日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

21、アメリカ本土への移民

アメリカ本土への移民は現在も進行形だから、今回この章ではとりあえず、1869(明治2)年の第1回目カリフォルニア州への移民から、1908(明治41)年の日本側の対米移民自主規制、即ち「日米紳士協定」までを扱う事にする。それ以降に米国では、その第13条C項・帰化不能外国人の移民全面禁止条項により、主として日本人移民をターゲットにしたと理解されてる 「1924年移民法(Immigration Act of 1924)」が制定された。これは、表面上は日本人のみを対象にしたものではなかったが、実質的に日本人が一番大きな影響を受けた。後にまた書く機会がある事だろう。

若松コロニー

♦ 日本人のゴールド・ヒルへの入植とその失敗

こんな中で、明確な意思を持って日本からアメリカ本土に移民した第1号は、ジョーン・ヘンリー・スネル(ジョン・ヘンリー・シュネルとも)に連れられアメリカに入植し、若松コロニーを造った会津藩の人達である。彼ら日本人の3家族は、アメリカの太平洋郵便船・チャイナ号で横浜を1869(明治2)年4月30日に出航し、5月20日にサンフランシスコに着き、スネルと共にカリフォルニア州ゴールド・ヒルに入植し 「若松コロニー」を造った。

会津藩は、戊辰戦争で最後まで新政府軍に抵抗した会庄同盟・奥羽越列藩同盟の中心だが、前会津藩主・松平容保(かたもり)と松平喜徳(のぶのり)父子が明治1(1868)年9月22日に新政府軍に降伏し、庄内藩も降伏し、東北戦争は終結した。会津藩内に残された武士や一族郎党はたちまちその生活の困難に直面し、そんな状況の中、戦争中は会津藩の軍事顧問という立場にあった平松武兵衛ことジョーン・ヘンリー・スネルが、アメリカで新天地を開こうとしたのだ。このジョーン・ヘンリー・スネルとその弟のエドワード・スネルについては、「ヘンリー・スネルとエドワード・スネル兄弟」を参照。

この若松コロニーの計画は、近日中に、この第1陣の日本人3家族に続く40家族がサンフランシスコに来る予定で、更に80家族が続き、合計120家族、約400人に上る人達が永住の為ここにやって来る事になっていた。その多くは養蚕と絹糸生産をする人達で、また茶を栽培し製茶をする人達も居た。彼らは3年生の日本産 「トウグワ」の若木5万本あまりを持って来て、その他に竹や、3年生の500本の木蝋も持ち込み、更に多くのお茶の若木やその実も持って来る事だった。ヘンリー・スネルは、こんな後続部隊をも受け入れて生活する場所をカリフォルニア州に選んだのだ。

こんな背景でヘンリー・スネルが購入した入植地は、この20年前に金が発見され一大金鉱ブームを巻き起こしたカリフォルニア州エル・ドラド郡コロマから3km程南に下った、ゴールド・ヒルという場所だ。スネルはここに柵に囲まれた600エーカーの土地を5千ドルで購入したが、ここには一応大きな果樹類、葡萄の木、穀物畑、レンガ造りの家、納屋、ワイン貯蔵棟、耕作用具一式、馬、馬車、牛、豚、鶏等々も付属していた。

スネルと先着の日本人3家族は、ここに桑や茶、木蝋などを植えて農園を作り、養蚕や製茶をやり、後続の家族も含め生活基盤を確立しようとしたのだ。しかし1年半も経つ頃、1870年の夏の乾燥期に、灌漑用水として使った金鉱山から流れてくる水に鉄分や硫黄分が含まれていて、殆んどの木々を枯らせてしまった。またその少し前に2番目の農場を1800ドル払って購入していたが、これで現金を殆んど使ってしまったようだ。従って、夏の乾季に灌漑用水の取水に失敗し、木々が殆んど枯れてしまい、結局破産し、日本人家族全員が散りじりに離散してしまった。こうして、会津から入植した若松コロニーは残念ながら完全に失敗したのだった。

この経緯の詳細は、多くの現地新聞の報道記事に基ずく、若松コロニーの経過を記述した 「若松コロニー」のページを是非参照して下さい。入植当時は多くの新聞記事で、ヘンリー・スネルと日本人がカリフォルニア州に新しい産業を持ち込むともてはやされ、カリフォルニアでの期待の大きさが分かる現地新聞報道である。

中国人排斥法と日本人渡航者への影響

既に前章の「20、ハワイへの移民」でも書いたように、日本からの初期海外移民は、日本とハワイ王国との間に締結された官約移民関連条約に代表される法整備により、一定の保障の下で移民が可能になったへワイへ向けた移民が大勢を占めた。ハワイで契約労働が終わった人達の中にはその後アメリカ本土に向かう人達も居たが、日本から直接アメリカ本土に向かう人達はむしろ非常に少なかった。

♦ 大量の中国人のアメリカ渡航と中国人排斥

アメリカ本土では、カリフォルニア州で1849年に発見され一大金鉱ブームを巻き起こした金を目指し、また、アメリカ政府の資金援助の下に西と東から始まった大陸横断鉄道建設の労働者として、大量の中国人がアメリカ大陸に渡って来た。特に、1863年1月8日にカリフォルニア州都・サクラメントで起工式を行い、東に向かって建設を進めたセントラル・パシフィック鉄道工事がシエラネバダ山脈横断ルートにさしかかると、その険しい地形や雪や雪崩等に悩まされ、厳しい工事の連続だった。こんな中で中国人労働者は過酷な労働条件に耐え、アイルランド系移民等より20%ほども低い低賃金で働き通した。最盛期には1万2千人もの中国人が雇用されていたという。そんな中で建設開始から6年4カ月後の1869年5月10日、当時のユタ準州グレート・ソルト湖の北岸近く、ソルト・レーク市のほぼ北方約110kmのプロモントリー・サミットで、東に向かうこのセントラル・パシフィック鉄道と西に向かうユニオン・パシフィック鉄道のレールが接続され、金製の犬釘を打ち込む大陸横断鉄道の開通記念式典が開催された。

