日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

三浦按針 (ウィリアム・アダムス)
   (ページを書き直し)

日米交流に関し、三浦按針ことイギリス人のウィリアム・アダムスは直接の関係はない。しかし、日本が海洋国家として発展できる可能性もあった当時、その後日本と親密な関係を築き貿易を続けるオランダとの関係が深く、次に出てくるニュー・スペイン(現メキシコ)からの使節セバスチャン・ビスカイノとも浦賀で出会っているから、このアダムスのことを書いてみる。ウィリアム・アダムスは、日本に来た最初のイギリス人でもある。

 ウィリアム・アダムスの日本漂着と家康との出会い

ウィリアム・アダムス、後の三浦按針の正確な出生日は不明だが、「ウィリアム・アダムス、ジョーン・アダムスの息子、1564年9月24日洗礼を施す。」という洗礼記録が、イギリスのケント州ジリンガム(Gillingham)の町の教会に残っているという(「The Log-book of William Adams 1614-19 with the Journal of Edward Saris, and other documents relating to Japan, Cochin China, Etc. Edited, with Introduction and Notes by C. J. Purnell, M.A., Sub-librarian, London Library.」、London 1916., P.157)。成長して12才になると、ロンドンに近い当時有名なライムハウス(Limehouse)造船地区にあった造船所の所長・ニコラス・ディギンスの徒弟となり、12年の間に船のパイロット、航海士としての修業も積んだ。 徒弟年季の明けた24歳の年に海軍の航海士として軍務に就き、その後自身が船長として指揮する70人乗り組み、120トンの船・リチャード・ダッフィールド号(the Richard Duffield)を持ち、当時スペインの無敵艦隊と大海戦を展開していたイギリス海軍の食料補給船として活躍した。この1588(天正16)年8月の大海戦で、イギリスはオランダ海軍の援助の下に完全勝利し、その後イギリスが数々の挫折を乗り越え海洋国家として発展することは良く知られている。その後アダムスは、1593(文禄2)年から95年にかけオランダ船で、北極圏を通り東進し東インドに至る航路を探す探検に参加したが、寒さと氷山に阻まれ撤退した。しかしアダムスはここで既に、オランダ船主や士官達との強い絆があった様である。その後北アフリカのバーバリー海岸との貿易商売をするロンドンの会社の船長として、モロッコやバーバリー海岸への地中海貿易にも深く係わった(「The First Englishman in Japan」, P.G.Rogers, 1956, London, The Harvill Press)。

それまでスペイン領だったオランダは、スペインの重税に対する反発とカトリックの教義を強制する横暴な権力に対抗し、1581(天正9)年にスペイン国王・フェリペ2世への統治権否認、すなわちスペインからの独立を宣言した。これに反撃を加えるスフェリペ2世は、当然の処置として、1580年に併合していた貿易の中心地・ポルトガルのリスボン港からオランダ商人を完全に締め出した。この締め付けで、リスボン港で東洋産香辛料の買い付けが出来なくなったオランダ貿易商達は、新航路を開拓し直接東洋に行き活路を見出そうとしたのだ。当時1596(文禄5)年、オランダの旅行者・バン・リンスホーテンが自身のインド旅行の航路や産物、風俗や宗教、地理や交通・通商などの詳細記録を出版した(「東方案内記」、「Itinerario, voyage ofte schipvaert van Jan Huygen van Linschoten naer Oost ofte Portugaels Indien, 1579-1592」)。これは、リンスホーテンが1583年にポルトガル艦隊の一員としてインドのゴアに赴いたが、帰国後にその航海記録を出版したのもだった。こんなインドや東インドへ至る航海情報はポルトガルやスペイン以外の国々にはほとんど知られていないものだったから、直ぐにロンドンでも英訳本が出版されている(「Iohn Hvighen van Linschoten. his Discours of Voyages into ye Easte & West Indies, Deuided into Foure Bookes. Printed at London by Iohn Wolfe,1598)。

従ってこのリンスホーテンの出版物にも刺激を受け、それまでポルトガルやスペインが独占していた東洋産香辛料やその他商品を直接入手しようとするオランダ貿易商達の活動が活発化した。また1595年4月にコルネリウス・ハウトマン(Cornelius Houtmannを中心とするオランダ商人達は4艘の貿易船を東インドに向けて出帆させたが、その内の1艘が1597年にジャワ島のバンタムから香辛料を積み、困難の中に帰国出来た。ハウトマンはかって負債を抱えポルトガルのリスボンで拘束されていたオランダ商人であるが、この拘束中に、ポルトガルの東インドに向かう多くの航海情報を手に入れていたのだ(「Compendium of the History and Geography of South Africa」, by George M'Call Theal. London. 1878. P.43)。こんなハウトマンの成功に刺激され喜びに沸くオランダ中で直ちに六つの東洋貿易会社が組織され、1598(慶長3)年には22艘にも上る大型船が東インドを目指し、オランダ政府からも夫々に「各地に居住し貿易するスペイン帝国の全商人を攻撃し、圧倒せよ」という指示と共に大量の大砲や弾薬が提供された(「History of the English Factory at Hirado, 1613-1623. by Rudwig Riess.」, Transactions The Asiatic Society Of Japan Vol.26 (1898). P-4)。後に日蘭貿易の中心になる「オランダ東インド会社」も、同時期の1602(慶長7)年に活動を開始した組織である。

