日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

三浦按針 (ウィリアム・アダムス)
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日米交流に関し、イギリス人のウィリアム・アダムスこと三浦按針は直接の関係はない。しかし、日本が海洋国家として発展できる可能性もあった当時、その後日本と親密な関係を築き貿易を続けるオランダとの関係が深く、次に出てくるニュー・スペイン(現メキシコ)からの使節セバスチャン・ビスカイノとも浦賀で出会っているから、このアダムスのことを書いてみる。 ウィリアム・アダムスは、日本に来た最初のイギリス人でもある。

♦ ウィリアム・アダムスの日本漂着と家康との出会い

ウィリアム・アダムス、後の三浦按針の正確な出生日は不明だが、「ウィリアム・アダムス、ジョーン・アダムスの息子、1564年9月24日洗礼を施す。」という洗礼記録が、イギリスのケント州ジリンガム(Gillingham)の町の教会に残っているという(「The Log-book of William Adams 1614-19 with the Journal of Edward Saris, and other documents relating to Japan, Cochin China, Etc. Edited, with Introduction and Notes by C. J. Purnell, M.A., Sub-librarian, London Library.」、London 1916.)。成長して12才になると、ロンドンに近い当時有名なライムハウス(Limehouse)造船地区にあった造船所の所長・ニコラス・ディギンスの徒弟となり、12年の間に船のパイロット、航海士としての修業も積んだ。 徒弟年季の明けた24歳の年に自身が船長として指揮する120トンの船を持ち、当時スペインの無敵艦隊と大海戦を展開していたイギリス海軍の補給船として活躍した。この1588(天正16)年8月の大海戦で、イギリスはオランダ海軍の援助の下に完全勝利し、その後イギリスが数々の挫折を乗り越え海洋国家として発展することは良く知られている。その後アダムスは、1593(文禄2)年から95年にかけオランダ船で、北極圏を通り東進し東インドに至る航路を探す探検に参加したが、寒さと氷山に阻まれ撤退した。しかしアダムスはここで既に、オランダ船主や士官達との強い絆があった様である。その後北アフリカのバーバリー海岸との貿易商売をするロンドンの会社の船長として、モロッコやバーバリー海岸への地中海貿易にも深く係わった(「The First Englishman in Japan」, P.G.Rogers, 1956, London, The Harvill Press)。

それまでスペイン領だったオランダはその横暴な権力に対抗し、1581(天正9)年にスペイン国王の統治権否認、すなわちスペインからの独立を宣言した。これに反撃を加えるスペイン王・フェリペ二世は、当然の処置として、1580年に併合していた貿易の中心地・ポルトガルのリスボン港からオランダ商人を完全に締め出した。この締め付けで、リスボン港で東洋産香辛料の買い付けが出来なくなったオランダ貿易商達は、新航路を開拓し直接東洋に行き活路を見出そうとしたのだ。当時1595(文禄4)年、オランダの旅行者・バン・リンスホーテンが自身のインド旅行の航路や産物、風俗や宗教、地理や交通・通商などの詳細記録を出版した(「東方案内記」、「Itinerario, voyage ofte schipvaert van Jan Huygen van Linschoten naer Oost ofte Portugaels Indien, 1579-1592」)。これは、リンスホーテンが1583年にポルトガル艦隊の一員としてインドのゴアに赴いたが、帰国後にその航海記録を出版したのもだった。こんなインドや東インドへ至る航海情報はポルトガルやスペイン以外の国々にはほとんど知られていないものだったから、直ぐにロンドンでも英訳本が出版されている(「Iohn Hvighen van Linschoten. his Discours of Voyages into ye Easte & West Indies, Deuided into Foure Bookes. Printed at London by Iohn Wolfe,1598)。

