日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

前水戸藩主・徳川斉昭、「アメリカ官吏を拒否すべき」と強く建議

日米和親条約調印から15ヶ月ほども過ぎた安政2(1855)年5月6日、前水戸藩主・徳川斉昭は登城して老中と会い、日米和親条約の第11条記載の官吏派遣の期日・18ヶ月が近づいたが、どう対応するのか方針決定が必要だと注意を喚起した。

そしてその10日後の16日、徳川斉昭はまた老中に対し 「アメリカ官吏を拒否すべきだ」と強く建議し、書簡としても提出した。いわく、

官吏が来た時の対応策は出来ているとは思うが、自分は非常に心配である。1日1日と平穏を旨として官吏を受け入れれば、アメリカ官吏はオランダ人の例を取り、登城したいとまで言い出すかも知れない。それだけでは済まず、次々に深入りし要求を出す事は鏡に掛けて見る如くに明白である。懸念すべき天主教も必ず広がるだろう。また第一に懸念する事は京都の扱い方で、幕府はこれまで(朝廷を)ご尊敬あそばし下民の扱いも行き届いてはいるが、今後万一全て裏目に出て、国帝(孝明天皇)の扱いに尊敬が薄くなり下民も難儀し始めれば、これ等の救済もなく何事かと云う、思いもかけぬ非難が国中から出ないとも限らない。・・・一昨年は慎徳公(前将軍・徳川家慶)の御不例(病気、死亡)のため権道でアメリカの願いを聞いたが、(現将軍が)征夷の任に就いている以上、(老中が)戦争を恐れて平穏に平穏にと云う態度は、平和時は良いが、アメリカ官吏が万一深入りし状況が悪化して来れば、重大な事になりかねない。・・・官吏等の駐在を許せば、こちらの弱みに付け込み、それ以上の要求を出し、日本人の永住も許すからアメリカ人の日本永住を許して欲しいなどと様々な難題を持ち出し、詰まりはこの国を奪うごとき要求のみ出すと思われる。従って今の内に良く(拒絶の)目当てをつけて置くべきである。

この様に述べて、次項に続けて書く如く、アメリカ総領事・タウンゼント・ハリスの登城要求から始まる執拗な圧力を見通していた。更にその後、ハリスとの日米修好通商条約が調印されると孝明天皇の幕府との確執が表面化したが、そんな初期の経過を示唆するとも取れる意見まで述べていたのだ。

これは、徳川斉昭は自身の姉・鄰姫が当時の関白・鷹司政通の正室だったから、鷹司政通の義弟に当っている。従って徳川斉昭は関白・鷹司政通に宛て、孝明天皇の海防勅書が出された後辺りから外国状況を細かく伝えていたが、そんな情報のいくつかは天皇にも伝わったであろう。特にこの建議書の 「国帝の扱いに尊敬が薄くなり」等の表現は、朝廷をないがしろにしていると言う孝明天皇の不満が出始めていた事を示唆するものとも取れる表現であるが、あるいはまた、幕閣が自分の意見をなかなか取上げないと言う徳川斉昭自身の不満から、「国帝の扱いに尊敬が薄くなり」等と書き、天皇の威力を借りて圧力をかけたのかも知れない。当時は特に「大義」は重要視されたが、条約にまでして約束した官吏駐在を拒否せよと言う徳川斉昭の意見は過激で、その後も幕閣との対立を生むものであった。

とにかく、こんな確執が現実になり、その後の「戊午の密勅」や「安政の大獄」等を経て幕府崩壊に繋がるわけだから、筆者にとってこの建議書の内容は殊に注目に値するものだ。
(徳川斉昭建議書:安政2年5月16日、老中宛徳川斉昭書翰、徳川斉昭手書類纂四、東京大学史料編纂所・維新史料綱要データベース)

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10/23/2015, (Original since 10/23/2015)