このように、新しい海洋貿易航路開拓に熱心になっているオランダ船主達との関係が出来たイギリス人のウィリアム・アダムスは、ロッテルダムのファン・デル・ファーヘン会社派遣のオランダ艦隊の主席航海士(Pilot-major)の1人としてアジア貿易新航路開拓プロジェクトに参加し、上述した1598年に出航し東インドを目指した22艘の大型帆船の1艘に乗組む事になった。南アメリカのケープ・ホーンを西に回り、太平洋を横断しインドやアジアに行き、香辛料を求めようとするコースの確立を試みたのだ。1598(慶長3)年6月24日に5隻の艦隊でロッテルダム北方120qのテッセル島を出発した探検隊は、その後大西洋を南下する航海が難航し、マジェラン海峡で冬を越し、やっと太平洋に出た。艦隊は宿敵スペインの南米領を攻撃した後太平洋を渡る予定だったが、5艘のうち3艘とは行きはぐれ、ホープ号とリーフデ号の2艘だけが太平洋を渡った。

後にアダムス自身が日本から書いた1611(慶長16)年10月22日付けの手紙(「Memorials of the Empire of Japon: in the XVI and XVII centuries. Edited, with notes, by Thomas Rundall. London: Printed for the Hakluyt Society. 1850」)によれば、太平洋に出てチリ沿岸の友好部族から食料を手に入れたが、他の友好と思われた現地部族との交易では奇襲を受け、アダムスの弟のトーマス・アダムスを含め、船長以下多くの死者を出した。そこでサンタ・マリア島で補給をした後、「リーフデ号には日本で高く売れる毛織物を積んでいたので先ず日本に行って交易をしよう」と話し合い、1599(慶長4)年11月27日サンタ・マリア島から直接日本に向けた進路を取っている。

ここで、何故まだ行った事もない日本の事情を知っていたかについては、アダムスが1605(慶長10)年ころ日本から出したと思われる本国の妻に宛てた手紙にこう書いている(「Hakluytus Posthumus or Purchas His Pilgrims by Samuel Purchas, B.D. Vol 2. Glasgow, James McLehose and Sons. 1905.」 P. 343-344)。いわく、

そこで司令官と副司令官は、私とティモシー・ショッテンと言う名のもう一人のイギリス人航海士(彼はトーマス・キャンディッシ(=キャベンディッシ)と世界一周航海をした人物です)を呼び、船に積んでいる商品で最高利益を出す航海はどうするのが良いかと協議しました。最終的には日本行きが決まりました。それは、ポルトガル人と共にかって日本に行った事のあるディリック・ゲリットソン(Dirrick Gerritson)の、日本では毛織物が高く評価されると言う報告に基ずくものです。そして我々は、モルッカや殆どの東インド地方は暑く、毛織物はあまり受け入れられないと推察しました。従って全員が日本行きに同意しました。
こう書いている。おそらくこのオランダ人のディリック・ゲリットソン(筆者注:現在は ディルク・ヘリッツゾーン・ポンプ ( Dirck Gerritszoon Pomp のオランダ語読み) として知られる)と言う人物が、日本に初めて来たオランダ人の様だ。当時オランダ人が敵対していたポルトガル人と同行した例は、このディリック・ゲリットソン以外にも、上述の「東方案内記」を著わしたバン・リンスホーテンも同様である。

ここでしかし、サンタ・マリア島から日本に向けたこの航海も困難を極め、食料も尽き病人が続出し、経験したこともない大嵐に遭った2艘のうちアダムスの乗るリーフデ号だけが1600(慶長5)年4月29日、九州の大分の海岸、現在の臼杵市大字佐志生(さしう、豊後の国・佐志生)に漂着した。

このリーフデ号の日本漂着のニュースは、意外に早く1601(慶長6)年8月、オランダに伝わっていた(上述の「History of the English Factory at Hirado, 1613-1623」、P. 10)。これは、オランダ人のヌールド船長(Captain Olivier van Noord)が1601年1月ボルネオの港で、日本とマレー半島間の貿易に携わっていたポルトガル人・マニュエル・ルイス(Manuel Luis)から聞いた話だった。しかしその時は既に、5艘の艦隊を送り出したロッテルダムのファン・デル・ファーヘン会社は倒産してしまっていたのだ。下に書くようにオランダが平戸に来るのは、徳川家康の書簡を受取った後の1609(慶長14)年になってからである。

