日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

三浦按針 (ウイリアム・アダムス)

日米交流に関し、イギリス人のウイリアム・アダムスこと三浦按針は直接の関係はない。しかし、日本が海洋国家として発展できる可能性もあった当時、その後日本と親密な関係を築き貿易を続けるオランダとの関係が深く、次に出てくるニュー・スペイン(現メキシコ)からの使節セバスチャン・ビスカイノとも浦賀で出会っているから、このアダムスのことを書いてみる。 ウイリアム・アダムスは、日本に来た最初のイギリス人でもある。

♦ ウイリアム・アダムスの日本漂着と家康との出会い

ウイリアム・アダムス、後の三浦按針の正確な出生日は不明だが、1564年9月24日に洗礼を受けた記録が、イギリスのケント州ジリンガム(Gillingham)の町の教会に残っているという(P.G.Rogers)。成長して12才になると、ロンドンに近い当時有名なライムハウス(Limehouse)造船所の所長・ニコラス・ディギンスの徒弟となり、12年の間に船のパイロット、航海士としての修業も積んだ。 徒弟年季の明けた24歳の年に自身の120トンの船を持ち、当時スペインの無敵艦隊と大海戦を展開していたイギリス海軍の補給船として活躍した。この1588年の大海戦でイギリスが勝利し、その後イギリスが海洋国家として発展することは良く知られている。その後アダムスはまた、地中海貿易にも深く係わった。

それまでスペイン領だったオランダはその横暴な権力に対抗し、1581年にスペイン国王の統治権否認、すなわちスペインからの独立を宣言した。これに反撃を加えるスペイン王・フェリペ二世は、当然の処置として、1580年に併合していた貿易の中心地・ポルトガルのリスボン港からオランダ商人を完全に締め出した。この締め付けで、リスボン港で東洋産香辛料の買い付けが出来なくなったオランダ貿易商達は、新航路を開拓し直接東洋に行き活路を見出そうとしたのだ。当時1595年、オランダの旅行者・バン・リンスホーテンが自身のインド旅行の航路や産物、風俗や宗教、地理や交通・通商などの詳細記録を出版していた(「Itinerario, voyage ofte schipvaert van Jan Huygen van Linschoten naer Oost ofte Portugaels Indien, 1579-1592」、「東方案内記」)。従ってこれにも刺激を受け、それまでポルトガルやスペインが独占していた東洋産香辛料やその他商品を直接入手しようとするオランダ貿易商達の活動が活発化したのだ。後に日蘭貿易の中心になる「オランダ東インド会社」も、同時期に活動を開始した組織である。

このように、新しい海洋貿易航路開拓に熱心になっているオランダ船主達との関係が出来たイギリス人のウイリアム・アダムスは、オランダ艦隊の航海士としてアジア貿易新航路開拓プロジェクトに参加した。南アメリカのケープ・ホーンを西に回り、太平洋を横断しインドやアジアに行き、香辛料を求めようとするコースの確立を試みたのだ。 1598年に5隻の艦隊でロッテルダムを出発した探検隊は、その航海が難航し、マジェラン海峡で冬を越し、やっと太平洋に出た。艦隊は宿敵スペインの南米領を攻撃した後太平洋を渡る予定だったが、5艘のうち3艘とは行きはぐれ、フープ号とリーフデ号の2艘だけが太平洋を渡った。 この航海も困難を極め、嵐に遭った2艘のうちアダムスの乗るリーフデ号だけが1600年4月19日、九州の大分の海岸、現在の臼杵市大字佐志生(さしう、豊後の国・佐志生)に漂着した。