従ってこのリンスホーテンの出版物にも刺激を受け、それまでポルトガルやスペインが独占していた東洋産香辛料やその他商品を直接入手しようとするオランダ貿易商達の活動が活発化したのだ。1595年4月にオランダ商人達は3艘の貿易船を東インドに向けて出帆させたが、その内の1艘が1597年にジャワ島のバンタムから香辛料を積み、成功裏に帰国出来た。この成功に刺激され喜びに沸くオランダ中で直ちに六つの東洋貿易会社が組織され、1598(慶長3)年には22艘にも上る大型船が東インドを目指し、オランダ政府からも夫々に「各地に居住し貿易するスペイン帝国の全商人を攻撃し、圧倒せよ」という指示と共に大量の大砲や弾薬が提供された(「History of the English Factory at Hirado, 1613-1623. by Rudwig Riess.」, Transactions The Asiatic Society Of Japan Vol.26 (1898). P-4)。後に日蘭貿易の中心になる「オランダ東インド会社」も、同時期の1602(慶長7)年に活動を開始した組織である。

このように、新しい海洋貿易航路開拓に熱心になっているオランダ船主達との関係が出来たイギリス人のウィリアム・アダムスは、ロッテルダムのファン・デル・ファーヘン会社派遣のオランダ艦隊の主席航海士(Pilot-major)の1人としてアジア貿易新航路開拓プロジェクトに参加し、上述した1598年に出航し東インドを目指した22艘の大型帆船の1艘に乗組む事になった。南アメリカのケープ・ホーンを西に回り、太平洋を横断しインドやアジアに行き、香辛料を求めようとするコースの確立を試みたのだ。1598(慶長3)年6月24日に5隻の艦隊でロッテルダム北方120qのテッセル島を出発した探検隊は、その後大西洋を南下する航海が難航し、マジェラン海峡で冬を越し、やっと太平洋に出た。艦隊は宿敵スペインの南米領を攻撃した後太平洋を渡る予定だったが、5艘のうち3艘とは行きはぐれ、ホープ号とリーフデ号の2艘だけが太平洋を渡った。

後にアダムス自身が日本から書いた1611(慶長16)年10月22日付けの手紙(「Memorials of the Empire of Japon: in the XVI and XVII centuries」, edited, with notes, by Thomas Rundall. London: printed for The Hakluyt Society)によれば、太平洋に出てチリ沿岸の友好部族との交易で補給をし、サンタ・マリア島でも補給をした後、リーフデ号には日本で高く売れる毛織物を積んでいたので先ず日本に行って交易をしようと話し合い、1599(慶長4)年11月27日サンタ・マリア島から直接日本に向けた進路を取っている。 しかしこの航海も困難を極め、食料も尽き病人が続出し、経験したこともない大嵐に遭った2艘のうちアダムスの乗るリーフデ号だけが1600(慶長5)年4月19日、九州の大分の海岸、現在の臼杵市大字佐志生(さしう、豊後の国・佐志生)に漂着した。

このリーフデ号の日本漂着のニュースは、意外に早く1601(慶長6)年8月、オランダに伝わっていた(上述の「History of the English Factory at Hirado, 1613-1623」、P-10)。これは、オランダ人のヌールド船長(Captain Olivier van Noord)が1601年1月ボルネオの港で、日本とマレー半島間の貿易に携わっていたポルトガル人・マニュエル・ルイス(Manuel Luis)から聞いた話だった。しかしその時は既に、5艘の艦隊を送り出したロッテルダムのファン・デル・ファーヘン会社は倒産してしまっていたのだ。下に書くようにオランダが平戸に来るのは、徳川家康の書簡を受取った後の1609(慶長14)年になってからである。

