日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

バタビアから長崎に交易船を送れないオランダ政府

それまでの海外貿易でイギリスと比較し常に優位に立っていたオランダは、フランスと長期間の戦争の結果、1700年代の後半は、国力の消耗で海外貿易で大きく劣勢に立つようになった。更にオランダはアメリカの独立戦争に肩入れし、イギリスと戦争になった。このように長期間数々の戦争で国力を消耗し切ったオランダは、1795年ついにナポレオン軍に占領されてしまう。オランダはフランスの影響下でバタビア共和国と名前を変えたが、イギリスはフランスとその同盟国を海上封鎖したから、国力のないバタビア共和国は日本に向けた貿易船すら出せなくなった。この急場を凌ぐため、アメリカなど中立国の船を雇って長崎に送った。以下簡単にこの中立国傭船に至る経緯の前後を書いてみる。

♦ 世界海洋貿易リーダーからの転落

日本に流れ着いたイギリス人のウイリアム・アダムス(三浦按針)に大いに援助され、平戸にオランダ商館を開き、1609年徳川家康から朱印状を手に入れたオランダは、バタビア(現インドネシアの首都ジャカルタ、当時の日本名ジャガタラ)から日本貿易を軌道に乗せた。当初はイギリスと世界貿易面で大きな争点はなかったが、オランダが国力を伸ばし世界有数の海洋貿易国になるにつれ方々で権益の衝突が起った。 1652年から1674年の間に、オランダはイギリスと3度も戦争を行った。この頃はもちろんウイリアム・アダムスは亡くなっているが、まだ生きていたら大いに嘆いたことだろう。しかし、この戦争でイギリスは世界貿易のリーダーシップを手に入れることも出来ず、オランダの海洋貿易の優勢は続いた。 一方オランダは、その後1688年から1713年まで、今度はイギリスと同盟しフランスと戦った通算20年にもわたる2回の戦争で、国力がおおいに疲弊し世界海洋貿易のリーダーシップもイギリスに奪われるようになった。

♦ 1775年にアメリカ独立戦争に肩入れを始める

20年にも渡る対フランス長期戦争で国力が疲弊し、世界海洋貿易の王座から滑り落ちたオランダには、イギリスの北アメリカ植民地で起きたイギリスからの独立戦争は起死回生のチャンスと映ったようだ。そしてオランダは、自国からの移民も多いイギリス北アメリカ植民地、すなわち現在のアメリカ合衆国の独立に肩入れし、イギリスに強く対抗した。 イギリスにとってこれが愉快であるはずがない。アメリカには独立を許したが、不満の矛先をオランダに向けたのだ。1780年にイギリスはオランダと戦争を始め、1784年には海軍力で敵わないオランダの大敗となった。こんなに戦争ばかりしていては、国力が極限まで疲弊し、もうこれ以上どんな戦争も出来ない状態にまでおちいった。

こんな状態下での1795年、ナポレオンに率いられたフランス革命軍がオランダに侵入し、抵抗も出来ずあっけなく占領されてしまう。この侵入は、フランスと多くのヨーロッパ諸国(ハプスブルク家連合)との戦争の一部だ。フランスは占領したオランダをバタビア協和国と名付けたが、この間にフランスに敵対するイギリスは、過去にオランダが築き上げた海外資産の多くを手に入れて行った。

♦ バタビア共和国の日本との貿易

かろうじてイギリスの占領から免れたオランダの海外拠点バタビアは、新しいバタビア共和国の数少ない海外貿易基地として残った。しかしフランスに敵対しているイギリスは、その強大な海軍力を動員し海上封鎖を行ったから、フランスの指揮下にあるバタビア共和国は世界の海を安全に航海することもできない。こんな背景があり、1797年から12年ほどは、バタビア総督が中立国の船を雇い日本との貿易をかろうじて維持した。これが日本貿易に中立国の傭船を導入した経緯だが、この傭船のほとんどは、アメリカのボストンやニューヨークを基地にヤンキー気質で果敢に商機を探るアメリカ船だった。これらの商船は、アメリカ東海岸からバタビア、広東、インド、スマトラ、マニラ、マダガスカルなど経て東洋貿易に来たのだが、バタビアでの傭船話は、ちょうど現地でのアルバイトのようなもので、余分な収入になったわけだ。

こんな中で1808(文化5)年10月、勢力拡大中のイギリス軍艦・フェートン号がオランダ船を偽って長崎に入港する事件が発生した。オランダ人を人質に、交易中のオランダ商船を拿捕する意図だったが、日本側の長崎警備は全くの手薄で、なす術もなく無抵抗だった。イギリス側は港中を捜索したがオランダ船もいなかったことから、フェートン号は長崎奉行から薪水食料を得ただけで去った。

1809(文化6)年は、6月に久しぶりのオランダ船・フーデ・トラウ号が必死に敵軍艦の追跡を振り切って入港たが、以降はイギリス海軍の制海権が更に強力になり、オランダの国力も極端に疲弊し、チャーターした交易船すら派遣できず、出島のオランダ人の食料さえも欠乏して行った。こんな中、1811年9月ついにバタビヤを制圧したイギリスが、1813年に、イギリスに降った前オランダ出島商館長・ワルデナールや関係者を乗せた2隻のイギリス商船を長崎に送り、秘密信号入りのオランダ船の入港手続き通り入港し、出島商館長・ヘンドリック・ドゥーフに合法的な命令書を提示し、オランダの出島商館長をワルデナールに交代させ、出島商館の権益を取り上げようとする事件が起った。

1808年のイギリス軍艦・フェートン号の長崎闖入事件以降、当時の長崎奉行・松平康英(やすひで)や鍋島藩の家老たちが長崎警備失敗の責任を取り切腹し、幕府は藩主・鍋島斉直(なりなお)に100日の閉門を命じたが、日本側は長崎でこの汚辱をそそごうと、イギリス船を大いに警戒している最中だった。そんな中でこの2艘の商船がイギリス船と奉行所に知れれば、全員の殺害と商船の没収・焼却は明らかだったし、そうなればイギリスも日本に戦争を仕掛けることは明白だった。入港時は例の如くアメリカ傭船と思い込んでいた日本のオランダ通詞たちは、出島商館長・ヘンドリック・ドゥーフからイギリス船と云う事実を知らされると驚愕したが、大惨事を避けるためにもそのままアメリカ傭船として取扱う事を提案し、ドゥーフも了承した。この密約を「災いを転じて福となす」べく、ドゥーフは、先には自分の上司でもあった前オランダ商館長・ワルデナールが渡す商館長交代の命令書を、「敵国管理下の命令書だ」とその受け取りを拒否したが、ワルデナール始めイギリス船の身元は明かさず、士官や船員たちの命は助けようとアメリカ傭船として通常通りの商売をし、出島にオランダの国旗を掲げ続けた。

このように、当時この出島と2、3の例外を除き、世界中でオランダ国旗が降ろされてしまっていた、即ち、オランダという国が消滅してしまっていたのだ。しかしその後、1815年6月9日のウィーン議定書締結によりネーデルラント連合王国として再び主権を回復し、1817(文化14)年8月からオランダ船の長崎貿易が再開された。

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07/04/2015, (Original since 02/26/2011)