一方この年の9月に徳川家康は関が原の戦いで勝利し、自身の地盤を固めて行くことはよく知られているから省略するが、この直前の5月、家康は漂着したアダムスを大阪城・西ノ丸で引見した。アダムスの人柄と知識を見込んだ家康はアダムスを家来にし、三浦半島の逸見(へみ、現在の横須賀市西逸見町)村に250石の領地を与え、江戸の日本橋に屋敷(現在の東京都中央区日本橋室町1-10-8)も与えた。ここでウイリアム・アダムスは三浦按針と日本名を名乗ることになる。 その後家康は駿府に居を構えるが、引き続き外国貿易で富の蓄積を行い、秀吉の時代から続くポルトガルやスペイン、後にオランダなどと貿易を続けた。また日本からも多くの貿易船がフィリピン、ベトナム、タイ、カンボジヤや遠くインドまでも航海した。家康は生糸や絹織物、金や香木なども輸入したが、1613(慶長18)年辺りから大砲や火薬、特に鉄炮の弾を作る鉛を大量に輸入した。大阪冬の陣となる、豊臣秀頼はじめその一党の殲滅を画策していた準備と作戦行動の一部であろう。

ポルトガルやスペインは主として長崎に来ているが、オランダは1609(慶長14)年9月に、その後イギリスも、九州の平戸に商館を造った。これは、オランダがいまだにヨーロッパで戦争状態にあるスペイン・ポルトガル勢との摩擦を嫌ったわけだろうし、幸い平戸の藩主・松浦鎮信(しげのぶ)も親切な対応をし、貿易利益追求上のメリットが高かったのだろう。家康は、こんな複雑な関係にある外国貿易の仲介役、あるいは顧問役を三浦按針に任せたのだ。またアダムスは家康の要望により、一緒に漂流して救助された船大工のピーター・ヤンツや砲手のヤン・ヨーステンなどの援助で外洋航海のできる船、80トンと120トンの2艘を造り、家康に世界の地理や幾何学の基礎をも教えたという。

♦ ウイリアム・アダムスのイギリス東印度会社とのかかわり

日本で地位を得たアダムスは、1611年頃から母国に、日本と貿易をするようにとの手紙を再三にわたって出している。これは当時、イギリスの東印度会社の貿易船が寄航していた、ジャワ島のバンタムの町(現インドネシア、ジャカルタの西、約70km)へ出した様だ。そして、長崎やオランダ商館のある平戸ではなく、もっと江戸に近い場所が良いと推奨している。これは浦賀辺りがよいという家康の希望でもあったようだ。

こんなアダムスからの手紙をジャワ島のバンタムで受取ったイギリスの東印度会社から派遣されたジョン・セーリス船長(Captain John Saris、サイリスとも読む)は、バンタムにイギリス商館を造り、当時のジャガタラ(現ジャカルタ)を経て、日本のオランダ商館のある平戸にやって来た。セーリス船長は平戸から、江戸に居ると思われるアダムスに連絡を取り、アダムスは駿府から平戸にやって来てせーリスと会見したのだ。せーリスを伴ったアダムスは駿府で家康に、江戸で秀忠に謁見し、貿易の許可を得て平戸に帰った。しかしせーリスは、結果的にアダムスの勧めを退け、平戸に商館を造っている。

セーリス船長の強い要請で、アダムスはいったん2年の契約で東印度会社の社員になっているが、その間も、セーリス船長はじめ東印度会社から派遣されたイギリス人責任者や商人達とはギクシャクした関係が続く。 そもそもアダムスが日本に来たのはオランダとの関係だし、ポルトガルやスペインとの貿易も仲介している。そんな後にイギリス船が来たのだから、日本に着いたばかりのイギリス人から見たら、自国民でありながら商売敵の他国とも深く通じているアダムスを素直には受け入れ難かったのだろう。 日本に流れ着いた単なる航海士で、世界の果ての日本での成り上がり者だと見ていたふしもある。その実アダムスの仲介なしには商売が出来なかったから、信用ならないが、頼らざるを得ないといったところのようだ。

実際のところは、アダムスと東印度会社の契約が切れた2年後も、アダムスは平戸商館を通じた日本と自国・イギリスとの貿易に多くの援助を与えている。初期に来たセーリス船長や商人達とはギクシャクしていたが、その後世界の果てまでやって来た自国の仲間を見捨てることはしなかった。イギリスの平戸商館長・コックスは、アダムスの幕府との仲介に助けられ多くの難問を解決している。 こんな間にもアダムスは平戸から、日本の船に日本の商人や船員を乗せ、シャム(現タイ)や安南(現ベトナム)辺りにまで貿易に出てもいる。アダムスが徳川家康から受けていた貿易免許は、秀忠の代になっても継承されていた。