さて一方この年1600年、即ち慶長5年9月に徳川家康は関が原の戦いで勝利し、自身の地盤を固めて行くことはよく知られているから省略するが、この直前の5月、家康は漂着したアダムスを大阪城・西ノ丸で引見した。アダムスの人柄と知識を見込んだ家康はアダムスを家来にし、三浦半島の逸見(へみ、現在の横須賀市西逸見町)村に250石の領地を与え、江戸の日本橋に屋敷(現在の東京都中央区日本橋室町1-10-8)も与えた。ここでウィリアム・アダムスは三浦按針と日本名を名乗ることになる。 その後家康は駿府に居を構えるが、引き続き外国貿易で富の蓄積を行い、秀吉の時代から続くポルトガルやスペイン、後にオランダなどと貿易を続けた。また日本からも多くの貿易船がフィリピン、ベトナム、タイ、カンボジヤや遠くインドまでも航海した。家康は生糸や絹織物、金や香木なども輸入したが、1613(慶長18)年辺りから大砲や火薬、特に鉄炮の弾を作る鉛を大量に輸入した。大阪冬の陣となる、豊臣秀頼はじめその一党の殲滅を画策していた準備と作戦行動の一部であろう。

ポルトガルやスペインは平戸から長崎や浦賀に移ったが、オランダは1609(慶長14)年9月に、その4年後イギリスも、九州の平戸に商館を造った。これは、オランダがいまだに戦争状態にあるポルトガルや、停戦したとは言え戦争の影を引きずるスペイン勢との摩擦を嫌ったわけだろうし、ポルトガルが長崎に移り貿易港として寂れ始めた平戸藩主・松浦鎮信(しげのぶ)も親切な対応をし貿易利益追求上のメリットが高かったのだろう。当時日本では、マカオから渡航して来たポルトガルの耶蘇会派宣教師、マニラから渡航して来たスペインのアウグスチン派、ドミニコ派、フランシスコ派の3派の宣教師たちが布教に従事し、互いに非難しあい、勢力争いが激しかったようだ。これは貿易活動とも密接に繋がっていたから、家康は、こんな複雑な関係にある外国貿易の仲介役、あるいは顧問役を三浦按針に任せたのだ。またアダムスは家康の要望により、一緒に漂流して救助された船大工のピーター・ヤンスゾーンや砲手のヤン・ヨーステンなどの援助で外洋航海のできる船、80トンと120トンの2艘筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) を造り、家康に世界の地理や幾何学の基礎をも教えたという。

なお、このウィリアム・アダムスやオランダ人が乗組んで漂着した船・リーフデ号が、その後豊後の国・佐志生から和泉の国・堺に廻送された以降の日本側の公式記録、即ち、今からほぼ170年ほど前の嘉永6(1853)年に幕府がまとめた外交史料 『通航一覧・巻之二百五十ニ』に次の如く収録されている。いわく、

慶長五庚子年、諳厄利亜人(アングリア人、=イギリス人)、阿蘭陀人と同船して、和泉の国堺の浦に渡来し、通商を願ふ由、奉行注進に及ふ。よて東照宮彼等を江戸にめされ、僉議(せんぎ、=詮議)を遂げらるゝに、願の趣意不審の事もなきによりて、江戸滞留をゆるされ、月俸及び宅地を賜ひ、時々めされて、異国の事等御尋ねあり。・・・
エゲレス頭人アンジンと云者、これも阿蘭陀ヤンヤウス同前に江戸に逗留し、折節には御礼を勤む。彼後には名氏を三浦アンジンと云。江戸にて屋鋪を拝領し住居す。其跡アンジン町と云は是なり。アンジンも日本渡海御赦免之御朱印頂戴致し由伝ると云う。
これはアダムスが漂着後およそ250年後の江戸幕府の記録であるが、一部に史実と異なる部分もある。しかし日本の歴史の中で唯一の出来事ともいえる、ヨーロッパ人が当時の武士階級の一部に採用されていた事実がその後どう伝わっていたかという面に興味を抱き、調べて見たものである。