さて一方この年1600年、即ち慶長5年9月に徳川家康は関が原の戦いで勝利し、自身の地盤を固めて行くことはよく知られているから省略するが、この直前の5月、家康は漂着したアダムスを大阪城・西ノ丸で引見した。アダムスの人柄と知識を見込んだ家康はアダムスを家来にし、三浦半島の逸見(へみ、現在の横須賀市西逸見町)村に250石の領地を与え、江戸の日本橋に屋敷(現在の東京都中央区日本橋室町1-10-8)も与えた。ここでウィリアム・アダムスは三浦按針と日本名を名乗ることになる。 その後家康は駿府に居を構えるが、引き続き外国貿易で富の蓄積を行い、秀吉の時代から続くポルトガルやスペイン、後にオランダなどと貿易を続けた。また日本からも多くの貿易船がフィリピン、ベトナム、タイ、カンボジヤや遠くインドまでも航海した。家康は生糸や絹織物、金や香木なども輸入したが、1613(慶長18)年辺りから大砲や火薬、特に鉄炮の弾を作る鉛を大量に輸入した。大阪冬の陣となる、豊臣秀頼はじめその一党の殲滅を画策していた準備と作戦行動の一部であろう。

ポルトガルは平戸で仏教徒との衝突を契機に勢力挽回を図ったが、1568(永禄11)年に再度領主と衝突して平戸から長崎に移り、スペインは主に浦賀に来たが、オランダは1609(慶長14)年9月に、その4年後イギリスも、九州の平戸に商館を造った。これは、オランダがいまだに戦争状態にあるポルトガルや、停戦したとは言え戦争の影を引きずるスペイン勢との摩擦を嫌ったわけだろうし、ポルトガルが長崎に移り貿易港として寂れていた平戸藩主・松浦鎮信(しげのぶ)も親切な対応をし貿易利益追求上のメリットが高かったのだろう。当時日本では、マカオから渡航して来たポルトガルの耶蘇会派宣教師、マニラから渡航して来たスペインのアウグスチン派、ドミニコ派、フランシスコ派の3派の宣教師たちが布教に従事し、互いに非難しあい、勢力争いが激しかったようだ。これは貿易活動とも密接に繋がっていたから、家康は、こんな複雑な関係にある外国貿易の仲介役、あるいは顧問役を三浦按針に任せたのだ。またアダムスは家康の要望により、一緒に漂流して救助されたオランダの船大工のピーター・ヤンツや航海士のヤン・ヨーステンなどの援助で外洋航海のできる船、80トンと120トンの2艘筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) を造り、家康に世界の地理や幾何学の基礎をも教えたという。

なお、このウィリアム・アダムスやオランダ人が乗組んで漂着した船・リーフデ号が、その後豊後の国・佐志生から和泉の国・堺に廻送された以降の日本側の公式記録、即ち、今からほぼ170年ほど前の嘉永6(1853)年に幕府がまとめた外交史料 『通航一覧・巻之二百五十ニ』に次の如く収録されている。その文中、『長崎実録大成』を引用した部分いわく、
慶長五庚子年泉州堺の浦に大船一艘来着せり。仍て其意旨を尋ねるに、阿蘭陀人並に諳厄利亜人(アングリア人、=イギリス人)商売願の為貴国に渡海せし由之を訴える。即刻言上之有る處、其船江府に乗廻さるべしとの御事なり。然るに彼船南海を乗廻り遠州灘にて難風に逢ひ相州浦川(筆者注:浦賀)にて破船す。此旨言上之有る處、船中の人数陸路より差越すべく旨仰せ下さる。即陸路より江戸表に参上す。之に依り委細御詮議遂げらるる處、彼の者共日本渡海商売仕りたき旨御願い申上る。即上聞に達する處、願の通り御許し仰せ出ださる(按ずるに、渡海御朱印を賜りしは慶長十四年なり)。然れども帰国すべき乗船之無く、江府に滞留せり。其間御扶持等下し置かされ、頭人共折々御城にも召され、外国筋の事等御尋ね之有り両人の者へ御屋敷拝領仰せ付けらる。ヤンヨウス(阿蘭陀人)居たる所をヤヨスガシと云う、アンジ(諳厄利亜人、按ずるに、アンジは役名なり)居たる所をアンジ町と云えり。
これはアダムスが漂着後およそ250年後の江戸幕府の記録である。日本の歴史の中で唯一の出来事ともいえる、ヨーロッパ人が当時の武士階級の一部に採用されていた事実がその後どう伝わっていたかという面に興味を抱き、調べて見たものである。

 ウィリアム・アダムスのイギリス東インド会社とのかかわり

日本で地位を得たアダムスは、1611(慶長16)年頃から母国に、日本と貿易をするようにとの手紙を再三にわたって出している。これは当時、イギリスの東インド会社の貿易船が寄航していたジャワ島のバンタムの町(筆者注:バンテンとも。現インドネシア、ジャカルタの西、約70km)へ平戸のオランダ人或いは日本人に依頼して出したようだが、筆者には詳細が分からない。そして、長崎やオランダ商館のある平戸ではなく、もっと江戸に近い場所が良いと推奨している。これは、浦賀辺りを長崎の様な貿易港にしたいと思う家康の希望でもあったようだ。