♦ ウイリアム・アダムスのセバスチャン・ビスカイノとの出会い

「新スペインの使節セバスチャン・ビスカイノ」のページに書いたとおり、セバスチャン・ビスカイノは家康の許可の下、浦賀で日本沿岸の測量を行う準備をしていた。この最中の1611年8月25日、平戸に着いたオランダ使節がウイリアム・アダムスに伴われ貿易の朱印状をもらいに浦賀に到着した。なかの悪いスペインとオランダが浦賀で鉢合わせしたのだ。

この浦賀上陸は、オランダ使節で平戸商館長・スペックスが駿府にいる家康に会い、1609年に出された貿易許可の更新と長崎でのスムースな交易を願い、江戸にいる秀忠にも会って同様な申請をするためであった。 上述のごとくオランダはもともとスペイン領だったが、1581年に独立宣言を出したのでその後スペインやポルトガルとうまく行かず、海外貿易の場でも常に戦争に近い状態にあった。ビスカイノはオランダを海賊国家だと家康に報告し、一方のスペックスはスペインをならず者の国だ報告している。2年前に来たポルトガル使節も駿府で、朱印状をもらいに来たオランダ東印度会社派遣の使節・ニコラース・ポイクと鉢合わせし、オランダは海賊国家だと非難し報告している。 家康はアダムスにこうしたヨーロッパ諸国の関係をただした。家康はアダムスの説明によりヨーロッパ諸国の関係をよく理解し、このような関係には偏らず、ヨーロッパ情勢から距離を置く貿易関係をとった。

ビスカイノの日本探検報告書にも、アダムスに伴われたオランダ使節が莫大な贈り物を持って浦賀に来たことが記述されている。 ビスカイノの記述によれば、オランダのスペックス等がスペインを非難しているようだが、過去の事実を基に一大論戦をやろうと待ち構えていた。しかし卑怯にも、オランダ側一行は秀忠に会った後こっそりと逃げ帰ったと書いている。アダムスとオランダ使節・スペックスは不必要な摩擦を避けたのだろう。

♦ ウイリアム・アダムスの生涯

徳川家康の家来になったアダムスは江戸に屋敷を与えられ、逸見に領地を与えられ、自身の海外貿易の朱印状も与えられていた。逸見には日本人の妻と、ジョセフと名づけられた息子とスザンナという娘がいる。日本に来るまでは、イギリスに妻と娘がいた。アダムスは家康に帰国願を数回出したが聞き入れられず、そこでアダムスは折に触れ、イギリス東印度会社を通じイギリスに住む家族に仕送りをした。

家康が他界する直前にアダムスは、それまで拒否されてきた日本からイギリスに帰国する許可を得たが実行しなかった。理由は良く分からない。イギリス東印度会社のセーリス船長からも自分の船に乗せるといわれたが、もっと金持ちになってからと断っている。日本における地位と家族の方が、帰国するより価値が大きかったのだろうか。あるいは他の理由があったのかも知れない。 1619年3月16日、アダムスは平戸から日本人商人たちを乗せて安南のトンキン(現ベトナム、ハノイ)に向け貿易航海に出た。その年の8月に日本に帰ってきたが、直後に病気になり、1620年5月16日平戸で息を引き取った。死を予期したアダムスは、イギリスの平戸商館長・コックスに遺言を残し、日本の家族、イギリスの家族、日本の使用人達に財産や形見を分けている。 幕府も逸見の領地をアダムスの息子・ジョセフに継がせ、ジョセフもまた、アダムスに教育された航海士として貿易に参加していた。

秀忠の代になり宣教師の入国禁止に伴う朱印船の制限が強化され、大名の貿易用大船保有も禁止され、朱印船貿易が大幅に減った。朱印の他に奉書も必要になるなど更に日本人の海外貿易航海が制限されたが、アダムスの息子・三浦按針二世には最後まで貿易用の朱印と奉書が交付されたようである。しかし、三浦按針二世が鎖国後どの様な運命をたどったか筆者は知らない。

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09/27/2015, (Original since 02/24/2011)