♦ ウィリアム・アダムスのイギリス東インド会社とのかかわり

日本で地位を得たアダムスは、1611(慶長16)年頃から母国に、日本と貿易をするようにとの手紙を再三にわたって出している。これは当時、イギリスの東インド会社の貿易船が寄航していたジャワ島のバンタムの町(筆者注:バンテンとも。現インドネシア、ジャカルタの西、約70km)へ平戸のオランダ人或いはポルトガル人に依頼して出したようだが、筆者には詳細が分からない。そして、長崎やオランダ商館のある平戸ではなく、もっと江戸に近い場所が良いと推奨している。これは、浦賀辺りを長崎の様な貿易港にしたいと思う家康の希望でもあったようだ。

こんなアダムスから故国に宛てた手紙の中の1通が上手く届いたようだ。1613年1月12日即ち慶長17年11月22日付けでアダムスがバンタムの友人、オーガステン・スポルディングに宛て平戸から書いた手紙(上述の「Memorials of the Empire of Japon」)にいわく、

 1612年にここに届いた、親切で信心深い貴男の手紙をオランダ人から受け取りました。それによれば、貴男はピーター・ジョンソンに託して出した私の手紙を受取ったとの事で、非常に嬉しく、私の可哀そうな妻や友人たちには私の生存が分かったと思います。常にオランダ側が妨害するので、現在に至るまで友人達からの書簡は何も受取っていませんが、・・・、パタニ王国に着いたグローブ・オブ・ロンドン号に積まれロンドンから来た2通の書簡のみを受領しました。この2通の内1通はトーマス・スミス士爵(Sir Thomass Smith)から、もう1通は友人のジョーン・ストークル(John Stokle)からでした。これら2通は開封されていませんでしたが、私の手元には40日から50日も経って届けられました。
 トーマス・スミス士爵の書簡によれば、商館を造るためここ日本に船を送ると書いて来ましたが、それが利益になれば私の最も喜びとするところで、このニュースの内容を皇帝(筆者注:徳川家康)に伝えました。そして、来年にはイギリス国王の補佐達(the kinges mati)がこの国て貿易をするためお金と商品を持った使節を送る積りの様であるが、それは確実だと言うニュースを受け取りました、と皇帝に伝えました。これに対し皇帝は大変嬉しそうで、異国にもそんな感心な考えがあると、様々な誉め言葉を添えて喜びました。

と書いている。

ここに出て来るトーマス・スミス士爵は当時「イギリス東インド会社」の総督であり、アダムスによればこの様に、日本に船を派遣し商館を開くと伝えて来ていた。またジョーン・ストークルはその会社の委員であった。この総督の決定と任命によりイギリス東インド会社から派遣された総責任者のジョン・セーリス船長(Captain John Saris)は、バンタムにイギリス商館を造り、当時のジャガタラ(現ジャカルタ)を経て、1613(慶長18)年6月11日に日本のオランダ商館のある平戸にやって来たのだ。

ここでこれまでに判明している史実、即ち現存するウィリアム・アダムスの1611(慶長16)年10月22日付けの手紙(上述の「Memorials of the Empire of Japon」)、上述したイギリス東インド会社総督のトーマス・スミス士爵から「日本に商館を開く」とアダムスに連絡してきた事実、また、1611(慶長16)年4月4日付けでイギリス東インド会社が総責任者のジョン・セーリス船長に宛てた「日本にも行け」と言う訓令(「The Voyage of Captain John Saris to Japan, 1613., Edited from Contemporary Records by Sir Ernest M. Satow, K.C.M.G., London: Printed for The Hakluyt Society,」、 P. X)等の日付けから見ると、イギリス東インド会社は1611(慶長16)年4月以前には既に、アダムスが日本に居て信頼される地位にある事実を知っていた訳だ。即ち、現存するアダムスの1611(慶長16)年10月22日付けの手紙以前に、アダムスの現在では失われてしまった他の手紙がイギリスに到着していたか、或いは日本に居て信頼されるアダムスに関する確実な情報がイギリス側に伝わっていた訳である。