こんなアダムスから故国に宛てた手紙の中の1通が上手く届いたようだ。1613年1月12日即ち慶長17年11月22日付けでアダムスがバンタムの友人、オーガステン・スポルディングに宛て平戸から書いた手紙(上述の「Memorials of the Empire of Japon」)にいわく、

 1612年にここに届いた、親切で信心深い貴男の手紙をオランダ人から受け取りました。それによれば、貴男はピーター・ジョンソンに託して出した私の手紙を受取ったとの事で、非常に嬉しく、私の可哀そうな妻や友人たちには私の生存が分かったと思います。常にオランダ側が妨害するので、現在に至るまで友人達からの書簡は何も受取っていませんが、・・・、パタニ王国に着いたグローブ・オブ・ロンドン号(Glove of London)に積まれロンドンから来た2通の書簡のみを受領しました。この2通の内1通はトーマス・スミス士爵(Sir Thomass Smith)から、もう1通は友人のジョーン・ストークル(John Stokle)からでした。これら2通は開封されていませんでしたが、私の手元には40日から50日も経って届けられました。
 トーマス・スミス士爵の書簡によれば、商館を造るためここ日本に船を送ると書いて来ましたが、それが利益になれば私の最も喜びとするところで、このニュースの内容を皇帝(筆者注:徳川家康)に伝えました。そして、来年にはイギリス国王がこの国て貿易をするためお金と商品を持った使節を送る積りの様であるが、それは確実だと言うニュースを受け取りました、と皇帝に伝えました。これに対し皇帝は大変嬉しそうで、異国にもそんな感心な考えがあると、様々な誉め言葉を添えて喜びました。

と書いている。

ここに出て来るトーマス・スミス士爵は当時「イギリス東インド会社」の総督であり、アダムスによればこの様に、日本に船を派遣し商館を開くと伝えて来ていた。またジョーン・ストークルはその会社の委員であった。この総督の決定と任命によりイギリス東インド会社から派遣された総責任者のジョン・セーリス船長(Captain John Saris)は、バンタムにイギリス商館を造り、当時のジャガタラ(現ジャカルタ)を経て、1613(慶長18)年6月11日に日本のオランダ商館のある平戸にやって来たのだ。

ここでこれまでに判明している史実、即ち現存するウィリアム・アダムスの1611(慶長16)年10月22日付けの手紙(上述の「Memorials of the Empire of Japon」)、上述したイギリス東インド会社総督のトーマス・スミス士爵から「日本に商館を開く」とアダムスに連絡してきた事実、また、1611(慶長16)年4月4日付けでイギリス東インド会社が総責任者のジョン・セーリス船長に宛てた「日本にも行け」と言う訓令(「The Voyage of Captain John Saris to Japan, 1613. Edited from Contemporary Records by Sir Ernest M. Satow, K.C.M.G. London: Printed for The Hakluyt Society. 1900.」 P. x-xv)等の日付けから見ると、イギリス東インド会社は1611(慶長16)年4月以前には既に、アダムスが日本に居て信頼される地位にある事実を知っていた訳だ。即ち、現存するアダムスの1611(慶長16)年10月22日付けの手紙以前に、アダムスの現在では失われてしまった他の手紙がイギリスに到着していたか、或いは日本に居て信頼されるアダムスに関する確実な情報がイギリス側に伝わっていた訳である。

この可能性は恐らく、アダムスと共に豊後の国・佐志生に漂着し九死に一生を得たリーフデ号の船長・クワッケルナックと乗組員書記・サントフォールトは徳川家康の許可のもと、1605(慶長10)年に前平戸藩主・法印・松浦鎮信の貿易船に乗り、家康からオランダ総督に宛てた書状を携え、1605年12月2日オランダ商館のあるマレー半島シャムのパタニへ着いた。この家康の書状によりオランダが平戸に来る事になるが、この時アダムスも、イギリスの妻や知人に宛てた手紙を託したと考えられている(上述の「The First Englishman in Japan」. P-38)。これが届いたので、イギリス東インド会社も1611(慶長16)年4月には既に、アダムスの事情を知るところとなっていた可能性である。

さて平戸に着いたセーリス船長は、江戸に居ると思われるアダムスに連絡を取り、アダムスは駿府から平戸にやって来てせーリスと面会した。しかし平戸でやっと逢えたアダムスは、はるばるその故国・イギリスからやって来たセーリス船長始め商人達が全面的に協力して呉れる筈だと期待していた人物とは、少し様子が違った。アダムスは既に平戸で自分の家を持ち、自分のビジネスがあり、はるばるやって来た自国商人との付合いだけでなく、競争相手のオランダ商館に行ったり、手強い競争相手のスペインやポルトガルの商人を自宅に招いたりと、疑わしい行動がある様に見えた。しかしアダムスはその後せーリスを伴い駿府で家康に、江戸で秀忠に謁見し、誠にスムースにイギリスの貿易許可を得て平戸に帰った。この様にイギリス側の要請にはしっかり応えるが、その競争相手ともしっかりと商売をしていたのだ。ここでセーリス船長はしかし、結果的にアダムスの勧めを退け、平戸に商館を造っている。