こんな大工事の完成後は、鉄道建設に関わった多くの中国人がカリフォルニア州内で新たな職を求め、更に大量の新移民も加わり、白人労働者との軋轢が増加したのだ。このため大都市のサンフランシスコやロスアンゼルスなどで中国人排斥運動が高まり、州政府を動かし、合衆国政府を動かし、遂に1882(明治15)年に中国人移民を10年間禁止する「中国人排斥法(Chinese Exclusion Act)」がアメリカ合衆国で成立した。これはその10年後に再適用され、またその10年後には中国人移民の永久禁止にまで至った。自由移民の国を謳うアメリカの歴史の中でも、あからさまに特定人種を標的とした最も特異な、恥ずべき行為であった。

この頃こんな中国人の進出は、カナダ西海岸のブリティッシュ・コロンビア州でも問題になり、制限のため、すでに中国人の上陸に際し1人当り50ドルの入国税を課していたほどだったが、1891(明治24)年2月頃、州議会で中国人排斥法が議論され、当時のカナダに高々200人位しか居ない日本人をも含めて議論すべしとの動議まで出されている。とに角、もうアジア人との競争はしたくないという白人の本音だったのだろう。アメリカ西部の鉄道建設では大いに貢献した中国人達は、その職が無くなるとカリフォルニア州全域やワシントン州、またカナダのブリティッシュ・コロンビア州にまで広がって行ったのだ。

♦ 日本人渡航者への影響と明治政府の苦心

この中国人排斥法の効果は明らかで、中国人の移民数は減少して行った。その結果、安い労賃で働く労働者を探す雇用主の目は、日本人にも向き始めた。例えば日本の在サンフランシスコ領事は非常な危機感を抱き、明治22(1889)年11月26日付けの本国宛の報告書で、現地の新聞が、

日本人は支那人の様に雲集して来航する傾向は無いが、一旦アメリカ移住の利益が分かれば、他のヨーロッパ人と同様の意思を抱くだろう。日本は既に多数の渡航民をハワイに送っている。彼等は文明を理解し他国人と親交するとは言え、良く艱難に耐え低賃金で生活するのは支那人と同様だ。

と報ずるサンフランシスコの「コール新聞」紙の記事を外務省に報告している(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治22年」)。この様に先鋭的に、日本人移民への危機感を煽るメディアも出始めていたから、サンフランシスコ駐在の日本領事は現地新聞の報道に気を使い、不利な報道が出ない様に細部にまで目を光らせ、逐一外務省に報告を上げている。

こんな中での問題の一つは、日本人売春婦がハワイやカナダを経てサンフランシスコにやって来て、新聞に報道されたり、入国を拒否されたりする事も多々あり、現地駐在の日本領事はその取り扱いを廻り、大いに頭を悩ませる状況があった。これは取りも直さず、中国人が排斥されている中で、正規の手続きで来航する通常の日本人、即ち正業に就く日本人にまで排斥機運が広がらない様、現地領事と日本政府の陰の連携努力があったのだ。1891(明治24)年のこんな領事報告の一つに、言語の問題も含め米国入国検査の不十分さを嘆き、

今日の成り行きに任す時は、日ならず本邦人の醜業者益々増加し、香港、上海、新嘉坡(シンガポール)等の如く、当国至る処日本人遊女店を開設するは必然の勢いにして・・・。サンフランシスコはヨーロッパ人種とアジア人種の接点であり、日本の栄誉を維持するため最も大切な場所である。この地に来る日本人は真に日本国民の気尚(=気質)を代表し、国名を維持するに値する人物でなければならない。

と日本政府へ、売春婦やいかがわしい人物の規制対策実行を上申している。

また、太平洋を運行する汽船会社の中には定期航路を持たず、熊本、長崎、広島辺りで格安料金で乗客を集め、サンフランシスコに送り込む汽船もあり、アメリカは労賃が高いという甘言に乗せられ、1891(明治24)年の4月、一時に120名もの日本人がサンフランシスコに着くという事件があった。当時アメリカ政府の強化された移民規則は、契約移民は認めず、渡航船賃も自前で支払い、自由意志渡航で一定の現金を持ち、身体健康者で、上陸後に公共費による保護を受けない事などが義務付けられていたから、こんな乗客中にはこの規則に合致せず上陸拒否に遭う人達も居た。更に翌年、サンフランシスコ駐在の日本領事は入国検査官と面談し、明らかな移民規則違反者はともかくも、証拠不十分な場合は上陸許可を出すべきだと交渉し、一旦入国を拒否された日本人・66名もの入国許可が下りたケースも報告された。

こんな報告書に依れば、1892(明治25)年の4月・5月だけでカナダやハワイからの回航組みも含め500名もの日本人移民がサンフランシスコ港に到着したという。これを現地新聞は見逃すはずもなく、上述の様に日本領事が懸命に入国検査官と交渉すればする程、逆に、大量移民を米国に送り込むのが日本政府の国策だと非難する新聞まで現れた。また、「日本人が白人や婢僕(=召し使い)の地位を略奪する」、「支那人の次に入米を拒否すべきは日本人だ」、「日本人の短所」など、日本人を非難する種々の記事が現地新聞に現れ始めた。こんなサンフランシスコ領事の危機感に満ちた報告書は、明治政府外務省より和歌山、広島、大阪、福井、熊本、山口などの知事宛に送られ、日本人が支那人と同一視されアジア人拒否が一層厳しくなっているから、不適格者は勿論、一般人も出来るだけ論止して貰いたい旨通達された。更に追加して榎本外務大臣が各県知事宛に、渡米志望者には米国の移民規則の内容をよく理解させて欲しい旨の通達をも出している(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治24年」、「同・25年」)。

こんな風に1889(明治22)年頃から、ハワイ経由も含めアメリカ本土へ移民する日本人の数は急速に増え始め、これを政治的に利用しようとする先鋭的な政治家も顕在化した様だ。1891(明治24)年11月、この状況を心配するワシントン駐在の建野公使は榎本外務大臣に宛て、

合衆国人民の日本人に対する感覚は、相変わらず移住民制限法を施行し、何分かの取締法を執行する方に傾き居り、目今の光景にては、早晩日本人移住制限論者が議場に於いて勝ちを制するに至るべきは必然の事と思われ候。然るに、右は全く政治家が西部の人望を収攬せん為に主張する論にして、言わば一時政略上の必要に他ならず・・・。