この可能性は恐らく、アダムスと共に豊後の国・佐志生に漂着し九死に一生を得たリーフデ号の船長・クワッケルナックと乗組員書記・サントフォールトは徳川家康の許可のもと、1605(慶長10)年に前平戸藩主・法印・松浦鎮信の貿易船に乗り、家康からオランダ総督に宛てた書状を携え、1605年12月2日オランダ商館のあるマレー半島シャムのパタニへ着いた。この家康の書状によりオランダが平戸に来る事になるが、この時アダムスも、イギリスの妻や知人に宛てた手紙を託したと考えられている(上述の「The First Englishman in Japan」. P-38)。これが届いたので、イギリス東インド会社も1611(慶長16)年4月には既に、アダムスの事情を知るところとなっていた可能性である。

さて平戸に着いたセーリス船長は、江戸に居ると思われるアダムスに連絡を取り、アダムスは駿府から平戸にやって来てせーリスと面会した。しかし平戸でやっと逢えたアダムスは、はるばるその故国・イギリスからやって来たセーリス船長始め商人達が全面的に協力して呉れる筈だと期待していた人物とは、少し様子が違った。アダムスは既に平戸で自分の家を持ち、自分のビジネスがあり、はるばるやって来た自国商人との付合いだけでなく、競争相手のオランダ商館に行ったり、手強い競争相手のスペインやポルトガルの商人を自宅に招いたりと、疑わしい行動がある様に見えた。しかしアダムスはその後せーリスを伴い駿府で家康に、江戸で秀忠に謁見し、誠にスムースにイギリスの貿易許可を得て平戸に帰った。この様にイギリス側の要請にはしっかり応えるが、その競争相手ともしっかりと商売をしていたのだ。ここでセーリス船長はしかし、結果的にアダムスの勧めを退け、平戸に商館を造っている。

セーリス船長の強い要請で、アダムスはいったん2年の契約で東インド会社の社員になっているが、その間も、セーリス船長はじめ東インド会社から派遣されたイギリス人責任者や商人達とはギクシャクした関係が続く。 そもそもアダムスが日本に来たのはオランダとの関係だし、ポルトガルやスペインとの貿易も仲介している。そんな後にイギリス船が来たのだから、日本に着いたばかりのイギリス人から見たら、自国民でありながら商売敵の他国とも深く通じているアダムスを素直には受け入れ難かったのだろう。 日本に流れ着いた単なる航海士で、世界の果ての日本での成り上がり者だと見ていたふしもある。その実アダムスの仲介なしには商売が出来なかったから、信用ならないが、頼らざるを得ないといったところのようだ。

実際のところは、アダムスと東インド会社の契約が切れた2年後も、アダムスは平戸商館を通じた日本と自国・イギリスとの貿易に多くの援助を与えている。初期に来たセーリス船長や商人達とはギクシャクしていたが、その後世界の果てまでやって来た自国の仲間を見捨てることはしなかった。イギリスの平戸商館長・コックスは、アダムスの幕府との仲介に助けられ多くの難問を解決している。 こんな間にもアダムスは平戸から、日本の船に日本の商人や船員を乗せ、シャム(現タイ)や安南(現ベトナム)辺りにまで貿易に出てもいる。アダムスが徳川家康から受けていた貿易免許は、秀忠の代になっても継承されていた。

♦ ウィリアム・アダムスのセバスチャン・ビスカイノとの出会い

「新スペインの使節セバスチャン・ビスカイノ」のページに書いたとおり、セバスチャン・ビスカイノ筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) は家康の許可の下、浦賀で日本沿岸の測量を行う準備をしていた。この最中の1611(慶長16)年8月25日、平戸に着いたオランダ使節がウィリアム・アダムスに伴われ貿易の朱印状をもらいに浦賀に到着した。なかの悪いスペインとオランダが浦賀で鉢合わせしたのだ。