この時アダムスはセ−リス船長を伴い、慶長18(1613)年8月4日駿府で徳川家康に謁見し、セ−リスはイギリス国王からの国書を提出し、合わせて金メッキした鉢や水差し、黒ラシャ、猩々緋織物、象嵌入り銃、虫眼鏡、その他の献上品を差出した。このジェームス1世の国書は、金地院崇傳の8月4日の『異国日記』に、「文言は南蛮字にて読まされず故、アンジに、仮名に書かせ候」とある如く、ウィリアム・アダムス自身が翻訳している。これは可成りの意訳ではあるが、日本の当時の習慣や事情を良く考慮した適切な翻訳文である。


1594年ペトルス・プランシウス世界地図
Image credit:Public Domain

またこのセ−リス船長がイギリス国王・ジェームス1世の国書を提出した翌日、セ−リスとアダムスはイギリスの商館開設やその他に関する要望書を提出した。アダムスはこの要望書を家康に説明し、家康はそれを読んで許可を下した。その席でアダムスと家康は話が弾み、世界地図まで持って来させた2人は、日本から北上し、北極海南部を西航しイギリスに至る航路を見つけようとの話になった。アダムスは、若しイギリス東インド会社がそんな航路を探す探検を計画する時は、自分もそれに参加したいと言った。すると家康は、若しそれを実行する時は、家康が松前や蝦夷の領主に紹介状を書いてやるとの約束をしている。アダムスは若しそんな航路があるとしたら、支那大陸を回り北上し西航するもので、松前や蝦夷の領主はこの周辺のタタール人などに知己があるだろうと推測している。徳川家康とウィリアム・アダムスがどんな世界地図を見て談話したか筆者には勿論分からない。しかし右に掲載したオランダの「1594年ペトルス・プランシウス世界地図」は当時有名で、アダムスも使っていたり、セ−リス船長も持って来りした地図に近いと思われる。この図を見れば、寒さや氷山という障害を考えなければ、家康やアダムスの期待が叶えられそうにも見える。アダムスと家康とのこんなエピソードは、家康がアダムスと話すことを好んでいた一つの情景描写であろうと思われる。更にアダムスは、この内容をイギリス東インド会社宛てに書き送り、日本の皇帝は上述の如く臣民が住む蝦夷や松前地方に紹介状を書くと言う援助を約束したから、そうなれば朝鮮語やタタール語の問題も解決する。若し貴会社が北方航路の発見に乗りだし、船を現地調達する積りなら、日本には安くて十分な造船資材があり、船大工の工賃も安いと書き送っている。アダムスはこんな北方航路の発見について非常に乗り気になっていたようだ(Letters received by the East India Company from its servants in the East, Vol. 1. 1602-1613. by Frederick Charles Danvers. London, Sampson Low, Marston & Company, 1896. P. 322-325)。

さてセーリス船長の強い要請で、アダムスはいったん2年の契約で東インド会社の社員になっているが、その間も、セーリス船長はじめ東インド会社から派遣されたイギリス人責任者や商人達とはギクシャクした関係が続く。 そもそもアダムスが日本に来たのはオランダとの関係だし、ポルトガルやスペインとの貿易も仲介している。そんな後にイギリス船が来たのだから、日本に着いたばかりのイギリス人から見たら、自国民でありながら商売敵の他国とも深く通じているアダムスを素直には受け入れ難かったのだろう。 日本に流れ着いた単なる航海士で、世界の果ての日本での成り上がり者だと見ていたふしもある。その実アダムスの仲介なしには商売が出来なかったから、信用ならないが、頼らざるを得ないといったところのようだ。

実際のところは、アダムスと東インド会社の契約が切れた2年後も、アダムスは平戸商館を通じた日本と自国・イギリスとの貿易に多くの援助を与えている。初期に来たセーリス船長とはギクシャクしていたが、その後世界の果てまでやって来た自国の仲間を見捨てることはしなかった。イギリスの平戸商館長・コックスは、アダムスの幕府との仲介に助けられ多くの難問を解決している。こんなコックスは、他の人と代える事のできないアダムスの立場と実力を認めていたから、例えばアダムスと一緒に江戸に行った部下の商人には、「ウィッカム君、私は君にお願いするが、キャプテン・アダムスには満足を与える様に良く注意してくれ給え。彼には思いやりのある言葉使いをし、彼とどんな諍いをも起こさなければ、それは簡単にできる事だから。そうすれば私は、7年の長きに渡っても、彼との間に異常などんな問題も起こらないと信じている。」と書き送っている程だ(Letters received by the East India Company from its servants in the East, Vol. 2. 1613-1615. P. 13)。 こんな間にもアダムスは平戸から、日本の船に日本の商人や船員を乗せ、シャム(現タイ)や安南(現ベトナム)辺りにまで貿易に出てもいる。アダムスが徳川家康から受けていた貿易免許は、秀忠の代になっても継承されていた。