と、米国議会に於ける日本人移住制限論者の台頭を報告した。カリフォルニア州選出の議員達の中には、地もと選挙民の支持を得ようと、恥も外聞もない行動に出る議員がかなり居た証拠である。合わせて、アメリカ政府や議会に対し、アメリカが来航日本人を規制するのなら、日本も在日アメリカ人を規制する可能性があると宣言する必要があると、日本政府の了解を申請さえしている。実際こんな強硬手段を実行した形跡は無いが、日に日に強まるアメリカ西海岸での日本人への攻撃や、それを政治問題化しようとする一部政治家の動きなどに関し、現地駐在外交官の苦労が分かる事例である。

♦ 日清戦争勝利の影響

急速に増加し始めていた日本からの移民数は、1894(明治27)年8月に日清戦争が始まると遥かに減少し低調になったが、戦争が終結するとまた直ぐ活発になった。1895年5月、アメリカ定期船・ペキン号が120名の日本人労働者を乗せサンフランシスコに到着すると、たちまち労働関連の新聞が攻撃的な論評を掲げ始めた。いわく、

日本政府は日清戦争の勝利で東洋に頭角を現したが、今や米国に向け続々出稼ぎ人を送り込み、当国労働者の賃金に一大競争を挑み始めた・・・。今こそ支那人同様の排斥法を規定し、彼らの渡米を禁止すべきである。

と、明確に日本人排斥法の必要性を主張し始めたのだ。日清戦争に勝利した日本人は、更なる脅威になったというわけだ(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治28年」)。

前章の「20、ハワイへの移民」でも書いたが、同時期のハワイ共和国政府首脳達は、何とかアメリカ合衆国にハワイ併合をしてもらおうと、このカリフォルニア州で沸き起こった、日清戦争の日本勝利後の日本人脅威論と全く同じ論法で、日本がハワイに送った移民の多さを指し、日本がハワイ侵略の方針を取っていると言い募り、米国がハワイを併合しなければ、日本がハワイを押領するだろうと言う風説を流すまでになっていたのだ。この時から3年も経たないうちにアメリカは、アメリカ・スペイン戦争下での必要性という理由からハワイ共和国を併合することになって行く。

日米紳士協定による移民自主規制に至るまで

この様に、サンフランシスコを始めアメリカ西海岸駐在の日本領事達は折に触れ、現地で顕在化する日本人渡航者への誤解を解くべく努力をし、危機感を持って外務省へ現地情勢の報告を上げ、外務省も各県知事宛てに通達を出し、アメリカ移民規則の理解の徹底を図った。一方、アメリカ・スペイン戦争中の1898(明治31)年7月にアメリカ合衆国政府がハワイ共和国を併合すると、アメリカ本土で施行されていた移民規則がハワイにもそのまま適用され、日本からハワイに向かう自由移民以外の契約移民は全面的に入国禁止になった。こんな環境変化から、日本からアメリカ本土に向かう移民の流れを変え、一旦ハワイに上陸しアメリカ本土に転航したり、中にはカナダやメキシコ経由でアメリカ入国を試みるなど、日本人移民の大幅増加に向かったのだ。

♦ 米国向け日本人移民の統計数字

少し先行するが、ここでアメリカ政府の公式報告書に載る、日本からアメリカ合衆国へ向かった移民の統計数字を見ると次の表の如くになる。この日本人移民数の推移と、参考のために掲げた中国人移民数を比較すれば、上述した説明がはっきりと分かる。

日本からアメリカ入国移民の推移

1820〜1840:統計数字不明
1841〜1850:統計数字不明
1851〜1860:統計数字不明
1861〜1870:186人
1871〜1880:149人
1881〜1890:2,270人
1891〜1900:25,942人
1901〜1910:129,797人
1911〜1920:83,837人
1921〜1930:33,462人
中国からアメリカ入国移民の推移

1820〜1840:11人
1841〜1850:35人
1851〜1860:41,397人
1861〜1870:64,759人
1871〜1880:123,201人
1881〜1890:61,711人
1891〜1900:14,799人
1901〜1910:20,605人
1911〜1920:21,278人
1921〜1930:29,907人

これはアメリカ合衆国司法省の移民・帰化局が10年毎にまとめた公式統計データであるが、1891年から1900年にかけた日本人移民の数は、その直前の10年間のほぼ11倍にも急増し、次の1901〜1910年のピーク時には、更にこの5倍にも増加している。

同時に顕著な事実は、1871〜1880年に中国人移民のピークがあり、1901〜1910年に日本人移民のピークがあるが、この二つのピーク時に於いて、一方の中国人は1882(明治15)年の「中国人排斥法」でアメリカから排斥され、日本人は1907(明治49)年から1908年にかけての日米間の話合いによる日本側の自主規制、即ち「日米紳士協定」で大幅な移民自主制限が行われたのだ。

しかしアメリカ合衆国への移民を大局面から見れば、日本人移民数がピークになった1901〜1910年でも、日本人移民はその期間にアメリカへ上陸した全移民数のたかだか1.5%弱だった。ヨーロッパからの移民とアジアからの移民の間に、いかに大きな差別があったかが良く分かる数字である。アメリカへ移民した出身国別では、この同じ期間にイタリア人のみでも、全移民数の23%にも上る2百万人を超える移民があった。この傾向は既に以前からあり、1881〜1890年にはドイツ・アイルランド・イタリアから、合わせて全移民数の46%にも上る240万人を超える移民があり、1891〜1900年はこの3国のみで42%の150万人が移民した。

この様に、出身国の政治・経済事情により特定地域から集中的にやって来る傾向があったが、一時にこんなに大量に移民が上陸すると、その出身国民だけで固まり同化しにくく、無教育の移民も数多く居たから、夫々に問題を起こしている。こんな背景がアメリカ合衆国の移民制限法強化につながり、それがアメリカ社会の底流にある人種差別感とあいまって、西海岸に上陸する日本人移民に大きな影響を与えて行くのだ。この移民問題は、時代毎に形を変えながら、現在も明確に存在する大きな問題の一つである。
(米国政府の移民・帰化局統計データ:「2000 Statistical Yearbook of the Immigration and Naturalization Service」、U.S. Department of Justice