この浦賀上陸は、オランダ使節で平戸商館長・スペックスが駿府にいる家康に会い、1609(慶長14)年に出された貿易許可の更新と長崎でのスムースな交易を願い、江戸にいる秀忠にも会って同様な申請をするためであった。 上述のごとくオランダはもともとスペイン領だったが、1581(天正9)年に独立宣言を出したのでその後スペインやポルトガルとうまく行かず、海外貿易の場でも常に戦争に近い状態にあった。ビスカイノはオランダを海賊国家だと家康に報告し、一方のスペックスはスペインをならず者の国だ報告している。2年前に来たポルトガル使節も駿府で、朱印状をもらいに来たオランダ東インド会社派遣の使節・ニコラース・ポイクと鉢合わせし、オランダは海賊国家だと非難し報告している。 家康はアダムスにこうしたヨーロッパ諸国の関係をただした。家康はアダムスの説明によりヨーロッパ諸国の関係をよく理解し、このような関係には偏らず、ヨーロッパ情勢から距離を置く貿易関係をとった。

ビスカイノの日本探検報告書にも、アダムスに伴われたオランダ使節が莫大な贈り物を持って浦賀に来たことが記述されている。 ビスカイノの記述によれば、オランダのスペックス等がスペインを非難しているようだが、過去の事実を基に一大論戦をやろうと待ち構えていた。しかし卑怯にも、オランダ側一行は秀忠に会った後こっそりと逃げ帰ったと書いている。アダムスとオランダ使節・スペックスは不必要な摩擦を避けたのだろう。

♦ ウィリアム・アダムスの生涯

徳川家康の家来になったアダムスは江戸に屋敷を与えられ、逸見に領地を与えられ、自身の海外貿易の朱印状も与えられていた。逸見には日本人の妻と、ジョセフと名づけられた息子とスザンナという娘がいる。日本に来るまでは、イギリスに妻と娘がいた。アダムスは家康に帰国願を数回出したが聞き入れられず、そこでアダムスは折に触れ、イギリス東インド会社を通じイギリスに住む家族に仕送りをした。

家康が他界する直前にアダムスは、それまで拒否されてきた日本からイギリスに帰国する許可を得たが実行しなかった。理由は良く分からない。イギリス東インド会社のセーリス船長からも自分の船に乗せるといわれたが、もっと金持ちになってからと断っている。日本における地位と家族の方が、帰国するより価値が大きかったのだろうか。あるいは他の理由があったのかも知れない。 1619(元和5)年3月16日、アダムスは平戸から日本人商人たちを乗せて安南のトンキン(現ベトナム、ハノイ)に向け貿易航海に出た。その年の8月に日本に帰ってきたが、直後に病気になり、1620(元和6)年5月16日、平戸で息を引き取った。死を予期したアダムスは、イギリスの平戸商館長・コックスに遺言を残し、領地の逸見や江戸と浦賀にあった動産の半分づつをイギリスの家族と日本の家族に与え、日本の使用人達にも形見分けをしたという。長男のジョセフには、アダムスが使っていた二振りの佩刀と脇差も与えられた。これは、商館長・コックスが1621(元和7)年12月29日、江戸に来て直接ジョセフに手渡しているが、ジョセフは涙を流しながら受け取った(「Diary of Richard Cocks, cape-merchant in the English factory in Japan, 1615-1622, Vol. II」, Edited by Edward Maunde Thompson, London, Printed for the Hakluyt Society)。平戸にはもう1人の子供がいたが、平戸に有った遺産を与えたという。 幕府も逸見の領地をアダムスの息子・ジョセフに継がせ、ジョセフもまた、アダムスに教育された航海士として貿易に参加していた。

秀忠の代になり宣教師の入国禁止に伴う朱印船の制限が強化され、大名の貿易用大船保有も禁止され、朱印船貿易が大幅に減った。朱印の他に奉書も必要になるなど更に日本人の海外貿易航海が制限されたが、アダムスの息子・三浦按針二世には最後まで貿易用の朱印と奉書が交付されたようである。しかし、三浦按針二世が鎖国後どの様な運命をたどったか筆者は知らない。

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04/05/2020, Rev. 03/11/2020, (Original since 02/24/2011)