 ウィリアム・アダムスのセバスチャン・ビスカイノとの出会い

「新スペインの使節セバスチャン・ビスカイノ」のページに書いたとおり、セバスチャン・ビスカイノ筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) は1611(慶長16)年7月5日、駿府において国旗や太鼓、銃を携帯する護衛隊を従え登城し、贈り物を差し出し、ルイス・ソテロの通訳で徳川家康に会った。そして7月7日、日本沿岸測量とガレオン船新造の許可の申請書を提出し、許可を得た。浦賀に帰ったビスカイノは当初からの予定通り、日本の船大工や職人たちと100トン位の新規造船を交渉したが値段が折り合わず、持っている商品にも買い手がつかず、仕方なく乗って来たガレオン船を浦賀で修理する決定をした。

こんな最中の1611(慶長16)年8月25日、オランダ商館長・スペックス一行が海路浦賀に到着した。仲の悪いスペインとオランダが図らずも浦賀で鉢合わせしたわけである。このオランダ人一行の浦賀上陸は、オランダの平戸商館長・スペックスがアダムスに伴われ、多くの贈答品も揃え駿府にいる家康に会い、1609(慶長14)年に出された貿易許可の更新と長崎でのスムースな交易を願い、また江戸に行き秀忠にも会って同様な申請をした。その後秀忠の好意で、アダムスと共に江戸から浦賀迄船で送らて来た時であった。この時ビスカイノとスペックス双方は、浦賀で互いに使者を送り、ごく簡単な儀礼交換はしていた。

ビスカイノが1ヵ月半ほど前に駿府で家康から沿岸測量の許可を得た時、「スペイン王の属国であったオランダはスペインに反旗を翻し服従せず、海上を徘徊し、スペインのルソン島の拠点や船に略奪行為を行っている有害な海賊国家である」と説明し、オランダを非難していた。商館長・スペックスは浦賀に着くと、江戸と同様に、浦賀からほど近い逸見(へみ)にあるアダムスの家に泊まったが、ビスカイノの駿府に於ける「オランダは海賊国家だ」と言う中傷に腹を立てていたスペックスは、ウィリアム・アダムスに依頼しビスカイノにその事実を直接確認させた。ビスカイノはアダムスに答え、それは事実であり、若しオランダ側が望むなら、直接会って説明をする事も出来ると述べた。

ビスカイノの記述によれば、オランダのスペックス等がスペインを非難しているようだが、彼らは我々と会って直接議論すると言っていたので、過去の事実を基に一大論戦をやろうと待ち構えていた。しかし卑怯にも、オランダ側一行は夜中にこっそりと逃げ帰ったと書いている。しかし「和蘭東印度商会史」には、この時オランダとスペイン双方が相手を先に招待したいと、招待合戦があったと記述していると言う。従って、スペックスとビスカイノが浦賀で直接顔を合わせる事は無かった様である。筆者にはこれ以上の事実は不明であるが、この時スペックスとアダムス一行は家康の約束した朱印状を受け取るため、逸見から陸路、鎌倉、大磯経由で駿府に向かっている。恐らく双方とも、不必要な摩擦を避けたかったのだろう。

 ウィリアム・アダムスの生涯

徳川家康の家来になったアダムスは江戸に屋敷を与えられ、逸見に領地を与えられ、自身の海外貿易の朱印状も与えられていた。逸見には日本人の妻と、ジョセフ( Joseph )と名づけられた息子とスザンナ( Susanna )という娘がいる。日本に来るまでは、イギリスに妻・マリー( Mary )と娘がいた。アダムスは家康に帰国願を数回出したが聞き入れられず、そこでアダムスは折に触れ、イギリス東インド会社を通じイギリスに住む家族に仕送りをした。

家康が他界する数年前にアダムスは、それまで拒否されてきた日本からイギリスに帰国する許可を得たが実行しなかった。イギリス東インド会社のセーリス船長からも自分の船に乗せるといわれたが、もっと金持ちになってからと断っている。日本における地位と家族の方が、帰国するより価値が大きかったのだろうか。あるいは他の理由があったのかも知れないが、詳細は不明である。

ここにしかしその理由を想像できる一つのヒントがある。1613(慶長18)年12月初め、イギリス商館を平戸に造ったジョーン・セ−リス船長がクローブ号で平戸を出港した。その直前に書かれクローブ号で送られた、イギリス東インド会社宛てと思われるアダムスの書簡がある(「Letters Received by the East India Company from its Servants in the East, Volume 1, 1602-1613. London, Sampson Low, Marston & Company, 1896. P-324」)。その長い手紙の中に、いわく、

・・・私の願いは祖国の家に帰る事です、と彼(筆者注:セ−リス船長)に答えました。彼は、今回彼と一緒にか、と聞きました。私は長い間何年もこの国で過ごしたが、その間ずっと貧弱な生活だった。そのため、帰国前に何かもっと手に入れたいと答えました。その理由は、私に対する様々な侮辱的行為があり彼と一緒には行かないのですが、それらは私にとって全く意外で、思っても見なかったものです。その細かい記述は止め、それらに関する説明は他の人達に委ねます。
この様に書かれている内容から推測すると、アダムスはセ−リス船長から様々な侮辱を受けたと、大きく気分を害していたのだ。