♦ 増加する日本人移民、入国拒否と抜け道の画策

カリフォルニア州のサンフランシスコ港やワシントン州のピュージェット湾の南端に在るタコマ港などは、日本から来る移民が乗る商船がよく入港する場所だった。前章の「20、ハワイへの移民」でも少し触れたが、明治政府は日本人移民を保護する目的で1894(明治27)年に「勅令第42号、移民保護規則」を施行し、その2年後に「法律第70号、移民保護法」として強化した。しかしこの保護法の第13条に、移民を募集・斡旋する日本の移民取扱人は、移民と書面契約を結び行政庁の許可を受けるべく規定されていた。この条項はハワイに向けた移民には安心と保障の確立に貢献したが、時としてアメリカの入国検査官はこの契約書を「契約移民」の契約書と解釈し、入国を拒否する事例もあった。また自由移民として一定の所持金を持っている事も入国の必要条件だったが、移住を希望する日本人移民の中にはそんな現金も手当て出来ない人達も居たのだ。移民を送り出して利益を上げたい日本の移民取扱人は一計を案じ、タコマ港へ入港する前にカナダのバンクーバー島のビクトリア港で彼らに「見せ金」を持たせ、タコマやサンフランシスコへ上陸させようとするケースもあり、これが発覚して上陸拒否に遭った日本人移民も出てきた。

この様に種々の理由で入国拒否に遭った人達の中には現地で組織的に訴訟を起こしたり、現地領事や公使の尽力でアメリカ政府と交渉し解決を見たケースもあった。しかし規制が厳しくなればなるほどその抜け道を探し、画策するのは何時の時代でもあることだ。組織的に日本の故郷に勧誘の手紙を出し、個人的な自由移民の形態でタコマに到着させ、船の着く埠頭に鉄道工夫として働くよう勧誘人を派遣する事まで行われた。更にまた、他人の名前を消して自分の名前を書いた偽造旅券、移民会社の印形を消して自由移民にした偽造旅券、古い旅券の変造、見せ金持参、自由移民として上陸し直ぐに勧誘人の勧誘を受ける、等々、入国検査官との知恵比べの様相まであった。この中には、カナダのビクトリア港やバンクーバー港に一旦上陸させ、そこからアメリカに密入国をさせる請負人まで現れていたという(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治31年」)。

♦ ワシントン州タコマ港へ上陸した移民事情と排斥への危惧

タコマの町があるピュージェット湾は、太古に氷河により侵食されたフィヨルド式地形の「U字谷」のため港には最良の地形で、現在も有数の港湾都市である。近くにあるシアトルの町と共に早くから交易の中心地になり、木材資源等の積出港であり、内陸部への玄関口として鉄道が発達した。

こんな鉄道の敷設や保守のため、中国人排斥以降、1892年頃から日本人工夫が多く働ける環境があった。この鉄道路線建設と保守に従事するワシントン州、オレゴン州、アイダホ州、モンタナ州の4州の日本人は、1899(明治32)年当時で3千500人前後も居たという。彼らの収入は1日当り、1ドル〜1ドル35セントであった。こんな情報を元にした在タコマ日本領事の試算では、彼らの中60〜70%の人達は年に200〜250ドルを日本に送金出来たと言う。その試算いわく、仮に1千500人が年に200ドルづつ送金すれば、日本への正貨還流は年間30万ドルにもなる。そしていわく、

兎に角、本邦に於いて一生涯辛苦艱難するも尚貯蓄する能わざる金額を、当地に於いて僅か3、4年間の労働を以て得る訳に候らえば、(日本国民の)その一部が当地に渡来し、しかも有利の業に就くを得るは、確かに国益の一端と相成り申すべく候。故に国家長計の一手段として、我が労働者の当国に渡来するは誠に望ましき事と存じ候。然るに、我が労働者百人来たれば同数の白人労働者その業を失う割合なれば、当国の労働者は勿論一部の有志家もこれを憂え、ここに排斥運動の生ずるに至りたるは、又当然の事にして、敢えて怪しむに足らず。

更に続けて、先般来ワシントン州議会に排斥法案が提出されたりもした如く、このまま行けば中国人同様の排斥に至る事を危惧する。アメリカへの渡航人数の制限は困難な事ではあろうが、渡航手続きを厳しくして何とか影響力を行使できないだろうか、と外務大臣に具申している。既にこの頃から、現地領事の間にも、日本人移民が現地労働者の職を奪っている。それが排斥運動に繋がっている、という明確な認識があったわけだ(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治32年」)。

♦ アメリカ及びカナダ向け移民の一時禁止、及び農業の成功例

上述の如く、カリフォルニア州やワシントン州の現地の日本人排斥に向けた状況が逼迫し、サンフランシスコ領事、タコマ領事を始めワシントン駐在公使からの緊急報告が数多く外務省に出されていた。そんな中で外務省もついに決断し、1900(明治33)年8月2日、アメリカ及びカナダ向け移民の一時禁止に踏み切った。その効果は直ぐに現れ、日本人移民の一時中止直後に引き続き行われたアメリカ大統領選挙などに絡んだ選挙運動でも、日本人排斥は大きな選挙論争にはならなかった。また1882(明治15)年に制定された中国人排斥法は、20年後の1902年に、更に厳しい中国人移民の永久禁止にまで至る議論の中で、日本人をも含める議論も起こったが、これはしかし阻止された。この様に日本政府の決断によるアメリカ及びカナダ向け移民の中止により、ある期間、日本人排斥運動の悪化を押さえる上で一定の効果が上がったのだ。

こうして移民禁止から4年も経つ頃、日本政府の移民禁止措置による渡米者の減少でカリフォルニア州ややワシントン州の排日運動の沈静化を見極めた日本政府は、現地で非難を受ける純然たる労働移民の禁止により正当な理由をもつ商売や留学目的の渡米に大きな影響が出ている事を考慮し、1904(明治37)年7月7日、新方針を打ち出した。いわく、

労働者の渡航取締りのため、往々真正なる商賈(しょうこ、=商人)学生その他、有益なる非労働者の渡航に影響を及ぼし、海外貿易奨励の趣意にも背き遺憾の事態に候。依て今後は取り扱い標準を一定し、厳に労働者の渡航を取り締まると同時に真正なる商賈学生等の渡航に便利を与え度・・・。

と、新基準を示し分別を図るよう、警視総監・北海道庁長官・各府県知事宛ての通達を出した。しかしたちまちこの「商賈・学生」が労働移民の隠れ蓑に使われ始め、我もわれもと商人だ、学生だ、と申請しパスポートを取得する手口が大流行し、後々まで大きな問題になって行く。

