引きこもっていた時だったが、もっともな事と思ったので早速大原重徳(しげとみ)や岩倉具視、中山忠能(ただやす)や正親町三條実愛(さねなる)などを自宅に召集し、勅答案の「この上は関東においてご勘考あるべくよう」と云う最後の文面をどうするのが良いか話し合ったが決まらない。そこで岩倉具視が提議し、とにかく多人数の公家が集まり一挙に列参し、伝奏と関白に会い、書き改めを嘆願しようと決まった。集団で、イチかバチかの抗議行動を起こすことにしのだ。その夜の内に手分けして出来るだけ人を集め、翌12日の早朝に禁中に集まったのは88人もの公家たちだった。そして伝奏に迫り関白に迫ったが、いずれも多人数の抗議行動に驚愕し、書き改めることに同意させられたのだ。その朝、関白・九条はこの出来事を察知し病気を理由に参朝しなかったが、抗議をする公家一行は関白・九条邸にまで押しかけ、ついに関白を攻略してしまった。

久我建通自身は当時議奏職だったため名を出さず、大原重徳一人の発案と云うことにしたという。この時88人が署名して提出した嘆願書いわく、

同意の輩、恐れ多くはありますが、国家のため万死を顧みず申し上げます。・・・この度のご返答に関東へお頼み遊ばされる旨書かれていますが、そうなれば、条約以下全て関東の存意通り取り計らう時は再び何も言う事ができない。・・・ご返答文面のうち、ご返答する仕方もなくこの上は関東においてご勘考あるようお頼み遊ばされる、と云うところの文面を除外なされるよう伏して願い奉ります。

最終的にこの集団抗議により朝議決定向けの最終案が改められ、「再度諸侯の意見を聞け」と変更になったが、これが、老中・堀田正睦の勅許を得る試みがもろくも挫折した瞬間だった。公家たちのこの様な集団抗議行動は、その後も時に行われる事になって行く。

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07/04/2015, (Original since 10/05/2010)