セ−リス船長によりイギリス平戸商館長に任命されたコックスは、就任以来こまめに日記をつけていた。このコックス商館長はアダムスに伴われ1616年7月30日、即ち元和2年6月27日、平戸を出港し江戸に向かった。江戸では何日も待たされた挙句やっと秀忠に会い、貿易の許可を貰った。平戸に帰る途中、浦賀からアダムスの知行地・逸見に寄り、アダムスの自宅に泊まった。この時の日記にはウィリアム・アダムスの家族や領民達が出て来る(「 Diary of Richard Cocks, Cape-merchant in the English Factory in Japan, 1615-1622. With Correspondence. Edited by Edward Maunde Thompson. Vol. I. London, Printed for the Hakluyt Society. 1883」 )。いわく、
9月26日。・・・今朝10時頃浦賀に向かって出発し、日暮れの2時間ばかり前に逸見に着いたが、そこでキャプテン・アダムスの妻と彼の2人の子供に会ったので、我々はその夜そこに泊まった。この逸見の地は老皇帝(筆者注:家康)がキャプテン・アダムスに与えた永久の知行地で、ジョセフと言う彼の息子にも確定されている。そこにはおよそ100以上の農地即ち家屋があり、その下に多くの住民がいるが、これれらの全ては彼の従僕で、彼が生殺与奪の権限を持ち、彼らは従属労働者であり、日本の全ての殿(即ち国王)がその従僕に対する如く、彼は彼等に対する絶対権限を持っている。何人かの彼の地の領民がミカン、イチジク、梨、クリ、ブドウといったこの地で豊富に取れる果物の贈り物を私に持って来てくれた。・・・

9月27日。我々は逸見の住民に我々が出発した後で宴会を開ける様に小判1枚を与え、家の使用人達に銭500、江戸から浦賀迄我々を運んでくれた馬方達に銭500を与えた。村の名主が村境を越えて我々に付き添い、多くの使用人達をも付き添わせ、皆がキャプテン・アダムスに忠誠を誓う様に8,9英マイルもある浦賀迄我々の前を徒歩で走り、付き添った。・・・浦賀に着くと付近の殆どの人々が私を訪問し果物と魚を持って来たが、キャプテン・アダムスの帰還を喜んでいる様に見えた。

9月30日。私はキャプテン・アダムスに2枚の着物を贈り、彼の義理の兄弟のアンドレア(筆者注:Andrea、アダムスの妻の姉妹の夫、Gendoque Dono、ゲントク・ドノ とも)に私が皇帝から拝領した内から1枚の着物を贈った。そして次の様な物をも贈ったが、キャプテン・アダムスの妻に黒呉絽服を1反、スリズランド1反、琥珀玉1連、そして息子のジョセフに黒羅紗1間4分の1、娘のスザンナに更紗ブランポート1反、アンドレアの妻(筆者注:Magdalena Maria、マグダレナ・マリア、アダムスの妻の姉妹)に黒呉絽服1反、キャプテン・アダムスの妻の母親とそのもう1人の娘に更紗ブランポート2反、アンドレアの娘に更紗ブランポート1反を夫々贈った。
この様に逸見の領地には、アダムスの日本人妻と2人の子供達以外にも、妻の母親と姉妹や、妻の姉妹の夫とその家族が一緒に住んでいたのだ。しかしこの直後に堺に居るウィッカムからコックスの下に緊急の使いが来て、将軍・秀忠のキリシタン禁教に関連する「二港制限令」が出されて平戸と長崎以外の外国貿易が禁止され、更にイギリス商品は京都、大阪、堺などでは売れなくなった旨の連絡が入った。そこでアダムスとコックスは交渉のため、また江戸へ引き返す羽目になって行く

1619(元和5)年3月16日、アダムスは平戸から日本人商人たちを乗せて安南のトンキン(現ベトナム、ハノイ)に向け貿易航海に出た。その年の8月に日本に帰ってきたが、直後に病気になり、1620(元和6)年5月16日、平戸で息を引き取った。死を予期したアダムスは、イギリスの平戸商館長・コックスに遺言を残し、領地の逸見や江戸と浦賀にあった動産の半分づつをイギリスの家族と日本の家族に与え、日本の使用人達にも形見分けをしたという。長男のジョセフには、アダムスが使っていた二振りの佩刀と脇差も与えられた。これは、商館長・コックスが1621年12月29日、即ち元和7年11月27日、江戸に来て直接ジョセフに手渡しているが、ジョセフは涙を流しながら受け取った(上述本・巻2、「Diary of Richard Cocks, cape-merchant in the English factory in Japan, 1615-1622, Vol. II 」)。平戸にはもう1人の子供がいたが、平戸に有った遺産を与えたという。 幕府も逸見の領地をアダムスの息子・ジョセフに継がせ、ジョセフもまた、アダムスに教育されて貿易に参加していた。