その頃の1902(明治35)年当時、カリフォルニア州で農業に従事し始めた人達の中には、その努力の結果一定の成功を収める人達も出て来た。それまで移民の殆んどが単純労働者だった中で、幸運にも土地を購入したり借りたりして自作農業を営む人は、州内で凡そ350人以上にも上った。そして特に州都・サクラメント郊外のフローリンでは、農業に従事していた白人が投げ出したイチゴ畑を引き取った日本人が、そのイチゴ栽培で見事に成功を収めていた。更にサクラメント南のコートランドや、その更に南にあるウォルナット・グルーブでも大豆やジャガイモ栽培で成功を収めつつあった。この他日本人農業者による、サンフランシスコ南のサン・ホゼやサクラメント南西のベイカビルの果樹や野菜栽培、サクラメント北東のニュー・キャッスルの果樹やイチゴ栽培、古くからある町・モントレー近くのサリナスの砂糖大根やジャガイモ栽培、サンホアキン平野中心のフレズノの果樹栽培などがあった。また農業従事者の合計は、州全体で凡そ3千800人程も居たという(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治35年」)。

♦ 日本人・韓国人排斥同盟

カリフォルニア州のアジア人排斥の動きは、サンフランシスコを中心に、ある時は非常に顕在化しまた時に鎮静化に向かったりと、その時々のアジアからの移民数や現地の政治的な流れに左右されながら推移した。一時期大量に入国した中国人は厳しい排斥に遭い、米国の法律による入国禁止にまで悪化したが、その根底にある、主として英語を話す白人の中のアジア人への差別意識は変化せず、現地の新聞などの意図的な論評と共に、日本人排斥も又消え去る事は無かった。

上述の如く、1900(明治33)年8月から実施された日本政府の米国及びカナダ向け移民禁止により、一時サンフランシスコの新聞紙上に現れなくなった日本人排斥論調も、4年ほど経って日露戦争が始まるとまた現地新聞で問題にし始めた。これは日本政府のアメリカ、カナダ向け移民禁止による間隙を縫い、ハワイからサンフランシスコやタコマに向けた日本人渡航者が急増したのだ。1904(明治37)年7月16日付けの在ホノルル総領事の報告では、1月からの半年間でほぼ3千人もの日本人移民がハワイからアメリカ本土に渡ったという。この中には日本からハワイに着たばかりの新移民が半数を占めていたが、日本政府のアメリカ本土向け移民中止を回避すべく、日本国内の移民斡旋業者が意図的にハワイを中継させる行為と共に、ホノルルにも日本人をハワイからアメリカ本土に送り出す斡旋業者が多く居たという(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治37年」)。

こんな中の1905(明治38)年3月、ついにカリフォルニア州議会の上下両院は日本移民制限決議案を可決し、合衆国大統領と国務長官宛にこの決議した要求書を送付した。また同年5月始めにはサンフランシスコの建築貿易同盟が発起人となり、州内の67にも上る各種労働団体を糾合し、5月14日に綱領・規則を制定し、「日本人・韓国人排斥同盟(Japanese and Korean Exclusion League)」を発足させた。この同盟の目的は、白人がアジア人との競争による低賃金労働から保護され、黄色人種の無制限入国を禁止し、日本移民排斥法を制定し、日本人韓国人を中国人排斥法に含め、支部を国内各地に設置する事、等を目指していた。これは低賃金労働の阻止のみならず、明らかに人種差別を目的にしたものだ。

この様に当時、西海岸ではアジア人を差別し、東海岸では東欧やイタリアからの移民を差別する構図だった。しかしこれら東西海岸に上陸する移民の特徴的な差異は、東欧やイタリアからの移民であってもアメリカの土地に根を下ろす覚悟で渡航するが、日本を始め中国等からのアジア移民の殆んどが、いわゆる「出稼ぎ」が目的で、現地に同化しない事が多かったのだ。

♦ サンフランシスコの日本人学童の隔離問題

当時約40万人の人口を抱えるサンフランシスコの街は、世界的にも有名な、南端はカリフォルニア州最南部のサン・ディエゴ市の東方から始まり、北端はサンフランシスコ市の北のメンドシノ岬にかけた凡そ1300kmにも及ぶ巨大なサン・アンドレアス断層のほぼ真上に位置する。このため、1906(明治39)年4月18日の早朝、マグニチュード7.8とも云われる大地震に見舞われ、大火災も発生するという大災害が起こった。

この大地震から5ヶ月も経つ同年9月頃から、11月に行われるカリフォルニア州知事選挙と国会議員選挙のタイミングに合わせ、各政党は活動と主張方針をまとめた綱領作りに忙しかった。世相に敏感に反応する選挙綱領は、殆んどの政党で日本人の排斥条項を採り入れ、労働者の支持を得ようと懸命になっていた。これは上述の1905(明治38)年5月発足の「日本人・韓国人排斥同盟」の影響を色濃く受けたもので、国会議員立候補者の中にはアジア人排斥法の国会での成立を確約する人々も居た。同じ頃、サンフランシスコの街は大地震と大火災の混乱で圧倒的に家屋が不足し、日本人が商売を再開した商店街では家賃が高騰し、日本人のせいだと白人の悪感情が増大した。更には、こんな感情から日本人に向けた投石や悪行が多発したが、大火災後の市警察の取り締まりも充分ではなく、市内では白昼の殺人・強盗も発生するほど治安が悪化した。又日本人経営のレストランの価格が安すぎると言う理由で、付近の白人経営レストランの意向を受けた労働組合の妨害行為も発生した。

こんな中で同年10月11日、サンフランシスコ市の教育局は突然、一般小学校から日本人を始め中国人、韓国人児童を隔離して東洋人小学校に移すべく決議を行い、15日から即実行に移した。これは更に形を変えた政治色の濃い日本人排斥であるが、東洋人小学校の場所は焼け野原の真ん中に残った建物で、治安問題を抱える区域の中心にあり、事実上、年少児童の通学に困難な場所だった。

この東洋人小学校は、中国人が排斥された当時サンフランシスコ市が中国人子弟隔離のため造った物だが、過去ににも日本人子弟隔離のため1893(明治26)年6月に市教育局が同様な決定を下し、当時、在サンフランシスコ珍田領事の抗議で撤回された経緯があった。今回も在サンフランシスコ上野領事はその中心になり、「この処置は人種的偏見に基ずくもので、日本国民への侮辱に当たる」と市当局に強く抗議し、市教育局の会議に日本人代表や現地白人宗教者代表などの出席を求め、抗議活動を連携した。