秀忠の代になり宣教師の入国禁止に伴う朱印船の制限が強化され、大名の貿易用大船保有も禁止され、朱印船貿易が大幅に減った。朱印の他に老中の奉書も必要になるなど更に日本人の海外貿易航海が制限されたが、アダムスの息子・三浦按針二世には最後まで貿易用の朱印と奉書が交付されたようである。しかし、三浦按針二世が鎖国後どの様な運命をたどったか筆者は知らないが、ここに現在まで伝わる三浦按針にまつわる伝承と記録があると聞く。ウィリアム・アダムスの当時の知行地・逸見があった現在の横須賀市西逸見町の中央から少し海寄りに、「浄土寺」とそのすぐ南に「鹿島神社」がある。

浄土寺は鎌倉時代の建立で三浦按針の菩提寺であり、寺に伝わる由緒に、元和元(1615)年8月29日、「村を挙げて、民悉く檀徒となれり」とあるという(Wikipedia)。境内に長さ8寸2分の銅製正観音(聖観音)を祀る観音堂があり、元和年間に堂を建立し、この聖観音を安置したという。またこの観音像は三浦按針の守護仏だという。(「新編相模国風土記稿、第5輯、巻之115」、明治21年10月15日、製紙分社)。元和元(1615)年当時ウィリアム・アダムスはまだ逸見の領主として健在であったが、家康主導による慶長17(1612)年3月の幕府直轄地への禁教令(キリスト教禁止令)に続き、翌慶長18(1614)年12月に禁教令は全国に広げられた。領地はごく小さくても領主であるウィリアム・アダムスは、こんな幕府の政策の変化と世情に鑑み、領地・領民と自分の家族を守るため、領民全員が浄土寺の檀家になる決断をしたのだろう。上述の平戸商館長・コックスの日記に出て来る様に、自身の妻の姉妹やその夫を含め近親者の多くが洗礼名を持つカトリック教徒の様だから、二、三の顕著な例を除き未だ改宗を迫られる時代ではなかったが、自身も含め苦渋の決断だったようにも思われる。事実、翌元和2年8月、江戸でアダムスとコックスが秀忠からの朱印状交付を待っている時、2年前に追放されたはずの神父がアダムスの浦賀や逸見の家に居るという報告がある事を老中・土井利勝の家来から聞き、アダムスは急遽、「命を危険にさらす事になるから、かくまっているという罪にならぬ様、良く注意せよ」と家人に手紙を書いた事実もある(上述、「Diary of Richard Cocks, Vol. I 」)。疑いをかけられ易い立場にあった訳だ。しかし更に厳しい寺請制度が始まるのは、これからまだ20年ほど後の事ではある。

鹿島神社は逸見村の鎮守であり、神躰は長さ1尺2寸の木像で、像の背に応永17(1410)年4月8日、三浦遠江守を大檀那・施主として刻むという銘があったという。また天正2(1574)年11月20日、朝日奈六太夫を大檀那として鹿島御賓(濱)前に社を建立したという棟札があり、更に寛永13(1636)年8月24日、三浦按針が大檀那として鹿島御賓(濱)前に社を再建したという棟札もあったという(上記、「新編相模国風土記稿」)。これは三浦按針二世・ジョセフの再建に違いないが、ウィリアム・アダムスの死去の年から16年目の事であり、徳川家光の時代であるが、ちょうどこの頃、寛永13(1636)年5月19日、日本船の海外への渡海が全面禁止になった。この新しく再建された社の規模は不明であるが、当時の三浦按針二世にはしかしまだそんな財政力があり、生活もそれなりに安定していた事は疑いない。この「新編相模国風土記稿」中には按針自身に関する記述があるが、「朝鮮の人」などと記した間違いがある。逸見村はその後酒井雅楽頭忠清の所領になったが(上記、「新編相模国風土記稿」)、酒井忠清は家光の時代に奏者番になり、その後老中、大老になった人物である。しかしこの領地変更が家光の存命中であったのか、何時、どの様な理由で変更になったのか、筆者には分からない。さてこの鹿島神社の社は上述の棟札にもある通り、元々鹿島崎と呼ばれた逸見の海辺にあったが火災で焼け、明治28(1895)年6月5日、現在地に社殿を造り遷座したという(鹿島神社内の由緒説明)。この遷座した現在の土地は特に、アダムスの屋敷跡とされる場所だという(『三浦按針と横須賀』、横須賀市発行冊子)。上記「新編相模国風土記稿」には「三浦按針屋鋪跡:村の中程、浄土寺の南にあり。今陸田となれり。」とあるが、この風土記が昌平坂学問所地誌調所で完成した天保12(1841)年現在、屋敷はすでに無く、田畑になっていたのだ。明治になって火事で焼失した鹿島神社を、この陸田に社殿を造り遷座したのであろう。

元のページに戻る


コメントは 筆者 までお願いします。
(このサイトの記述及びイメージの全てに著作権が適用されます。)
06/17/2020, (Rev. 03/11/2020., Original since 02/24/2011)