現地領事や日本人代表からの支援要請により、早速日本政府はこんなサンフランシスコの排日運動につきアメリカ政府とも協議を始めた。アメリカ政府は、この問題は地震や火災後の異常事態の下に起こった紛議であるとその事実を認め、セオドア・ルーズベルト大統領は日米友好原則は不変である旨を確認し、事実関係の調査を司法省に命じ、更に商工務長官をサンフランシスコに派遣し事実調査及び解決に当たらせた。

あからさまな差別に直面したサンフランシスコの日本人居留者は10月25日、1200人もの参加者が集まる大会を開き、三つの決議事項即ち、隔離学校の反対、反対運動を在米日本人連合協議会に委託、必要経費の負担等を決議している。この在米日本人連合協議会は、前年の1905(明治38)年5月にサンフランシスコで結成されていた在留日本人の団体である。又日本人が個人としてこの日本人排斥問題を裁判所に提訴するなどの動きもあり、一方の白人中心の「日本人・韓国人排斥同盟」も日本人学童の隔離問題以降、カリフォルニア州の政治家のみならず東部の新聞等にも影響力を及ぼし、中国人排斥法の中に日本人と韓国人を加えるべく画策を始めていた(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治39年」)。

♦ アメリカ政府の介入と日本人学童隔離命令の解除

地方自治を基盤に連邦国家を形成するアメリカ合衆国の政治は、歴史的に、時として連邦政府の方針と地方政府の方針が対立する局面が数多くあった。その極端な出来事が、南北戦争にまで至った南部諸州と連邦政府即ち北部諸州との衝突である。カリフォルニア州で巻き起こる日本人排斥運動とその象徴になったサンフランシスコの日本人学童隔離問題は、連邦政府を悩ます問題の一つになって行った。

ワシントン駐在青木大使を通じた日本政府とアメリカ政府との協議の場で、ルート国務長官やセオドア・ルーズベルト大統領は、「日本人をモンゴリア人種だと一くくりにし排斥する事は、いわれの無い差別だ」という日本側の立場を原則的に支持している。1906(明治39)年12月の米国議会開催に宛てた大統領教書に、「近年の日本文化や軍事の発展は素晴らしく、ヨーロッパ諸国と同等の待遇を与えるべきで、日本人の米国への帰化の道をも開くべきだ」、とまで述べる決定をしたほどだった(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治39年」)。しかしこんな合衆国政府要人の友好的態度があっても、カリフォルニア州で沸き起こる日本人排斥論に加え西海岸への日本人移民急増に直面する状況は、更なる強力な対策無しに、もはや収束不可能な状況に近づいていた。

こんな中で、サンフランシスコ市やカリフォルニア州政府決定に対し合衆国政府は、学童隔離は違法だという訴訟を州高等裁判所や連邦裁判所に提出した。しかしそれ以上なすすべもないアメリカ政府は1906(明治39)年12月28日、ルート国務長官より青木大使を通じた「日米労働者移民相互的禁止協定」の締結提案がなされた。このまま放置すれば米国議会は日本人労働者の渡航禁止等の法律を作らざるを得なくなるが、アメリカ政府は日本の誤解を招くそんな法律制定を避けたい。しかしカリフォルニア州で起こっている事は、日本人労働者により職を奪われてゆく州民が自己防御手段として人種問題を提起し、自己に有利にしようとしているものだ。従って、日米両国政府が自国労働者に、相手国向け渡航パスポートの発行を中止する協定を提案する、というものだった。これに対し日本政府、即ち林董(ただす)外務大臣の考えは、アメリカがまずサンフランシスコの日本人学童排斥問題を解決し、しかる後に日本政府は移民制限等の検討及び閣議決定をしようというものだった。

そこでセオドア・ルーズベルト大統領やルート国務長官は、カリフォルニア州出身の国会議員を通じサンフランシスコ市を説得し、日本人学童隔離を解除すれば日本人労働者の転航制限を行い、より一層の制限協定を締結すると約束した。市長までもワシントンで大統領と面談したサンフランシスコ市はこれを受け入れ、その隔離解除の報告電報が駐日アメリカ代理大使を通じ林外務大臣に伝えられると、外務大臣は、現在行っている日本労働者のアメリカ本土向け渡航パスポートの発行中止方針を続け、新協定交渉を受け入れる旨の回答をした。しかしこの妥協に対し、サンフランシスコの日本人・韓国人排斥同盟は大統領やサンフランシスコ市長を強く非難し、日本人排斥運動を更に強めた。こんな圧力により州議会は、日本人土地保有制限や小学校入学年齢に上限を設けるなどの討議を重ね、なかなか日本人排斥の手を緩めなかった。こんな行動に危機感を募らせるルーズベルト大統領はカリフォルニア州知事に電報を送り、州議会の過激な行動は日本との協定交渉の妨げになるとその協力を要請し、カリフォルニア州議会の日本人排斥関係議案の討議が停止された。

こうしてサンフランシスコ市では遂に、セオドア・ルーズベルト大統領との合意に基づき、1907(明治40)年3月13日、5ヶ月も続いた日本人学童の隔離命令を解除し、翌日から元の学校への復学が実現した。しかし、これは一般外国人に適用される修正条項によるものだったが、サンフランシスコ市は中国人や韓国人児童には適用せず、日本児童だけが復学したのだった(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治40年」)。

一方の首都・ワシントンでは、日本人学童の隔離命令が解除された報告を受けたルーズベルト大統領は、3月14日、カリフォルニア州出身の国会議員や州や市との合意の通り直ちに大統領令を発し、日本人や韓国人労働者で、アメリカ本土向け以外のパスポート、即ちメキシコやカナダ、ハワイ等に向けたパスポートでの合衆国入国を拒否すべく命じた。この様に、ルーズベルト大統領は自身の権限と政治力を駆使し、日本人学童の隔離命令を解除させたのだった。

♦ 「日米友好宣言」提案と棄却、駐米大使の更迭

日本人学童隔離問題がセオドア・ルーズベルト大統領やルート国務長官の政治力で3月に解決したのもつかの間、市内の日本人排斥運動は続き、日本人・韓国人排斥同盟はもとより各種労働組合の排斥活動が活発だった。1907(明治40)年5月にはこんな白人労働組合員の一群50人ばかりが日本人経営のレストランや風呂店を襲い、中に居た白人客に暴行を働き、馬車に積んできたレンガや石、鉄材などを投げ込み、殆んどの窓ガラスを破壊する事件が起こった。在サンフランシスコ領事館員や在米日本人連合協議会が中心になり、市警察や州知事の援助を要請し、自らも警察官を雇い自衛に当たった。また報告を受けた日本外務省でも、駐米大使を通じ、合衆国政府に日本人保護対策を要請させた。

この様に日米政府間の外交努力とカリフォルニア州の排日運動が平行して進む中で、この成り行きに注目するヨーロッパでは、日本公使がアメリカ政府に最後通牒にも匹敵する強硬文書を送付して米国輿論が沸騰したと、日米戦争の危機を報ずる新聞まで現れた。この報告を受けた林外務大臣は、直ちに駐米青木大使に米国内での根拠の無い噂否定の対策を講じ、ニューヨーク・タイムス紙やシカゴ・トリビューン紙等の主力新聞社にも、日本には戦争する意思など毛頭ない事を通報すべく指示している。この移民問題に端を発し日本人排斥にまで進んだ状況は、日米戦争を口にされるほどまでに危機感を高め、米国東海岸の主要新聞もこんな問題を取り上げ始めた。

一方でまた、アメリカ・スペイン戦争で手に入れたフィリピンや自治領にしたハワイ防衛の重要性が増加したとの理由で、アメリカ議会が大西洋艦隊を太平洋に回航する予算を計上し、大統領が1907年8月29日にサンフランシスコへの回航命令を出すと、この日米開戦の噂はアメリカ国内でも更に活発に新聞を賑わしはじめた。アメリカは当時領有したフィリピンに東洋艦隊を持っていた上での大西洋艦隊の回航だから、ヨーロッパでも、日本は西海岸に移民を送り込み、秘密裏に軍事力強化をしているし、このまま進めば衝突は避けられないと見る意見が多くなっていたのだ。日本を仮想敵国と見なした、アメリカ海軍の示威行動だったのだろう。シアトル領事の報告書にも、「万犬虚を吠ゆる時は、一般の人気に関するところ少なからず。平生慎重の人物すら、これに傾耳する風あり」と、多数のメディアが有りもしない事を報道し続ければ、一般人に大いに影響を与え、通常慎重な人達までが耳を傾けるようになる、と嘆息するほど米国内にも日米開戦の噂が広まったのだ。

こんな世間の不信感を払拭し、信頼を回復し、日米両国のキシミを緩和し最悪事態にまで至らないようにすべく、青木周蔵駐米大使は親密にしているセオドア・ルーズベルト大統領と1907(明治40)年10月25日に個人的な会談を行った。その結果、林董外務大臣に宛てた11月7日付け書簡で 「日米両国間の友好宣言に関し純私見を述べたるに対し、大統領は賛同の熱意を示した」のでと、「日米両国友好宣言」発布を提案している。同時に大統領は、移民問題がこのまま進めば早晩議会で日本人排斥法が可決されかねないが、日本政府が有効なアメリカ向け移民制限を実施し実質的に数の減少を見る限りは、大統領も議会の日本人排斥法を阻止しようと約束したとも報告した。

この青木案・友好宣言は基本的に、「日米両国は、通商の主要交通路である太平洋に関し、状況の現状維持に対し、政治的、商業的、工業的に特別な関心を抱く事実を認識し、太平洋地域の海洋・河川に接する相互の領土地域の権利を尊重する事を明記する事」を主要目的にするものだった。この太平洋岸の相互権利の尊重とは、当時アメリカに併合されたハワイや新しい領土・フィリピン、及び日清戦争で日本に割譲された台湾などを指していたと思われる。しかしこれは最初の提案であり、当然、清国に対する両国の態度や、日露戦争によって得た日本の朝鮮半島の権益と南満洲鉄道の獲得など、満洲に於ける権益等について明瞭ではない。

しかしこの様な提案がなされるに至った事実は、日米関係がそれまでの 「導く国と導かれる国」の関係から、全く新しい 「国益の摩擦」の時代に入った証であり、歴史の大きな転換点の一局面が始まった時である。

この戦争回避の危機感に満ちた青木提案に関し、日本政府、即ち林董外務大臣の見解は全く異なるものだった。11月2日、「日米友好共同宣言案及び移民協定案締結は時宜に適せず」と大統領に伝えよ、と外務大臣から青木大使宛の電報による訓令が出されたのだ。それは、日本は国際問題を引き起こそうとする意思など全くないから、そんな友好共同宣言は無用だ。そして現状の日本人排斥問題は移民問題から出ており、3月14日の大統領令のごとく、アメリカ本土向けパスポートを持たない日本人移民は最早アメリカに入国できず、日本政府もアメリカ本土向け労働者にはパスポートを発行しないから、日本人労働者のアメリカ入国は直ぐ減少するはずだと言うものだ。従って、1906(明治39)年12月28日にルート国務長官から提案されていた「日米労働者移民相互的禁止協定」も不必要、と言うものだった。また更に、本国政府の許可や指示もなく、大統領との個人的会談とはいいながら、日本政府を代表する者の発言は誤解を与えかねない。新聞等の戦争云々の報道には、日本大使として否定し尽くすだけでよい、と強い訓令を与えている(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治40年」)。

こんな見解の行き違いから、同年11月30日付けで林董外務大臣から青木周蔵大使へ、アメリカへの帰任期日を定めない帰国命令が出されたが、これは即ち、任期半ばでの駐米大使の更迭だった。林董外務大臣の視点は、そんな宣言により、あたかも日本が更に領土や権益を拡大をする意思があると誤解されかねない。それは日本政府の意に反した、「青木大使の迷惑行為」だというものだった。未だ勉強不足の筆者には、外交文書の表面に現れた以上の経緯の他に、林董外務大臣が当時の駐英特命全権公使としてまとめた日英同盟に絡む理由、あるいは別な理由が在ったのかも知れないが、よく分からない。

しかしこの時から8ヵ月後に日本の内閣が西園寺内閣から第2次桂内閣に変わり、林董外務大臣も辞職した。そしてその後、小村寿太郎外務大臣(2回目)の下、翌年の1908(明治41)年11月30日、高平小五郎駐米大使とルート国務長官の間で、この青木提案とよく似た「高平・ルート協定」が調印されている。これは明らかに、日米関係の新局面の展開である。

♦ 「日米労働者移民相互的禁止協定−紳士協定」

林董外務大臣が青木大使に訓令した如く、「日米友好共同宣言案及び移民協定案締結は、時宜に適せず」との日本政府の考えがアメリカ政府に伝えられた。しかしルーズベルト大統領は青木大使に対し、

アメリカ西部諸州の日本人排斥法の制定要求は急を告げているし、日本には移民斡旋会社さえあると聞く。更にアメリカ移民局の統計データを見る限り、日本政府が有効な移民制限をしていると反論も出来ない。日本政府は更に厳格に、労働移民の出国や、学生と偽る移民や、現金も持たない小規模商人の出国をを止めて貰いたい。

と厳しく注文をつけた。1907(明治40)年11月16日、基本的に同じ問題提起が駐日アメリカ大使・オブライエンからも林外務大臣に伝えられた。この会談から翌年2月にかけ、林外務大臣とオブライエン大使の間で細部にわたる問題提起や推奨案と、日本政府の考えが話し合われた。移民制限に抜け穴が無いよう細部まで技術的な詰めを行い、如何に合理的に労働移民、小規模商人、学生等を区別し、偽造できないパスポートを造り、必要な渡航者と渡航制限を実施している労働目的の移民を区別するかの詳細が話し合われた。この実行のため、外務省が直接パスポートの発行・監督をすべく予算もつけた。更に、両国の入出国統計表を交換し、その推移を確認する事も始めた。これで理論的には林外務大臣が訓令した通り、日本政府は既にアメリカ本土やカナダ向け労働移民へのパスポート発行を中止していたし、ハワイへの新規労働移民も中止した。アメリカでも1907年3月14日の大統領令が機能すれば、ハワイ、カナダ、メキシコ向けのパスポートではアメリカ入国は出来ない。即ちアメリカ本土への日本人労働者の流入が大幅減になるはずだった。この合意と実行が、「日米労働者移民相互的禁止協定」即ち移民制限の「紳士協定」と呼ばれるものだ。

♦ 止まらない日本人移民流入とメディアの日本たたき

こんな交渉中にも既に、日本人労働者移民のアメリカへの入国状況は、ハワイ、カナダ、メキシコ経由で多くの日本人がカリフォルニア州やワシントン州、コロラド州に入り込み、益々現地の排斥運動が強まっていた。ハワイやカナダ及びアメリカ本土向け移民が厳しく制限された後は、特に、1888(明治21)年に締結された「日墨修好通商条約」の後、1897(明治21)年5月19日に「榎本メキシコ殖民団」の34名がメキシコのチアパス州にコーヒー栽培をしようと入植して以来、1901(明治34)年頃より徐々にメキシコ向け出稼ぎ日本人移民が増加していた。しかしこんな日本人の多くはメキシコからアメリカ合衆国に入国し、メキシコ経由でアメリカに入る人達が後を絶たなかったのだ。アメリカとメキシコ国境の町には日本人の不正入国周旋業者が暗躍し、1人当り70ドル、100ドルと手数料を取り、大統領令に抵触しないよう書類を偽造し、抜け道を模索し、入国の手引きをしていた。例えば、テキサス州とニューメキシコ州の境界沿いで、国境線のメキシコ側にある町・フアレスには、こんな日本人の周旋業者が居て事務所を構え、通りに広告まで出していたという(「日本外交文書デジタルアーカイブ・明治41年」)。

一方、日露戦争当時ロシア軍の許可の下、トーマス・F・ミラードと名乗る1人のアメリカ人ジャーナリストが最前線で取材していた。ミラードは帰国後の1906年、「米国及極東問題 (The New Far East)」と題する本を発行した。これは当時の日本の現状、朝鮮の現状、日本の朝鮮支配、満州と日本のアプローチ、清国の現状、日本と清国・西欧の関係、アメリカのポリシー等を記述した本だ。この中でミラードいわく、

日本は恐らく、過剰人口を移民に送り出す大陸への出口を確保したいだけでなく、明らかに母国を離れた移民に対しても統治権を及ぼしたいと思っている。・・・日本は、少なくとも日本移民の居る一定地域に、たぶん全地域に、政治的統治権を及ぼそうとしている事は一点の疑いも無い。こうして一瞥すれば、公式表明された日露戦争の意図やその目的と、日本の真の目的と何回も公言された必要性の間にある不一致がはっきりしてくる。海外に出て行く移民達の為に入植する地域を手に入れず、日本はどうやって彼らに政治的影響力を行使できるというのか。表明されたように、若しどんな領土をも手に入れる意思はなかったという事であれば、日本はどんな実質的目的もなくロシアと戦ったというのか。日本が意図的にあんな消耗戦を目的もなく戦ったと誰が考えるのか。

この様に、日本には更なる隠された意図があると述べ立てたのだ(「The New Far East」, Thomas F. Millard, New York, 1906, Charles Scribner's Sons)。

その後、トーマス・ミラードはニューヨーク・タイムスやその他の主要新聞と特約し、連載記事を掲載し、日本排斥論を煽りアメリカ全土に影響力を行使していたが、こんな多くのメディアにも影響されたのだろうか。1908(明治41)年2月にはコロラド州のデンバーで、「黄禍排斥同盟会(Yellow Peril Exclusion League)」なるものが組織され、日本人排斥活動を始めた。同じ頃サンフランシスコでも更に、「東洋人排斥協会(Oriental Exclusion League)」を組織し、白人商店やレストランなどに極秘にチラシを配り、日本人従業員の解雇や日本人との取引中止を勧告して回り始めるグループがあった。これは既に述べた「日本人・韓国人排斥同盟」とは別のものである。

日本が国力をつけ、日清戦争、日露戦争を通じアジアに於ける存在感を増すにつれ、一方でその進歩が脅威と受け取られ、アメリカへの移民問題にも大きな影を落としていた。カリフォルニア州やワシントン州など西海岸では、日本人排斥同盟が次々と結成され、アメリカ議会に圧力がかかり、国家として日本人移民排斥法制定に向け動かざるを得ない状況が形成されてゆく。

 


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03/18/2020, (Original since September 2013)